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東山 (ひがしやま)他山の石 詩経東山(とうざん)と磐井東山(ひがしやま)

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 講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生            

みなさんおはようございます。

私は今日、「東山(ひがしやま) 他山の石――詩経東山(とうざん)と磐井東山(ひがしやま)」と、そのような題のお話することになって、

 まずお断りしておかなきゃいけないこと。それは全く分かったような、分からないような雲をつかむような題でないかと、こういう感じをお持ちの方いらっしゃると思います。まずはじめはそんな感じでスタートしながら、しかしこんなような題でもってふるさと磐井、一関の在りし昔を偲んで、これからの将来を考えていく。そういったときにこれ、単なるロマンでありません。歴史事実なのでございます。ところがそれがロマンとしても最初であり、まして歴史事実としては、何か全く雲をつかむようなお話しだというようなところに、私たちのこれまでの勉強というものが、どっかもうひとつ突っこんで行きかねた理由があるのではないかと、そんなふうに思っているのでございます。念の為、これは皆さん方だけではありません。私自身もそうだったのでございます。

 

<物知りからホントウの学問への飛躍を>

 そして私、反省しておりますことは、いったい学者とか物知りというのは、何も知らない人からみると如何にも分かっているようですけれども、しかしその人の分かっているのは、その専門のことに限られたことについて詳しいだけであって、それらが全体にどんなかたちで繋がっていくのかというようなことになると、実は殆ど勉強していないのでございます。私はそんなようなことから、大きなものの見える学問、勉強、教養というようなものが、これからの学校や勉強の一番大切な点である。そしてその大きいことを分かるためにも、こういう具体的な細かいことが、一つひとつ究明されないと証明できないと、そういうことが分かってきて、そこのところから学問というものがほんとうに始まっていくのだと。私はこの勉強会が、そういう勉強の言ってみれば第一年の、最初の扉を開きつつあるのでないかと、そういうふうに思っているのでございます。

 

<ほんとうの学問を生きた芦東山先生>

 私は当地、少なくとも磐井地区において最大の先人として私たちが尊敬あたわないところの方が、いうまでもなく芦東山先生でございます。芦東山というお方は「無刑録」という本でもって、その道の方々が、世界においても、これこそが法律というもの、あるいは刑罰というものの最終のあり方を示している最高の書物だというふうに絶賛しいるのでございます。ただし、それを読みこなせる人、あるいはずうっと読んで、すっかり分かったというような人は、ないのではないかというふうにも歎かれているのでございます。

 私はそんなようなことからまず第一に、私たちの最も尊敬するに足るこの芦東山という方の学問、それからその人の人間、その人の考え未来を示唆した、そういったようなものを、ほんとうの意味で私たちの生活の中に呼び戻してくる学習というようなもの、これは新しい一関、磐井というものの、言ってみれば大黒柱になるものだろうと、そういうふうに考えているのでございます。私もそんなことから、遅まきながら芦東山の勉強を少しずつ始めているのですけれども、私としてはひとつ新しい発見があって、そしてそれは芦東山研究の方々に対して、それこそここで「他山の石」というふうに言うことのできる、ある反省を促しているのではないかとそういうふうに思います。

 

<「詩人芦東山」「歌人芦東山」の発見>

 その新しい発見というのは、芦東山の偉大さ、偉いというところは、「無刑録」の著者としてということに殆ど百パーセント近く集中してしまっているのです。しかし私は、最近になって芦東山の漢詩、和歌、そういったようなものを特に芦育平先生の「芦東山先生伝」、それからそのお子さんの文八郎先生の同じく「芦東山先生伝」。この中に引用されております漢詩、それからその意味をさらに読みくだいていった短歌、そういったようなものを読まさしていただいて、ひょっとして「詩人芦東山」、「歌人芦東山」。この方は「無刑録」の著者に勝るとも劣らないものをお持ちの方でいらっしゃるのでないかと、そういうふうにさえ感じるのでございます。

 その心は、専門の詩人とか、専門の歌人の批評を聞いたならば、いや、「東山」という方を、第一流最高の詩人、歌人というのにはちょっと、というふうに首を傾げるかも知れません。しかしいったい詩とか歌というのは、専門家たちだけのものではないんです。ほんとうはそこに詠まれ、歌われている世界というものが、どのくらい私たち人間の詩情を育て、ロマンを芽吹かせていって、そしてほんとうに生きる人間というものに対する喜びと希望とを与えていく、慰めにもなる、そういったような受け止め方をも含めて、私は詩とか歌というものは評価されなければいけない。専門家たちだけによって評価され、そして褒め称えられているようなかたちは、これは新渡戸稲造の言葉を使うならば「専門センス」ですね。専門家たちにとってのすばらしさであって、「コンモンセンス」、みんながそれに同感し、喜びを感じ、生きがいをおぼえると、そういったようなものは、これは新渡戸稲造の言葉でいうならば、これは「コンモンセンス」。みんながそういったような考え方を共有する、共通にしている、そういう心だろうと思いますが、そういう点において芦東山の漢詩、芦東山の和歌、歌。これは今日もって私たちにとって大きな励ましになっているものなんです。大きな励ましになっている。そしてこの漢詩や、特に和歌でしたら、何も特別に学者や専門家たちの解説であるとか推薦がなくとも、私たち自身でもってその良さ、あるいはその歌っている心を理解するのに、そんなに苦労しないのでございます。すなわちみんながそれが分かり、そして同感し、励ましをそこからいただくことのできる、そういったような、言ってみれば国民の中にある、市民の中にある歌、詩というかたちで、こんなに力強い励ましになっているものは、そんなにございません。私、この年八十を過ぎる年まで、いくつか漢詩などというもの短歌みたいなものを、自分でも詠んでみたり、下手なものですけれどもひねくってみたりしながら、改めてそういう感じを深くしているのでございます。私はそういう点で、これから先、芦東山記念館というものも出来て、「無刑録」というものの芦東山という方の顕彰はこれから先、事欠かないと思いますが、こういう方面についてもっともっと深められた理解の仕方、読み取り方というものが行なわれるようになることを特に希望するものでございます。

<漢詩「室根山上崑崙を望む」に唖然>

 さて、そんなかたちでもって私、過日室根山に登山いたしまして大勢の方々と、その景色、展望しながら感慨を新たにいたしたのでございますが、山頂に芦東山先生の「室根山に登る」という漢詩が、石碑に刻まれているのを拝見し、それから後で畠山先生にその拓本なども送っていただいて、そしてこれについて自分の勉強も少しさせていただいて、また新しい勉強をするようになったのでございます。

 こういう漢詩でございます。「室根山上崑崙を望む 更に黄河に向って 源を問はんと欲し 惟(ただ)見る雲間夕陽の映ずるを 天涯の心事誰と共に論ぜん」、こういうものでございます。  私、この漢詩を読んで最初、正直いって唖然としたのです。唖然としてしまったのでございます。いったいここには室根山はすばらしいとか、室根山は雄大だとか、絶景だとか、一言で言えば室根山をたたえることばというものが何一つここに直接語られていないのです。私はこういったようなことで、これが「東山」の名句である名詩であるというふうに褒め称えていること自身が、ほんとうはこれ分かっていないのでないか、ただ「東山」がつくったから良いはずなんだというふうに理解し喧伝されているのでないか、そう思っているのでございます。まず東山先生、室根山に登ってどういう山の雄大を観たかというと、崑崙山というものの雄大さをここのところで眺め偲んだと、こういうのでございます。ご承知のとおり崑崙山というのは、中国の西の果てにあって中国の屋根を中央アジア、西世界から区別するところの、言ってみれば中国におけるヒマラヤのような山になるんです。

 いったいこの室根山から崑崙山が見えるとか、崑崙山のことを考えるなどということは、殆ど普通の人にはあり得ないことなんです。せいぜい富士山はどの方向だろうというようなあたりだったらまだ分かる。そしてその次でございます。その崑崙山のことを考えて、そしてそこから、そこを源として流れ下る、あの中国全土を環流する、中国の父なる川でもあれば母なる川でもあるあの黄河の源はいったいどのへんだろうということを、自分はここのところから尋ねてみたいと思うのである。こういうのです。北上川の源はどうだろう、そんなことではない。黄河の源はいったいどこか。黄河それ自身が五千キロを越えるたいへん大きな流れであるのに、その黄河の河口に至りつくまでもまた大変なのに、その源をここの室根山上から問おうとするというのでございます。そしてこんなことを言ったり考えたりすることを、これもちろん誰一人としてその心意が、気持ちが分かる人はいないだろう。自分はそういう大きな問いかけというものを、自分は天に向かって問いかけている。そして今、夕日が西に沈んでいこうとするその場において、ただ一人そのことを考えている。さて、こんなようなことを考え且つ語りかけて、話し相手になる人が果たしているものだろうか。もちろん誰もいないだろう。そういうことでただ一人沈黙するのみである。こう言うのです。

私は「無刑録」の著者、中国のことを日本以上に詳しく分かっていらっしゃる方だということを考えても、なおかつ後藤新平の「大風呂敷」などというものではないんです。もう包みきることの出来る世界でないというふうに考えて、いったいこれ詩になるものだろうかということを、率直に言って第一印象でおぼえたのでございます。そして、それから少し考えて、いったい誰と話し合ってみてもこの話し相手になってくれるだろうような人を全く考えることのできないような思想、思索というものに、いったい室根山上において、敢えて、これが室根山を称える詩であるというふうに書いているとすれば、考えているとすれば、宜しいですか、室根山という山は、日本のことを考え、思い、思わせる山として、名山だというのではない。我々はここのところで、アジア全体というものを思いうかべて、何千里という距離を越えて、そういうアジア全体をひとつの世界に結んでいるような、そういう心とか、あるいは夢とか、ロマンとか、そういったようなものが、いったいどんなふうにしてここのところで現実の景色として遠望できるものだろうかという、そういう考え方なのです。

 

<世界を夢見るドリームの山、室根>

 これはもはや室根村の山であるとか、磐井の山であるとか、もしくは一関の山であるとか、そんなものではなくて、これこそは世界というものをここのところで夢みることのできる、言ってみればドリームランドである。夢の世界であるというふうなことを、八十になんなんとするこの詩人、歌人というものが、ここのところで実感して、そしてこれを「室根山に捧げる歌」として詠んでいるということを考えてみてどうでしょうか。私たち、たとえば「みちのく中央博物館」などいうものはとんでもないことだというふうな感じを、市民のある方々はお受けになったかも知れません。そんなものどっかへ飛んでしまうような、それに何百倍何千倍になるような、そういう言ってみれば世界、ひとつの世界の中にある室根山、磐井の国というものが、ここで根底にない限り、こういう詩にならないということ、皆さんお感じになりませんか。

 

<「地方日本学!高橋君、それでは視野が狭すぎるよ>

 そして私は正直いって「地方日本学」などというようなことを申し上げて、ここの場でも「磐井おこし地方学」というふうなことを言って、「磐井の国」の「磐井」の勉強をすることによって、そこから磐井の未来を考えるだけでなくて、岩手県の、いや日本の未来というものをここから起こし、拓いていくような勉強をするんだと、そういう考え方を私は「地方日本学」、もっとも身近な身の回りを徹底して考えることによって、そこのところに影を落としている日本というもの、いや世界、人間というものの、まあ言ってみれば心や、運命というものを考え直していくようにするという、そういう気持ちを私は「地方日本学」といって、それを世界まで広げるのは大げさすぎると思って、「日本学」というような言い方をして、大和だの奈良とか京都でしか、あるいは東京でしか、そういったような大きなことは考えられないんじゃないかというふうな決め込み方をしている我々日本人に対する反省を地元から立ち上げていく、そういう考え方をしているのですが、豈(あに)図らん哉、二百年前、芦東山という方が「高橋君!それは視野が狭すぎるよ。アジアを見なさい。世界を見なさい。室根山から世界が見えるんだよ」という、そういうおっしゃり方なんです。私がそんなふうに思って、何故その考え方を確信として強めたかというと、実は先ほど申し上げた芦育平先生、文八郎先生の著書の中に、おそらく代表的と思われますけれども、漢詩やそれから和歌が引用されておって、そのいくつかに室根山を詠んだ歌が、私がその本の中から拾ったところでは七つ八つあるんです。もっとあると思います。

 こういうふうにあるのです。「室根山に伏して詠める」。室根山に登って横になって天を眺めながら詠んだ。「玉鉾(たまぼこ)の道行く人も陸奥(みちのく)の 室根の山を見てぞとどまる」。全国を旅行しているいろんな旅人たちが、室根山に登ったならば、アー見たと言ってさっさと下山する気にはなれない。何としてもここのところで日本の山というものはどういうものであるかということを、とことん考える気持ちになって、足をとどめることになるだろうと、そう言うんです。むしろこれはそうならない人たち、そういうふうにここのところで「山の心」をとことん突き詰めて考える、そういう学び方をすべきだというそういう心だと思います。

 さてその次、「陸奥の室根の山に伏して見よ」 これ「陸奥の室根」と言ってますから、余所から来た人たちを指している。これ「伏して」とあるから、横になって寝転んで見上げてごらんなさい。「不尽(富士)の高嶺も沖の小嶋も」。

「陸奥の室根の山に伏して見よ 不尽(ふじ)の高嶺も沖の小嶋も

 これは室根山の今日のお祭りというのは、海の神さまとして宮城の牡鹿の果てまで眺めることができるような、そういう大きい祭りになっているそうですが、ここのところにもし寝転んで、そしてじっくりととらわれない心で空を見上げ、自分の心を振り返ってみたら、富士山なんか登ってみる必要ない。「不尽の高峯」の心というのは、ここのところで、もう見尽くすことができるのです。「沖の小嶋」に行って見なくたって良い、眺めなくたって良い。ここのところで山はその高さを窮め、海はその遠くを窮めて、すべて山も海もここで一望の下に収めることができるのだ。そういう心なのです。室根山の方々は、もう少しお祭りでは、この「東山」のこういう歌の心というものが生かされるように、実感できるような祭りの仕方をすることによって、室根山というのは一層大きな神名備山(かむなびのやま)になってくるのです。私はそういうふうに思うのです。

 こういうような歌はもう随所に出ている。

 「にしへ行く人もかへりてひんかしの 室根をふじとおもひぬるかな」

 室根山に登ってほんとうにこの山の偉大、崇高というものを眺め尽くす人があっても 室根こそが富士山なのだ。私たちが富士山に抱いている山というものの心は、かえって室根山においてこそ、その心根というものはより純粋に実感さるべきものである。そういう心ですね。それが「にしへ行く人もかへりてひんかしの 室根をふじとおもひぬるかな」。これは東の富士山ということではないですよ。これが富士山なんだということです。その心は富士山に抱いている心というのは、かえって室根山を純粋に練り上げ、清め上げていったならば、すなわち日本一の山だという心がそこから分ってくるのだという、こういう歌なんです。

 そしてこういう歌を繰り返して、こういうのがあるんです。さてこれなどは、ほんとうにこのオタカラ探しのこの集いに、ぴったりの歌ですね。皆さんはこういったような歌をいったいご存知、口ずさむことがあるのかどうかと思って、私まことに残念に思っています。宝の持ち腐れになっているんです。「みちのくの ひんがしやま」、良いですか「ひがしやま」でないですよ。「ひんがしやまのひんがしに見てこそ知らめ日の本の陽を」

 「みちのくの ひんがし山の ひんがしを 見てこそ知らめ 日の本の日を」

 東山(ひがしやま)などという言い方、これはあんまりにもきれいごとです。こういうようにさらさらと東山(ひがしやま)を理解しているから、私たちの東山(ひがしやま)になっている。「ひんがしやま」です。「みちのくのひんがしやま」の「ひんがし」です。ここから日本、日の本の陽が昇ってくるのです。陽の昇るところは「ひんがしやまのひんがし」の果てからなんです。東の果てということです。我々自身がそこで生き、生活しているそこのところから昇る日、それが日本、日の本の国の朝日というものです。そしてこれを「見てこそ知らめ日の本の元」。「ひんがしやまのひんがしから昇る日の出」というものを見るその人こそ、それこそはじめて日の本の国、日本の朝日、日の出というものが、どういうものであるかということを分かるはずと、「東山」先生が詠われるのです。

 

<コスモポリタン東山先生の室根山>

 たとえばこういう紹介をした程度でも、軽く「東山」の室根山の詩というのが、日本一・世界一の山、我がふるさとひんがし室根山。そういうことが基調になって、むしろふるさとの良さというものを、そこまで掘り下げ、清め上げることによってはじめて、新しい日本の中、我がふるさとは何が出來、また事実何であったかということを、真から知ることができるんだと、少なくとも芦東山の十指に足らない室根山の歌だけからでも観えてくる。そしてこれだけの歌人であることにおいて、芦東山という方は、少なくとも室根山を詠った歌人として、最高の歌人だったとするだけでなく、いや日本の心というものをほんとうに分かるようにするためには、この室根の「ひんがしの山の ひんがしのはての心」が分かるところまで、私たちのロマンというものを掘り下げていかなければいけないのだと、そういうことになります。そして私、この「東山」のその室根山の詩を詠んで、なるほど室根山からこれだけのことが見え、感じ、そして思索することができる人であるならば、それを更に超えてのアジア、世界が見えてくる山、すなわち「室根山上崑崙を望み、更に黄河に向いて源を尋ねんと欲す」です。これ決して大風呂敷ではありません。この「コスモポリタン東山(とうざん)」にとって、この世界人、宇宙人にとっては、北京に居ようが、東京に江戸に居ろうが、あるいは室根に居ろうが、大東町に居ろうが、これはもう全然問題にならないことです。人がそこに居るということを、心底理解できるところまで掘り下げていったなら、世界はもうそこのところにもう一つにつながって区別がなくなる。そういう考え方なんです。そしてこういうことば。私の考えでは、これは芦育平先生のこの短い「芦東山先生伝」は、ここに「東山」のいくつかの和歌を引用しているだけにおいて「東山」を不朽に伝えている書物だと、こういうふうに考えているのでございます。

 

 <地方を日本にする代表東山先生>

 ここのところに、正月の「人日(じんじつ)の日」。正月七日を私たちは「七草の日」と言っているんですね。これを磐井では、一関ではこれを改めてみてはどうか。そして東山先生の昔に戻っての「人日の日」、人を反省するところの日という意味で「人日の日」というふうに正月七日という日が詠われている。これ中国の昔から伝わっているこの使い方を、一層哲学的に深めていったものです。そして根本は中国にある人日(ジンジツ)というところからきている。こういう詩であります。今日、いったい、人の心、人のあり方というものを考えてみるとき、釈迦も孔子も老子も、さて一般に神様といわれているものが、いったいどうなっているのか、どこにそれがいらっしゃるのか。今、我々自身がそういったようなものを考え、呼び戻していかななければならないところにある。これは別なところで、「東山」が黒石寺の裏山に登ったときの詩にも、こう詠んでおられる。今は孔子も老子も釈迦もいない。そういう中で我々がこれから、いったいほんとうの人間になるためにはどうしなければいけないのだということが問われているんだと、そういう歌もここには引かれております。

 私はこの本の中で、歌人「東山」ということについて、我々一般人には「無刑録」を簡単には読めません。ですがこの短歌だったら私たちが詠み、私たちの心にすることができる。そういうものと考えて、この「歌人東山」という方こそは、私たちの最大の先人として顕彰に値するところのものであると、そういう感じがしているんです。そしてこのように、ずっと仙台藩の中で、そしてこの磐井の国にずっと生きつづけ、ここでその生涯を終えたこの人の心には、むしろ江戸や京都のどこにいる学者や詩人や歌人よりも、中国世界の、当時から見ると世界というものを最もよく観、また観ようとした先人が、ここ磐井の地に生きておられたのだというこういうことを考えてみましたならば、如何でしょうか。この土地から岩手県を代表する、東北を代表する、日本を代表する、いや日本そのものに問いかけていくような文化について考えていくなどという、これ「東山先生」から見たら、これでも狭すぎるという方だとするのでも狭すぎる。東山先生という方は、世界が観えるところまで私たち磐井における学びは進んでいかねばいけないし、また進んでいけるのだと、そういう呼びかけをしておられるのだと考えさせられるのです。そしてそういうような考え方をすれば、かえって十八世紀における先覚者、先人というよりは、二十一世紀というものを先駆けて、ユネスコの中で生きておいでになるような人として、私たちは芦東山という人を考えることができる。そういう感じ、これ全然誇張でないんですよ。誇張でありません。勉強していない人がこれを誇張とする。芦東山という人を、本当にとことん学んでみたなら、こういったものこそが芦東山そのものだということが分かってくる。そして世界遺産になり得るようなものは平泉にしかないなどというようなものではなくって、芦東山自身がそういったような世界遺産ということでなく、つまりコスモポリタンというものになって、つまり世界人というものになってくるということを、ここで学ぶことができる。私はそんな考え方をしています。

 

<「東山」と名乗った謂われ>

 いったい芦東山という方が「東山」と名乗ったのも、単にこの土地が伝統的に「東山」と言われている、そこの人だという程度のことで言っているではなくて、もっともっと深められた意味において、私は「芦東山」という言い方、それから「芦東民」という言い方が出てきたものだろうと、こういう考え方をするように皆さん方にも勉強をお勧めしておきたいのです。

 いったい東山(ひがしやま)、東山(とうざん)という言い方は、「東」ですから、「西」というものがはっきり自覚されていなければ「東」という自覚は出てきません。これは英語の詩でも「East is East and West is West.」と言って、「東は東、西は西」と言って、とにかく東に対しての西という、女に対しての男という考え方、これペアになるんですね。

 そうするとはっきり「西」というものの自覚というものがあって、それに対するものとしての「東」という考え方が根底にあっての「東山」であり、また彼が敢えて歴史的な用法としての「ひがしやま東山」という名前を、そのまま使って自分の気持ちを新しく、そこのところに詠み込んだのだというふうにすれば、「東山(とうざん)」という歴史的な用法それ自体に、既に「芦東山」のそういう心を満足させるような「東山ひがしやま」という用法があったこと、少なくとも芦東山はそういう気持ちでもって、敢えて「東山」の号を名乗ったのだと、こういうふうに考えるべきだと。そういう考え方をしております。はっきりと、この最大の中国古典研究家であった「芦東山」の教養の根底にあったはずの中国古典の「詩経」というものの中に、はっきりと、「東山」、あるいは「大東」、良いですか「大東町」という言葉が、いま町の名前として使われておって、果たしてこれがどういうところから出てきたのか。「東山(ひがしやま)」の中のリーダーシップ、最高の一番というつもりでの「大東」なのかどうか。そこのところ私は良く分かりません。しかし、その「大東」という言葉もちゃんと中国の古典の中にあるのです。「東山(ひがしやま)」のもとになる「東山(とうざん)」、それから大東町の元になる「大東」。すべて中国の古典の「詩経」の「小雅」というものの中に、ちゃんと一章、独自題として一つ独立しておる。そこの中のタイトルとして「東山(とうざん)という章、「大東(だいとう)」という章があるのです。

 

<中国古典「詩経」における「東山・大東」とは>

 そしてその場合、中国「詩経」古典における「東」、「東山(とうざん)」というのは、いうまでもなく「西」、当時の「殷」という国に代わって王朝を開いた「周」の国。この「詩経」というのは、この周の時代になって文王、武王、周公、この頃になって基本の線がまとまったというふうに考えられておって、即ちこれは周代において詩としてまとめられたものというふうに考えられますが、その周王朝というのは中国世界における当時としては最西端にあたる陝西省、西のはずれの方に位置しておった王朝なのでございます。したがって中国本土、黄河の中流・下流域というのは全部、周王朝からみるとこれは「東」、東部にあたっているのです。そして周王朝に先行する「殷」王朝というのは、その東部、河南省地域における王朝として、文化の花を開いたところなのでございます。

 

<「東山」とは蛮賊の住む地域>

 まず第一に、「詩経」において、「東山」とか「大東」とか呼ばれるものは、この「西」、西部に都(みやこ)している周王朝に対して、東の王朝の「殷」の国、さらにその暴政によって滅んだところの東部地域全体について言い、そしてその最果ての地に、たとえば山東地域などを含める中国北支における、そういうまだ文化になっていない、もしくは文化に叛くような生き方をするような異民たち、蛮賊たちに対する総合的な呼称として、「東山(とうざん・ひがしやま」という言い方がなされておって、直接的にはまず政治的に無道に陥った「殷」の暴政というものを支えている地域について言うと同時に、さらにその「殷」の暴政の奥に影を潜めている異族たちに対する言葉として、この「とうざん(東山)」という言葉が二重、オーバーラップするかたちで使われているんです。

 いずれにしても「西」に於いて栄え、王道をまっすぐ進んでゆく「周」王朝に対して、それを認めず無道暴政に沈んだために滅んでいった「東」の地、文化をまだ知らないで野蛮な地域に生きている人たち、そんなような二重の意味をこめるようなかたちで、この「詩経」における「東山(とうざん)」という言い方がおこなわれておって、「周」の王朝は周公たちによって、この文化や政道・王道というものを知らない人たちに対して、この政道を教え、これに導いていかなければならない遅れ、もしくは文化以前の地域に対する人たち、世界。そういうつもりで「東山(とうざん)」という言葉が使われているのです。そしてそこのところに、周の政治文化が及ぶことによって、はじめてここのところにも王道というものが花開くようになるのだという、こういう言い方が先ず「東山(とうざん)という詩に詠われているのです。

 

<「詩経」に見る比喩・暗喩の詩を掘ってみれば>

 しかし中国の詩というのは、日本の詩よりもずっとクールに出来ていて、「正」が正しいか、それから「変」が、そのバリアント(変形)として、それが変化したかたちの詩と、その区別が、「周」が立派である、「周」の政治の下に立っているかぎり立派な王道文化を歩むのだという言い方は、これは「正」が正面きって周を称えるような詩に限られている。これが地元の「風」「変雅」というようなものになって、地元の率直な心を詠んだ詩、中国では「風・雅・頌」、「賦・比・興」というふうになって、まず根本第一義は、王朝「周王朝」を褒め称えるような正式なそういう、言ってみれば表立ったような詩がもちろんまず第一。しかし「賦・比・興」という言い方があり、率直に事実を詠う、それを「賦」という。それからはっきりそうとは言えないけれど、ものにいろいろと譬えてあれこれというふうに私たちが言ったり、あるいは外国語ではメタフォール、隠喩、暗喩といって、それとなくあるものにかこつけて批判する、諷刺する、そういったようなものを「比」、比較の「比」です。それから「興」、興味の「興」です。「興る」と言うんですが、これは言ってみればメタフォール、暗喩、譬えて蔭でいうあれです。

 その「賦・比・興」というような、正直に事実を詠んでいる。あるいはずばり言えないけれども譬えていう、「比興」ですね。そういったようなものもこの中に、はっきりと書きとめられているんです。残念ながらこれたいへん当時の古い漢字の用法であるために、正確に理解することはできません。しかし目加田誠(めがたまこと)とか何とかという、こういう方面に詳しい方の解説を含めて理解していくと、ずばりこういう言い方の詩さえどっさり含まれている。

 

<西の得、東の損 詩題「大東」>

 それは東方の人たち、東山の人たちが、どんなに働いても苦労して生活が良くならない。それに対して西の周王朝に仕えている官人たち貴族たちは、農民たちまで含めてみんな得をし、ふくよかな生活をしている。いや人間世界だけでない。お空に見える天体のような生き方も、例えば「彦星」というのを見たり、「牽牛」などいうふうなものを見たりしても、口は全部東の方のものを自分の口に引き取って、全部西の方にそれを運んで行って西の人たちを助け育てるように出来ている。そういう言い方まで「比・興」、すなわち譬えの詩の中では詠んでおるのです。

 そういうことを要約するような形で、「西」の人たちはみんな得をし、ふくよかになる、「東」の人たちはどんなに働いても楽にならない、幸せになれないというふうに、神さま、天体まで、そんなふうになっているものだろうか。そんな詩があるんです。そしてそれは「大東」という題で書かれていますよ。「大東」、大きな東です。

 私はこんなふうに「西」と「東」というものを、はっきり都は奈良・京都、それから「東」は田舎、蝦夷、みちのく。こういうふうな行き方にとらえられている日本の歴史というのは、事実そのものが詩でいうならば「賦」として事実に近いけれども、半分以上はこの詩経の「賦比興」というような発想でもって、すっかり文章化、歴史化されるようなかたちでもって「蝦夷観念」とか、「みちのく観念」というようなものが実は出てきているのだと、そうさえ考えられるのです。

 

<「詩経の東山」から「日本の東山」へ 「人日の日」という詩>

 そしてこういう考え方に芦東山が全面的に挑戦していく。今の時代というものを、そういうことを説いたお釈迦様も孔子も、それから老子も、すべていなくなって、天の下ではみんな同じだ、国籍に関係ない。そう言ったようなものになる「日」というものを、私たちは迎えなければいけない、動かなければいけないというのが「人日の日」という詩の中に、ていねいに詠まれているのです。私はこれは人間のあり方というものを、中国の古典が教えている、歴史の教訓というものをすべて踏まえたかたちで、しかもそれを乗り越えて、世界は一つであるというところまで、もう行き着いた考え方がこの「東山」の「人日の日」の詩の中に見事に詠まれているのでございます。

 私はそんなふうな考え方をして、この芦東山の「東山」という漢詩の世界から、東山(ひがしやま)という日本語の読み方に転ずることによって、かえってその歴史をそういうかたちで乗り越えていく世界というものをはっきり展望した詩人、歌人というふうなものとして、この芦東山という方を、「無刑録」に並ぶような「詩人歌人」として再評価、再発見していくような考え方があっても良いのでないかという、そんな考え方さえするのでございます。これはたくさんいろんなことがありますけれど、とびとびで自分の芦東山に結びつくようなかたちで「詩経の東山」から「日本の東山」へと移ってくる、そういう歴史のすじみちというものを若干ロマンチックに考えてみました。ご静聴ありがとうございました。