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ふるさと磐井学習 三年の総括

  「ふるさと磐井学習 三年の総括」     

講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生  

    平成20年11月14日

 皆さんこんにちは。 私、ただ今ご紹介いただきましたように、この学習会、三年間にわたった会場には、欠かさず毎回出席させていただきまして、その感想を申し上げると同時に、私自身の勉強したことについてもご報告してまいりました。本日はその総括になります。そこでこの三年間、私たちがどんなテーマについて、どんなことを、どのよう勉強をしてきたのか、ここでまとめると同時に、特に本日四人の方々に特別な研究発表がございましたので、これに対する感想も合わせて申し上げることにいたします。

 実は私、このために私が関係した範囲内での感想を、散文的にだらだらと文章で書きあらわすよりも、何かこう詩のような、歌のようなかたちをとって、多少は後に残ることができるような文章にしておいた方が、三年の記念になるのではないかというふうに思って、その原稿も用意いたしてまいりました。しかし本日、この四人の先生方のご報告、ご発表をお聞きして、若干自分としても訂正して提出しておきたいというふうに思うところもございますし、時間の関係もございますので、ここでは簡潔に私の要約だけ申し上げておいて、そして後日その自由詩らしいかたちの、多少は格好の付いたようなものを事務局の方に提出して、改めて私の文章化した総括として申し上げることにしたい、そういうふうに思います。

 先ず最初に申し上げておきたいこと、それはこの新しい一関市の市民会議の学習テーマとして、「みちのく中央総合博物館」というような大きな題が出まして、そういうことについての市民の方々の、何というのでしょうかね、かなりショッキングな印象だったのでないかというふうに思いましたもんですから、そういうことについて、若しこういう学習をがっちりやったならば「みちのく中央総合博物館」、あるいは「みちのく中央総合学習」というふうなことが、決して誇張でも何でもなくって、むしろ新しい皆さん方の目標になり得るのでないか。そしてこの一関から、磐井から、日本全体に対する一つの提案、発信のようなものになるのでないかというふうに、私は確信しているのでございます。そして三年間、学習に参加した方々も、だいたいそういったような考え方をお持ちになっただろうというふうに私は思っているのでございます。

 それで本日は、その学習に参加された方々に対しては私のまとめを、それから学習に参加しておられない、そして何となくこのあまりにも大げさな話でないかというような印象をお持ちの皆さん方に対しては、改めてこういったことについてこんな学習をしていただいたら如何でしょうかということについて、ここのところで簡潔に私の考え方をご披露申し上げておきたい、そういうふうに思うわけでございます。

 
<どこから人間の歴史のはじまりが>

 先ず私は、こんなふうに思っているんです。日本。日本ではない世界では、人類の、人間の歴史や文化というのは、どういうふうにして始まったかということについて、大きなまとめがあるのでございます。それは「光は東方より」というふうに、日本語訳されているのでございます。ご存じですね、お聞きになったことあるでしょう。原語では、ラテン語でしょう。「ルックス、(ルックスというのは光です、英語のlight)、 エクス(エクスはout ofとかfromとか英語でいう、どこどこからという意味です)、 オリエンタリカ」(オリエンタリカはオリエントのかたちですから、英語でEast。したがって「Light from the East.)。例えば世界の歴史を開いてみますと、エジプトであるとかバビロニアであるとか、インドとか、中国とか、こういったような西ヨーロッパ世界から見ますと、ぜんたい東の国でございます。そしてここで拓かれた歴史や文化というものが、だんだんに西にも移り影響していって、そしてヨーロッパのギリシャとかローマとか、そういうかたちの文化にもなっていると、こういう考え方から、「ルックス エクス オリエンタリカ」、「光は東方より」ということになったのです。

<光は磐井から 芦東山先生>

 こういうまことに大風呂敷でございます。あまりにも大きすぎる話だと、皆さんはお考えでしょう。何とそれを、小型に小さく日本のなかに、その日本の中でも狭くこの土地から、そういう歴史や文化というものへの発信、光はここから始まったんだ、始めたんだというふうな考え方をした人が現にいらっしゃるのでございます。そしてその人は、この磐井の国の方でした。皆さん方は「無刑録」というあの本によってだけ、その人を記念していらっしゃるでしょうけれども、実はもっともっとそういう「無刑録」などというような考え方、ご本を創り上げる基礎になったところの大きな世界に対する観方、哲学思想、前途に対する未来観、そういったようなものをお持ちになった著者だったからこそ、「無刑録」というふうな今日の裁判の、刑法の、法律の基礎になるような、言ってみれば法哲学の、究極の目標というふうなものを、しかも難しい漢文で以て実証しながら提案することが出来た著者、それが「芦東山」という方でした。このことはよく知られて、そのための「芦東山記念館」というものも建つようになってまことにおめでたいわけですが、私はそういうような、言ってみればかなり専門家でないとこれに近づくことができないような東山先生でなしに、こんにち日本語が、「いろは」が、「あいうえお」が分かるような日本人だったら、誰でもが先生として仰ぐことのできるような、そういう易しいかたちで、日本の歴史や文化、未来、世界への提案、そういったものをなさって、今日、現代、21世紀の日本を、言ってみれば先駆けてその在るべき道すじというものを、実は磐井の人たち、この一関の人たちが、しっかと自分の拠って立つところを振り返ってみるならば、黙っててもそういうふうになるのだということを、やさしい和歌のかたちで、歌のかたちでお示しになっていらっしゃるのでございます。で私はこれを、芦東山のご子孫であられる芦育平先生とか、文八郎先生ですか、こういう方々の「芦東山伝記」をとおして知ることができるようになって、むしろ一般の市民にとっては、我々一般の、新渡戸稲造先生のことばをつかうならば「コンモンセンス」を、「常識を生きる人たち」にとっては、芦東山先生はこういう歌をとおして記念される方が、もっともっと市民的になってくる、みんなの先生になってくるという感じがしているのでございます。そしてその代表として、まるで「ルックス エクス オリエンタリカ」、「光は東方より」ということの日本版のようなかたちにした歌が知られているのでございます。

 「みちのくの ひんがしやまの ひんがしを 見てこそ知らめ 日の本の日を」

 この「みちのくのひんがしやま」、東山を「ひんがしやま」と言っているんです。まったくこれは庶民化した言い方ですネ。そしてだからこそすばらしいと思います。これ最高の学者なんです。こういうまるでその辺の人たちに話しかけるような言葉でもって詠んでいるんです。「みちのくの ひんがしやまの ひんがしを」、東山の「ひんがし」ということ、あるいはこれ東山のさらに東ということで海になるかも知れません。「みちのくの ひんがしやまの ひんがしを 見てこそ知らめ 日の本の日を」。私は、皆さん方この歌を無刑録なみに記憶し、これならば万人が記憶することができる……と思います。

 

 日本というところがどういう国であるか、それは「日の本の国」と言う。しかしその「日の本の日」というのは、どこからどんなふうにして上ってどう照らすのか、そういったことを良うく分かるためには、みちのくに行きなさい。東北に行きなさい。その東北でも東山の土地に行きなさい。「東山」がどういう意味で「ひんがし」であるかということ、その意味が、心が、ようく分かったならば、日本という国はこういう国である、したがってこうなければならないということが、みんな分かるはずだ。こういう歌ですよ。

 「刑は刑無きを期す」。立派ですね。しかしこれは何万字というものの結論として出てくる答えです。それに対して「日の本」というのはどういう意味であるかということは、「東山」のひんがしというのが、どこにあって、何を意味して、どういうことを皆さん方に示唆しているかということを、よくよく考えてみたならば、日本はそれで分かると、こういうことですよ。他所の東京の人たち、大阪の人たち、九州の篤姫の郷里の人たち、「それは何もそちらだけの話でない」というふうにおっしゃるかも知れません。しかし私は、これは「無刑録」という、その道の専門家たちは、世界の法学者として、このようにすばらしい未来性に富んだご発言をなさった法律家というのは、日本にも世界にも、これまでいらっしゃらなかったんだと、そういう評価をしている方でございます。

 そういう方が本腰を入れて詠まれた歌なんですね。こういうことを考えてみましたならば、「光は東方より」ということを、私は改めて、芦東山先生の子孫として、「光はひんがしより」、「光は磐井から」ということ、これ誇張でも、強調でも、我田引水、手前味噌でもないということを、皆さん改めて確認してください。そして改めて、そういったようなことについて、私たちこれまで、本気になって考えたことがあるのか、議論したことがあるのかと、一関あるいは磐井というところの未来を考えるには、どういう使命を担い得る所柄であるのかというふうなことを真剣に考えるということを踏まえて、「みちのく中央市民会議」ということばが、そんなに誇張でないということを、皆さん感じていただけませんか。そういう学習を三年間にわたってしてきたと、こういうことなんです。


             

  綜合テーマ 光は東方(ひんがし) 磐井より

  みちのく中央 磐井の国は 日の本 (ひんがし) 日出づるところ 

  先人東山(とうざん)詠じて云ふ

  みちのくのひんがし山のひんがしを

  見てこそ知らめ日の本の日を、と

  詩人亦賦す

  室根山上昆崙(こんろん)ヲ望ミ 更ニ黄河ニ向ヒ源ヲ尋ネント欲スト

  日の本ひんがし ここ本つ国 天涯の心事茲に語らん

                


<青柳文蔵>

 その次、本日残念ながらテーマに出ませんで、わたくしこれ非常に残念に思っているんです。それは「青柳文蔵」。「青柳文庫」の創設者でございます。何しろこれは公共図書館であるとか何かというふうな、そのような評価でもって、「だからすばらしい」ということになっていますが、私はそうではなくて、これは青柳文蔵という方は、自分の親が希望したような道を進むことができなくって、そして親に対して不孝な道を結果的に歩んでしまったということに対する痛切な反省から、親孝行の道としてこの図書館というものを考えた。それはいったい人は自分がほんとうに自分の意を、希望を、理想を実現するような子どもという子孫をもつことができるかどうか、それ誰も保障の限りではない。現にこの私がその実例であります。それならば、いったい誰でもが、ほんとうに親の恩というものに応える方法に、どういうことがあるのかということを考えてみる。それは誰でもが立派な人の立派な教えに学び、従うことのできる、本というものを、そこにたくさん備えて、志しのある人たちに、これを読んで、よくよくその立派な先人の教えてくださった教えに従うことによって、自分の不孝、親に対する限りない感謝と恩返しとをするようにする道、それは本に如(し)くものはない。それをたくさん集めて、みんなに誰にでも便宜を提供することができるようにすること、これが最高の道であるというふうに考えて、そして有名なことばを遺されたのでございます。

 「書は賢子孫なり」。ワイズマンという英語がありますね。それワイズマンでなくて「賢い子孫」。この「賢い」というのは、親孝行をすることのできる子孫という意味です。「書は賢子孫なり」ということばを遺された方。松川の方ですよ。東山の方ですよ。わたくしは、この言葉に深い感銘を受けました。青柳文蔵というお方は、「賢子孫」ということばをお遺しになって、これから先の方々を励ましてくださったけれども、私たちから見ると、このすばらしい教訓というものに対して、「賢子孫なり」という、そういう期待に応えるような感謝の気持ちをあらわすために、わたくしは改めてこれ、この「賢子孫」ということを「賢祖先」とし、「青柳文蔵は賢祖先なり」という、こういうふうなお礼の言葉を、この公の席上で申し上げて、そしてこういうお方の教えにしたがって人の道を学ぶ、日本や世界の未来を学ぶということ、これこそがほんとうに賢祖先に応える賢子孫の道であるというふうに、私は考えているのでございます。そのためには2万冊からの本と書簡というものを、青柳文蔵という方は用意したんですよ。「みちのく中央博物館」の「図書館」。そういったようなことは、何ら拠りどころでなくって、青柳文蔵先生に感謝する具体的なかたちだということ、これ青柳文蔵先生のことをお勉強なさった方は、自然にそういう答えに落ち着いてくるはずです。ただそういう勉強を、私たちはしていないのですね、まったく。そして二流三流、どうでも良いような、他所の人のキャッチフレーズのようなものを学んで、それで未来のこと、世界のことを考える。そんなような考え方をしているのでございます。

 もっとじっくりと、地元から、「道は近きにあり 而してこれを遠きに求む 事は易きにあり 而してこれを難きに求む」と、ちゃんと孟子という人が今から2千年前に警告してくださっているのでございます。「道は近きにあり」、道はそこにある。私たちはそういうことを踏まえて、一関の、磐井の未来というものを考えるための学習というものをさしていただいたということを、ここで私は公式にご報告申し上げておきたい。 

<道は近きにあり、事は易きにあり>

 そして本日、斎藤先生から、宮沢賢治についてのご発表がございました。私はこういう尊い宇宙観などというような、そういうこと良く分かりません。またこれは斎藤先生にはお聞きいただかないことにして、耳をふさいでお聞きにならないことをお願いしておきたいんですが、いったい宮沢賢治という方は今日、我々一般の方々から見ると、やっぱりちょっと次元の高い考え方、感じ方、ものごとの教え方をなさっていらっしゃるお方ではないかというふうに思って、何となくそういう、私たちの日常離れしたような天才肌の宮沢賢治だけが、宮沢賢治というもののイメージとして、レッテルとして貼られてしまっているような感じを、私はするのでございます。これは学のある方、立派な方々はそれで宜しいと思います。またそうなければいけない。しかし私を含めた皆さん方のように、一般の方々にとっては、もっと分かりやすい、誰でもが何のコメントなしに、注釈なしに、全面賛成できるような宮沢賢治というもの、そういう賢治こそは、新渡戸稲造のいわゆるコンモンセンス、みんなが納得できる宮沢賢治ということになるのでないか。そして念のためですが、そういうみんなが理解できるということは、即ち人類普遍に通用するということになってくるんですよ。学者だけが分かるのでは、限られた人だけの真理に終わるからです。 

<百万人の宮沢賢治にしていこう>

 私はそう思って、有名なあの「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」という、この宮沢賢治の手帳の中のことばというのは、ここの松川工場の技師としての宮沢賢治のお仕事に密接不可分に関わっているということを学習させていただいたのでございます。

 そして宮沢賢治という方は、そういう点からこの「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」ということを、改めて、あまりにも天才的で、したがってあまりにも私たちではついてはいけないようなところでない、もっともっと平凡な、常識的な道を真剣に歩もうとした宮沢賢治というもの、こういう方こそ、100万人の宮沢賢治として顕彰すべきでないかと、そういうふうに思っているのでございます。私はあらためて、イーハトーブなどの、この手帳の中から、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の、この詩の中から、その天才的に、あるいはややアイロニカルに、自分というものを卑下しすぎているのでないかと思われる部分を全部カットして、こういう読みとり方をしていって、そしてこれを私たち磐井、一関の人たちの将来展望というふうにし、この学習の目標というものを結局、そういうところをきっちり見据えてのものでなければいけないではないかというふうに感じて、ここのところだけは一つ、斎藤先生にもきっちり聞いていただいて、こういうことでもって宮沢賢治という人が、天才肌でもなくって、私たちの身近なところで、誰でもがそうなければいけないことを真剣に突き止めようとした人だったから偉大だったということを、私はこの「雨ニモマケズ」の中から引用して、これを三年の総括ということにすることができる。

 そういう意味で宮沢賢治という方は、私たちみんなのパイオニアであると、こうふうに要約しました。「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 丈夫ナカラダヲモッテ 欲ハナイ イツモシズカニワラッテイル アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニイレズニ ヨクミ、キキシ、ワカリ ソシテワスレズ ソウイウヒトニ ワタシハナリタイ」と、これ賢治ですから個人で言っている。この「賢治」を、私たちみんなのことばとして「ワタシタチハナリタイ」と複数にしてみました。そして「ナリタイ」ではなく「ナロウ」と、「ワタシタチハナリタイ ソウナロウ」と、このことを私はこの3年間の学習の誓いというかたちの総括にすることができる。そしてこれならば、「イーハトーヴォ」だの「デクノボー」だの、そういうふうな何となく有難すぎるような表現というものを抜きにして、市民みんなが、特に岩手の人たち、みちのくの人たち、東山の人たち、一関の人たち。こういう人たちのどなたにもご異論なく賛成できる、市井に降り立った宮沢賢治の市民のことばとして、私たちは受けとめて、これを私たちみんなの市民憲章にしていくことができるというふうに確信するようになっていく。そしてこういう読み方というものを勉強することが、これから先、私たちの学習にとって非常に大切なことになるんです。これが私たちぜんたいのこれまでの基本になる線に則した総括でございます。


 フィナーレはわれらの誓い イーハトーヴの手帳より

 雨ニモマケズ風ニモマケズ 丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク

 イツモシヅカニワラッテヰル 

 アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ

 ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

   そういう人に わたしたちはなりたい なろうとおもう


<何をしてきたか この3年間>

 さて、これは言ってみれば原理的な、プリンシプル、原則に関することです。この三年間、具体的にどんな勉強をして、その勉強の中に、どのように地元を超え、岩手県を超え、日本全体に対して発言をしている大きなテーマがそこのところに横たわっているかということについて、簡単にご紹介申し上げておきます。そしてだいたいこんなような見通しになりつつあるということも、私の線でまとめてご報告にしておきたい。

<貝鳥貝塚問題>

 一に貝島(かいしま) 流海(ながれ)の文化 昔も今の 御遺体(ごいたい)(とほ)

 三に盤貝(いわがい) (いわ)井公(いのきみ) ()(さわ)阿弖流為(あてるい) 磐井母體ぞ


 真っ先に、最初に松川理事長からのご紹介もございましたように、花泉の「貝鳥貝塚」ですね。この「貝鳥」というのは、多分「貝島」の意味だろうというふうにも、私たちの学習会では「鳥」という字は「島」という字と非常に似通っているでしょう。「貝島」の意味だろういうふうに考えているのでございます。そこのところについて、ここのところは日本の内陸の中にもっとも奥深く海水が入り込んだ地域、それ「流れ海」と言います。東山の地域はあるところまで「流れ」というふうに言いました。この「流れ」の意味は「流れ海」の開拓地の意味、こういうふうに考えるべきでしょう。その奥深く入り組んだ「入り海」ですから、当然に海の幸がどっさりここのところに運び込まれて、そしてその北に進んだ果てが「北上川(日高見川)」と言いました。蝦夷の国、北から流れてきた「日高見川」と落ち合って、鹹(かん)水・淡水というのが、ここのところで、海の幸、川の幸、山の幸すべてを、ここのところで全部、まるで広場のような、見本市のような格好に、そこに繰り広げることのできるような一大産業地域というものを拓くようになってくる。そういったようなかたちのものの一部を発掘して、「貝鳥貝塚」、「貝島貝塚」の産物、あるいは生産というものが、どのくらいに大規模な、大がかりなものであるかということが、ほんの一部見通しがつくようになっているのでございます。

 私は、これがもし、全面的な開発、発掘、調査というものがなされるようになったならば、これは青森県において新しく問題になっている縄文遺跡などに勝るとも劣らない、立派な日本を代表する縄文遺跡というものに成り得るものだというふうに確信をして、私はこの一関市における文化行政というものの大きな目玉の一つとして、この「貝島貝塚」というものの全面調査というのものが、日本的な規模でもってなされるようになることを強く希望しておるのでございます。そして皆さんは、こんな立派な遺跡を地元に持ちながら、何となくそういったものを、たとえば淡水産、川の貝などというものが、こんなにたくさん出るようなところは、ここが代表的だなということでもって、これを解決しまっているのでございます。これは勿体ない話です。その淡水産に勝るとも劣らないようなかたちのもの「鹹(かん)水産」、海の産物というものも考えなければならず、第一ここのところに淡水産というものがこのようなかたちで大規模に集積するようになったのは、南から海の水が押し上げてきて、川水をここのところに堰き止めるようにしたために、北上川における代表的な産物というのは、ここのところを南の限界として、ここのところに全部集中するようになったために、こういうふうな結果になっているのだということの勉強をするためには、ここが流れ海の最北端になってきて、海の影響、海水の影響を考えることなしに、こういう貝塚というものの性格を明らかにすることができないというふうなこと、これ常識的に誰もが分かるはずなものだ。ところが偉い学者の先生方には、そういう考え方があんまりきっちり出ていないんです。それが「専門センス」というものの限界になって、そのためにここのところに「満昌寺」というお寺がございます。ここのところに確か33体ですか、発掘によって確認された縄文のご遺体の一体が安置されているのでございます。私これ「縄文人」などという、よそよそしく呼ぶべきでないと、三千年前の私たちの先祖に当たる方々です。一関磐井の最も古い先祖にあたる方が、今もってまるでそこに御座(おわ)すがごとく、自分たちの昔を今に物語って下さっているのだというふうに思って、私は皆さん、お盆などには無縁仏へのあー言うお参りと合わせて、共通の先祖であるこの三千年前の古いご先祖へのお参りもあって宜しいのでないかというふうに思っています。これ「縄文人」などという言い方をしないで、「祖先」というとらえ方をしていただきたい。第一、そういうふうにしないと、今日の一関以上の繁栄を、三千年前にもたらしてくだすった方々に対する感謝の念が届いていかないんです。「縄文」などというふうな、何となく見下げたような言い方、これは止した方が宜しいです。そういうことを考えてみましたら、こういうものについて、わたしたちが「賢子孫」としての勉強をちゃんとしていくようにしたならば、これ立派に日本の中の縄文研究ということになっていくわけですよ。そういうことがテーマの一つでございます。 

<二重遺跡 覚鱉城・河崎柵問題>

 二には遠山覚鱉(かくべつ)の城 

 膽澤経営基地ここに成る


 その次に出てくるのがこの「覚鱉城」でございます。これについては、これについてのちゃんとした文献が、どっさり「続日本紀」とよばれる正史に書かれてありますので、学校の先生方などにお願いをして、この漢文で書かれているのを読み下して、更にそれを現代文で、誰でもが分かるような文章に読み替えて、そして皆さん方に市民の間の学習会というのがあるでしょう。私はそういう郷土学習の中の一つの柱として、その勉強を「覚鱉城」というのを新しく考えなおすための第一歩にしていただきたい。そういうふうに思っているのでございます。先ほどのご発表を聞いて、なるほどと思うところがあると同時に、こういうところもう少し詰めていただいたらどうだろうなということ、改めて皆さん方にヒントを提供しておきます。

 先ず「遠山村」ということについて書かれております。そしてその「遠山村」が、政府側の支配下に収まったのを契機として、そこからこの北の胆沢の蝦夷経営というものが始まるということが、はっきり分かっています。したがって胆沢経営のはじまりは「遠山村」経営にあるということ、これ断言できます。それは史料をそういうふうに、皆さん方は「賢子孫」として勉強してください。青柳文蔵の子孫として勉強してみたら、そうなるのです。

 ところで、その遠山村の経営が終わって、「サァ!胆沢経営だ」という段階になって、政府側のそのための準備基地として造られていくのが「覚鱉城」というものなのでございます。したがって「覚鱉城」というのは、遠山村の経営というものを抜きにしては考えられないということ、それとこの位置については遠山村の経営によって胆沢が非常に危険にさらされたので、胆沢の蝦夷が南下してこの政府側の進出を切り崩していくために、船でもって南下して来るということも、ちゃんとこの一節として出てくるのでございます。そうであれば北上川を胆沢から南下して「遠山村」というところの重要な基地として築かれたのが「覚鱉城」というものだということになって、しかもそれは川を下って来る北の胆沢の蝦夷に備え、逆に胆沢に進攻していくための基地を確かにするための拠りどころになるものだと、こういうことがはっきりしておりますから、したがって「遠山村」、ここ東磐井一帯を「東山(とうざん)」としていましたね。これ「とうざん」と読まないで「とうやま」としてください。「遠山(とおやま)」が後になって重箱読みの「東山(とうやま)」、そして「東山(とうざん)となってくるのですから。即ちこれが、遠山村(とおやまむら)の後になった表現方法だということが、これで分かってくるのです。

 遠山村の南寄りの地域で、しかも北上川に沿っているところでなければいけないという、こういうことになったら、自然にその位置はチェックできるのでございます。そしてその決め手になるもの、それが「和同開珎」という奈良時代の貨幣が出たり、「蕨手刀」などという、だいたいにおいて奈良時代・平安初期止まりに使用されたところの刀剣が出てくるという、そういうことから考えて、その位置がきっぱり、ほぼ推定できるようになってくる。そしてその後をうけたかたちで「河崎柵」ということになるということも、ほとんどここに「川崎」という地名がここにあることからも、疑いのないことですから、これは二重遺跡ということに考えて、そして「和同開珎」、「蕨手刀」、それから住居遺跡などとして12ケ所くらいですか、そんなかたちでチェックされているところは、主として覚鱉城遺跡というふうに考えて、この水上、陸上の最大の要地になるところの、特に水上交通をきっちり押さえていくところの城として、「河崎柵」というのが設けられていくというようなことも、ほぼ疑いない見当になってくる。それが若干混乱しちゃっているわけです。これを選り分けるような調査というものを、きっちりしていきましたら、これは岩手県における蝦夷経営における「まぼろしの城」が現実に機能して来ることになります

<遠山村の覚鱉城、北上川河辺の覚鱉城、孤禅寺以南の覚鱉城>

 もし宝亀十一年というときの反乱によって、総督で、按察使というのは国司の上にいる東北総督で、その総督の紀廣純という人が殺されるようなことがなかったならば、覚鱉城そのものが胆沢城の役目を果たすようになっていたはずだと、こういうことです。何故ならば文献がはっきりと、「覚鱉城をきっちりこれを組織し、造り上げていくならば、東北の安定というものは期して待つべきだ」といって、後に胆沢城に託されている国家的な使命が覚鱉城というものに、はじめは全面的に委託されておったということが分かるからです。

 そういうようなことも考えて、覚鱉城というものの性格、位置をきっちり勉強していくということが、胆沢城というものを考えるためには欠くことのできない、これは第一歩になってくるということは、文献に則して疑いないことでございます。その位置についても、北上川の西側であるとか、胆沢寄りに考えるとかいうことは有り得ません。これは文献をきっちり読んでいないところから、そういうことになってきて、学者たちの研究についての、その一つの反省を促すような学習会を、この3年の間の学習がかなり進んでいるのでございます。こういうことを考えてみましたならば、皆さん方が考える以上に、これは非常に大切な意味をもった地域の学習だということお分かりいただけると思います。

 

四には河崎柵(かわさきのさく)日河(にっか)(みず)() 覚鱉(かくべつ)承けて金氏(こんし)金城

 

<河崎柵主「金為行」の戦い> 

 そういうことを踏まえて、私たちは河崎柵というところの戦いが、源氏を全面的に敗北せしめるような、そういう大会戦になっているということも「陸奥話記」というものによって明瞭です。源氏がこんな敗戦を記録したことは、もう前にも後にもありません。そしてそれは全て、河崎柵を基地としたところの黄海会戦という。「黄海」というのは、「城(き)の海」ですから、河崎柵の出城というふうに考えられる。そういう戦いを指揮し、その中心となった「金為行」という人が、安倍の中においてこれは、安倍の南下する作戦の最前線に立ったところの指導的人物として、安倍貞任、宗任なみに評価していかなければならない。後の藤原氏の先祖の藤原経清などと並んで、第三第四の人物として考えていかなければならないということも、これではっきりしてくるんです。それがはっきりしないのは、この学習が行き届いていないからで、史料をきっちり正しく、文章どおりに理解していったならば、私が申し上げたようなことは、そのままそっくりのコメントになっているということを、皆さん方が納得するわけです。そういう学習を、私は皆さん方にお願いしているのです。こういうものを踏まえて平泉の中尊寺になるんです。中尊寺になる。


六には松川二十五さま 来迎引摂(いんじょう)謎とき給へ

 

<松川 二十五さま>

 それから松川の二十五菩薩さまというのが、誰が何のためにというふうなこと、これも先ほどの伊藤先生のご発表でもある程度は分かりますけれども、これをきっちりと文献を隅から隅まで精査したならば、平重盛という人が陸奥国の「知行国主」であり、そもそも「知行国主」というのは、お上から、その国の国司、総督の上に立って、そこの収益行政全般を、政府に代わって命令指揮することのできる、いわば国家の全権を委任された特別支配者のことを「知行国主」というのだと観えてまいります。その知行国主に対する税金であるとか貢産物というのは、すべて「陸奥国」から提供される体制になっているのです。したがって陸奥守である藤原秀衡の手を通してだけ、知行国主平重盛のところに届くようになっていると、こういうことです。

 ところで重盛が二十五菩薩さまを造るときの話が出てきませんでした。気仙郡から千三百両の金が献上されたので、これを中国の育王山に寄進して自分の菩提を弔わせたというふうにあるのですが、皆さんは何となく重盛にいきなり気仙郡の金がストレートに、ダイレクトに届けられたという感じ方をするのは、これ歴史の常識、約束を、皆さん方、歴史家がご存じないからです。知行国主の支配は必ず国司の手をとおして為される。したがってこの献金というのは、陸奥国主藤原秀衡の手を通してでなければ、重盛の手に届かないんです。

 そうすると平泉に気仙の金が、どういうふうにして届けられたかということを問題にしてご覧なさい。そうしたならば、砂鉄川ルートというものが、必ずこの献金ルート、平泉のルートとして出てこなければいけない。そういうふうにして、その港、出発点になるところに「松川」というところがあって、そこに「二十五菩薩」という、中尊寺・毛越寺以外では考えられないような壮大な仏像、仏さまが造られるというふうなことを考えていきましたらば、そこに自ずからにして、誰が、何のためにということが出てくる。

 秀衡が陸奥守になれたのは、ぜんぶ平氏の特別な計らいによるものです。そしてその平氏を代表して、東北の知行国主になっておったのが平重盛という人でしたから、この平重盛に対する最高の感謝と敬意とが表明されるということ、これ当然であり、そうであったその件でもっとも関わりの深いところにおいて、早くして治承年間に亡くなるわけですから、重盛という方は。その菩提のための仏さまが祀られるようになって、それが二十五菩薩さまということになってくるとすれば、これは誰にでも無理なく賛同いただける推理になってくるのでなかろうか。

 この首が全部なくなって、肢体がばらばらになっている。これは後になって平氏に対して、源氏に対する思いやりでもって、義経のような人さえも、これを殺して源氏への忠誠を誓わなければならなかった不幸な四代泰衡公という方が、涙を飲んで平氏の怨霊をここで薙ぎ払う格好の処罰に属するということが、ズーッと首だけがなくって、胴体だけが、手足だけがのこるようにバラバラになっているというふうなこと、これは義経を攻め滅ぼさねばいけなかった論理が、そのまま二十五菩薩へはね返っていったのだというふうに、これ推理ですよ。そんなような考え方も無理なくできてくる。私はそんなふうに考えるのでございます。


<大籠キリシタン殉教>

 七には大籠 此の人たちを見よ 

 われよみがえりとて召されゆきけり


 そんなことをたくさんやって、しかも大籠などというところには、仏教でもない、神道でもない、そういったようなものをすべて取り払っても、なお且つイエス・キリストしか神さまはないんだと言うふうな信仰にまで、大籠の殉教者たちがなれたということは、これは東山にとっては革命ですよ。精神革命です。しかもこれは政治的な意味はなくて、純粋に信仰にもとづいて、神様でもない、仏様でもない、イエスキリスト様だけだと、こういう心になれたとすれば、これは日本人の中における最も深められた信仰というものを、ここの人たちは実際に生きて、そして死をもってそれを証明なさったのだという、そういうことになってきます。聖書には亡くなった人に対して、「我は蘇りなり、我は生命なり。我を信ずるものは死すとも生きる」。そういうかたちで死は弔われるのですが、この大籠の人たちは「我は蘇りなり」とて主の下に召されて行ったという、こういうことです。これは日本のキリシタン殉教史上、最高の栄誉にかがやく人たちになってきますよ。

ところが残念ながら、その大籠のキリシタンの遺跡を弔う現状は、そういう聖書にもとづいて、キリスト教の根本に基づいて、彼らの殉教の心、精神を理解して、それによって弔うというふうなかたちでなくて、全部外側から偉い、立派だというようなことに止まっている。改めて大籠の殉教のほんとうの心を知るためには、基本には日本的な伝統精神を全部これを乗り超えるような信仰というものを、外から受け継いで、しかもそれを真剣になって、一死を賭してこれを守り抜いた人たちの遺跡だから尊いのだということを、せめて聖書などを何回か読むようなかたちで、この殉教の心を弔うのでないかぎり、ほんとうの意味で大籠の殉教というものは、今日に生かされていくことができないのでないかということを、私は痛感したのです。たとえば、そういったような、ほとんどどこにも観られないような、まったく日本というものを、最後的に乗り越えるような生き方をも、この磐井の人たち、東山の人たちは、身をもって実践しておられたその実証として、大籠遺跡というものを考えるということにするような、そういう学習がもう少し実を結んでほしいという感じを、私はこの前見学さしていただいて痛感したのでございます。


<オランダ正月>

九にはオランダ正月新元会 維れ時寛政六閏(ろくじゅん)十一月(しもつき)十一日(といひ)

文明開化先がけて 西暦革命 暦あらたまる


 このようなことがまだまだ、たとえば蘭学についても、わたくしは「解体新書」という本が、どんなに立派だったか、あるいは大槻玄沢という人が、その蘭学のための入門書を書いて「蘭学階梯」という本があるとか、いろいろありますけれども、これは専門家の話しです。

 そうではなくて、この人たちが、日本で真っ先に、いわゆる「オランダ正月」、西暦にもとづく「正月 元日」を祝う儀式をおこなったということ。私はこれは、明治において庶民にとって、西洋というのは「文明開化」というかたちで受け止められていました。その「文明開化」、200年溯って、みんなに実感できるようなかたちで具体的に示したもの。それがこの「オランダ正月」新元年、新しい陽暦による正月元日の記念祭であったというふうに考えて、蘭学というのは私たちにとって、学者だけに新しい勉強を始めたのではなくって、一般庶民にも、旧正月は旧正月だけれども、しかしほんとうに世界の日本になっていくためには、陽暦による生き方にしなければいけないという考え方、こういう考え方を具体的に示したもの、それがこの「オランダ正月」新紀元年、陽暦新暦正月のお祝いだったというふうに私は考えて、東洋では「辛酉革命」、「甲子革命」といって、「辛酉」の年、「甲子」の年が、革命の年だというふうに呼んでいるのですが、私は、この「新元会」こそは、日本の近代革命というものにあたる、庶民にとっても近代革命ですね。そういうものになるのだというふうに考え、これを主催し、実行し、二百年にわたって続けさせるような、その始めをなした人、それもこの磐井の蘭学者大槻玄沢、その学塾の「芝蘭堂」という学校でした。


<書は賢子孫 書は賢祖先>

十には青柳文庫不朽の名 書は賢子孫のその名をば

書は賢祖先と改めて 青柳文蔵とはの名とせん


 こういったようなことを数え上げてみるだけで、これらのテーマについて多少なりとも原点に則して勉強するようになっていったならば、私たちが磐井から、一関から、日本を世界を考えなおす第一歩を、ここから踏み出すのだということ、決して誇張でも我田引水でも独り善がりでもないということを、私は皆さんに確信を持ってほしいと思い、そういう学習をしていくこと、それを青柳文蔵は「書は賢子孫なり」というふうに教えてくださっている。私たちは、いま高橋がこう言ったというんじゃなくて、青柳文蔵先生が、勉強をして親孝行の出来る、郷土にご恩返しの出来る立派な子孫になってくださいというふうに、遺言なさったのです。それが「書は賢子孫なり」という言葉だったと、こういうふうに考えてみましたならば、ほんとうに私たちの勉強というものを、難しいことを覚えるのでなくて、易しく私たちに役立つように、「賢子孫」の学習というものに切り替えるようにし、この考え方が今年も来年も続いていくようになって、一関の新しい文化の未来というものが、皆さんの手によって拓かれ、押し上げられていくようになることを、私も心から希望し、三年の総括とし、四年目に向けての提案として申し上げて、少し長くなりましたけれども、私のお話を終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。


 

五には平泉(へいせん) 地方の世紀 「平戦」「平夷」「平安」の春

皆金色(かいこんじき)明王(みょうおう)浄土 未来国家の門開く

八には刑は 刑無きに期す

天聲ロゴス(ことば)になりて 民救ひけり