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【第2信】新発見 「河崎柵主 金為行一族が築いた石組み?」出現

①3月20日発の(第1信)
――新発見 「埋蔵文化財」~しっかりした船着き場跡(あるいは「船番所跡」か?)出土――
に引き続く、またまたの新発見「船着き場跡」出土です。第1信での「遺構」から100メートほど離れた下流。もっと大きく、もっと立派な、もう一つの「船着き場跡」(石畳状遺構)が、我々の眼をおどろかしています。現地ではそこを「一のわく(框)」と呼んできています。

②そのうえこれら二か所の石畳遺構の間に、変わった形の石組み(立派な階段状)の「船番所」らしいものが、二つの遺構より3~4メートルか高い積み重ね石のスガタを現わしています。おそらく「見張り所」の役割を果たすものなんでしょうね。

③これら二か所の船着き場とこの船番所らしい地点。この三つをまとめ合わせていくなら、一千年、一千三百年前頃の河崎柵歴史ロマンの華咲かせることができるのではなかろうかと胸とどろかしています。

④そうこうしているうちの5月14日。県教委による現地公開が行われました。現地市民、市行政当局、市文化財調査委員、そして「みちのく中央総合博物館市民会」を名乗る「磐井地方日本学」研究仲間など多数参加、県埋蔵文化財担当から説明を受けることができました。
 「いつWhen」「だれがWho」「なぜWhy」「どのようにしてHow」この施設が造営されたのか。埋蔵文化財ですから、「文化財保護法」にしたがい、住民への周知に努めねばならない県教委担当者は、参加者からの質問・意見に応えねばなりません。さかんな質疑が発せられました。みんな前向きでした。しかしながら残念なことに、我々「磐井地方日本学」研究会仲間からの追究に応えられず仕舞いに終わってしまいました。

⑤以下、こちら参加側の追究ポイントを挙げてみます。

◇この船着き場が、平成12年から16年までの5年間にわたる「擬定地河崎柵跡」発掘調査済みの遺構「河崎柵」包蔵地内の施設と観て妥当な地点にあり、その調査報告書第1冊目中「Ⅻ まとめ」334ページに記述されている

「…当時の遺構と思われる石畳が一の框という地名のもとに現存しており、かかる石畳は北上川に沿って全面的にあったものらしく…」

とする部分との整合性をどう評価しているのか。

◇そしてこの「河崎柵」。1051年にはじまる前九年の役での対ヤマト朝廷軍との戦いの場として知られている安倍十二柵中の一つで、発掘調査の結果、それが

 「北上川上流部への進出を妨害する交通遮断施設」

だったと証拠立てられてある。したがってのこと、この船着き場も南(朝廷軍)の北進を妨げる一役を荷うものだったのだと、そう考えて妥当でなかろうか。

◇そのうえここ「河崎冊」の地が、それより270年ほど昔の750年、「覚鱉城」という名称で、ヤマトが北の夷(エビス)アテルイ、モタイ軍団を攻め亡ぼす軍事基地造営中だったところで、今でいう河崎柵遺跡と覚鱉城遺跡の二重遺跡だということ、これ県埋蔵文化センターによる「河崎柵擬定地」発掘調査報告書326ページに、

 「和同開珎を所有し、蕨手刀、鉄鏃、小札などで武装した人びとが暮らしていた……律令政府とのつながりを示し……胆沢方面への征夷の時代相を表わしている……」

との記述。そして

 「本遺跡以外には、磐井郡内では皆無に近い状態で…当地方における征夷の具体的な様相を明らかにするために良好な資料になり得る集落である」

と、まさにこれ歴史年表の示す宝亀11年(780)の覚鱉城造営そのことを指すかのようなことに留意いただきたい。

◇そして本命ともいえる「河崎柵」との関わり。金為行率いる金一族、「磐井」全域の司(つかさ)として、大伴駿河麻呂率いる「遠山村」征討に屈した宝亀五年以来、俘囚長として磐井郡をまとめてきた譜代豪族「遠山の公」が「金」名を名乗り、覚鱉城づくりの伝統を引き継ぐ「新覚鱉城」=「河崎柵」造営に取り組んできた一族だったことご存知だろうか。そして今回出土したこういう船着き場と番所の果たす役割想定。おそらく陸地に掘られた交通遮断施設二本の大溝同様次元の水面での交通遮断意図の船着き場構築、また対岸につながる水底施設なども動員させての考古学的研究が求められているのではなかろうか。
 

 どうか工事の都合上、ただ潰してしまうのでは、きっと後世に悔いを残すことになるだろうし、無造作な「やむを得ない」破壊措置をとらず、どこまでも埋蔵文化財の保護保全主旨を貫くよう念じているところです。

 


銚子地区(一わく)北上大橋より写す


一わく 川上より写す


一わく 川上より写す


一わく法面 川上より写す


一わく法面 川下より写す


一わく 川下より写す