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中尊寺供養願文

 
磐井歴史文化講演会 「中尊寺落慶供養願文」
  …確かな世界文化遺産登録を
                信仰と時代背景の明らめによって…
 
                    講師 中尊寺仏教研究所長 佐々木邦世先生
                    講師 東北大学名誉教授   高橋富雄先生                                                            

  

        読み下し  中尊寺落慶供養願文」

 敬白 
  建立供養し奉る。鎮護國家大伽藍一區(区)の事。
   三間四面の檜皮葺堂一宇。左右の廊は廿二間あり。

     莊厳は、
      五彩の切幡(きりはた)卅二旒。
      三丈の村濃(むらご)大幡二旒。

    安置し奉る。六丈の皆金色釋迦三尊像各一體(体)。
  右、堂宇は則ち芝栭(しじ)藻井(そうせい)にして、天蓋(てんがい)は寶網(ほうもう)、
  厳飾(ごんじき)意に協い、丹雘(たんわく)目を悦ばす。佛像は則ち、蓮眼菓脣
  (れんげんかしん)、紫磨金色(しまこんじき)なり。脇士の待者は、次第に囲繞
  (いにょう)す。
  三重の塔婆三基。

    莊厳は、
     金銅の寶幢は卅六旒。(旒別十二旒)

  安置し奉る、摩訶昆盧遮那如来三尊像各一體
  釋迦牟尼如来三尊像各一體
  薬師瑠璃光如来三尊像各一體
  彌勒慈尊三尊像各一體

右、本尊座前の瑜伽壇上は、八供養の鈴杵(れいしょ)を置き、八方色の幡幢(ばんとう)を立て、儀軌の以第、兼備せざるなし、

二階瓦葺の経蔵一宇
 納め奉る。金銀泥一切経一部

 安置し奉る、等身皆金色文殊師利尊像一體
右、経巻は、金書に銀字一行を挟みて光を交わし、紺紙に玉軸衆寶を合わせて巻と成す。漆匣(しっこう)を以て部帙(ぶちつ)を安んじ、螺鈿(らでん)を琢(きざ)んで、以て題目を鏤(ちりば)む。文殊像は、三世覚母の名に憑みて、一切経蔵の主(あるじ)と為す。惠眼を廻して照見し、智力を運びて以て護持す。

二階の鐘樓一宇
 廿釣の洪鐘一口を懸く。
右に、一音の覃(およ)ぶ所千界を限らず。苦しみを抜きて、樂を興へ、普く皆平等なり。官軍と夷虜(いりょ)の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠(と)を受くるもの、過現無量なり。精魂は、皆他方の界に去り、朽骨は猶此土(しど)の塵となる。鐘聲の地を動かす毎に、冤霊(えんれい)をして、浄刹(じょうさつ)に導かしめん。

 大門三宇、
 築垣三面、
 反橋一道、(廿一間)。
 斜橋一道、十間。
 龍頭鷁首晝船二隻。
 左右楽器、太皷、舞装束卅八具、

右は、築山を以て地形を増し、池を穿(うが)ちて以って水脈を貯(たくわ)う。草木樹林の成行(じょうぎょう)は、宮殿樓閣の度(よろしき)に中(あた)る。廣樂(こうらく)の歌舞を奏し、大衆の佛乗を讃う。徼外(きょうがい)の蛮陬(ばんすう)たりと雖も、界内(かいだい)の佛土と謂うべし。

 千部の法華経。
 千口の持経者。

右、弟子は志を運びて、多年これを書寫す。僧侶は同音に一日これを転読す。一口に一部を充て、千口に千部を尽す。聚蚊(しゅうか)の響は、尚、雷を成し、千僧の声は、定んで天に達せり。

五百卅口の題名僧
右は、口別に十軸の題名を揚げ、五千餘巻の部帙を尽す。手毎に捧持し、紐を開くるに煩い無し。以前の善根旨趣(しいしゅ)は、偏に鎮護國家を奉る為なり。所為は何(いか)ん、弟子は東夷の遠酋(おんしゅう)なり。生れて、聖代の征戦無きに逢い、長じて明時の仁恩多きに屬す。蛮陬(ばんそう)・夷落、これが為に事は少し。虜陣(りょじん)、戎庭(じゅうてい)、これが為に虞(おそれ)ず。この時に当たりて、弟子苟(いやし)くも、祖考の餘業を資(う)け、謬(あやま)って俘囚の上頭に居る。出羽・陸奥の土俗は、風の草に従うが如く、粛愼(しゅくしん)・悒婁(ゆうろう)の海蛮は、陽に向う葵に類(に)たり。垂拱寧息(すいきょうねいそく)して三十餘年。しかる間、時享歳貢の勤は、職業失うこと無く、羽毛歯皮の贄(にえ)は、参期(さんご)違うこと無し。これに因りて乾憐(けんりん)降ること頻(しき)り、遠く奉國の節優(あつ)し。天恩改むること無く、己(すで)に杖郷の齢を過ぐ。運命の天に在るを知ると雖も、争(いか)でか忠貞の報國を忘れんや。その報謝を憶(おも)うに、修善に如(しか)ず。是を以て、貢職の羨餘(せんよ)を調え、財幣の涓露(けんろ)を抛(なげう)ち、吉土を占いて、堂塔を建て、眞金を冶(と)いて、佛経を顯わす。経蔵・鐘樓・大門・大垣、高きに依りては築山し、窪みに就いては池を穿つ。龍虎は宜しきに協(かな)い、即ちこれ四神具足の地なり。蛮夷は善に歸し、豈(あに)、諸佛摩頂の場(にわ)ならざらんや。又萬燈曾(まんどうえ)を設け、十方尊を供す。薫修は、定んで法界に遍(あまね)し。素意は盍ぞ悉地(しつち)を成ぜん。その全分を捧げて、禪定法皇(=白河法王)を祈り奉る。蓬莱の殿上、日月の影は鎮かに遅(なが)く、功徳の林中に、霧露(むろ)の気長く霽(は)る。金輪聖主の玉
扆(ぎょくい)動くこと無く、太上天皇(=鳥羽天皇)の寶(宝)算は無彊(むきょう)なり。國母仙院(=待賢門院)は、麻姑(まこ)と齢を比べ、林廬桂陽は松子(しょうし)に影を伴う。三公九卿、武職文官、五幾七道、萬姓の兆民、皆、冶世を樂しみ、各(それぞれ)長生を誇り、御願寺と為し、長く、國家區々の誠を祈らん。天高く徳卑し、綸綍(りんふつ)請うに依りて、供養思いを遂げん。寶歴三年、青陽の三月、曜宿相應し、支干皆吉たり。一千五百餘口の僧を延崛(えんくつ)して、八萬十二の一切経を讃揚す。金銀和光して、弟子の中誠を照らす。佛経合力して、法皇の上壽に添わん。弟子の生涯、久しく恩徳の海に浴し、身後必ず安養の郷(くに)に詣(いた)らん。乃至鐵圍(てっち)砂界、胎卵濕化(たいらんしつけ)、善根の覃ぶ所、勝利無量ならん。 敬白、

天治三年三月廿四日 弟子正六位上 藤原朝臣清衡 敬白
                        

 

 

  

講師 中尊寺仏教文化研究所長 佐々木邦世先生

 今10時ですね。中尊寺というとみなさん、すぐ「金色堂」となるわけですけれども、もう一つ大きな歴史的な遺産、宗教的な遺産は「紺紙金銀字交書一切経」。紺紙に金と銀で一行ずつ書き分けた、(経典を開きながら)こういうお経です。それが「一切経」ですから、百巻、千巻ではないんですね。五千三百巻。これを書き分け、そして全ての事をなされた。その写経奉行 自在坊蓮光の、今日が命日でございまして、中尊寺一山並びに信徒関係者を集めて、中尊寺の本堂で、ただ今、貫首が登壇されて声を発せられたところでございますね。

 

 そういうときでございますが、これもご縁でございますから、朝がた貫首さんにお断りして、今日は川崎の方へ呼ばれて同じ思いで話をしてくると。何せ言ってきたのが松川誠という方でして、言われたらどうにもならないんだと話をしてきました。皆うなづいておりまして、気をつけて行ってこいよと。

 

 そこでお話をする前に、皆さんたいへんご心配されている平泉文化の世界遺産、誰も思っていなかった「勧告」が出まして、一体どうなるんでしょうか、残念でしたね、なんて、みんなお話されています。

 しかし、今、近藤大使がパリでいろんな理解を求めるために、考え、行動を起こしているところでございますので、我々がそれを、或いはもう、こうであるとか勝手な見通しのもとに評論家ぶった言い方をすることは逆に足引っ張りになりますので、今は慎むべきであると。言いたいことは山ほどありますけれども、ここまでは言っちゃいけないなと思うようなことがあります。なぜかといいますと、みんなが心配されるように、イコモスのジャガス委員一人が見ていっただけです。それで判断されちゃうのかと思われているかも知れませんが、朝日新聞でしたか、前のイコモスの日本代表であり、イコモスの副委員長をやった西村幸夫氏が「現地を訪れるのはどこだって委員一人だけれども、情報は七千件もとれる、そういう組織であり、人脈であり、そうした中で判断するんだから」と言われています。ですからジャガス氏独りでは、思いが偏っていたら……というような心配はしなくて良いということです。

 逆に言いますと今、平泉、この問題に関わって岩手日報が、或いは他の新聞が書き上げていること、そして平泉町の庁舎のなかでいろいろ議論されていること、それらが全部流れるということであります。

 数日前に、パリから私に電話がありまして、これからイコモスの委員を回って平泉の文化の意義を端的に説明されるとのことでした。それで「浄土思想を基調とする」。ここが先ず理解され難い、そして言葉が複雑すぎて相手にどうも通じていない。そのことを踏まえてどうしたら良いかということなんですね。

 私はパリにかけつけた友人にこう答えました。推薦する推薦書の第一ページが間違っていると。浄土思想を基調とする文化的景観、浄土思想とは……と書き出して、「死んでから往くところ、阿弥陀さまの世界をいう」と、こういうふうに説明しているんですね。つまり今回の問題は言葉の問題、宗教の問題ではありません。それ以前の、資料作成スタッフの認識不足にあります。(もし報道の方いたらここは書かないでおいてくださいね。今、それ言っちゃったらいけませんので。でもこれは、いずれきちんと言わなきゃいけない。同じことを何度も繰り返されては困るから)

もう一つ言いますと、行政は、すべて行政(文化庁・県・町)が当事者だと思っていること。これが間違いなんですね。説明・理解の場を設定し、文化遺産の真価、現状をしっかり認識してもらって、ことを運ぶことは行政の担当でありましょうが、文化庁・県に任せて、あなた方はそっちへ行っていなさいみたいな、あのやり方は間違っています。こういうやり方で、石見銀山が失敗しているんです。そこを護り、そこに育った人、そこをいつも草刈ってお掃除している人、そこの寺の坊さん、そこの学校の先生、そういった人たちをカヤの外に置いておいて、そうして担当官にマニュアルを渡して読ませる。これがだめなんです。

 白神山地の場合も、あのブナ林の伐採にストップをかけた人たち、あの鉱山で育って或いは生活をしていた人、毎日あそこで雪掃きした人、植物を一番知っているあの山の人々、その人々が直接に調査委員に接することがなかったようです。このような対応の仕方がいちばんいけない。

 

 今度、ジャガス氏が平泉に来られてずうっと回ったわけですが、中尊寺では、行政の時間割表、行程表を変更して案内いたしました。当初の予定になかったけれども、中尊寺の梵鐘を、いつもは撞かない中尊寺の古い鐘を撞いて聞いていただきました。ニューヨークの同時多発テロ、あのときにも、NHKの「行く年来る年」に、NHKさんから頼まれて、最後のところにこれを撞きました。なぜか。そのカギは、この「中尊寺供養願文」にあるのです。ジャガス氏にそう言いました。そしてこれは「非戦の鐘」です。「ノー・ウォー No War」を願う鐘なのです。これが大事なんです。鐘を撞いたら、そのイコモスの委員が「私にも撞かせてもらえないか」。突然の申し出でしたが「良いでしょう」と。一度撞いて、ゴーンというその響きを聞かれました。「もう一回撞いていいか」というんですね。また撞いて、「もう一度撞いていいか」というんですね。三回撞いて、納得できたように深く頷かれ、そして下りられたんです。県の行政の日程表にないことでした、こういうことは。

 

 中尊寺の秘仏とも対峙してもらいました。言葉は要らなかったですね。そして、金色堂の内陣にも、行政の人を一切入れませんけれども、中尊寺の貫首と執事長とジャガス委員でどうぞ入ってくださいと。スクリーンの中へ入られまして、我々みんなは外です。どうぞごゆっくりと。あの中で何話しているんですかと聞かれたけれども、気がすむまで居るでしょうとだけ言ったんです。その後、出てこられてから委員が、経蔵等で教育委員会の説明を聞いていました。ところがそのときジャガス委員が何と言ったか。いっぱい資料を持っている、いっぱい情報をもって説明していた担当者に、「分かりました。あなたはこのお経を読んだことがありますか」と、こう問われたんですね。「いいえ、私はお経を読んでいません。」。「あ、そう。結構です」と。それでその場の説明はストップになったんです。これが原因の第二です。行政が当事者として全部やろうとすることが間違いだということであります。

 芭蕉が、「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」と言ってるじゃないですか。その場所まで連れてきたら、そこで、それに日常携わっている、農家なら農家、田園なら田園、教会なら教会、寺なら寺、そこの人に任せるべきなんです。全部自分が答えなければいけないと思うことが間違いなんです。後で、これの資料は、この写真はといわれたら、それを出せば良いんです。時間まで全部自分の方で握ってしまう。その結果がこうなんです。

 イコモスから9月に質問がきている。その内容も我々には教えてもらえない。あとで洩れ伺いまして、どういう質問がきてどう答えたんだと訊いたけれども、これも「言えない」と言うんですよ。それで答えが要を得ていない、不十分だから、2月にもう一度、質問がきた。どういう質問でした?これもまだ洩らせない。どう答えたんですか、「いや、大丈夫ですから」。これだけなんですね。今の国のやり方がこれなんですよ。そして今回「粛々と待つ」とかなんとか言っていて、あのような勧告を受けて「ここまでとは思わなかった」です。

 

 でも、今は一丸となってやらなきゃならない。そこでまず「浄土」というものの概念の範囲について考えましょう。この供養願文を読んでいきたいと思います。

 要点を絞っていきます。お手元の史料に目を通してください。「中尊寺建立供養願文」、これは二本あります。二本あって、共に「草案」、下書きですね。草案の写本です。共に重要文化財の指定になっております。

「敬白(けいびゃく)す 

建立供養し奉る。鎮護国家大伽藍一区のこと」

 これが中尊寺建立の一つの表に掲げた趣旨であります。そしてここから、このお堂は、次のこのお堂は、というふうにして、その規模なり、ご本尊の姿かたちを、そして思いを述べていくわけですが、ここで困ったことには、最初にくる「三間四面檜皮葺堂一宇 左右の廊二十二間あり」というものが、いったいどこだか未だ確定されていない。

 その次の「三重の塔婆三基」。これもどこだか確認されていない。これによって、この中尊寺供養願文は、中尊寺であるとかないとか、毛越寺であるとか、あるいは一応書いただけではないかとか、いろいろな考察推定はされてきました。しかし大事なのは次のところです。

「二階瓦葺の経蔵一宇 納め奉る、金銀泥一切経一部 安置し奉る、等身皆金色の文殊師利尊像一躰

右、経巻は、金書と銀書一行を挟んで光を交わし紺紙玉軸、衆宝を合して巻を成す。漆匣(しっこう、漆の箱ですね)を以って部帙を安んじ、(帙(ちつ)というのはお経を十巻で一つの巻物にしてそれを一箱に納める。螺鈿を琢(きざ)んで、以って題目を鏤(ちりば)む。」 夜光貝を切って経箱に、これには第何巻何々のお経が入っているということが蠟燭一本の明かりでも読めるように、見て分かるようにしてあります。現在それが残っております。

文殊像は、この文殊菩薩御本尊、三世覚母(さんぜかくも)の名を憑(たの)み、一切経蔵の主と為す。経蔵の主は文殊菩薩。恵眼(えげん)を廻らして照見し、智力を運んで以って護持す。

 

 

 実は、この中尊寺の「紺紙金銀字経」というものは、その淵源が中国山西省の「五台山」にあります。むかし、藤原清衡公は12世紀ですが、9世紀にそこを訪れた日本の僧がおります。「円仁」という下野国(栃木県)出身の人で、天台の高僧で、後に「慈覚大師円仁」、慈覚大師という大師号を受けた方でございます。

 

 この方が東国、東北の多くのお寺さんで尊崇され、開山として伝承、祀られている。その亡くなって葬られたところが山形の「立石寺」というかたちになっております。そしてその「慈覚大師像」という木彫のお顔が今も残っておって、肖像として貴重な文化的な遺産でもあります。昨年、初めて一般に公開されました。そういう慈覚大師円仁が、「入唐求法」、唐に渡って9年間仏法を求め、「入唐求法巡礼行記」という詳しい日誌に、その思い、見たものをきちんと記録されておったんです。その記録、そして慈覚大師円仁という人を、世界史的な視野から取り上げて論じられ、多くの関心を集めさせたのが、あのライシャワー博士です。以来、慈覚大師円仁は世界史の中で見られる歴史的な人物となっております。

 この慈覚大師円仁が五台山で見たもの。そこに「紺紙金銀字一切経」があった。余処にない。その伝統と法統を受け継ぐ陸奥(みちのく)の「中尊寺」をとの祈りから、清衡公がこの山に堂塔を建立するに先立って、この金銀字写経を実現したわけです。五千三百巻、十万枚の和紙。それを紺に染める。そしてそれを裁断する、繋ぐ、罫線を引く。そして定本を搬入しそろえて、それを書写する。八年かかって書写している。大体2カ月で10巻を書写していますから、計算していくと、ああ何人の人が常にお書きになっていたんだなぁ。朝から晩まで毎日筆を運んでいた。それがあの江刺のあたりでですよ。京都で書いて持ってきたんじゃない。この江刺のあたりで書いたという奥書きも残っている。で、それを奉行(ぶぎょう)し、それを清衡に勧めた方が―――、清衡公が平泉に入ってきて、これから何を為すべきか、その道を開いたのが「自在坊蓮光」という人です。この人は京都の方にいて、比叡山あるいは園城寺(おんじょうじ)にいたらしいですけれども、そのような人ですから、当時『入唐求法巡礼行記』はちゃんと見ていたはずです。それをただ、陸奥で金が採れたから書いた、書かせたなんという問題ではないですね。何をそこに汲んで、やろうとしたのか。平泉を、中尊寺を、どういう思いで仏国土をつくろうとしたのか、みちのくを「前九年、後三年」の後、清衡は何を思って平泉に入ったのかということが分かってきます。

 

 そこで読むのが、次の「二階の鐘楼一宇」。二階建ての鐘楼で大きな鐘をそこに懸けたわけです。「二十鈞(きん)の洪鐘一口を懸く」 大きな鐘ですね。次の趣旨が大事です。「右、一音(いっとん)の覃ぶ(およぶ)所千界を限らず。」 ゴーンと撞いたその鐘の音が、柔らかくやわらかくどこまでも響いていく。「抜苦与樂」、苦を抜いて楽を与える。いいですか、死んでからじゃないですよ。苦しむのも悩むのも、矛盾の中で生きている人間なんですね。そして「普く皆平等なり。」

 

「官軍夷虜の死事、古来幾多なり。」 多くの戦争で人々は亡くなった。それにはそれぞれの理由なんかあるかも知れないけれども、官軍といい、夷虜といい、それで攻められた方、東北・みちのくに追いやられていった人々においても、人一人の命の重さは同じなわけです。戦いで死んだ人「古来幾多なり」。人間だけでなくて命あるものは、「毛羽鱗介」、けものも鳥も魚貝も、その「屠を受くるもの、過現無量なり。」 過去現在無量なり。それらの魂は皆他方の世界に行ってしまうけれども、朽骨はなお此土の塵となる。「精魂は皆他方の界に去り、朽骨は猶此土の塵と為る。」 その辺に葬られてあるじゃないか。「鐘声の地を動かす毎に」 朝に晩に撞く、その鐘の音が東北の地を動かすごとにですね、「冤霊(えんれい)をして浄刹に導かしめん。」 いいですか。「冤霊」と言っているんですね。「冤」という字は、カンムリに兎と書いてある。冤霊をして浄刹に導かしめん。カンムリは本来網(あみ)、網を掛けているんです。網をかけられて命を奪われそうになって、ふるえて動きがとれなくなっている兎を意味している。故なくして自分から自分の人生を全うせずに命を奪われ、行けといわれて行かせられ、死ねといわれて死なせられる戦争のありさま、その戦死者を言うのであります。「冤霊」。多くのものを見ましたけれども、この文章以前に、この言葉は見当たりませんでした。もしかしたら起草者藤原敦光の造語ではないか。冤罪(濡れ衣を着せられた)と、そういうことばはありますけれど、「冤霊」というのはもしかしたらこのときの造語かも知れませんね。造語といえば、今みんなが立ち往生している「浄土」、これ造語です。造った言葉。誰が。鳩摩羅什(くまらじゅう)という人が、五世紀に。仏教の「他方世界」をイメージして、そこを漢訳するときに「浄土」という言葉を作りました。それ以前の仏典にないんですね。それ以降は、当然のように「浄土」、「浄土」。「浄土三部経」などという、経題にもなっていますけれども、この鳩摩羅什という天才は、お父さんがインド人でして、お母さんは中央アジアの王姫でした。このお母さんが仏教徒でした。そうした影響でしょう。羅什は仏教を深く洞察し、自分の中に取り入れ、そしていろんなかたちに翻訳した。妬みなどもありまして、あいつはあのままいくとどこまでも出世してしまうと、中国の方からどうぞ来てください、そして翻訳してくださいとお誘いも来ている。それで、周囲の人は美女を彼にいっぱいくっつけちゃって、こりゃ人間煩悩ありますから、鳩摩羅什は落ちるところまで落ちてしまいます。落ちた挙句にですね、浄土を自分の中に発見するんです。そして大事なのは心である、大事なのは、その日その日の自分の人生を、他人の一生を、大事に思いながら生きること、それを「浄」というんだ。そういう言葉を、生きているか死んでしまってからのことかと、AかBか、善か悪かというような、二者択一のような言葉を超えたものとして、「浄土」という概念をつくるんです。

 

 ですから、亡くなってから往く「極楽浄土」、それも間違いじゃない。だけれども、大事なのは、そのお経は誰のために説いたのか。生きている人のためのお経。「法華経」であり「阿弥陀経」であります。なぜお釈迦様がこの世に現れたのか。なぜ仏法を、この矛盾した人間という我々に説かれたのか。死んでからのためでなくて、今の心の置き方を、道をいっしょに拓いて歩こう、仏道を歩もう。歩くんですね。生きていくということなんです。

 

 特にも「維摩経」というお経。「法華経」も大事ですよ。もう一つ、あまり言われてないけれども「維摩経」です。これを読めば、イコモス、外国の人もピタッと分かるんです。だからわたしは委員の方々に、こっちから盛岡から県庁から持っていったときのタイトルを、「浄土思想を基調とする」と、東京で、委員会で変えたんでしょう。新聞報道で我々も知ったんですけれども、「浄土思想」と言ったって、それをどうやって分かって貰うように、皆さんに説明するのか。真実は多面体でありますから、それを委員の先生方で、概念の枠を、良くお話合いして下さいと言っておいたのに、それを十分協議してなかったようですね。だから、みんなばらばらなんです。

 

行政主導のもとに「推薦書」を作成して出した。そして今になってから、あれは死んでからの意味じゃない、我々現実社会における浄土を説いている、あっちじゃない、こっちじゃない………と、これも嘘なんです。「そっちもこっちも」、生死を超えたものなんです。まだ分かってないんですね。そこのところが大事です。

 その「維摩経」に何て書いてあるか。このお経はですね、答えは直截的、ストレートですよ。

「維摩居士」。大徳の優れた人がですね、お釈迦さんの弟子達でさえ、あの居士と会うのは頭痛いなと、こうこぼすくらい、真実を追求し、ものの分かっている人なんですね。そして文殊菩薩と対論する。「直心」(じきしん)、素直な心、これ道場なり。道場です。深い心、深心、これ道場なり。菩提心、これ道場なり、というふうにこれをずうっと述べていくんですね。その後の章を読んでいくと、直心、(前おきとかイデオロギーとか、そういうふうなひっかかりのない、すとんとしたその気持ち)これ浄土なりと、こう書かれているんです。深心これ浄土なり。(違った意見の人、それを深く受け止める)深い心、これ浄土なり。人それぞれ、思っていることは違う、それぞれの生き方がある、それぞれの声がある、それをすとんと聴ける心、それが浄土だ、と。お互いに生きて、その相手の人生を生かして、それが浄土なんですよ。それをきちんと「維摩経」で説いております。

 思い出してください。聖徳太子が大事なものとして三つあげたお経の中にある、その二つ「法華経」と「維摩経」なんですよ。聖徳太子です。これは、現実に根を張った、そこに足を踏まえた人の見方、大事なもの、この「維摩経」の中で、こう言っています。国土とは衆生、人間のことである。国土交通省の国土じゃないんですよ。

 でも、私かつて、心の問題だったら浄い心、「浄心」と書きゃ良いんじゃないかと、こう思ったんですね。で、前の貫首さんの息子さん多田孝正氏、私の先輩であるその方と二人になったとき、大學の研究室で多田先生が本を整理しておられました。そこで、何で「浄心」といわないで「浄土」と言ったのかなあ、と聞こえるように言いました。その先生は私を振り向かずに「佐々木君、君一人でいるんなら浄心で良いんだよなー。生きているんだろう。一人で生きてられないだろう。みんなが、相手が、社会が、国が、これみんな浄くないと、浄く生きたことにならないんだよなあ。それを、複数人間だから「土」というんだよ。」 

 こういうことで分かるんですよね。ありがとうございました、それですとんと腑に落ちた。「郷土の会」なんていうのがありますね。岩手郷土何々会。あの「土」は、イメージの中に北上の山河を含めて思いをひとつにする。けれども集まってくるのは山河じゃなくて、そこに育った同じ郷土出身の「人」でしょう。同窓の人でしょう。同じ町の輩でしょう。それが「郷土」なんです。人なんです。「土」というのは「人」である。そして「浄土」というのは大衆一般の、大衆から離れてはないのだ、とお経に書いてあるんです。これらを読んでないで論ずるからいけない。

 我々が農業のことを聞こうとするときには、カウンターのところにいる農業課の人の話も大事だけれども、実際に畑に立って鍬持って肥料をやっている人の話を信用するんです。だから、全部役所がやらねばという考え方がいけない。そこで手を合わせ、お経を読んでいる人の話を聞かずに作文をして、それを英語にするから、向うに通ずる訳がない。このことを申し上げたい。

 ここに、大事なことは二階の鐘楼の中尊寺の梵鐘、そしてこれが鎮魂の鐘。鎮魂の寺としての中尊寺の一面であります。つまり衣の関山に位置し、「関寺」としてあった境のあの山の寺が、建前、趣旨としては鎮護国家の「御願寺」としての公的な意味をもち、その実態はこの大地で追いやられていった人々、みちのく人を含めての敵味方の別ない、官も賊も、中央も地方も含めての癒し、冤霊の鐘、そう鎮魂の寺であります。

 

次に、「徼外(きょうがい)の蛮陬(ばんすう)たりと雖も、界内の仏土と謂うべし」

 このみちのく。中央からみれば、この文章を作った敦光という人から見れば、この人よく他の文章も作っているから比較検討できます。こういう文章を書いています。これは敦光朝臣の文章博士のたいへん広く知られた天下の名文なんです。だから一字一字、一句一句、これは敦光の文章です。けれども、こういうふうなものをこういう趣旨で作ったという情報を提示され、それを踏まえて文章化したわけです。だから素志、心は願主清衡のものであります。

 徼外(きょうがい)の蛮陬(ばんすう)たりと雖も。遠国、辺土、境界の外側、外社会、しかも中央になじまないもの、或いは異なった風習のもの、そんな野蛮に見えるかも知れないけれども、「と雖も」ですね。「界内の仏土と謂うべし」というんですね。「界内」というのは普通、内外(うちそと)の意味で取られるわけです。地方史研究の先生方は、みなこれを内側外側、境界の「外」に対する「内」というふうに解釈されて、衣川のこっちだとか何とかだと解説されていますが、仏教の言葉で「界内」というのは別な意味です。それは一般大衆、悩みも何もみな持ち合わせたままの人のことであります。悟りきった人、修行した偉い高僧だけでなく、一般の人が、大衆が救われなければいけないというのが仏教の、日本に入ってきた大乗仏教の一大特色でありますから、これを誤ってはいけない。「界内の仏土と謂うべし」というのは、東北、みちのくまるごと仏国土にする、ということなんです。

 

 

 そこで思い出してください。何かでお話聞いたことがあるかも知れませんが、「奥の大道」って。その跡が、たとえばJRの郡山の駅前のところとか、仙台の太白区大野田あたりを通ってきていると、部分的に確認されている。ずうっとこれが「白河関」から「外が浜」まで通じていたと思えばいいわけで、その一町おきに、106メーターおきにですか、「笠塔婆」を建てて、それに「金色の阿弥陀さま」を描いた。旅人はそれに知らず知らずに手を合わせ、雨が降ってくれば急いで、帰りには無事戻れるように手を合わせながら歩いたでしょう。「南無阿弥陀仏」と唱えたでしょう。これが道、仏道なんですね。そのだいたい真ん中辺のところで中尊寺に来る、そしてそこを通ってまた北へ道を辿るんですね。この道、何で「大道」と言ったんですかね。研究してくれた岡田氏なんかは、これはいわゆる幹道路、幹道ですね。他国に通じる要所をつなぐ、新幹線の幹と同じ意味で解釈して書いている。普通はそう解釈されます。でも幅が4mぐらいで、1mぐらいの側溝があるぐらいですが、そんなに大事なものだったら「東海大道」と言うのかな、「東山大道」って聞いたことないですね。しかも小さな島にも「大道」というのがあるようです。

 

 この「大」って何でしょうか。「大」とは人間を超えたもの、摩訶般若の「摩訶=大」、大文字の「大」と同じで、それは仏の道、仏のことです。だから笠卒塔婆に南無阿弥陀佛、阿弥陀、阿弥陀さん、ずうっとあるわけです。だから中尊寺があるわけです。みちのく全部を仏国土にしようとした意志が具体化されて、現実の風景の中に読み取ることができるのです。空想でない。清衡公がそれをやった。その思いがあります。そして中尊寺は何なんだと言いますと、(次のページ左のところ) 平泉は「即ち是れ四神具足の地なり。蛮夷は善に帰し、豈、諸仏摩頂の場(にわ)ならざらんや。」

 「よういらしたな」。お参りくださって、あらゆる仏さんがそうやって受け止めて下さるんです。これをですね、前の千田貫首の、その前の多田厚隆貫首さんが、毎週木曜日に我々十二・三人をあつめて勉強会をやってくださいました。あの方は決して弁舌爽やかな方でありません。しかし、仰っている言葉と姿と実生活、思いが一つなんですね。すとんと、我々に、響いてくる。我々に大事なのは活字じゃなくて、それを自分のものにされた人、人師(人の師)、生きている人。この方の姿、言葉を、口をとおして我々が受け止めると、これが生きる支えになるんですね。

浄土真宗で明治の頃活躍された方で、暁烏敏(あけがらすはや)という人がいました。あるとき、亀井勝一郎が自分の宗教観をとうとうと述べた。すると、最後に敏(はや)が言ったそうです。「で、あなたの師匠は誰かね」と、こう聞いている。亀井の話が終わってですね、師匠がない人の考えは独善に陥りやすい、イデオロギーとか、あちこちふりまわしている、それはあぶなっかしいよ、という警鐘ですね。そのように、それをしっかりと身につけ、自分のものにされている人を通じて、我々は受け止めることができる。ですから「松のことは松に習え」というこれ、ほんとうにそう思いますね。

 

 そして今思いますと、あの、加藤楸邨という俳人がいました。お父さんが一ノ関の駅長さんで、一関中学校、関中を出られて、でもすぐまた余処へ移ったんですけれども、その楸邨氏の晩年に私がお会いした。その書斎。書屋号を「達谷山房」と書いてあるんですね。若き中学時代に、足駄を履いて逍遥した、それが中尊寺、毛越寺でなくて、あの「達谷」なんですね。この思いがあって「達谷山房」という書屋号をずっと大事にされて部屋にこう書いているんです。そして名文のエッセイ集、最後になりましたのが、「もうひとつのみちのく」。押しやられていった人々へのまなざし、その最後の行を締めたのが、

 「邯鄲(かんたん)や みちのおくなる 一挽歌」の句です。

 夏の終わりごろでしょうか、「ルルルルル」と鳴く。あの邯鄲(こおろぎの仲間)の、草むらで鳴く声。それに清衡、基衡、秀衡、大勢の兵(つわもの)、つわものとも言われなかった名もない人々への、まなざしへ思いがなければ、みちのくを語れないんだと。一挽歌、敗れ去ったものへの哀悼・哀傷歌ですね。それを聴き取っているんです。単なる俳句じゃない。思想の上に詠んでいるものであります。それを私は加藤楸邨氏に頼んで、頼んで頼み尽くして、句碑を建てたい……と。中尊寺と毛越寺の境に、束稲山から大きな石を運んで、そこに小さく彫りました。そこからは「達谷」が遥かに望めるのです。これを先生を説得するのに二年かかりました。あの楸邨という方は、他の俳人と違って、俳句は生きている間、生きている人間だから詠むもので、死んでから地球上に句碑など残すものじゃない、という考えの方です。句碑建てたりすることを絶対認めない方だったのです。とうとう病床の先生を、息子さんの奥さん、加藤瑠璃子さん、俳人ですが、「お父さん。お母さんが先立ったときに、お墓作ってそこにも並べてお父さんの一句も刻んでありますよ。一つあるも二つあるも同じでしょう。もう一つ許してあげて」。こう言ってくださって、ようやく句碑が建った。これは、みちのくの人々が拠って立つ精神の基調になる一句だろうと思っております。

そういうものを振り向いて、立ち止まって、そこに思いを運ぶのが、遺産、文化的景観であります。景観というのは単なる風景じゃない、その時代、その時代の風景を積み重ねたものを景観というのであります。それを、「供養願文」を下に敷いて、まだまだ多くのことが読めるだろうと思います。

 

 時間になりましたので、一応これで閉じますけれども、もうひとつだけ情報を流しておきます。

 この「紺紙金銀字交書一切経」。金字、銀字、後ろの方に行くと更に銀字がもっと光ります。巻頭の方は、しょっちゅう開きますから、銀はすれていくんですね。いつかサイデルステッカーさんをご案内したときに、私に訊きました。「なんで銀が銀色であるのか、おかしいじゃないか、こんなのは五、六年すれば酸化して黒くなるもんだ。調べてくれ。」といわれて調べました。そしたら、できるだけこれに金を含有させる、金を混ぜると酸化しにくいということが分かって、国立文化財研究所、今は独立法人の文化財研究所では、そう答えます。レンズで拡大して見ると、金が確かに入っています。しかしそれだけかな。こういうときは実際に書いている人に聞いてみることです。実際に筆を持っている人にです。「膠で溶くのは、あれは動物性ですからいけない。トロロアオイだ」なんてこと、言った人もおりますけれども、トロロアオイでは、金も銀も十年もちません。トロロアオイで溶いたものと、膠のものとで、比べて見せてもらいました。全然違います。「中尊寺経」は、全部膠で溶いています。そして、金字のところは金泥で書いても光らないんですよ。金泥で書いた後、研ぐんです。全部。文字の上をプレスして平らにする。そうすると光る。これを猪の牙でやるんだ。象牙でやると、もっと簡単に光るけれども、紙まで光ってつるつるになっちゃうんですね。猪の牙は、人間の爪のように皺(しわ)があって、熱を持たない。昔の人はちゃんと分かっているんですね。で、この銀は。書家の中村素堂先生が、亡くなる前に私に教えてくれました。筆は三本必要です。一本は金、一本は銀、もう一本は、書いた後に牛乳塗っているんですよ、牛乳。脂肪の膜を懸けちゃってるんですね。「何でお経にそんな牛乳なんか塗るの?」 こう思うかもしれませんが、まあお釈迦さんも牛乳だけは飲んでるんですね。托鉢して歩いて倒れたときに差し出された牛乳だけは飲んでる。精進なんですけれども、牛乳は認めてもらってるんですね。牛乳塗ってます。そのような思いを尽くして書写されたお経のなかに「維摩経」もございます。浄土とは生きている人のために、土とは人間ということを説いているのです。イコモスの委員を説得に、この金銀字の「維摩経」を持って、(これをデジカメで全部写して送りました)近藤大使、今日も朝から歩いているでしょう。この写真持って。もう少し成り行きを見て、声援をおくりたいと思います。

 

[追記]

 本年のユネスコ世界遺産委員会において、「平泉」は「記載延期」との決議がなされました。これは、「より綿密な調査や推薦書の本質的な改定が必要」であるという判断処理であります。これは推薦書が理解し難い、「浄土思想」と具体的な遺跡遺構との関わりが明確に示されていない、ということのようです。分かってもらえなかったのは事実ですが、分からなかった相手をあれこれ言うのでなく、こちらの推薦書作成の方に問題があった、文化庁や県の当局だけでなく審議委員の認識も、そして地元のわれわれの意識もまだまだ足りなかった、と考えるべきです。そこから、あらためてやり直す本当の元気も出てくるし二年後に期待もできるでしょう。

 


 

 

講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生


 皆さんこんにちは。ただ今、皆さん方と一緒に、佐々木先生のほんとうに感銘深いお話を拝聴しました。なんか大学のどの先生のお話しよりも感銘深い、きちっとポイントをついたお話しだったと思います。心から壇上ですけれども厚く御礼申し上げます。

 私は実を言いますと、佐々木先生はもちろんですけれども、そのお父様でいらっしゃる實高先生という方から、たいへんお世話をいただき、そのお世話とご指導のもとに、平泉の勉強を始めまして、そして何とか自分の勉強のみちすじをそこで作って、そして私の初めての本らしい本というのが、その平泉関係のものでございました。

 そしてそれをいろいろと溯って蝦夷の問題に発展させたり、時代をずーっと下して現代の東北の問題を考えるところまで発展させてはおりますけれども、出発点は中尊寺平泉だったのであります。そのゆかりの佐々木先生の講演の後を受けまして、その落穂拾いになるようなお話をさせていただくこと、私として非常に光栄でございます。一部ダブルところがあると思います。これ当然「供養願文」ですから。しかし、先生が時間の関係でお触れにならなかったところ、そういったところを落穂を拾うようなかたちで触れさせていただいて、時間はきっちり12時に収まるようにまとめさせていただこうと思います。

 今日、佐々木先生のお話がどういうことになるか分かりかねていましたので、私の立場から今日こんなようなことを申し上げたいと考えることを、甚だ拙い詩のかたちですけれども七言絶句のようなかたちで、皆さん絶句しないで聞いていただきたいと思います。そうして字もまことに下手な字ですけれども色紙に書いて、本日ここに持参いたしました。これは後で事務局の方に届けておきます。

 そこで、この先ほど供養願文のご案内ございましたけれども、それにあやかって、まずここで私がどのようなことをまあ詩になるかどうか分かりませんけれども、詩のようなものにまとめたかということを皆さんにご紹介して、そしてそれがすべて供養願文の精神、心というのを私の立場からまとめたものであるという趣旨のことを、ここで時間のある限りご説明申し上げたいと思います。

 

先ず、読んでみます。「中尊寺供養願文」

 邊陬六郡俘囚長(へんすうろくぐんふしゅうちょう) 邊は邊鄙(へんぴ)の邊、「すう」というのはほんとは「しゅう」と読むのですが、日本人はこれを「すう」と読んでいます。「そう」とも言います。「片田舎」ということでございます。「みちのく」という言葉自身が片田舎、政治にもならない、文化にもならないという意味で、道の奥、みちのくといったのですけれども、その中で最も奥まったところを、何とかして道にして行く、国にしていく、文化にしていくというかたちで、まあ云ってみれば、国の力で、最後の力をふりしぼって、ここに「郡」をたてた、「国づくり」をしたところ。それが「奥六郡」というものでございます。

 皆さん方がおられる「磐井郡」というところは、その六郡にすぐ隣りする、南隣りです。しかし、磐井郡は奥六郡の内ではありませんでした。そしてそのすぐ北、衣川を隔てて「胆沢郡」になって、胆沢、江刺から北、盛岡のある岩手郡まで、これが「奥六郡」というものであります。そしてそのセンターに鎮守府「胆沢城」というものが設けられまして、その鎮守府胆沢城の直轄下の、ほんとうは「蝦夷の国」なんだけれども、しかし鎮守府の下である「特別蝦夷国」という意味で「内郡」、内国扱いにして、これに「奥六郡」という名前を与えたのでございます。

 胆沢郡、江刺郡、和賀郡、稗貫郡、紫波郡、そして岩手郡と。岩手郡というのはよく分からないために、例えば鎌倉の記録の「吾妻鏡」などというのには、「岩手郡」というのを「岩井郡」というふうに読んだりもしているのでございます。これは磐井郡というのは分かっているけれども、岩手郡というのがよく分からないというような意味合いがあるかと思います。

 いずれにしても、そういうかたちでこの奥六郡というのは、本来は「みちのくの奥」で、国にも、文化にもならないような、そういうところだったんだけれども、鎮守府の城下ということで、特別に国扱いするようになって、「奥六郡」という特別な名前をつけるようになったのでございます。

 参考までに申し上げますけれども、例えば後の源頼義の「前九年の役」の報告書などによりますと、なんとなく陸奥の国全体のように聞えるようなかたちで「奥六郡」という使い方をしているのでございます。これは「奥」というのは「みちのおく」の奥になりますし、それから六郡の「六」というのは「むつのくに」、私たち「陸奥」と書いて「むつ」というのですが、平安時代のお公卿さんの日記などによりますと、そんな難しいこと言わないで、六つ、「六の国」と書いて「むつの国」、「六国」という「六つの国」と書いて、これで「むつのくに」とよんだりしているのでございます。即ち「奥六郡」というのはそんなかたちで何となく「みちのく」、「陸奥国」というのの別な言葉、代名詞、もしくは総括するような名前、というふうな使い方になって、「奥六郡」というのはなんとなく「陸奥国」ぜんたいを代表するような言い方として使われる習慣が出てきているのでございます。

 

 そして参考までにですけれども、これは仏教にもっていきますと、仏教では「六道」という言葉があるのでございます。「地獄、餓鬼、畜生、修羅」、それに「人、天」まで含めて六つ、「六道」というのですけれども、これも「六つの道」と書きますと、陸奥の国の「六国」、「道」というのは道路の「道」でもありますけれど、「国」という意味なんです。ですから「六道」は、言葉をもじって考えますと「陸奥国」の仏教的な言葉の使い方だというふうにも言えなくはないのです。そして京都では例えば「六道の辻」などという言葉もあるのですけれども、そういうことを考えてみますと、先ほどの佐々木先生のお話にもございましたように、本当の意味の仏教の浄土世界というのは、開けたところ、偉い人たち、豊かな金持ちの人たちのために考えられた理想世界ではなくて、学もない、富もない、智慧もない、そういうほんとうの最下低の、まあいわば「地下(じげ)の人たち」が救われ、往生するようになって、ほんとうに仏教の理想が達成されて、その世界を浄土世界というのだと、こういうふうに考えるならば、「みちのく」というところが浄土世界になる、理想世界になる、そこの人たちが、亡くなってからでなくって、この世さながらにして往生、浄土世界にあるのだというふうに、もし言えるようになるならば、それこそは仏教の究極の理想というものが達成されたことになる。そういうことが無理なく言えることになるのでございます。藤原清衡というお方は、そういったような心が、十二分にお分かりの上で、「中尊寺」というお寺をお建てになり、そして「供養願文」が捧げられたのだと考えられます。

 

 供養願文の精神、こころ、言葉というのを、一つひとつ丁寧に読んでいきますと、先ほどの佐々木先生がご紹介になったところについてでもほぼ想像できるのですけれども、時間の関係で省略された部分にも、はっきりとそういう心が書き記されているのでございます。

 最後、この供養願文は、自分も間もなく浄土に、あの世に召されることになるけれども、ひとり私だけでなく、胎生、卵生、湿生、化生(たいしょう、らんしょう、しっしょう、けしょう)というと「四生」(ししょう)を言います。人間はその最後の「化生」というのに含まれるのですが、人だけでなく、獣、魚介類、一切あらゆる生き物全てと共に、この祈りによってみんな浄土往生を遂げられるのであると、はっきりそういう言葉で結ばれているのでございます。

 皆さんに史料が配られておりますが、「善根の及ぶところはかりなし、限りなし」と、そういうふうに結ばれているのです。そしてこのことを考えてみますと、確かに鳥羽法皇であるとか、天子様とか、最高のお公卿たち、みんなのための鎮護国家の祈りを捧げているんですけれども、そのような鎮護国家などという大きな言い方の中には絶対に含まれることのない、こういうふうな「毛羽鱗介」であるとか、「四生」というような考え方は、出て来得ないのですけれども、清衡は、最後そういう天子様と一緒にとか、お公卿様と一緒にとか、立派な方々の仲間入りして往生するというのでなくて、人として最低の人たちのみならず、もっと下の罪なくして殺されたり食われたりして、先ほどお話しにあったように、その空しい骨だけが地上に埋もれてそちこちに散乱している、そういう者たちと一緒に自分は往生を遂げるのだという、こういう書き方になっていますよ。

 そしてこういう言葉が、鎮護国家の大伽藍という、東大寺とか国分寺とか、延暦寺とか、興福寺とか、そういったようなものにのみ許されるような、国家の大伽藍の檀主、発願した人の願いの中に、このように最低の人間のみならず、つまり「下品下生」の人たちだけでなくて、その下の動物たち、生きものすべて、魚介類まですべてみんな極楽往生を遂げるその人たちと一緒に自分は極楽往生を遂げるのだとこういう言葉になっていますよ。そしてこの言葉のもつ本当の深い意味というのが、私は正しく理解されてきていないように思って、まことに残念に思うのであります。

 そして藤原三代というもの、考えてみればあの「黄金文化」というのは、ひとりこういう恵まれた最高の人たちのためにだけ捧げられているのでなくて、これ自身が「四生往生」、そういう鳥、獣、貝、魚類まですべてあらゆる地上の生き物が、その命を最後的に全うするための引き出もの、捧げ物として、この皆金色文化というものが捧げられているのだというようなこと、これ供養願文というのを、丁寧に読んでみたならば、決して誇張ではない。そしてこれまで徹底した考え方は、ただ単に京都の文章家だけの作文と見るものではございません。こういう心は言辞を自分の体でもって生き抜いてきて、自分流の仏教の道というのものをはっきり切り拓くことが出来るようになった人の原稿がちゃんと提出されて、それに若干手を入れるようなかたちの名文化されて「供養願文」になったのである。こういうふうに考えるべきものと私は確信しているのでございます。

そうして、さて私の漢詩でございます。片田舎、奥六郡、ほんとうに国づくりされた最果ての地でございます。そこのところの「俘囚長」という名前でもって、藤原清衡、基衡、秀衡という三代の王者たちは登場するのでございます。「俘囚長」というのは、政府側に降伏する、或いは政府側のもとに組織された蝦夷たちのこと、それを「囚われ蝦夷」という意味で「俘囚」と呼んだのでございます。そして、その俘囚たちの中から最もすぐれた指導力のあるものとして任命されている、ちょうどローマ時代のゲルマンでいうならば傭兵隊の隊長と言えるような者、それが日本では「俘囚長」と呼ばれたのでございます。藤原清衡以下三代の人たちは、はっきりと自分達は蝦夷の六郡の俘囚長としてここのところで、特別にお上のおかげでもってこのように振舞うことができるのだと云う、そういう自覚にはっきり立っているのでございます。そしてそのこともちゃんと、この供養願文の終わりの部分に長々と書き記されているのです。これもぜひお読みください。自分は先祖のおかげでもって、この奥六郡東北の俘囚の上頭として何十年安穏に暮らすことが、生活を送ることができるけれども、これはすべてお上の特別の計らいによることであるから、正規の税金だとかお勤めだとかは勿論のことだけれども、自分の手許にある一切の財産をなげうって、お国のため国民のために奉仕する決意であると。ところでそのお国のため、国民のための最高のつとめというのは、ここに立派なお寺を建てて、すべての人たちが祈りを共にすることによって、そこのところに地上極楽を実現する、そうなることが国家に対する、お上に対する、最高のつとめだと思って、全財産をなげうってこの寺院、お寺をつくるということに決めたのである。そういうふうにはっきりと願文に書き記されているのでございます。

 そしてこういう「みちのく蝦夷の国」、奥の奥の世界においても、こういうふうな鎮護国家などと呼ばれる、立派なお寺を造ることができるようになっているのであるから、そうであればこれは片田舎ではあっても、はっきりと先ほどおっしゃったようにこれは「界内の浄土」といえる。これは地上におけるすべての国をそこのところに代表するような国土、浄土ということができるのでないかと、こういうふうに言って、これは政治的、文化的、あらゆる言葉を通して、人でない、国でない、文化になりえない、偉い世の中にはなり得ないんだというところも、すなわち仏教の理想をあらわしている仏国土ということができるのでないかと。そういう言い方になっているとのでございます。こういうことを考えてみましたならば、私達が今日「地方の時代」だとか、「田舎がどうなるべきだ」とかいうようなこと、あのようにただ口先で並べ立てる、述べ立てる以上に、この黄金文化の担い手として考えられている藤原氏の中に、その最高のものを最低のものたちに捧げるために、この寺、文化が営まれているのだというこの思想を皆さん方は誇張なくはっきりと読み取るべきです。先ほど申しましたように、お経を読まないでお経を語る人たちは、これは論語を読んで論語を知らないと同じことです。ましてやその文章を、原文をちゃんと読みもしないで、都合のいいところだけについて議論をしていく、そして平泉はこうだ、中尊寺はこうだというふうな議論は、これは黄金文化の根本をわきまえないものですね。私はそういうふうに考えて、この言葉、奥六郡の俘囚長という名前でありながら、自分は今、そのみちのく奥六郡というよりも、奥の奥の蝦夷世界の中に、地上極楽を創る。良いですか、先ほど佐々木先生のお話のように、極楽浄土というのは、亡くなってから行くだけの世界でないんだと、生きていてこの世でということですが、平泉ははっきりとその目標を言っている。それを私達は「地上極楽」と言っている。「此土浄土」(しどじょうど)と言っている。ですからこういうことを考えてみましたならば、藤原清衡の中には、なんら誇張することなく、この思想がはっきりと書き記され述べられているということを認めるべきです。

 仏教では、そういうふうに仏さま、仏菩薩ではないところの王者が、その精神を地上に広めていくための、そういう聖者としての国王のこと、それを「金輪聖王」(きんりんしょうおう)というのです。金の車に乗って、そして一気に全世界、全宇宙というものを駆け巡って福音をみんなに伝えていく、浄土のありがたさというものを伝えていく。そういうことを私たちは「金輪聖王」というふうにいうのでございます。「邊陬六郡俘囚長(へんすうろくぐんふしゅうちょう) 、金輪聖王成浄境」(きんりんしょうおうじょうじょうきょう)」  「成」は「なす」です、浄は浄土の「浄」、「境」は「さかい」ですから国土。「金輪聖王」として、俘囚長でもあるにかかわらず、仏教で最高最大、これ以上の国王がないと考えられる「金輪聖王」として、地上仏教国家というものをここに実現するのである。こういう言い方であります。これは誇張でない、誇張でありません。

 「吾妻鏡」に、平泉が滅んだ後、平泉の坊さん達が、平泉の伝統を、故事来歴を書上げて、そしてこの保護を求めて、紫波郡、蜂杜(はちもり)、そして盛岡、厨川まで進んでおった頼朝の軍営に出頭して提出したところの「衆徒注文」というのが載っておるのでございます。「吾妻鏡」に全文、幕府の記録に載っているのであります。その中の真っ先にこういうことが書いてある。清衡という方は「奥六郡」というのは「陸奥国」を支配した最初に、御殿だの役所だの、立派な宮殿などを造るということをしない。真っ先に中尊寺というものを造ったと、こう書いてあるんですよ。これは「清衡事始め」。清衡の政治の始まりというのは、行政でも司法でもなくて、みんなが地上の幸せ、来世往生というものを確実なものに実感することのできるようなものを目に見えるかたちで実現する。それが中尊寺というもの。さらに中尊寺というのは平泉だけのお寺ではありませんでした。なぜ「中尊寺」、平泉というところにこの鎮護国家のお寺が営まれることになったのかというと、南「白河関」から北のはずれ「外が浜」までの、ちょうど真中に平泉がある。まん中に。そして平泉だけが立派になる、中尊寺だけが皆金色だというのでなくって、あらゆる地点でもって、一町ごとにそれが実感できるような、そういう国の真中に、そのセンターとして、今日の言葉でいうなら「シンボルマーク」として中尊寺というのはある。一町ごとに笠塔婆を建てて、金色の阿弥陀像をそこに描いたとしてある。これを極端に言えば、一町ごとに地上王国極楽が実感できるような施設、目に見えるようなかたちで実現しようとした。これをその通り実現したかどうかということを問題にする、議論する人自身が間抜けています。そういう考え方を持っていたというだけで百点、百点満点。そしてそれを行政に具体化するものもまた「吾妻鏡」の中にはっきりこういう事が書いてある。清衡が支配した陸奥出羽の国は、村の数で一万幾つあった。清衡はその村の一つひとつに伽藍を、寺を建てた。いわば国分寺、郡分寺に対して「村分寺」といって良い。なぜならば一定の企画性をもった村単位の寺だった。そしてそれには平泉から運営費「仏性燈油田」(ぶっしょうとうゆでん)というものが確実に保障されていたと、こうありますから。これは「ミニ国分寺」、マクロに対して「ミクロ国分寺」と言って差し支えないものです。村単位に、こういうものができ、道路で言えば一町別に極楽が、浄土が実感できるような、こういう国づくりを実現しようとして、そのトップバッターに中尊寺がきたというのですから、これは正しく地上「金輪聖王」として、地上極楽をここに実現しようとした壮大な理想が、ここに書き記されていること一目瞭然です。

 そういうことを分かるために、皆さん方は改めて「供養願文」を先ず二回、三回と読んで下さい。それから吾妻鏡のこの「衆徒寺塔已下注文」と言われているこういうもの、たしか文治五年の九月十七日付けだったろうと思いますが、これも全文が書き留められて吾妻鏡に載っているのでございます。

 こういうものをよくよくご覧になったならば、実際にそのとおりになったかどうかなどということは、これは政府の約束でさえも確実になるのは何パーセントかということが問題になっていることを考えてみましたなら、この精神、思想というものだけで十二分であるというふうに考えて良いと思います。それで「奥六郡俘囚長」の身分でありながら、鎮護国家の国を代表するようなかたちの「地上理想国家」、ヨーロッパで言いましたら、トーマスマンなどは「ユートピア」と言ったでしょう。宮沢賢治という人だったら「イーハトーブ」と呼んだでしょう。そういったもの、何処にもない目に見えないからユートピアである、イーハトーブであるというのとは全然違うんですよ。平泉では、それを実感することのできる具体的な施設、文化、寺院、そういうものとして実現していこうとする仕事に百年かかって手をつけていたのだと、そういうことを考えてみました場合、平泉における北方王者とか何かなどということで、何か有難すぎるように考えているでしょう。これは足りな過ぎます。むしろ「金輪聖王」としてのユートピアや、イーハトーブというものを、実感できる実在の国文化、政治として実現しようとしたのが平泉だったというふうに、こう考えなければいけません。そして、それは京都のお公卿さん、藤原道長でも、これはほんとは途方もない大風呂敷、夢物語だと見られるところですね。皆さんも、そういう考え方でしょう。改めて平泉の黄金文化というもののもつ意味を考えて下さい。

 この当時、黄金は東北からしか出ないといわれています。したがって京都日本における金保有というのは、すべて平泉が送るか送らないかによって決まっていたんす。その日本唯一、金産金国である黄金のすべてを自分が思うように運営することができるようになっているのが平泉です。早い話、アメリカが最高のドル外交というものを実現して展開していた、そういうものをもっとコンパクトに集約したかたちで、黄金文化、黄金所有というものを考えてみましたならば、他所の国、他所の政治家、京都の天子様の朝廷と言えども出来ないような政治が、ここのところでは不可能でないということが、はっきり実感できるでしょう。皆さんは平泉の黄金文化というものは、そういうものに対する無限の保障力になるものであったと、こういうことを考えてみて下さい。そして「地上理想国家」というのは、百パーセント現実ではなかったけれどもが、かなりのところ現実性をもった理想国家の構想だったということを考えて、このような理想国家を、単なる理想、ソレン、そうあるべきだったアイディア、理想だというのでなく、現実性をもった理想政治として、百年にわたって地上に具体化しようとしたということであり、これは最高の評価をもってこれに対する感謝を、日本国民として捧げるべきであるということ、これこの席における私の皆さんへのサービスの言葉ではありませんよ。中尊寺代表の佐々木先生がいらっしゃるからお世辞でこういうことを申し上げている。それでもない。これは現実に即して、これ哲学ではこういうこと「レアールー・イデアール」、現実的・理想的というのですが、そういうものとして実感できるようになっているのです。

 それに対して、私、もうひとつ平泉にとって本当にこの清衡という人、基衡、秀衡という人が、往生して阿弥陀様のもとに行った場合に、本当に文化勲章を阿弥陀様から頂戴しただろうということ、それは、官軍夷虜(かんぐんいりょ)、敵も味方もない、全ての人たちが全く平等に往生し、その浄土世界における市民権を保証されるのだという、この言葉こそ最高の意味を持ったのだと、そして最後、先ほど申し上げた、自分が極楽に往生を遂げるだけでなく、地上のありとあらゆる生き物にして、不幸、陽の目を見ることの出来なかった人たちと、みんなと幸せを共にするような天国世界に自分は旅立つのだと、こういうふうな言葉で結んでいる、この支配者清衡という人の心ですね、これは最高のものですね。敵味方というならこれはまだ人間、人の中ですよ。人の中の上下です。それを鳥、獣、それから魚、貝類、地上のありとあらゆる生き物が自分が行く世界、浄土往生、キリスト教で言ったら天国。そういうところに一緒になって往生を遂げるのだ。それちゃんと「善根の覃ぶところ無量」、量る無し(はかるなし)と、こう書かれてありますから疑いありません。この考え方で清衡という方は、金色堂にはあのようなかたちで今生きておわすのです。これはあの世における幸せでなくて、地上において現にその幸せが保障実感されて、それがそのまま現世から来世へと続いていくのだという考え方。その心が金色堂におけるご遺体安置、しかも三代、四代そろってこういうかたちになっています。

 さらに大事なこと。六道菩薩であるところの「地蔵菩薩」が、六菩薩としてこれをはっきり見とどけて下さっているということです。「六地蔵」というのが、ああいう立派なお寺に、ああいうかたちで一級の祀られ方をしているのはおそらく他所に例がないだろうと思います。そしてこれは決して偉い人たちだけ、「上根上生」の人たちだけの世界ではなくて、むしろ「下根下生」の人たち、法然の言葉を使って言うならば「最低最下極悪」の人たちに最善最高の贈物を遂げる、そういう仏の慈悲ということが、ここのところでこういうかたちで表現されているのだということを実感しないわけにはいかない。この人たちは学問があってそうしたというのではない。自分たちの、この前九年・後三年の役以来、最下最低の世界を生きながら、そこの中でどのようにして地上最高最大の世界を生きることができるのかという道を模索する政治の結果として、こういう結論に至りついたのだということ、これはっきり確認すべきなのでございます。

 そして私がここで、こんなふうに申し上げる以上に、雄弁に物語っているのが「供養願文」です。改めてそれら全体を読み返して私の話を終わります。

[中尊寺供養願文]

「邊陬六郡俘囚長(へんすうろくぐんふしゅうちょう

金輪聖王成浄境(きんりんしょうおうじょうじょうきょう)」 俘囚長でありながら金輪聖王として地上に理想国家を実現した

「官軍夷虜平等楽(かんぐんいりょびょうどうらく)

もう、敵だ味方だ、官軍賊軍、京都奈良蝦夷、そんなことないんだ。みんな同じように「地上極楽来世平安(ちじょうごくらくらいせへいあん)」

それだけでないんだ。

「四生抜苦皆往生(ししょうばっくかいおうじょう)

鳥や獣やそういういったようなものたちまで、すべて罪無くして殺され死んで地上にその朽骨を残している人たちまですべて弔って、みんな往生する、これは現世往生、すすんで来世往生する」。そういうことでございます。

 そして、そういう心をこのように、立派な文章のかたちで残して逝かれた、この平泉の初代さんに対して、私たちは日本人の最も下から、最高の理想というものを現に実感させるようなかたちの政治に具体化してくださった恩人として、清衡供養願文というものをここのところでみんなで賛歌し、讃嘆してこのお話しを終わらせていただきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。