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河崎柵と金為行

  「河崎柵と金為行」

講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生

 2000年2月17日

<根本から見直さねばならない「河崎柵 金為行」の歴史>

 先ず私は、最近東磐井郡の歴史につきまして、これまで勉強してきたことをいくつか変えて、根本から出直さなければいけないような、そういう局面を迎えております。そしてその一番大きな、デッドロックと言いますか、突き当たった壁というのは、この「河崎柵、金為行」というようなもの、人を、どういうふうに歴史の中で位置づけていくか、理解していくかということについて、私の考え方をすっかり直さなければいけないと同時に、これまでいろいろなかたちでご紹介、あるいは書きものでもってお知らせ下さった諸先生方に対しても、やはりここのところで相当思い切った出直しというものをしていかないと、真相が分からないままなのではないか。そういう感じになっているのでございます。

 率直に私はこう思うということを申しあげますから、もし皆さん方がご理解になっているところと大きく違っておったり、それからご納得いかないところがありましたら、いや多々あると思いますが、それは高橋先生も年だから、ああいうことを言うだろうというふうに、ひとつ年に免じてお許しいただきたいと思います。

 

<「河崎柵」以前の「覚鱉城」問題>

 先ず「河崎柵」というものについて、皆さん方は、あるいは専門家は、すべて「河崎柵」と名が付いたところから始めているのでございます。すなわち「前九年の役」のあった安倍頼時とか貞任とか、そういうときに、この土地に金為行という殿様がおって、その方が拠り所としたお城、それが「河崎柵」なんだと、こういうことに決まっておるのでございます。金為行という人が河崎柵の城主、柵主、支配者だったこと、これは間違いございません。しかし全てが、金為行という人から、また「河崎柵」とよばれるようになったときから、「河崎柵」のことを考えて宜しいのかと、そういうことになりますと、私は「そうではない」というふうに、このごろ確信してきているのでございます。但しこれ私がそう思うということですよ。違っていたらひとつ年に免じて勘弁していただくことは冒頭申し上げたとおりです。

 なら、どういうところから始まるかということ。「河崎柵」というのが問題になる時代、それは11世紀の半ば、平安時代の中ごろですけれども、それから少なくとも二百年ほど遡った奈良時代の終わりごろに問題になってまいります。年号で具体的に言うと、奈良時代終わりの年号の宝亀11年というところで、歴史に登場する「覚鱉城(かくべつじょう)」。この「かくべつ」、これは本来日本語でないと思います。しかし漢字を当てて「覚鱉城」という名前で登場するところのお城、これがちゃんとした文献にあるのでございます。平安時代のはじめに書かれて、奈良時代から平安初期までのことを書いた正式の歴史に「続日本紀(しょくにほんぎ)」という歴史書があります。この歴史書にはっきりとした記録がございまして、「紀広純」という方がこのとき東北の総督、「按察使(あぜち)」というふうに言います。東北総督になっておりまして、北の方から(今日の奥州市北上市などのある方向)、蝦夷の人たちが北上川の中流、上流地域から南下して、政府軍が治めている地域まで侵入してくる、南下して来る。それがすべて川沿いに下ってくる。それを阻止し、撃退し、できればこれを逆に攻め込んでいくような基地を造る必要があると、そういうことが問題になって、そのお城として「覚鱉城」というのを造って、それに備えようと、そういうことまではっきり書かれているのでございます。これ事実でございます。

 

<「伊治公呰痲呂」反乱との係わり>

 ただしこの仕事にかかっている最中に、この総督の忠実な部下として仕えておったというふうになっております蝦夷上がりの「俘囚」(政府側に付いた蝦夷のこと)で、今日の栗原市(磐井郡の西南隣り)にあるお城「伊治城」をもとにしてできた「伊治郡」の郡長(当時「群領」といわれた)だった「伊治公呰痲呂(いじのきみあざまろ)」という人が内心、この総督(紀広純)に深く含むところがあったけれども、かたちの上では作り顔をしてこれにお仕えしておったので、総督はこれを全面的に信頼して使っていたのだけれど、この呰痲呂が覚鱉城を造る仕事をしていて、さてどこまでこのお城が出来たか分からないけれども、とにかくその築城中に、中休みのつもりでその栗原郡(「伊治郡」)のお城の「伊治城」に、総督が主な部下たちを全部引き連れて、まあ休憩に入ったその隙を窺って呰麻呂が、この総督を殺してしまった。

 しかもこの総督を殺した伊治公砦痲呂という人が、さらに長駆して現在の仙台の近くにある多賀城国府・鎮守府、軍政府も行政府も揃って置かれておった多賀城にまで南下して攻めこみ、略奪の限りを尽くして、火をつけて引き揚げて行ったと、こういう大事件が起こったのでございます。

 

 その後、この人がどうなったかは分かっていないのでございます。もし皆さんのなかにお暇があったり、あるいは文学に興味のおありのような方だったら、「伊治砦痲呂その後」などというような題で、立派に小説の題になり得るものですね。南の方に逃げたんではないかと言われてもいますが、いろんなことで、どうも北の方に逃げていったというふうに思われます。そして北の方というのは、後に「大墓公阿弖利為」のアテルイとか、あるいは「盤具公母禮」のモタイという人が反乱をおこして、歴史上有名な大戦争になる胆沢の大蝦夷戦争に発展していくという、その方面に逃げ隠れたというふうにしか考えられないでございます。しかしそれが本当にどこだったか、全く文献は触れるところがありません。学者というのも、たいへんご都合主義なところがあって、自分の興味のあるところ、都合のいいところだけ書き残すんですね。こういうことがしばしばあるんです。

 私は、この伊治公砦痲呂がその後どうなったかということは大きな問題になると思っている一人です。そしてもしこれが北の方だとすれば、この政府側への反抗の指導者になるアテルイとかモタイなどというような、この方面の蝦夷反抗の指導者だった人たちと何らかの関わりをもないということも、これあり得ないことです。そういうことについても何の記録も言及もないんです。ですからこれを私は不思議に思いながらも、これ一つ皆さん方の中で、興味があり、志のある方が、かなり推定に推定を重ねるかっこうでも結構ですから、何らかのかたちの言及がなされてしかるべきではないかと思うんですが、これについてはひとつ有志の方の奮発にお任せすることにして「閑話休題」。これはこれでお終いにしておきます。

 

<「覚鱉城」築城は北上川東側に!「続日本紀」がそう記録してある>

 さて、そういうふうにして折角北からの、「北からの」というのは、具体的に言えば胆沢江刺方面から南下する蝦夷を防ぎ、逆にこれを攻め込んでいく基地として計画されたところの「覚鱉城」というのも、したがってこれがどこまで築かれたか、それからどこまで実際に機能するようになったか、何処にあったか、まったく分かりません。

 そういうことからこれまでの覚鱉城については、専門の考古学者、研究家たちの間で、「ここのこれがそういうものでないか」ということが、具体的に問題になってはいます。私、皆さんが存じ上げている方々の研究であり、報告なので、ここでは言及を控えさせていただきます。興味のある方は、この川崎地区においても、そういうことにお詳しい方が沢山いらっしゃると思いますから、そういう方々にお聞きになってください。私はこれまで、そういう立派な方々が、それぞれに理由や根拠があるというふうに考えられたことでもって、「これがその覚鱉城に関わりがあるのでないか」と言われてきている場所、それがぜんぶ北上川の右岸、つまり西側になっているのでございます。そこには奈良末、平安初期と考えられる土器も出たりするし、瓦も出たりするので、そうするとそういうものとしては胆沢城を除いては覚鱉城というものに結びつけるより外ないのでないかと、そういう考え方に立っての推定になっていると思います。

 

 わたくしは、これらの研究なり報告なりを出しておられる方々が、覚鱉城についての文献の正確な読み方をもう少し深めて議論なさるなら、自ずからこの推定は変わってきていたはずです。私の考えから言えば、そういう推定はあり得ない。おおまかに言ってこの覚鱉城が、北上川の西側の磐井地区、あるいは非常に胆沢郡に近づくあたりまで北進させるような推定というのはあり得ないというのが「我惟う」です。これ私の考え方です。

 そしてこれは、「続日本紀」というものに「覚鱉城」が出るまでの経過について詳細な記録を残されていることに拠ります。これまでの研究発表では、その「続日本紀」の詳細な記録のうち、「覚鱉城」という名前が出るまでの記事を、ほとんど全部カウントしていない、ノウカウントです。カットしてしまっているのです。そして「覚鱉城」という名前が出てきたところからこの文献を使うようにしておられる。そして奈良末期の遺跡であるならば、遺物も奈良末、平安初期に結びつくというものでなければいけないという、そういうコンタクト、文脈、結びつきになっているのでございます。

 

 わたくしは「覚鱉城」という名前が出るまでの、覚鱉城を造らなければならないとする理由、それから覚鱉城は何処と正確には書いていないけれども、その在り得る範囲、場所というのが、大まかに言ってこの方面、この地区という考え方が、この文献をきっちりお読みになっておったなら、必ずその答えに到達すべきものだというふうに、私は確信しているのでございます。

 その文献というのは、皆さん方にとっては少し専門的になりますけれども、ここにはメモをとっておられる専門家もいらっしゃるようですから、念のため申し上げておきますが、「続日本紀」、奈良末期の宝亀五年、それに続く六年、七年、八年、九年、十年、そして十一年の覚鱉城の記事にいたるまでの、六年間にわたって切れ目なく継続されている記録がございます。そして宝亀五年のこの記事を受けて六年になり、六年の記事を受けて七年になり、八年になり、九年、十年になって、十一年の覚鱉城の建造、築城というところまで行くということを、丁寧に連続してお読みになる方だったら、必ずそういう読み方になっているべきはずのものなんです。

 それがすっかりその前段階はカットされて、したがってまったく関係なし、ノウタッチでもって、こちらの覚鱉城という問題が出てきますから、そこでこの「続日本紀」宝亀五年からの連続したその前段階、中段階、そして最終段階というふうなかたちで連続して考えなければならない、その連続した考え方の起こりが、この宝亀五年の記録なんです。

 

<東海道最終ターミナル「東磐井の気仙沼」>

 それならそれは、どういう考え方なのか。それは宝亀五年の記事というのは、当時の言葉で言うと、東海道の奥を北へ北へと進めて行って、当時考え得る最果ての「東海道」、道の奥を極める経営。これが一つです。それと並行して「東山道」の奥を、奥へ奥へと進んで、そしてこれもまた一つの最終の奥にまで行きつくような、そういう経営を政府側で考えた。しかもこれは並行させて、東海道というのは海岸沿い、それに対して東山道というのは、海道の中道を今日の東北新幹線や国道4号線沿い、このように東海道と並行するようなかたちでの内陸の道と考えていただいて結構です。

 そういうものが、一方は東側海岸線、一方は中通り内陸と、そういうパラレルに並行しておりましたけれども、これが最果ての地に向かう段階では一本にまとめられて、この東海道と東山道が一つにまとまったあたりで、第一段階の東海道の最終の奥、東山道の最終の奥というものを固めて、ここでひとつ終止符を打つと、そういう考え方が記されてあるのでございます。

 念のため「東海道」というのは、政府側の正式の考えでは関東では「常陸国」、今日の茨城県で終わっているのですけれども、しかし慣習的に「常陸国」から海道沿いにまっすぐ陸奥国、今日の東北地方福島県の浜通り方面に入った地域も全部、「東海道」とか、「海道」というふうに呼んでおって、それはほとんど半ば公けに、今日の宮城県の亘理郡地域、阿武隈川の河口地域まで、何か正式の呼び名のようになっているのでございます。現にこの地域で、平安初期に「駅路」、今日の鉄道にあたるような馬の交通路を作ったときには、「海道」という名前を実際にお上で使っているのです。ですから事実上「東海道」は、今日の福島県の磐城・相馬地区、宮城県南の亘理地区まで続いておって、半ば公けの制度になっておったということです。

 しかしそこから北の仙台平野へ入ったあたりからは、公式には使われていなかったけれども、更に今度は、開拓が海岸沿いに、今日の石巻の牡鹿郡とか、さらに今日の桃生郡とか、こういう宮城県の東部海岸地域にまで及びますと、この方面にも東海道とか海道ということばが用いられるようになり、そういうふうにして東海道というのが常陸まで、宮城県南まで、それから宮城県北石巻あたりから牡鹿、桃生というふうに、この方面まで「海道」と呼ぶようになって、これが経営や開拓の一つのルートをなすようになっていく。そしてその二重三重に延長された「東海道」、「海道」という考え方の、奈良末期ぎりぎりの「最終ターミナル」、「フロンティア」が、実は今日の東磐井郡の東裏を過ぎて、気仙郡までかかってくる。したがって東磐井の気仙沼。気仙沼は今日宮城県になっていますけれども、これは改めて岩手県に編入していただいて、東磐井郡になった方が宜しいですね。これが地形上、自然にそうなっているのですね。現にそういうかたちで国鉄の鉄道なども一関から始まった結果が、あらためて宮城県気仙沼に行って、そこからまた岩手県に行くというような、こういう不自然なかたちをとっている。したがって今日の気仙沼方面というのは、政治的にも地形的にも、はっきり磐井郡、元の東磐井郡として考えること、一向にかまわない。現にそのような考え方で気仙沼あたりというのは、はっきりと東磐井の一角のようにさえ考えられている。そういうことも、皆さん方の新しい郷土史学習のテーマになって宜しいと思います。

 

<「東山道」の延長 「陸奥国」>

 さて、そういうふうにして東海道が気仙まで行くんですが、それなら「東山道」というのはどうなるか。東山道というのはご承知のとおり、東海道が浜海道に対して近江、美濃とか、そういうところを過ぎて、そして正式には信濃を通って上野、下野という群馬、栃木、このあたりで一応終わって、ただ東北「陸奥国」というのが制度上開拓をして正式に国として認められるようになった段階で、はじめて東山道の延長というふうに考えられるようになるのです。したがってこれは、「みちのくに開拓」が進んで、制度上の「陸奥国」「みちのくの国」というのが出来た段階ではじめて起こると、そういうかたちで「陸奥国」というのは東山道の奥というふうに考えられていた。ただしこれにも事情があった。はじめ東海道常陸国の奥のように考えられていた。

 これも皆さん方としては意外でしょうけれども、「みちのく」あるいは「蝦夷国」などというのは、東北で始まって、東北の専売特許のように、皆さん考えておられるでしょうが、これは誤解です。歴史上最初の「エビスの国」「東夷国」というのは、今日の中部、関東地方全体を、漠然とそういう呼び名でよんでいた。そして狭く関東地方が「エミシの国」「エビスの国」というふうに限定されるようになって、そのなかで特に東北寄りの「常陸国」というのは「日高見国」というふうに呼ばれていく。そしてこれは後の関八州、坂東、関東地方の中にさえ入っていなかった。別個です。これを「日高見国」「エビスの国」「エゾの国」の最終段階が「常陸国」であるという言い方にして、その名前を「日高見国」というふうに呼んでいる。現に「常陸国」という名前自身が、この「日高見国」の訛った、縮まった名前だという考え方さえあるのですし、私もそれが正しいと思っています。そしてこの「日高見国」「常陸国」というのは、利根川、鬼怒川、こういったようなものの下流地域としてなっておった。そしてこの鬼怒川を溯って行き、鬼怒川、利根川が境するその北側が「日高見国」であり、「常陸国」がその本国。そこから北は「奥日高見」、「奥常陸」というふうに考えられていて、大化の改新を迎えるまでの大和国家、大和王朝、年代でいえば七世紀に入るころまでの東北というのは、北関東の茨城、それから栃木の東北部まで含めて、すべて「日高見国」の一部というふうに考えられていたんです。大化の改新になってこの考え方が制度上大きく変わり、そうして鬼怒国、上野国、下野国をルートとして、蝦夷経営の本道を、これまでの常陸寄りの東海道より東山道寄りに切り替えるという、一つの大きな路線変更が、大化の改新、これだいたい聖徳太子のころから始まり、そしてその結果として広い意味での「日高見国」としての「蝦夷国」と考えられていた東北が、全面的に「東山道」の奥としての「みちのく」、「蝦夷国」、そういうふうに考えられるようになっていくのです。そして東北が、「陸奥国」が、東山道の一部のように考えられるようになっていく歴史が、大化の改新以降の政治路線の変革に基づく結果だと、こういうことが歴史的にはっきりしているんです。それを私たちは、何となくはじめから東北というのは、陸奥というのは、東山道の奥の意味での「みちのく」だというふうに考えこんでいるんです。そういうふうに思いこませた学者たちの罪は、相当に大きいと思って、わたくしは罪ほろぼしのために、その説を改めるように申し上げているところです。

 ただしそうは言っても東北経営は、東よりを東海道をまっすぐ北進し、それから新しく「白河の関」を越えた中通りを、内陸を、北に進む新しい道、その二つ並行して進むという行き方は依然として継続していく。ところがそういう意味で、「陸奥国」ぜんたいが広い意味において、そういう考え方をすれば「東山道」の奥になりますけれども、政府側が「東山道」の一部としての「陸奥出羽」という考え方をしていたということ、これは形式的なものでした。実質的には「陸奥国」「出羽国」というのは、「陸奥出羽按察使」という、今日で言えば「東北道州制」のような、独立した一つの広域行政地帯というふうに考えていて、ちょうど西日本でいえば大宰府の下の九州が「大宰府管領」というふうにいわれていたのと似たような意味でもって「陸奥出羽按察使」管下の陸奥出羽というのであり、広い意味では東山道の一部なんだが、実際上はそれと半ば独立した広域行政区域としていた。そういう考え方なんです。

 これ無理ないことで、後のことになりますが、「陸奥国」というのは、大ざっぱに見ると、日本の半分もあるとさえ考えられていた。「太平記」にはそう書いてあるんです。それほど広大な地域ですから、陸奥ぜんたい一つの独立国として考えるのは無理もないことです。そういう考え方も奈良末期のぎりぎりでは、この新しく「東山道」入りした内陸を、一応中間的に締めくくり、東海道もまた何回も何回も変移してきたのを一応締めくくって、ここに第一段階の東山道の終わり、東海道のおわりとして決着をつける蝦夷征討というものを企画するのです。それが宝亀五年における経営であって、ある意味においては坂上田村麻呂の胆沢経営の先駆けというか、むしろ田村麻呂たちによる胆沢経営の方向づけを決定的なものにしたといえる第一段階の蝦夷経営、それが大伴駿河麻呂という人による、東海道と東山道の第一段階としてまとめ上げ、そしてそこをある特別地区として独立させるという経営だったわけです。私たちはこの大伴駿河麻呂が、田村麻呂の仕事を大きく先駆けているという勉強を、きちんと固める必要がある。これ私が三十年、五十年近く勉強してきた最後の結論みたいなものになっているんです。

 

<東磐井・気仙全域 「遠山村」>

 そしてですね、その東山道と東海道を一時的に一括して、一つのまとまった蝦夷経営、エビス地域として独立させる考え方、それが「遠山村」とよばれていることばに凝集されているのですが、こんにち「遠山村」ということばを、何となくことばだけでとらえられている風潮が、いまなお尾を引いているのが現状です。

 その「遠山村」の元は「続日本紀」にあるんだが、歴史で「遠山村」と呼んでいるところは「登米村」、登米郡の基になるものでないかと、こういうことを偉い学者がおしゃっている。これも差し障りがあるので、お名前は申し上げないことにしても、それが何となくズルズルと定説とまでいかなくても、そのまま通用しているような実状になっている。

 私は、「そういうことはあり得ない」と考えています。「登米」などというところは、だいたいにおいて大きい水の拡がりの地域です。ちょうど「霞ヶ浦」のような地域を、こちらに延長したような水郷地帯が中心になっていて、山というのはむしろ登米郡の外れになる地域に固まっている地域。こういうふうに考えて宜しいところなんです。 

 ところが文献に出てくる「遠山村」というのはぜんぜん違うのです。水などということは一言半句も出てこない。こういう言葉が出ています。「遠山村というのは蝦夷が拠りどころとする山岳の険しい険阻な地域である。ここを分け入って遠山村の征討を試みたけれども、やっても成功した将軍は誰一人居ない」と、そういう言い方をしているのです。ところが史上始めて大伴駿河麻呂という方が、この蝦夷のぎりぎりを穿った奥地を最後的に攻略して、そこを政府の支配地域に編入したと、そう書いてあるんですよ。すなわち「山また山の地域」、それが「遠山」、現に「遠山村」の言い方からしてそうですね。そしてこの東海・東山両道を一本にまとめる区域の「広域汎称」、広い呼び名がこの「遠山村」ということになってくるのです。

 そしてそれなら具体的にそれが何処かと言いますと、今日の東磐井郡全域、それから気仙郡の全部を指す。具体的に言いますと気仙郡が東海道のぎりぎり「みちのおく」、東磐井郡というのが東山道のぎりぎり「みちのおく」、そういう理解になっている。これは皆さんの地理的な常識からみてもそう無理なくご理解できましょう。そしてそれを一括して、しかもこれを山より地域に捉えるかたちでもって「遠山村」という言い方についてもです。ですから東磐井郡というのは「東山道遠山村」、気仙地域というのが「東海道遠山村」。こういうふうになって、合わせて一つの「遠山村」と、こういうことになっていくこと、これ皆さん同意いただけますね。

 

<「胆沢経営」の新しい基地「遠山村」>

 さてたいへん長い前段のお話をしましたが、こうしていかないと、先ほどの覚鱉城につながっていかないし、覚鱉城とある種のつながりのもとに出てくる河崎柵にも結びつかないからなんです。

いったいそれなら、どういうわけで東磐井の遠山と、気仙の遠山とが一つに結びつくかというと、地理で考えてみましょう。砂鉄川というものが、先ず東磐井郡全域を包み込んでいる。そしてその尽き果てるところ、山越えにその奥、気仙郡というものが開けてくる。この砂鉄川を溯るかたちでその沿岸地域、その尽きるところを山越えに海が開けるかたちで気仙郡がある。そしてそういうかたちで東海道・東山道をぎりぎり「みちのおく」の一つまとまりとして一括する考え方でもって「遠山村」という考え方が出てくるのです。「遠山村」についてですが、はじめ「蝦夷国」での当時、「村」とよぶのは、今の「村」概念とはちがって「国」の意味、「蝦夷の国」という意味です。そういう歴史地理的な考証によって、これが一つの「遠山村経営」ということばになっています。 

 さてそれから先の「続日本紀」の東北経営の基地「遠山村」がその後どうなっていったか、それを拠りどころに、どういう政治が展開していくか、そういうことの記事が、この「続日本紀」に集中して書かれているのでございます。全部一括して「遠山村記事」というふうに言っても異論がないほどです。そしてそこに大事な記事が出てくるのです。

 この大伴駿河麻呂という人がこの遠山村の経営に成功して、ここのところに政府側の基地づくり、村づくりをはじめたということ。これが宝亀五年に書かれていて、その二年後の宝亀七年という年には、こういう記事になっています。「陸奥国の兵士三千人を発して胆沢の賊を討つ」と。しかしこれが実際に戦争になったのか、あるいは計画を意味したことなのか。これは分かりません。しかしとにかく、その遠山村を基地にして、「胆沢の賊を三千の兵をもって討つ」とはっきり書いてあるんです。

 「胆沢経営」というのは、実は桓武天皇の時期になる前、奈良時代のおわりにおいて既に計画段階に入っている。そして一部実施に移されていたというふうに考えざるを得ないようになっている。但しそれを「遠山村」を基地としてという、そういう書き方にはなっていません。しかしその先がぜんぶ「遠山村」を経営して、ここで北部蝦夷経営の基地づくりができたというふうに書かれている。その後も一貫して、この延長記事として書かれている。したがってこの「胆沢の賊、蝦夷を討つ」という記事は、遠山村の経営が出来たために、その基地を母体としてここから北に進むという行き方で考えているのだと、こういうことが当然、明瞭になってきます。

 そしてこの遠山村へのルートというのは、南側からすれば、はっきりと砂鉄川をルートとしてさかのぼって行く以外に、この東海道と東山道が一本に結びつくという余地は全くないんです。そのことをはっきり考えさせる史料、それが覚鱉城を造るときの理由について、紀広純という大伴駿河麻呂の後任だった人が、政府側に申請している記事に、こういうことが書かれています。

 「新しい基地づくりができて、そして蝦夷経営の兵を進めようと思っているけれども、しかし季節が季節なだけになかなかそれが進まない。たとえば冬が非常に早くきて、川が凍ってしまって、しばらく休まなければいけないというときに、蝦夷の方ではそういうのに慣れっこになっておるから、川添いにどんどんと南下してきて政府軍の基地を攻めるようになっている。そこで、冬でもそれを攻め込むことのできるような、そういう北からの河道、かわみちというものを塞き止めて、そして逆にこれを政府側が北進、北上できる基地にするために覚鱉城というのを造って、ここのところを拠りどころにしていくために、その城づくりを始めたい」と、そういう申請になっているのでございます。

 

<結局「覚鱉城」の位置は「東山」(遠山村)・北上川沿いの地>

 宜しいですね、そうすると北から川沿いに南下してくる蝦夷の南に攻め込んでくるようなところは、北上川沿いしかないということが、皆さんよく分かるんですね。その北上川から攻め込んでくる川沿いの城づくりというところは、いま遠山村を三回攻めて、東山道、東海道を一本にまとめて、そうして胆沢経営をここから始めているんですよ。胆沢経営をも開始しているということになってくるのですから、この二つの理由から考えて、問題になっている覚鱉城というのは、北上川の西になるという可能性はないのです。遠山村を基地として、既に胆沢経営を始めよう、始めつつあるんです。したがって東磐井郡寄り、気仙寄りの地域からの、今日皆さんがつかっている「東山」地域寄り、しかも川沿いの地域、そういうことにならないかぎり、この覚鱉城というお城にならないことになってくるのです。

 ところでこれは北上川を下ってくる賊を抑え、そして遠山村を確実に確保し、そしてその二つを満足させるかたちの胆沢の侵攻ルートを考えていくと、その基地づくりの場所は当然「北上川」、広い意味で北上川を「日高見川」というふうによぶのだが、政府側ではこれを漢語風に呼んで「ニッカ」、「日の河」といっています。その北上川(日高見川)と、遠山村ルートとしての川、すなわち「砂鉄川」の合流する地域になってきます。ここ以外には、少なくとも歴史文献上からの確実な推定、推理、答えが出てこない。こういうのが私の考えです。

 

<「河崎柵」跡で出土した「和同開珎」が語る>

 そういうふうに考えて、何かそれは文献からの理屈はそうであっても、事実に基いてそういうことが言えるのかということになります。実はそれが有るのです。有ります。現在までの調査では未だ発見されていませんが、ていねいにやったらもっと見つかる可能性がありましょう。

 ずっと前に「和同開珎」という奈良時代の貨幣がこの地区から出土しているのです。これは「河崎柵」を調査なさっている方々が発見したのですが、それにほとんど疑問も持たないまま、これが「河崎柵」に関係あるのかないのかについての議論も、私が見聞きしている範囲では話題になっていません。しかしこれが「河崎柵」と関係することに一点の余地もありません。この地区で「和同開珎」などという、純然たる国家支配、国家政治に結びつかないまま、このような貨幣が存在するということは到底有り得ません。

 これは流通貨幣ではありません。タカラモノとして、むしろちょうど仏像と同じような意味での貴重品として、ホンの僅かだけ政府側の重宝、偉い貴族たちが、政府側の使節が、掛け替えのない大事なタカラモノというような心算で、こちらに持って来ているはずのものなんです。下手なところに、こういう貨幣が持ち込まれる余地はまったくないんです。政府の重要なお声がかりの使節とか、役所とか、役人とか、そういう人たちが此処の所に、半ば常駐するようなかたちで居るようなところ以外では有り得ないのです。今日私たちが立派なお金をもっているのとは訳がちがうんです。

 そうしますとこの地区で、奈良末期、平安初期あたりに、そのような国家使節、官人が、お上の役人が、常駐するような大切な場所などというようなものです。文献上確実な拠りどころを求めるとすれば、覚鱉城というものを除いて有り得ないという感じに皆さんなりませんか。あまりにも皆さん、善良でいらっしゃるから、疑わしいところが百パーセントはっきりしないと、真実ということにお手を挙げていただけない。私のように、七割、八割、それしかないということで、それがだいたい歴史になっていくのです。そしてうまく行けば、ここのところが胆沢城のような役目を果すようなお城になり得たものです。そういうところにタカラモノとしての「和同開珎」があるということには、十分その謂れがあり、逆にその「和同開珎」の発見によって「河崎柵」にも結びつく可能性が出てくる。でもそれは別な可能性として考えて宜しいんですけれど、まず第一段階としては「覚鱉城」という幻の城の証言になるものという考え方が出来るというのが、この年寄りの推定でございます。皆さんは如何ですか。そういうふうに考え、少なくとも「覚鱉城」擬定地の一つに、この所謂「河崎柵」が挙げられるということが当然あるべきだったのに、ただ「河崎柵」かどうかということが問題になっていて、「覚鱉城」の「か」の字もどうも出てきそうにない状況というのは如何なものかというのが私の老人史学であります。

 そういうふうにして私は、この地域の「覚鱉城」というのが第一候補として問題になって、その証明のための具体的な調査が、もうちょっと真剣に進められて良いのでなかろうかと思うんですが、今のところ、それを確定するまでには来ていない、これが事実です。

 

※「覚鱉城」地点推定の注意事項

 さてそういうことになれば、その位置は、当時の蝦夷経営の城の位置から考えて、必ず本流になる川と、支流になる川とが合流するような位置の、その南側に位置を占めるというのが、ほぼ常識になっています。そのことから私は、この「和同開珎」の出土した地点というのを覚鱉城に結びつけるとすれば、古い北上川の河道と古い砂鉄川の河道とが合流する地点、しかもその東側の南寄りというふうに場所が限定されてくるんです。しかし今日の河道は、特に砂鉄川などは、かなり動いていると思いますから、したがって今日の河流に合わせて良いかどうかということは、先ほどご説明があったいろんな框(かまち)ですか、そんな柵のもとになるような遺跡の位置を、ていねいに探求なさり、そういったようなものと河道との関係を考え直してからでなければいけませんが、もしこの河道が河流によって動かされたならば、話しは全然別です。したがってその出土状況も、仮にこの「和同開珎」が出た位置が動いていないかたちで出ているのか、それともある程度、河流によって動いたような形跡があるのか、こういうことも調査しなければなりません。いずれにしても今言ったようなことが、調査のための一般的な条件になります。

 

<「河崎柵」と「覚鱉城」の関わり>

 さてそれなら「河崎柵」がどうなるのか。「河崎柵」というのも明瞭に磐井郡にあったこと、その磐井郡の川岸の東磐井側になるということは、この支配者金為行という人が、気仙郡司の金為時という人と、これはむしろ親戚どころか兄弟関係かにあるだろうということを考えて、歴史的に東磐井、気仙が「遠山村」として一本化されたその伝統を真っ直ぐ受ける地元最有力豪族のうちの譜代豪族伝統の家柄が、磐井の金為行系統であり、気仙寄りの方が為時系統であるということ、これほとんど疑いがないと思いますから、この「遠山村」とのつながりを考えるかぎり、当然金為行の基地になったのが東磐井郡だということ、これも一点の疑いもないところです。

 そして安倍氏時代の蝦夷安倍側の城というのには、位置がだいたいまるで約束したように決まっていて、政府側の施設が川の西側にあり、北からの安倍側の南下からこれを守るというようなかたちで、半ばこれを牽制するような位置を占めている。そういう関係の位置づけになっていることはほぼ疑いない。そういうことを考えれば、金氏が、新しい遠山村、東磐井豪族としての金氏の基地になる城が、古い河崎柵の政府側施設として、川を南にした川の北側に位置するというかたちをとることが、ルールに合っている、規則に合っているということも、これまたほとんど疑いがないところです。したがって今日発見されている遺跡のうち、確実に平安中期にさかのぼるというふうに考えられる木柵のようなものが、すなわち「河崎柵」の遺跡、遺物になってくる。

 そうして覚鱉城というのは、相対的に言ってそこからやや南寄り、川を隔てて北側に(当時の川が、今日どうなっているか分かりませんが)「河崎柵」、南側に「覚鱉城」と考えられるのです。どれまで組織されたか分からない覚鱉城ですが、後になって若干使えるようにしていただろうということは充分考えられます。そういうふうな関係でもって、今日「河崎柵」と呼ばれているものに一括されていることでしょう。

 「和同開珎」を中心とするかたちでもって、もう一回り古い「覚鱉城」などというものに結びつけて行くことの出来るような遺跡、遺物と、それから狭く「河崎柵」の遺跡、遺物として考えていかなければならないものとが、どうもこの地域においてゴッチャになっているのでないかというふうに、私としてはお話しを聞いて思わざるを得ませんので、できればこういう問題意識をもって、その係わりを考えながら、これを分けて二つの柵が広い意味において一つの場所での南北(昔)、今のようなかたちでもって並立するようなかたちになっていたことを考えて、これ大事なことでないかなというのが私の考えです。

 そうしてみると、ただ此処にこういう柵がある、框があるというのではなく、これらを今言ったように理論的にも整理すると共に、造作・構造物としてのシステム化、系統化を理論的に整理していく必要があると、こういうふうに私としては考えるのです。

 

<「河崎柵」「覚鱉城」と現地名>

 「河崎柵」「覚鱉城」。これはひょっとして私の言語学、国語学は、やや言葉遊び、遊戯になる面もありましょうが、敢えて言いますと「川崎村川崎」という字名の一つ上に、「かどさき」「かどざき」という言い方があるんだそうですね。私、この「かどさき」というのと「かわさき」というのは関わりがあって、理屈、例えば「とおやまむら」が「とよま」の語源でないかなどということを、真面目に議論なさる程度の方でしたら、それ以上もっと真面目に、次のように考えることが出来ると思っています。

 「かどさき」の「かど」は「門」という字を書いていますが、しかし「門(かど)」という字は当て字になっていますね。それでたとえば本屋で現在「角川(かどかわ)書店」という名がありますが、その「かど」は「角(つの)」という字を書いています。その「かどさき」の「かど(門)」がもし本来「角川」の「角(つの)」という字で書かれていたとすれば、「覚鱉(かくべつ)」の「覚(かく)」を「角(かく)」に変えて、「かど」と読まずに「かく」という読み方をしたら「覚鱉(かくべつ)」の「覚(かく)」を「角(かく)」、「つの」の「角(かく)」を本来のものとして、「覚鱉城」を「角鱉城」にしていくことが出来る。この「覚鱉」という字が本来当て字だったのですから、これ充分意味をもってきます。

 「鱉」というのはアイヌ語だろうと言われていて、「川」とか「流れ」の意味です。したがって「つの」という字の「角」、「角川(かどかわ)」は「かくかわ(角川)」、そして「角鱉(かくべつ)」は「角川」というような意味になってきます。そして「川」は略すことができますので、名前としては「角(つの)」になります。

 また「門崎」の「崎」は今日の漢字常識でいえば、川のはずれ、出っ張ったところですが、こういった「河崎柵」の歴史を辿っていくなら、「崎(さき)」はむしろ「柵(さく)」の呼び替えと考え、本来は「角柵」だったのだと考えることができます。「柵」は「城」の意味ですから、したがって「覚鱉城」の略が「かどさき」になり得ると考えられます。こうなってくれば明瞭に、「とおやま」は「とよま」だとする程度の理論は成り立つと、私はそういうふうに思っています。

 そうすれば「川崎」もまったく同じです。「かどさき」で略した「鱉(べつ)」、こちらではその川が逆に新しく理解されて、「河崎」即ち「河の柵」というふうな地靴になって、そして当時もう「河崎柵」ができるころには、河崎が地名のようになっていた。したがって「河柵」の柵というのは、繰り返しでおかしいようですが、その段階での「かどさき」「かわさき」というのが、はっきり地名化しておりますので、改めて「河柵」の「さく」は、「さき」の意味にとって「河崎柵」というふうになってくる。そうしますと前の「覚鱉城」の後を追って、二代目「覚鱉城」のような心でもって築かれた磐井の柵が、すなわち「河崎柵」ということになる。こういう推定は、少なくとも歴史物語としては成り立ち得ると思い、そのような話も一つロマンとして、物語として考えられても宜しいのではないでしょうか。

 いずれにしてもこういったかたちで、今日「河崎柵跡」と呼ばれているところ、これ広い意味で推定されている地域であるということは、わたくし百パーセント支持しているところです。但しそれは「河崎柵」プロパーではなく、本来の「河崎柵」をです。「河崎柵」以前の奈良時代にまでさかのぼる。出来上がった城かどうか分かりませんが、その「覚鱉城」と言われているものとのつながりを考えさせる遺跡という、重複遺跡を持っているというふうな問題意識をもって行かねばならないと申し上げさせていただきます。以上は私の考証めいた話ですが、皆さん方これからもひとつ活かせるところだけ活かして、ダメなところはダメだとしてください。

 

<「前九年の戦い」第一人者 金為行>

 さて金為行というこの人は、安倍氏以外の安倍氏側の人として第一人者になり得る人です。安倍氏の城としては「河崎柵」、これ最南端の位置にある。したがって安倍氏「奥六郡」の生命というものを最前線においてこれを引き受け、敵を撃退するという役目を帯びて「河崎柵」の柵主を勤めた金為行という人、この人が司令官としての地位を全うする。そういうふうに考えるのです。だから源頼義という人が最南端の「河崎柵」をまず第一の攻撃目標として攻めかかった。当然といえるところです。

 しかしこの戦いで若干不思議なことがあるんです。その不思議とは、陸奥守、鎮守府将軍という人が安倍との決戦を求めて出てくるのに、何と連れてきた兵隊が千八百しかいないこと。何故このような最低の軍隊で来たのかということが一つです。もう一つは、何故安倍氏の本拠である磐井川沿いの「小松柵」とか「衣川柵」とか、そういうところを正面攻撃せずに、川を越えた東側に攻撃目標を設定したのかということ。この二つの問題です。

 この問題には気仙郡司金為時という人とのつながりを密接なものとして考えていかなければなりません。金氏の中では、気仙郡司の金為時という人は忠実な政府軍協力者なんです。源頼義が軍隊を引き揚げるときには、代わりになって安倍氏を攻めて大きな功績を挙げたのが、この気仙郡司だったんです。私は気仙郡司の金氏と東磐井郡の金氏というのが親族であるだけでなく、一連の関係があると考えていた源氏が、気仙郡司とのつながりのつくルートをもつ東磐井の柵、「河崎柵」なので、このような方針が択ばれたとさえ思われるのです。その背景に、はっきり気仙郡司との協力関係というものが計画の中に含まれているから、この少ない兵力でもって敢えて行くことが出来ると。逆にいえば総大将が直に出てくるということになれば、「河崎柵」の金為行といえども、気仙郡司への顔を立てる意味から言っても、軽く降伏してくれるのではないかというふうな甘い計算があったかも知れないし、逆に言えば気仙郡司が兵を整えて援兵応援に乗り出してくるというような計算もあったのではないだろうか。しかしその裏を掻くようなかたちで安倍貞任という人が四千の軍隊をここに派遣して、そして千八百の源氏軍をグ―の音も出ないようなところまで追い詰めていくことになってしまった。いずれにしても、そういう気仙郡司の金氏と、それから「河崎柵」の大将の金氏とは、密接不可分に、しかも形式上、敵と味方に分かれている人たちの関係を抜きにして、この戦争というものは考えられないということ、これもひとつ改めて考えていただきたい。

それともう一つ、「前九年の役」での源氏は、あらゆるところで連戦連敗、勝った戦というのは最後だけです。出羽の清原武則という人が一万の軍隊を引きつれて協力してくれたお蔭でもって、この戦争は終に源氏の勝利になるのですが、これは八割九割、清原の勝利です。それまでの源氏単独の戦いでは連戦連敗です。その中で「河崎柵」、「黄海の戦い」での源氏の敗戦ぶりは決定的です。政府側、源氏側の記録にも「主従僅か頼義大将を除いて六騎」、大将を入れてわずか七騎だけで、その他の源氏は四分五裂、敗走してしまうというふうに書かれてある。これは安倍側の勝利である以上に、金為行自身の最前線司令官としての名誉ある大勝利というふうに、少なくとも磐井の方々は、万歳万歳でこれを読みとるべき記録なんです。源氏側では主従七騎が残るだけに負けてしまった。大将の頼義さえ戦死したのでないかというふうに伝えられ、そのためにある忠僕が坊さんになって、せめて冥土に逝かれた大将の供養をし、浄土往生を祈ろうというねがいから、坊さんになって泣く泣く、その亡くなられたであろうと思われる場所を歩いて行ったら、何とボロボロの鎧姿になって出てきた頼義に会うことが出来て、涙を流して抱き合ってよろこんだという、そういうことが「陸奥話記」にあるんです。そして、それくらい忠義の心に徹していたその侍が立派だと、こういうふうに書かれているんです。私はあらためてこの「陸奥話記」における源氏の武士たちの物語は、「武士道物語」としては立派でしょうが、しかし勝つか負けるかという戦争を主として考えるならば、源氏の、日本一の総大将、神様が武士に下り立ったのだと言われるような源氏の頼義・義家などという人を敵にまわして、その「陸奥話記」にまで話題になるところまで源氏に壊滅的な敗北を与えた、この戦争の実質的な最高指導者となる金為行という人の、武将としての名誉ということを最高に評価されて良いのでないかと、そういうふうに思っています。 

私たちは源氏の立場に立ってこの戦争物語を読んではいけませんよ。金為行の立場に立って、この大勝利を、源氏の大将をもう一歩のところでもって戦死に追い込むことのできるまでに戦い抜いた大将の、天晴れに対して賞賛を与える。そういう読み方をここからしていくべきです。そうすると皆さん方は、「河崎柵」の検証などということを、たいへん立派に一生懸命やっておられますけれど、更に十倍にも二十倍にも、学問的にも、それから文学においても、ロマンとしても拡げていくことができるということを、私の置き土産のお話とさせていただき、これで終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。