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講師指導助言「磨きあげ」

講師 高橋富雄先生

 

 私はひとりの聴衆として5人の個別発表を拝聴いたしまして、感慨無量でございます。それぞれにすばらしい生き方がここで、私たちの目の前に言葉がかたちをとって現れたとそういうふうに評価したいと思います。 まず、批評でもなく講評でもなく、感想をそれぞれのご発表に対して、ひと言ずつ申し上げてみたいと思います。
 
<室根山信仰と室根神社特別大祭>
 まず最初に室根信仰と室根神社特別大祭の現状につきまして、私ひと言お願いがあるのでございます。神社信仰とかお祭りとかというのは、それぞれ信仰に関わることですので、これはもう歴史的に事実であるとかそうでないとかいうようなことには関係ないのです。したがってそういうお話をなさるときには、記録にはこうあるとか何かということは必要ないんですね。そういうことでなく信念をもってこうなっている、こうあるべきであるというふうにおっしゃって、そしてもし歴史はどうあるかとか記録はどうあるかというようなことになりますと、もうすこしお勉強していただきたいことがあります。
 例えば、記録には大野東人という人がこれを建てたとか勧誘したとか言うようなことが、何となく歴史である記録にあるようなお話ですが、そういったようなことは、その意味においてはあり得ないことです。そしてもし歴史とか記録というようなことを問題にしたいというのであれば、私がたびたび申し上げ、先ほど菅原さんにも引用していただきましたように、はっきりとした歴史記録に「遠山村」というのが出てきて、これはどう考えても今日の東磐井郡、気仙などあたりに関わる地域でなければいけないというようなこと、これはっきりしている。そしてこのときの人物として、この征討にあたって、この独立した蝦夷世界から、これを政府側の支配下に治めとった人として、大伴駿河麻呂という人がはっきり書き込まれているのです。これ実在の人物です。そして少なくともこの地域において神社にしても神様にしても、少なくともお上の、国家の守りを受けて、私たちの信仰の中に現在のように根付いてくるようになるのには、大伴駿河麻呂というような人が第一に出てきて、そしてこの人がこの地区を政府下に治め、神様も、したがってお上の扱いに身をゆだねるようになって後の「式内社」などというようなものが出てくるわけですから、そんなようなかたちのことをむしろこれからは、歴史としてだったら学び直していくというようなことが大切じゃはないでしょうか。
 それともう一つ、この地区全体にわたって室根山信仰というのは、「計仙麻大島神社」というようなかたちの神さまが伝えておりますように、これはむしろ桃生郡とか牡鹿郡とか、こういったようなところにわたって、実はもう最高の神さまとして拝まれ崇拝されている神様ですから、こういったような神さまとそれから室根神社というものの関わりというのは、密接不可分になってこなければならない。これ当然のことです。そうするとただ、式内社などというようなかたちで神さま、神社が登録される段階では、室根神社という言い方がなかったのだというような考え方をして、そして室根神社の起こりというものを、更に更に遡るようなかたちにしていくというようなことは全く問題がないのです。そしてむしろ「室根」というような神号でないかたちの室根の神さまというのが、いったいどういうかたちになっておったのかというような考え方をする。これが歴史的な研究というものでございます。信仰には関係ないんです。そういうような勉強が、もうちょっと室根についてはあってもよろしいのかなあという感じをもちました。
 
<蕨手刀と俘囚鍛冶>
 その次、「蕨手刀と俘囚鍛冶」。これ非常に専門的なお話です。したがって私も専門的な感想を申し上げます。
 いったいこの「俘囚」というのはいわゆる「蝦夷(えぞ)」、「えびす」とか「えみし」といわれておったこういう人たちを征討して、その中の最も強硬な分子を現地から切り離してよその地域に集団的に移住させた者、それが「俘囚」と言われるものです。特に九州肥後などというのは最も遠いところですから、最も強硬な、政府側から見れば最強の蝦夷の抵抗分子というものがこちらに移されてきた。こう考えています。ところが、その人たちの中に日本刀の起源になるような刀というものが、たとえば「蕨手刀」でも宜しいし舞草の伝統でも良し。ともかくそういうかたちで俘囚プロパーのものとして、即ち「えびす」プロパー(固有)の技術産業として伝えられていって、そしてそれが何のことはない日本を代表する剣の起源にかえってくるというようなことになりますと、私たち一般に古代蝦夷、「えびす」、「えみし」などというものは、全く文化も技術も産業も心得がなくて、未開野蛮でただ狩猟採集にだけあたっておったような人たちで、だからこの人たちを「山夷」(さんい)」というふうに呼んで、この人たちが大和系の人たちのようになるのには、「田夷」(でんい)、田のえびすというふうに変えて、て政府側で教えてやってそういうふうに産業種族に切り替わっていったのだというような考え方をしています。
 この考え方を根本的に切り替えていかないと、こういうものの起源が分かってきません。私そういうことについての最近はっきりしたことの第一は、いったい「騎馬民族」などというのは、大和系の人たちが大陸から海を便って来て、それが王朝を創ったなどというような、これ今日私から観たら、先ほどの太宰幸子さんなんかとは全然別個なかたち。全くあり得ない。何故ならば平安初期の大和系で蝦夷経営に当っていた人たちが蝦夷との戦闘において、騎馬民族としての「えびす」との戦いにおいては政府側の十人百人束になってかかっても、「えびす」一人に適わないということを証言している。これもちゃんと記録にあるんです。
 そういう人たちであるならば、日本の騎馬民族と、仮に言える人たちがあるとしたら、むしろこの蝦夷(えびす)集団たちです。そしてこの人たちが、ただ裸馬に乗って、腕で殴りかかったというんでなくて、騎手として弓も射る、当然接触にしてくれば刀でも戦う。そしてこの刀自身が彼等固有の技術であり生産であり、産業であるということになると、ただ彼等は大和系の人たちと違うところは、お米を自分たちで作るということだけは確かにやっていない、蚕がどうだったという程度のことは違っても、日本の中で全く違う生産様式・文化様式などというふうなものを、大和系と北方えびす系と、こういうようなかたちで分け持っておった。そしてそういうものが接触する過程でもって、蝦夷(えぞ)だけでなく、大和をも含めて、日本を代表するものになっていくというのが、この文化の融合過程で起こってくるわけなんです。
 何か私自身、長いこと蝦夷の勉強をしてきた一人として、そういう反省をして、これから先「えみし、えぞ」の研究などというようなものは、もうちょっと学問的に根本から出直していかないと、これは学問の名に値しないものだということを、ここで私の反省を込めて断言しておきます。
 
<おらがまち遠山村の幸おこし>」
 それから「おらがまち遠山村の幸おこし」。私は昨年の総会の席上で伊藤事務局長に対して、これから先この研究会を、「おたから探しとか、起こしとかいうのをやめて、別の名前にしたらどうかなあ」という言い方をいたしました。今これ撤回いたします。間違っておりました。何故ならば、はっきりと「おらがまちおたからさがし」ということで、立派な新しい町の未来像というものが、しかもあまり勉強だ、学問だなどというようなことを、麗々しく表出たさないで黙々として、彼はあまり黙々でもなかったんですが、そういう人から提起されてきているということ、これこそほんとうの学問である。いや福沢諭吉などという人は「実学」などというふうな言い方をする。これだって実学という名の「講談学」です。その証拠に彼はあまり実学には大した貢献をしていないんです。

 私は今日の菅原さんのこの「まちおこし むらおこし」によって、私自身の地方学(じかたがく)とか実学というのは、言ってみればこれは理屈を言っている地方学、何とそれが実践科学となって、ほんものになっていく。その実践が、ただ「空拳を如何せん」というふうな「徒手空拳」ではだめだと、実のお金、実銭を伴ってというふうに、まるでこれは近世哲学の三部作を書いたカントの「純粋理性哲学」、「実践理性」、それから判断力の三つの批判などというようなものの、向うを張るような地方学が、ここから提起されているという感じがして、私はこんなふうにして理屈で、理論で、そして勉強面でもって捏ね上げている奇麗ごとというのが、実際の生活の場で生かされて、それが真実なんだ、そうなければいけないんだというふうなところまで理論や学問が実を結んでいくようになって、はじめてこれは実学といえるものです。

 私はそういうふうにして「おたからさがし」の実学のお手本として、できれば菅原さんのこれから先の「遠山まちおこし」というものが成功することを、皆さんとご一緒に祈りたいというふうに思うのでございます。
 
<大籠キリシタン>
 「大籠キリシタン」。これ私、この前も見学さしていただき、お話を承りました。本日また、まとまったお話を承りまして、すっかり感銘いたしました。一つお願いがあります。これは大籠だけでなく、ここにおられるみなさん、みんなへのお願いでございます。
 いったい、どんなに権力により、り武力により、何年がかりでそのキリシタン信仰の放棄を、棄てることを強要され、そして実際にそういうかたちでひどい仕打ちを受けたにもかわらず、断固として最後までこれを拒否して、そして300人以上の人たちが殉教の最後を遂げたという、痛ましい悲しい事実が知られています。そしてこれが日本を訪れるクリスチャンの人たちの巡礼においても、感銘を新たにさせていると、そういうことなそうです。その通りです。
 そうであれば、いったい製鉄にも負けない、折檻にも負けない、強制にも負けない、どのような権力にも屈することのない信仰というものを、いったいこの人たちは具体的にどんなようなかたちでもち続けたのかということへの追求、学習、これが絶対必要です。そうでないと、ただ言葉できれいなことを外側から認めている、確認している、立派だったと言っているだけです。私はそういう点から大籠、若しくはこの地域の方々のほとんど大部分がクリスチャンでなくて、あるいは仏教徒であり神道であったりするかも知れないけれど、こと大籠の殉教に関するかぎりにおいて、当時のキリシタンたちが聖書というものをどんふうに学び、どんなふうにイエス・キリストやマリアに対する信仰というのを、天照大神や八幡様や阿弥陀さまや、そんなものにも勝って、これが唯一最高の神さまであるというところまで信じるためには、ちゃんとした彼らにおける聖書の学問というものが、信仰を必然的に支えていたのだと、私はそういうこの殉教キリシタンたちの信仰の内部風景というようなものを、少なくともこれを語る、これについて考える一日だけは、我々自身もキリシタンになったつもりでもってその勉強をし、そのキリシタンの言葉や考え方や文字や、そういうものに従って語るようになって、ほんとうに大籠は世界の殉教の聖地ということになる。なぜならば、キリスト教はこういうかたちでここで生きられ、根付いており、地元の人たちにそういうふうに聖書、キリスト教というものをちゃんと理解して、この先人の尊い殉教というものに心から感謝を捧げている。そういう感銘を与えることができるようになる。そういうふうに考えるのでございます。
 
<宮沢賢治 雨ニモマケズ>
 最後に「宮沢賢治 雨ニモマケズ」。専門家の専門の言葉によるお話でしたから、私付け加えることありません。ただ「雨ニモマケズ」ということが、デクノボーというものから芽生えてきているということ、それからもう一つ、「デクノボーといわれるものになりたい」、あるいは「なろう」というのでなく、「デクノボーといわれるような、そういう人になりたい」という、この言葉の違いというものは、非常に奥深いものです。
そして宮沢賢治の研究というのが、一言でいえば例えば「デクノボーとよばれるような人になりたい」ということを、「デクノボーになりたい」というふうに受け止めて、「これが宮沢賢治だ」というふうな発想を賢治全体に押し及ぼしてきている。それが宮沢賢治という人を非常に平凡な人にしてしまっている理由でないかなあというようなことをつくづく思います。
 次に小沢一郎という方を第三のデクノボーに推薦するかどうかということにつきましては、私しばらく批評を差し控えさせていただきます。以上が私の感想でございます。
 
講師   斎藤文一先生
 私は「磨き上げ」ではなくて、盛り上げのために登壇しました。
 二つほど言いたいと思いますが、私は歴史はまったく素人でありまして専門でないのですけれども今日みなさんの報告を聞きながら本当にこの一関・両磐は、おたからに満ちていると感銘を受けました。
 その中でですね、高橋富雄先生が毎月のように来て、皆さんの地元でいろいろと話しておられるということを伺っていますが、私は新潟という遠いところにいるために参加できないで残念です。私が思うに高橋富雄先生の講演というかお話は、鎌倉時代の「辻説法」を思うんですよね。辻に立って民衆に、ほんとうに分かり易い言葉で歴史や世界、地理、そういうものについて説法して歩いたという、そういうスタイルを感じて非常に感銘を受けるものです。
 この土地を掘ってくるとタカラが出てくる。そのタカラがお山の大将になるだけでなくてですね、これが日本や遠く世界の歴史を見直す、歴史をある意味でひっくり返すという観点で、このオタカラを評価していかなくてはならない。そのためにはどうしても高橋富雄先生の学問の力、情熱が必要です。そういう意味で南岩手に高橋先生の足跡をいただくということ、これはほんとうに私どもの宝であると思うので、今後とも是非お元気で宜しくお願いしたいと思うのです。
 私はこの辻説法を感じながら、いま日本では第二の鎌倉時代が来ているのではないかという感じがするのです。第二の鎌倉時代。西の方の政府に対して東に幕府を持つと、そういうことです。で第二の鎌倉時代に辻説法が居るんだもの。必要なのは鎌倉幕府を何処に建てるかということ。それで私は室根山の麓に第二の鎌倉、室根幕府を立てると、それで征夷大将軍、内閣総理大臣も立てるということでですね、第二の鎌倉幕府。つまり日本の歴史を根本から見直す、そういう実力、そういう豊かさがあったのに、不当に卑しめられていたということを専門家でありませんけれど実感するものです。
 私は宮沢賢治フアンでありまして、東山町には五千冊の本が入っていますけれども、先ほど言いましたように「私有財産制」を脱却する、脱出するということ、これは何百年という人間の最高の課題です。最高の難題だ。とてもじゃないけどもそこから抜け出すことは殆ど不可能だ、全く不可能だ。そういう状況です。ですけども宮沢賢治という人はですね、このような「雨ニモマケズ」、みんなからそうよばれる、みんながそういうだろうなあという、これ皮肉も入っている。ですけどもそれを「私有財産制」の檻から脱出する人、それを求める人。そういうふうに受けとめたい。

 最後にですね、私は宮沢賢治の思想をもっとも情熱をこめたかった詩が、原体剣舞連という詩があります。そこにはですね、「種山が原」に近いところで「森と銀河との祭り、まるめろの匂いの空に 新しい星雲を燃やせ」といったあの詩をですね、いずれ実現するであろう「みちのく中央博物館」の玄関前にですね、デーっと高く掲げたいと思います。横三間、縦一間半の額を掲げたい。これは毎回言っているのです。是非こういうことを、宮沢賢治は「みちのく中央」よりも、日本を象徴的に代表する人物ではなかったかということを思いながら、まことに勝手な感想といいますか、思いをもちました。以上であります。ぜひみなさん、また来年会いましょう。