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磐井まるごとの「磐井地方学」

     磐井まるごとの「磐井地方学」                                         平成20年2月17日
 

 これまで二年にわたる磐井のオタカラを一わたり学習してきましたが、これらすべてが一つのことに戻ってくるような感じがして、ここのところで大きく一つにまとめるような、総括のようなものをここでやって、それをふまえたかたちでそれぞれに展開して行くということをこの新年度では考えていただくという、そういうつもりで今日は、その総括になる基本の哲学のようなものを先ず申し上げて、何故そういうことになるのかと、具体的にどんなふうにするのかと、そんなことについて申し上げてみたいと思います。

 

<「磐井地方(じかた)学びの会」で>

 まず、やはり私たちは日本人ですから、「やまと歌」で、その心を総括するようなことを色紙に書いてまいりました。後で皆さん方にコピーしていただきます。題は「磐井地方(じかた)学びの会」。地方学(じかたがく)ですが、それを「磐井地方(いわいじかた)学びの会」というふうなかたちで、この勉強会というものを運営していったらどうかと、そういうことでございます。そしてこの意味。「じかた」は「地方」です、しかし「地方」というのは、ほんとうは「じかた」と読まれていたのですね。それが明治以降になって「ちほう」というように呼ばれるようなことになるんですが、その根本は、私たちが住んでいるこの郷土を、郷土そのものとして、徹底してここのところに生きる心を学びとおす。そういうことが地方学(じかたがく)を地方学(ちほうがく)にしていくための行き方です。しかし、それが狭く、その村とか町とかに閉じこもるということではなくて、先ず漢字読みすれば「地方」になって、例えばそれは「磐井地方(いわいちほう)」、「岩手県地方(いわてけんちほう)」というふうなものになっていく。そしてそういったようなところから大きく日本が見えてくる。日本をとおして世界も見えてくる。そういったところまで発展させていく、それが地方(じかた)学というものです。

 

<「地方(じかた)日本学」とよぶもの>

 そしてその基本の哲学を、皆さんの手には入らないかも知れませんけれども、私は「地方(じかた)日本学」とよんでいるのでございます。「地方(じかた)日本学」。それは徹底してその郷土が、ふるさとが、自分の住んでいるところが、良く分かってくれば、自然にその郷土、土地を支配している論理とか哲学とか、思想というものが、実はそこで生れたんではなくて、人として生れ、日本人として生れたことを、大地に下ろしていくための、いわば土壌としてこのふるさとというものが与えられているのだと、そういう自覚になっていく。それを私は理論的に一冊の本にまとめてあるんです。それを「地方(じかた)日本学」と言うんです。そしてこれは、「日本学」といえば「ヤマト」のことである、日本全体を、そういう上から下を見下ろすような行き方になっているのに対して、それを逆に地方から行かなければ歴史の真実を明らかにすることができない。それが私の「地方日本学」という考え方でございます。

 

<その「地方」を磐井に限定しての「磐井地方日本学」>

 その「地方」を磐井に限定して、「磐井地方日本学」というものを考えていく。それは無理して考えるのではなしに、地方(じかた)学が徹底していくと、必ずやそうなるのだということです。これを磐井郷土史学のような方々は、ひとつ理論的に徹底させて考えていただきます。それを私、具体的にこういうことだということをこれから先申し上げてみます。

 そしてそういう勉強会を私は、私たちの大先輩芦東山先生が「人日の日」と、人の日の日という形でもって、いくつかの漢詩にお詠みになっている。そして更にそれを分かり易くして和歌のかたちにまとめていらっしゃる。

 私は改めて皆さん方に芦東山のお勉強をなさるときに、「無刑録」百パーセントのような芦東山は、ある意味においては半分しか分からない。私はある意味において庶民の中に、郷土の中に、磐井というところに、徹底して生きた芦東山という方は、かえって渾身の力でもって詠んだその漢詩、それからそれを更に分かり易くみんなに語り伝えようとしたヤマト歌、三十一文字の和歌。こういったところにかえって「無刑録」を生み出してくるような、芦東山の基本哲学があったという考え方をするようになりました。そのテーマの一つに「人日」というのがあって、これをテーマにして太陽の歌、「太陽吟」という歌が詠まれているのでございます。

 

<芦育平著「芦東山先生伝」をテキストに>

 そしてそういったようなものの簡単な紹介を、私は何と、まことに恥ずかしいですが、今は休業して店を閉じてしまった仙台の朋文堂から、現在は文八郎さんのお父さんでいらっしゃる「芦育平さん」が、こういうかたちで「芦東山先生伝」というのをお書きになっておられる。私はこれパンフレットみたいなお粗末なものと軽く見ておりました。このごろ勉強し直して唖然といたしました。この本はすばらしい本ですね。皆さん方もぜひ手にしてみてください。もし手に入らなかったらこの本お貸ししますからコピーして、これでもって芦東山先生の勉強をしなおしていただきます。

 これをこの勉強会の「いろは」の(い)にしてください。第一号にしていただきます。その中でも特に芦東山の漢詩、和歌について触れたところが、晩年のところでかなり詳しく触れられています。ここの勉強をしていただくことです。そして歌を詠んで、和歌を詠んで、こんなふうに、これ「道歌」、説教、教えになる歌を「道歌」というんですが、こんなに現代に生きる「道歌」になっている和歌、短歌というのを、私見たことがありません。詠んだことがありません。本居宣長のような歌などを詠んで、それをこの東山の和歌に比べみましたら、足元にも及びません。特に皆さん方のように、磐井の地方学をとおして日本を見て、磐井が分かれば日本が分かるんだということを、もっとも分かり易く簡単明瞭に言いきったのは、芦東山ですよ。ですから私は、これを磐井地方学の根本の哲学にすることができる。それだけの深い意味を持ったものだというふうにご理解いただけます。

 

<室根から日本が観えた東山先生に学ぶ>

 この前もチラッと紹介いたしましたけれども、その歌にこういうのがあるんです。

 「みちのくの ひんがしやまのひんがしを 見てこそ知らめ 日の本の日を」

みちのくの東山の、東の果てから上るお日様をよくよく見ることによって、これがすなわち日本の夜明けを意味するお日様なんだと、こういう意味なんです。

 それからこうも言っている。

 「にしへ行く 人もかへりて ひんがしの 室根をふじと おもひぬるかな」

 室根山がすなわち富士山なんです。ここから富士山のこころを分かるような見方ができるようになって、はじめて磐井、室根というものの勉強が身についてくるんだと、こういう言い方なんです。私が「室根地方学」などと言っていることを文学的に表現すれば、芦東山のこの二つか三つの和歌に集約されるという気がして、私、ほんとうにすばらしいお方だと思います。

 一言でいって、このように室根だの磐井だの、他所の人からみれば岩手県の限られた、顕微鏡で見ないと分からないような土地が分かることによって、日本そのものが分かる。ここから日本というものを、ほんとうによく見ていける眼が開いてくるという、そういう言い方ですよ、これ。そしてこれを芦東山という方が、室根のお山にひと晩寝転んで詠んでそういう自覚に達したというようなことも「室根」の歌として詠まれているのでございます。

 私はそういうことを考えて、例えば芦東山などという方の勉強、無刑録は勿論です。やらなければいけませんけれども、こういう誰でもが読めるし、ある程度分かるような、そういう材料がそこにちゃんと出されているのに、こういうものが磐井学の勉強、あるいは磐井郷土史の勉強の基礎にならないような勉強をするというようなことでは、いちばん大事なところが棚上げされているということになります。  

 私はそんなかたちで「芦東山記念館」というものも出来たようですから、そういったようなところの勉強も大事に取り上げられるようなものとして、こういう勉強会のようなものが発足しても宜しいのではないかと、そんなふうにさえ考えているのです。そういう勉強を皆さんは、この小さな芦育平先生の「芦東山先生伝」に依って、勉強するような会を持っていただくということ、これが新年度の一つの分科会の目標ですね。そういうことにして下さい。

 

<「人日」の日>

 さて、その芦東山という方が特に力を入れて掘り起こしをされた歴史の一つが「人日」というものでした。「人の日」というものでした。これは中国では古くからそう読まれておって、このことがよく分かれば、私たち日本人の正月観、正月の見方などというものも一変してくるはずだと思っていますよ。また「成人式」などというものは、いったいどういう心で日本人になる、人間になるということを勉強させるかということを、学校の先生とか市長さんとか教育長さんとか、そういった方々が勉強しなおすときの教科書として、これを学びなおしていくということが最も大切だと思います。

 

<「七草」は本来「七種」の動物>

 私たちは「七草」と言いますね、正月の。それはたとえばこの正月のこれとこれとこれとを「七草」というと、そんなかたちだと思います。ところが「七草」とは、そういう七つの食物、野菜のことを本来言っているのではないんです。これは「七草」という別な意味をもったことに、草だという意味で「草」という植物に読み替えられて「七つの草」というふうに言い、それで「せり」、「なずな」、次は「ごぎょう」、次はこれというふうにしている。実はこれ、二番目、三番目に置くものなんです。

 「七草」の「草」というのは、種類の「種」、「七種類」という意味です。その「七種」というのは、草木、植物ではなくって、本来は動物だったんです。家畜だったんです。そういう私たちにとって掛け替えのないつながりを持っている、大切な七つの動物をまずちゃんと踏まえて、その一番上に来る人として「人間」、人というものを置いて、それを「人日」という。そういう自覚を徹底させる「人の日」という意味で「人日」と言う。そして「ななくさ」というのはその七種類の動物について「ななくさ」と言っている。それは私たちが十二支で数えているあの動物の中で、大部分が家畜、もしくは食用に欠くことのできない動物、七種類を「七草」と呼んだんです。したがって「七草」の「草」は「七種」と書くのが本当なんです。それを日本語で「くさ」と呼んで、その「くさ」に漢字の「草」に当てて「七草」という。後でそういうふうに、だんだんに「七草」に合わせて、こういう習慣も起っては来るのです。しかしはじめは七つの植物からくるのではないということ。これは二番目に「七種」のそういう基本の動物に合わせて、植物にも清めていったものだという、こういうふうに考えないといけません。

 どういうことであったかというと中国では非常に古く、おそらく漢代では既に形式化していますから、したがってもう「周」のあたりから始まっていたことだろうと思いますが、正月一日には鶏を占うという、二日には犬を占う、三日には羊、四日には猪、五日には牛、六日には馬と、この七つの我々に掛け替えのない、関わりの深い動物の吉凶を占って、今年はうまくいくのかな、動物がたくさん子を産んでくれるのかなとか、そういったような吉凶をちゃんと占いを立てて、その総括として正月の七日が人の占いになってくる。この動物に劣るところがないのか、どこが勝っているのか、どうすれば立派な人間になるのか。そういったような総括が。この七つの占いの七日の日を、「人」の占いの日としている。したがって「七種」の終わりにしておって、「人日」というものが欠けているのが今の私たちの習慣です。一番大切なものをカットしてしまって、それらを踏まえて人の占いにこなければならない前段階だけで終わってしまい、七草の祝いというのはそういうことで終わってしまっている。七日の「人の日」というのが忘れられてしまっているのです。それが「人日」の日ということで、これ中国では既に漢代、唐代のころから、たくさんの詩人たちが、この日、どういうふうに人を考え、人を生きるようにしていくかという類の漢詩がたくさん知られております。こういうことも私、このために勉強するようになりました。

 

<毎月の七日を「磐井人日」の日に>

 私はこの正月七日を「人日」の日というふうに定められている、この「人日」というのを正月に限らないで、毎月この日をもって私は「人日」の日というふうにして、毎月のこの日を私たちの勉強会の日というふうにしては如何かと考え、毎月の「人日」の日をですから、正月七日、二月七日、三月七日というふうに、七の日をもって「磐井の日」というふうに位置づけて、その日に勉強会をもつようにする。そういうふうにして「人日を月ごと磐井の日と集ひ 日の本あす呼ぶ学を修めむ」。こういうふうに正月七日が「人日」の日だというのは、どこでも立派に当てはまることですから、これは一般論として、「磐井人日」の日は、第一「人日」が正月七日、第二「人日」は二月七日と、こういうふうにして毎月集まるのでも良し。その内二月はカットして三月、その後五月か六月なら、それでも良いけれども、それができたら七の日を記念日として、その日に集うようにするようにしたらどういうものだろうか。そうして芦東山先生が、ひんがしに昇る日をみて日の本の日を知ることができるように、「日の本あす呼ぶ」、日本の未来というものを、この「磐井人日」の勉強会を通して自覚できるようにしていこうと、こういう考え方でございます。それ如何でしょう。

 

<「磐井人日」勉強会の目ざすもの>

 こういうふうにして私たちは、単に磐井を学ぶ、郷土を学ぶということで、実は郷土磐井をちゃんと学ぶことが、即ち磐井の上に立っている日本そのもの、人間そのものを勉強していくところまで深まることなんだと、こういう意味合いがここに込められておって、そういうことであれば、この勉強会というのが、かえって他所の、日本とか地方と独立して勉強するようなものではなくて、磐井に関わるかたちで、その根本を追究していくことで、日本そのもの、世界そのものを見ていけるようなところまで深めていくことになる。そういうに勉強会というものを進めていったら如何なものだろうか。これが私の考え方です。

 

<孟子「道は近きにあり……」>

 そしてそういうことを古典の出典に求めるならば、これは孟子の「道は近きにあり。而してこれを遠きに求む」というようなこと。これもズバリ、このことですね。人が勉強しなければならないいちばん大事なことは、私たち自身が踏まえている大地そのもの、身の許にあるんだけれども、何か立派なことというと、遠くに、都に、あるんではないか、アメリカにあるんではないかというような考え方をして、足元を投げすてて他所を見ている。だから勉強にならない。孟子の言「道は近きにあり 而してこれを遠きに求む」。「ことは易きにあり、而してこれを難きに求む」と、こういうふうに言って、そしてこの心を孟子は、更に徹底して、これは大事な根本を忘れてしまって末を求めていることになるというので、したがって学問の道は他なし、放心を求むるのみで、失ってしまった根本の心を、第一の心を求めなおす、捕まえなおすことだと言っているんですが、これは我々の言葉で言うならば、我々が生き育ち、そしてその上に立っている「ふるさと磐井」というものから、すべてが見えてくる筈のものだと云う、その根本の心、哲学を忘れている。その哲学を忘れた心を呼び戻すこと、それが学問というものだと。これを「放心を求む」というふうに孟子が言っているのです。

 私はそんなようなところまで広げていくならば、安心して磐井の郷土史学に徹底することができるということ。これまずその第一ですね。

 しかしそれでは、盛岡が見えない、東京が見えない、ワシントンが見えない、モスクワが見えない、北京が見えないような磐井でも日本でもないんですね。それを深めることによって根本のものが見えてくる。「放心を求む」というときの心というのは、その根本の心を求めるという意味なんです。ですから安心して進んでいく。それでそういう心を、ずばり芦東山が「ひんがしに昇る日の心が分かる人が、日の本の日」という、日本の太陽の心が分かる心だと云う、こういう言い方に詠んでいる東山先生の精神だと、私はこのように考えるのです。

 そして何となくそれはこじつけのように、歌だけのようなかたちに、皆さんも思われるでしょう。ところが私これは、ちゃんとした歴史事実を芦東山という先生は踏まえて、そうおっしゃっているんだと思うんです。芦東山という方は、もう中国の歴史、漢文などの殆ど大事なものはみんな諳んじている方です。そうでなければあの「無刑録」などという、あの漢文の書物は書けません。

 

<「唐書」中の「日本」は、「倭国」と別国>

 さてその書物の中に、これも皆さん、大事な本として記憶だけしておいていただきますが、中国の唐のことを書いた歴史書を「唐書」という。この「唐書」は、新旧二種類あって、古いのは「古唐書」、それから「新唐書」。この中に日本のことがちゃんと記録されている。これは宋代に出来ましたから、だいたい今から千年前に出来た中国の本です。その中に日本のことが二種類に分けて書かれているんですよ。

 第一は「倭国」です。「倭国」は日本のことだとみんな思っていますね。しかし違うんですよ。中国で唐の時代まで、「倭国」という呼び名、「倭人」国という呼び名はありましたが、「日本」という呼び名はありませんでした。ありませんでしたよ。そういう発想もなかったんですね。良いですね。

それに対して「日本」という言葉が初めて登場するのは、この「唐書」においてなんです。唐の時代にです。そして良いですかその次。中国におけるこの「倭国」と「日本国」というのは、同じものでありません。二つ別々の国なんです。良いですね。倭人の国の「倭国」というのは本国です。「日本国」というのは、その倭人が創ったところの一つの地方の国、地方の人々を、特別に倭国の中の「別種」として、これを「日本国」、「日本人」と呼んで、二つに分けているのです。

 

<変更国名「日本国」 その経緯>

 そしてなぜ日本であるかというと、そこは「日の本、お日様が昇る国」だからという意味で「日本」というのだと、こういうふうに呼んでいる。

 ところが「最近になってですから、これはちょうど唐のはじめころ、隋代のころですから、ちょうど日本でいえば聖徳太子から大化の改新のころにかけて、七世紀の初めから半ば頃にかけてのことになります。その頃になって、この倭国・本国と日本国とが戦争になって統合され、併合されてしまった。そしてそれを、古い一つの伝えでは、別国・日本国が本国・倭国を併合した、征服したとも伝えたり、それから逆に、倭国・本国が別国・日本国を併合したと、二つ伝え別々になっているんです。

 何故そういう別々の伝えになっているかというと、日本から遣唐使として中国に行った使者が、何となくそこのところを曖昧にして、どういう事情で一緒になったのか分からないような説明をするので、どうもどれが本当だか分からないというので、この伝えが二種類載っている。但しはっきりしていることがある。それはこの本国・倭国と独立した、もう一つの国である「日本国」とが合併して、一緒になった段階で、倭国・倭人の国という名称が消えた、消された、否定された。そして改めて統一された国が「日本国」というようになったと、こういうことです。ですから、そういうことであれば、「日本国」が「倭国」を征服したから「日本国」になったとも、逆に「倭国」が「日本国」を征服した段階で、「倭人の国・倭国」というのが、何となく小さい、軽蔑された言葉であるために、この言葉を倭人が「倭国」といわれることをたいへん嫌っていたので、この機会に「日本国・日の本の国」というのを正式の国号に改めて、「倭国」という名前をカットした。

 それでこれを受け入れた「中国」でも、それから「倭国・倭人」という言い方がなくなったんです。それで「唐」の次、「宋書」から、倭人伝とか倭国伝というのはなくなります。全部「日本国伝」と、そういうふうに変わっていくのです。

 

<どこに「日の本の国」があったのか>

 さて「倭国」に対して「日の本」という、お日様が昇るところは何処の国でも東です。西は日が沈むところ。そういうことになれば「日の本の国」というのは、当時「倭人の国」、倭国で知られている東の最果ての土地、地域、方面について「日本国・日の本の国」という言い方がなされていたということが、これで分かってきますね。

 そうすると広い意味において「東国」といわれているところ、その東国の最果てが、まだ東よりの最果てが、すなわち「日の本の国」という、「日本国」という国号が、「倭人」とは別種の国の人たちの国として出来ていたところを指したんだということは、これで明瞭ですね。明瞭になってきます。

 

<東山先生の言う「ひんがしのひんがし」が日本国>

 芦東山先生が、この「倭国」から区別された「日本国」というものを考えて、その「ひんがしのひんがし」、最果ての東から昇るお日様というものをもって、「日の本」本来の日(太陽)というふうに言ったということ、まことに正確ですね。そしてその「日本国」というものを国号にしたわけですから、新しい国号の「日本国」というのは、この本来の「日の本の国」の日(太陽)というものをもって、新しい日本の日(太陽)というふうに見るようにしたという、これもはっきりしているわけです。

 こういうふうに考えてくると、日本の中の最果ての東の国である地域、東北・磐井というような地域のことがちゃんと分かってくれば、日本本来の姿というものが見えてくるはずではないかという、この歌の心というのが何の誇張もない。このとおりなんです。本来のお日様が昇るその「日の本の国」の、ほんとうの姿を知ろうとするのであれば、我々はこの最果ての東の国というものを徹底して理解する。そこのところから本来の日本の姿というものが照らし出されてくるはずではないかと、そういうふうに考えていらっしゃいます。

 

<東山先生「磐井学」の「室根山」>

 それと向き合うお山が「室根山」だというのが、この芦東山の考え方です。そしてこれは、古代においてはある程度定説になっているんです。室根というところは北関東から東北の南部あらゆる地域の海岸の人たちは、「室根山」をもってお日様を拝む、海上航海のための「守り神が座すお山」だというふうに考えていた。それはここのところが東の国の海を照らす日の本の太陽を、そこのところで受け止めることができる山だからという、こういう考え方です。この信仰はそれから後も、ある程度生きてくる。今日の室根山信仰などというのは、根本そこまで行かなければいけません。今日はこれをただ海上交通の守り神という程度になっているのは、東日本の海上安全というのが、この室根山がお日様を受け止め、ここから日を照らし返すかたちでもって安全を守っているのだという、こういう考え方にたっているのです。

 そうすると如何でしょうか。私たちはここまでもし考えることができるならば、芦東山のこの一首の歌というものを通して、「日本国」発祥の言葉の起源にもなれば、「日の本」の起源にもなった「日本」というものを理解し、それが中国においてもそのまま受け入れられるような国際的な理解になっての歴史事実を踏まえた東山先生のことばということが、こんなふうに無理なく分かってくる。

 

<地方磐井学が日本学になる哲学>

 私は簡単に、十分・二十分でもこんな話になる。皆さんが「人日の日」の分科会でもって、時間をかけて勉強をしたならば、これを一層深めていくことができるようになる。私は、そう考えてみましたならば、「地方日本学」というものは、「磐井学」を徹底させることによって、無理なく、理論的にきっちり展望が開けてくるという感じがしませんか。今の学者たちの理論というのは、こういう哲学を踏まえない科学になっているために、こういう形而上学、宗教に、そういう深い哲学をふまえた学という理解になりかねているんです。まして郷土史などというのを中央史から区別して、違いが分かれば分かるほど郷土史的になるんだという、その面だけを強調するような郷土史というのでは、「地方学」になりません。まして「日本学」にならない。私はそういったようなことをかなり徹底して理論的に深めたいとねがっているのです。

 

<「平泉」問題をめぐって>

 こういうことをもう一つ、先ほど問題になった平泉について考えてみます。私は平泉がほんとに指定を受けるかどうか、私はぜひそうなって欲しいと思います。しかしながら、もし問題点があるとすれば、平泉というのがあまりにも地方的、ローカル的な事実というものを強調するような、拡大するような形で広げているけれども、本来は、最も広い、いわばマクロに届いたものをミクロで表現して、金色堂になり、中尊寺になり、平泉文化になったのだという考え方をしなければいけないのに、ミクロというのをそのままにしてマクロを考えようとしている。そこのところに問題があるのでないかと、こういうふうに思っています。

 この問題を根本的に考える哲学、書物。それはマルコポーロのジバングです。「東方見聞録」です。まず皆さんは「東方見聞録」というのをお読みになって不思議に思われたことがありませんか。私はこれ、今もって学者の勉強というものがまことに不思議だと思っており、新渡戸稲造先生が「専門センス」というものを、ホントウに苦々しい眼でもって、軽蔑する眼でもってご覧になっておられた、あの「コンモンセンス」の理解というものに、心から敬意を表するものです。どういう不思議なことがあるか、もう一度みなさん読み直してごらんなさい。読みなおさなくても記憶にあると思いますが、マルコポーロはこういうふうに書いているんですね。

 「日本国(『ジパング』と言っている)。これは東方海上の最も離れたところにある。このジパングというところには中国から誰も行ったことがない。商人はここで貿易などしたことがないために、ここは金が無制限に、無尽蔵にあるところだけれども、誰もこれを輸入した者がない。だからジパングの人々は、あらゆる人たちがみんな山ほど金を抱え持って、みんな金づくめであり、そういうふうにして国王の宮殿も金づくりで出来ているんだという、こういう話になっているのです。

そして学者の研究家は、それをどういうふうに理解しているかというと、日本は産金国として、中国ではここから金を輸入しておって、これをよくよく調べてみると日本国では無限の金というものが、ここのところにはまだまだ隠されていると思うと。そういうものを踏まえて国王の宮殿などというものも、あらゆるものがみんな金づくめで出来ているんだという、そういうことを誇張して、マルコポーロというのは三百代言みたいな、ウソを山ほど吹く人だったから、「ほらふきマルコ」と言われた人ですから、ほらを吹いて無尽蔵に金があるんだというお話しにこれを書いてあるんだという程度に理解しているんです。

 

<マルコポーロのジパングは「日の本の国」陸奥国のこと>

 私はこれ、まことに不思議に思っているんです。いくら嘘をいうと言っても、マルコポーロは中国に二十年ほど住んで、官吏にも登用され、中国の外国人官吏の一人になっていたのです。そうとすると二十年もいたら、中国と日本とどんな関わりを持っていたかというようなことは、百も承知のはずです。遣唐使などいうものがしょっちゅう行き来している。遣唐使の公けの交通連絡がなくなった後といえども、宋の時代になって九州の大宰府からは、たくさんの貿易商人たちが中国と貿易をしているけれども、その主要な貿易品というのは、日本からの輸出品をすべて金にしている。そういうふうにいって、日本との交通がもう頻繁に過ぎるくらいに盛んに行なわれているということを百も知っている人が、日本国には商人が誰も行ったことがないから、この国には金などというものが無尽蔵にそのまま残っているなどということは、話し言葉としてさえもあり得ないことなんです。あり得ないことです。どうしてこういうことになったか。私はこの謎ときは簡単だと思います。

 マルコポーロが中国に行く直前まで、新しい日本国は「倭国」だったんです。それに対して「日本国」と言われているのは、これと全然別個の独立した、「倭人」も滅多にそこのところには行ったりしない離れた田舎、辺境地域だというのが、本来の「日本国」ということで、この事実はマルコポーロが行く直前というほどではないですけれども、唐代まで厳然とした事実としてあって、この二つのものが一本になって統一日本国になっていく。マルコポーロがちゃんと知っている日本国との貿易というのは、その統一された新日本国のことなんです。

 それに対して「誰も行ったことがない」とかいうような国は、まだ統一される前の日本、独立した日本国が、亡霊のようなかたちで、話の中で生きている物語りだというふうに考えてみると、これが七割八割真実になってくるのです。そして当時、この金というのは新しい日本国の中では「陸奥(みちのく)」といわれた、当時で言うならば古い日本国の中でも「ひんがしのひんがし」といわれた東北地方だけの特産だということは、中国でもはっきり知られているんです。奥州産しか日本から金というものは出ないと、こういうことになってくる。そうすると「古い日本国」という言い方が生きれば、これは産金国と一本に重なってくるのです。そして誰も行ったことがないというのは、滅多に行ったことがない謎の国、産金国という意味だったら、このマルコポーロの誇張した言い方というのは、十分に足のある幽霊物語ということになるわけです。

 私はそんな考え方をすることによって、このマルコポーロの産金国の「ジパング」というのは、「古い独立日本国」というものをモデルに創りあげられた、七割八割は話し物語だけれども、踏まえている事実は歴史にちゃんと基づいている。そういうものを踏まえて、奥州だけが産金国で、その金を独占している国の政治家が「平泉」だということになってくれば、そこのすべての公の君主の威力の及ぶ建物のすべてが黄金づくめだというのは、全然無理のないことです。

 そして平安時代の末期の「阿弥陀堂」というのは、ほとんど支配者の、言ってみれば入り浸りの宮殿、別荘のようになっていましたから、英語でいう「離宮」に当るようなものが貴族の「阿弥陀堂」だというふうに考えてみれば、藤原道長だの頼道などは「阿弥陀堂」で居眠りしながら命令を出したり、話を聞いたり、許可を出したり、そうしているわけです。

 平泉の清衡、基衡、秀衡も、似たような考え方をすれば、中尊寺「金色堂」だの、中尊寺毛越寺「阿弥陀堂」などというのは、「宮殿」扱い、「離宮」扱いになるというようなことは何にもおかしくない。現に基衡などという人は、毛越寺の金堂に入りびたりだったと書かれているんです。そしてそういったような話を物語風にアレンジしていけば「宮殿」になるなんてこと、一向おかしくない。

 こういう勉強を、もし学者がきっちりしたならば、平安時代の「浄土教」というものが、どんなふうな阿弥陀佛の信仰になっていったかという勉強をやって、そしてこのジパングの独立日本国、産金国というものと結び合わせていったならば、マルコポーロでなくともこの程度の物語は、現代人だって結構面白おかしく書けるような物語になってくる。それを歴史になるところまで掘り下げていって、これは歴史、このあたりは半分の歴史、このあたりは純粋の物語と、そういうようにしていくのが「地方磐井学」というものになり、その磐井学が「地方磐井日本学」になるということは、皆さんこういうことで賛成でありませんか。ただ「日本学」が、「地方学」が、「郷土史学」が、こういうところまで掘り下げた勉強をしていないから、分からない人は嘘だとか、全然知らない人はそのまま百パーセント鵜呑みにして歴史にしているとか、そういう違いがあるだけです。それを両方から埋め合わせて、事実と物語りがかち合うところ、かち合わないところ、しかし何故そういう混同が起こったかということ、そういうことを無理なく理解していけるような勉強の仕方をしていく。それが「地方日本学」というものになっていく。磐井の地域はそういった問題を無限に含んでいるのです。無限に含んでいる。

 

<「遠山村」や「貝鳥貝塚・磐貝公母體」も地方日本学そのもの>

 「遠山村」などというのは、東海道・東山道のきわまったところというふうな考え方が成り立つとすると、これは日本列島が公的にここのところで一応閉じ終わって、そしてそこから北に、新しい「日高見・蝦夷の国」というものが開ける。その接点になるということですけど、これは日本の歴史を大きく二つに分けて考えなければならない問題の接点になってくるのです。

 「貝鳥貝塚」などというものを、考古学的に、歴史考古学的に徹底して深めていったならば、これは海の日本がどれだけ陸地奥深く入り込んで、その海が陸を何百キロとも流れてきた大きな日本を代表する川と一つになって、ここのところに新しい世界を生み出してくる。それが「流れ海」というもの。今日、磐井のこの地域が「流れ」といわれているのは、そういう意味合いのものなんです。そう考えてくると、ここのところにたくさんの貝塚が営まれるようになっているなどということは、全然おかしくないことですが、おかしく思われるところは、この貝塚にたくさんの海産の貝も含まれているのに、淡水の貝が全部であるような言い方でこれをまとめるような学説が出来てきている。これはまことに不思議なことです。これは海水産と淡水産の接点として、ただ淡水産の貝が、北上川の水がここでせき止められるために、ここのところに集中するようになって、淡水産の貝が集中してここのところに見られるということは事実でしょう。しかしこれは海水がこれをせき止めているからこうなるので、そうならないとこういうことはあり得ない。ということは海水産がこれに劣らないかたちで、ここのところにもたくさんなければ、淡水産が集中するということもあり得ないことなのです。こういうまことに筋の通った話が、学者の研究の中で、淡水産貝塚の最北端として知られていると言うだけで、何かこれだけで全部終わるような説明になっているということで、いったいこれで科学になるものだろうかという心配を私なりにしているのです。

 私は「磐井」という名前それ自身が、この貝から、磐貝・石貝といわれているところから出てきたのではないかとさえ思う。これ私の考え。それでもしそういうことであるならば、こういうことがどんなに新しい磐井の勉強の展望になってくるかということが、目に見えてくる。それを考えるための勉強会。これも是非、その「人日の日」の分科会で話題にして下さい。

 ご承知のとおりに、あの「盤具公母禮」(ばぐのきみもれ)と言われている話がありますね。これ「磐」が「盤」、その下が道具の「具」、これは「貝」の字。これを何と読むか分からないために(ばぐのきみ)とか(いわとものきみ)とか、さまざまに読んでいるんです。「母禮」(モレ)が「母體」(モタイ)だろうということはほぼ間違いありません。私はこれについてはっきりとした見解を出しております。

 私は「古代語の東北学」というものを主張しているんですが、この「磐貝」、基盤の「盤」。これははっきり、都の知らない人が間違って書いたので、「皿」は「石」に書いて、これは磐井の「磐」になると。それから道具の「具」、これは明瞭な字の誤りとして、これは「貝」の字。「貝」の字が間違って道具の「具」。ほとんど字が似通っていることは明瞭ですよ。したがって「盤具公」は「磐貝公」とするべきものなんです。この「磐貝」というのも、事実を知らない人がこういうふうに書いたのであって、結論的にこれ「磐貝公母體」(いわがいのきみもたい)が本当です。この「磐貝」の当て字「磐貝」は、現在は「いしがい」とも呼びます。これが淡水産が中心になっている貝だということが発掘によって証明されている「いしがい」。この「いしがい」はこれ「いわがい」と言うのが本当だと思います。そしてもしそういうことであれば、この地域における「流れ海」、たとえば「貝島(貝鳥は間違い)貝塚」の主要な遺物である「石貝」というものを「磐貝」と読み、それを恰好よく「イワケイ」と言い、それを漢字にまとめて現在の「磐井」というふうに改めるようになった。こういうふうにするとこれは、田村麻呂時代の「アテルイ」と並ぶ指導者であった「磐貝公母體」の「磐貝」というこの字、すなわち、この地方地域の指導者の名前の中に「磐井」という言葉が見事に代表されておって、そういうことからすると「磐貝公母體」というのが、磐井の最北端(母體村)に居られるというのは、大和政府側からの征服が進んできたため、本国をだんだんに追われて北に行き、そして胆沢の指導者である「アテルイ」を北に、「モタイ」は南に、境を接して同盟関係を結んで政府側に抵抗する。それが田村麻呂時代における「磐井合戦」というものの真相になってくると、そういうふうに考えてくると、郷土の「磐井」というものの起源を遡るようなかたちで、日本史に大きく結びついていく歴史の学習もできなくはない。このとおりであるかどうかは、ひとつ磐井の「人日の日」の会にお任せいたします。でもいずれにしてもこういう勉強が、「地方日本学」になることはほとんど疑いありませんね。

 

<会員自体の勉強こそ原動力>

 そしてこういうことが皆さんの常識になったとき、はじめて「みちのく中央博物館」などということが何ら誇張でなく、まして平泉のようなものが中心にあれば、むしろお釣りが来るくらい、全くその資格にふさわしい仕事になってくる、事業になってくるということを、指導者である政治家やそれからそういう公の方々も、みな認めてくるところまでいくことは疑いない、間違いないことです。ただそれが現在、宙に浮いて、それが何となく誇大妄想のように見えるのは、こういう勉強がまだ全然できていないからです。私は皆さんがたが、この「人日の磐井の会」でもって、こういう勉強を一つ深めていただくようにお願いしたい。