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第3年目学習展望への期待

    第3年目学習展望への期待            平成20年4月20日
 

 <「河崎柵」遺跡発掘調査で出土した「和同開珎」問題に関わって>

……「河崎柵」発掘でもって「和同開珎」が出たということについて、何かそれを「河崎柵」問題と一括したような格好に考えているところに、もう根本的な問題があるんです。

 「和同開珎」が問題になるかぎり、その遺跡はもう奈良末、平安に近いということなんです。つまり「覚鱉城」にしかつながっていかないんです。そういう意識がないために、あすこの遺跡が一括して、何か「河崎柵」遺跡というようなことになっていますけれども、今出ている、掘られている遺跡のかなりの部分は、「河崎柵」以前の遺跡ですよ。だから「河崎柵」以前の遺跡となったら「覚鱉城関係」の遺跡、住居址などというものを考える場合に、その貨幣が出た地域に関しては、これが動いていないとすればこれは官舎的、つまり城柵か、もしくは城柵を管理するための役所か、そういったようなものと考えるというのが常識なんですよ。その常識がそこで動いていない。それから「蕨手刀」も出ているとすれば、それは疑いもなく奈良末、平安初期、つまり「河崎柵以前」の遺跡になるんです。但しその遺跡に、後になって重なるか、近いところに「河崎柵」が立てられたと、そういうことになるんですね。

 だからこれ一括して問題になってくるんです。ですからそれを区別する勉強をする、ですからそれを別の時期にもってください。それからその地図をコピーしていただけないでしょうか。

 

<「中尊寺落慶供養願文」・「無刑録序解」・「和蘭医事問答」・「花泉ご先祖祀り」>

 そんなかたちで「中尊寺供養願文」などということを話題にするというでしたら、私はここのところに何方かいらっしゃるかどうか、芦東山の「無刑録」というものについて私も実は、これは今考えている僕の本の中の一つの大きなテーマにしている。そして「無刑録」というのは全部難しい漢文についてだけ言及されているんですね。ところがここに畠山先生もいらっしゃるけれども、いったいこれを最も易しいかたちで、しかも真っ先にやっていただかなければならない「無刑録研究」というのは、実は日本文で書かれた和文の「無刑録序解」入門という文章があるんです。これが「無刑録」巻頭に、真っ先に出ているんです。そしてここのところに無刑録の全体が総括されているんですよ。しかもその総括の仕方たるや、十八巻にわたる膨大な漢文全体の総括でなくてね、第一巻の「刑本」といわれる部分の詳しい解説に終始しているんです。そしてここのところの理解ができれば、全体は、この言ってみれば真似たり、これを模範としてやる政治であり、刑法であるという行き方になっているんです。それが日本語で書かれているんですよ。で私、先ほどお話しがあったようにね、原典がどういうものであるかということを問題にするときに、こんな易しい原典があるのにね、無刑録の研究、現在記念館が出来たりしてどうなってるか分かりませんし、立派な文八郎先生のような方がいらっしゃるので、私差し控えるのですが、この席でははっきり申し上げておきますけれども、この和文入門の「無刑録序解」ということの勉強を、これをきっちり読んで、これをこなすことが出来たら、極端に言えば素人にとっては漢文の無刑録を読まなくとも、これが無刑録だということを、資料に基いてこれを話すことができるようになっているんですよ。ところがこの和文の「無刑録序解」というものが、完全に無視されたかたちになっている。無視されている。そして分からないかたちの漢文に必死にしがみついてですね、「あーでもないこーでもない」と言って、どこまでどう読んだか分からないかたちで結論が出されているんですよ。私は今度の私の本では、ここのところ原文をそのまま紹介して、これが分かれば素人にとっては無刑録はこれで七割八割これで卒業だと、大学でいうならば前期2年くらいは、これを読んだならば卒業証書出ますよ。そして後期2年から大学院の証明書は漢文を読まなきゃ駄目だ。ところがそういう勉強が、何とお膝元での、文八郎先生の本でも、和文のこういうものがあるという紹介しかない。そして後は、ぎっしり漢文のところを全部言うとたいへんだから序文だけちょっと紹介するというような格好で書いている。これでは素人の人たち、一般の人たち、何が何だか分からない。ところがこの日本文の序文をお読みになったならば、全体がスカッと頭に入るんです。漢文読まなくたって、だいたい分かるんです。そして専門コースになり、博士になりたいという人だけが、漢文を読めば良いんであって、皆さんはそういう心算無いんでしょ。大学の2年生くらいで充分。そうですよ。この必修過程を選択過程にさえも入れないで、そして無刑録を議論しているんですよ。私は今回、あすこに行って原文を買って来たんです。菅原さんの車で行って買って来て、これだけはきれいに読んだんです。そしてそれだけの結論を強く持った。これを私は、新しい無刑録学習入門として、是非皆さんに紹介したいと思って、たとえば原典とか古典というのは、こういう読み方、選び方をし、こういう学び方をするんですね。しかもいちばん易しい原典を抜きにして、読んでも分からないとこだけを、分かったか分からないようなものを原典として、難しい、分からないという言い方をしているんですね。私はそういうことをちゃんと芦東山先生は分かっていたために、みんなが分かるような「入門」というかたちでこれを書きのこしてくださったのに、「親の心子知らず」なんですね。たとえばそういったようなことを申し上げて、この研究会の一部に「無刑録」のみんなの学習というような学習方法があっても宜しいと思いますね。

 それから一関はちっとも行かないですけれども、あちらでもオランダ医事入門やら医事問答集、こういったようなものを若しきっちりお読みになったならば、これ平泉など以上に世界史的な意味をもった、これは「序文」ですよ。何故かというと、この書かれているこの大槻玄沢などが書いている序文というものを丁寧に読んだなら、和漢何千年の学問の歴史を振り返ってみても、東洋でもってオランダ学などというものを、こういうかたちで学習を始めたなどということは、前代未聞のことであるというような考え方になってるんですよ。でそういうものが何と江戸では田舎学者で、名前さえも知らないような一関の医者であった「建部清庵」というような人の「和蘭医事問答」というもについて、玄沢という人がそういう序文を書いて、これこそが日本の歴史に新しい転機をもたらした学問のはじまりだという言い方になっているんですよ。

 わたくしは磐井地方学というものは、こういうものを古典として、ぎっちり勉強していったならですね、もう無理なく「日本学」じゃないですか。この考え方によれば日本から拓いた世界学という、東西合体した学問の窓がここから開くという、そういう問題提起を建部清庵という人は江戸に向けてしているんです。

 たとえば、こういったようなものを一つ取り上げてみても、皆さん方の磐井地方学というものが、磐井地方をとおしての「日本学」になってくるということで、何の誇張もなく分かってくる。原典をちゃんと読めば、そういうことが言われているということ、こういうことが「無刑録」について、それから「和蘭医事問答」について、更に「供養願文」について、言うことが出来るんですね。 

 だから皆さん方は、あんまり抽象的にそっちこっち右往左往するのでなしに、身近にあって誰でもがご存知の、こういうものを一つじっくりと辞典などとにらみ合わせて読んでいくという学習会をもったならば、それだけで日本学になるんですよ。日本学になったんですよ。何の誇張もない。市長さんだの教育長さんには、これをご覧なさい。東西何千年の歴史はじまって以来の新しい学問のはじまりだ。何と建部清庵という方、大槻玄沢という人たちは、蘭学をそういうかたちで評価して、その蘭学の問題提起というのは一関からはじまっているんだという、こういう見方なんですよ。そしたら何の誇張もなく地方日本学になるんですよ。

 ところが私がこういうこと言えば、何となく高橋先生は発破かけているというような受けとめ方でしょ。地元の方々がほんとうの「宝の持ち腐れ」ですよ。「宝の持ち腐れ」。私はそういうことを、ここにおられる方々に申し上げて、出直していただきたい。たとえばさっきおっしゃった人骨ね、これ私は、平泉ではこういうこと申し上げませんが、ここで言いますよ。平泉に遺されてる人骨は、歴史上の有名人の人骨だから、これ大切なんです。無名人の人骨が、あんなかたちできっちり残っているということになってきたら、これは平泉のような偉い人の歴史でなくて、無名人の歴史として充分に平泉に雁行するところのものになってきますよ。わたくしは、このための特別な慰霊祭だとかお祭りなどというのを、何故おやりにならないのか不思議に思っているのです。

 皆さん方は地元の田舎育ちで郷土自慢をすることにしていながら、自慢すべきものをきっちり勉強していない。あの人骨などは、私は中尊寺のご遺体並みの大切な扱い方をするように、ひとつ改めて問題提起をしておきます。そして是非この特別な慰霊祭、お祭りを今年やってもらわなければ。わたしこの中で最高の敬意をもった「祭文」を朗読させていただきます。つまり、そのくらい大事なものを私たちがもっているにも関わらず、まったくあれですから、これは幽霊になって出てこないのが不思議ですよ。何でおれをお祭りしてくれないかという(発掘のときに和尚さんを頼んで供養したのが一回あります。それ以前は全然ない。これは何もそんなに、当時は蝦夷ということで悪者扱いをしていたんで、実質のお祭になったのではない<千葉達夫さん>)。それでは一関の市民全体の先祖様になりますよ。(みんなもって行くとは何事だと、夜中に盗んだんですよあれ。<千葉達夫さん>) だから良く盗んできましたね。これは学者以上の発掘です。学者の発掘というのは、先ほどの川崎での調査で「和同開珎」が出ても、「河崎柵」の中にこれを入れた研究なんていうのは、これ正直言ってこれから先は却下です。これははっきりと、河崎柵からはずして、覚鱉城に結び付けてこれを考えて、河崎柵はそれにダブったかたちで置かれるようになっているんだという、そういう常識が出てくるような学問、それが「磐井地方学」なんです。磐井地方学というのは、そういう勉強をするんですよ。皆さん方みんな学者ですよ。大事なところをみんな落としてしまっている学問をしているんです。磐井にとって私は素人ですよ。でも常識で考えて、そういう結論しか出てこないんですよ。新渡戸稲造が出てきたら「これがコンモンセンスだ」と言う。そして「学者の研究は専門センスだ。どこかぼやけてしまっている」と。そういう考え方になります。そういう学習をやっていくことが、この会の目的です。そのためにね、こういうきっちりとした原典に基いて、こういう考え方をしていくということが、先ほどお話にあった確かな原典に基いての勉強をするということになってくる。そういうことなんです。

 

 (総会論議終了後、改めての記念講話)

 <「遠山村」> 

 ある程度、私の第一部が終わったかたちですので、第二部を申し上げます。その前に、先ほどの報告の中の補足を一つさせていただきます。磐井と気仙とのつながりを考えるということ大賛成で、そうしないと「遠山村」にならないということもありますが、もう一つね県境を越えて本吉郡、気仙沼、これとの関わりを是非とも気仙並みに考えるようにしてはどうかと。何故かというと、いったいあの室根山に登りますと、室根山というのは気仙沼に向ってできている山ということになって、あの大川というのは実際は、その室根山が基点になって、その終点が気仙沼になっているんですね。ですからそういうかたちで、むしろその県境を越えて、北は気仙、南は気仙沼乃至は本吉と、このあたりまでを、出来ればこの研究の視野に入れるようなかたちの連帯関係を持つようにするというようなことも、これから先のテーマとして考えていって宜しいんでないか、ひょっとしてあそこに大島などというのがあって「計仙麻大島神社」などというのは、ひょっとしてこの大島というものとのつながりを考えることが大事かなというふうに思うんですよ。ところが今すっかり郡が分かれ、県が分かれてしまっているために、まったく別なかたちのようになっているんですが、もう室根山に登って見ましたならば、むしろ気仙の一部ですね。第一「気仙沼」という言い方自身が「計仙麻」ですからね。そうすると、「計仙麻大島神社」の「計仙麻」などというのは、実をいうと「気仙郡」よりも「気仙沼」の方に重点があるというようなことかも知れないので、こういうことも研究テーマにするようにしていただきたいと思います。

 さて私のお話、30分もかからないかたちですまさせていただきますけれども、まず私も三年目に入ったこの勉強会というものを、是非皆さん方が地元の、地元らしい勉強をきちっとする、それ「地方学」です。これは地方学(ちほうがく)と言わないで、「じかたがく(地方学)」と言ってください。但しこれが従来の地方史や郷土史と違うところは、地元のことを掘り下げることは地元に閉じこもるためでなくて、返ってもっと広い、県とか国とか、そういったようなところと、どういうつながりのもとに自分たちの郷土があるのか、地方があるのかということを知るために地方(じかた)を掘り下げると、こういうことが即ち、地方学(じかたがく)が郷土を掘り下げて東北に至る、日本に至るということで「地方東北学」とか「地方日本学」という言い方を、私が強調しているのはそういうためであって、皆さん方が「磐井郷土史」を「磐井地方学(いわいじかたがく)」として学習するのは、「日本」が観えるようなかたちで「磐井」というものの勉強をする。逆に「磐井」を勉強していると、自ずからにしてそこに影を落としている「日本」というのが、ヤマト(倭、大和)だの東京だの京都などというところから観た日本とはちがう、「もう一つの日本」というものを、そこで再発見するということになってくる。そしてそういうことをとおして21世紀、更にはもっと先の日本を、従来のヤマト型・弥生型・西日本型の日本だけが日本ではなくて、ホントウの意味での新しい日本というものを、未来に向けて拓くための窓口を、ひとつここから拓いていくと、そういうための学習であるという考え方に徹していただくということですね。それが私のこの「地方学」の勉強というものを、ここで強調する理由になっているのです。大事なことは、そういうことは例えば専門センスが、専門家であるとか、学者とか、そういう人たちにとっては何となくそれは「夜郎自大」というのか、郷土自慢というのか、そんなような素人的な発想でないかというふうなケチをつけられていく、無視されてしまう心配が、皆さんはそういう懸念を何となくもっていらっしゃる。そこで私は、この地方学(じかたがく)は、根本的な第一等史料にだけ基いての地方学(じかたがく)であるということを、ここで申し上げておきます。そのために私は、皆さん方のこの「地方学」は、根本史料というものを基礎にし、それに基くかたちでの「地方(じかた)郷土研究」だということをここで徹底していただくようにすると、そういうことになります。

 

<根本史料「続日本紀」の勉強>

 さて、そうなりますと何となく難しいことになります。そこで根本史料というものを先ず提起して、それをどう現代文に読み下していくことをその次にし、第3番目にそれをすっかり解きほぐして誰でもに分かるような資料にしていくという、そういう勉強会をするということです。

 たとえば「遠山村」というものについて、東山、あるいは気仙というものを見直していくという行きかたをした場合の、その根本史料は「続日本紀」という、これが第一等史料なんです。ここのところに奈良時代の終わりの宝亀五年から宝亀十一年くらいの五・六年にかけて、詳細な記録があるんです。そこで私はこれを全部拾い出して、根本史料としてリストアップして、それをどう読むのかということをし、読んでどういうことが書かれているかということを、誰でもが分かるようなかたちの学習をする。そこまでの勉強会を、一度、たとえば「遠山村」学習などというようなかたちで一回か二回かセットしてごらんなさい。そうしてですよ、この勉強をしたならばどういうことが分かるかというと、先ず田村麻呂とか何かの胆沢経営などというものの出発点は、この遠山村にあるんですよ。はっきりそう書かれてある。遠山村の経営が終わったということで、直ぐに陸奥の国の三千の軍隊を集めて胆沢の賊を討つという話になってくるんです。遠山村というのは、そういうかたちで、胆沢経営の、これは第一線に当たるところだ。そうするとそこに出てくる「大伴駿河麻呂」というような人は、「坂上田村麻呂」の初代だというような考え方をして、何も田村麻呂からすべて始まったんだというなのは、これは伝説、神話に過ぎないということが分かってくるはずなのに、この史料が全然勉強されていないで、そんなことが書かれているということ夢にも思わない。これが第一。胆沢経営、胆沢征討の出発点は遠山村経営にあるということが分かる。その次に大事なこと。先ほどから話題になっている「覚鱉城」というのも、この遠山村経営がきちっと終わり、サー胆沢征討、胆沢経営だということが問題になった段階で、その胆沢への侵攻ルート、あるいは逆にそれを警戒して胆沢の賊が船に乗って南下してそれを妨害する、それを防いでつまり胆沢への侵攻のルートを確保すると共に、胆沢から逆襲してくるのをここで防ぐために、そういうための政府の城として企画されたのが「覚鱉城」というものですよ。

 そこでこの城は、必ず遠山村を基地として、そして北上川というものの防衛をここできっちり固めていくということが目標になってのことですから、「覚鱉城」などというのを北上川から離れたり、かえって北上川をズーと溯って、もう胆沢の賊の侵攻にさらされるような位置で考えたり、そんなことをするようなことは、この遠山村関係の史料を全然読んでいないから、活かしていないから、そういう議論になってくるということが分かって、これだけでも「覚鱉城」というのは大きく見れば「遠山村」のうちで、北上川に沿って、そして胆沢を攻めていくための、あるいは胆沢から南下してくる賊を防ぐための川沿いの城、九州で言うならばこれを「水城」と呼んでいる、水城に相当するものだということを、黙っていても分かってくるはずです。この史料をきっちり読んだならば。そしてその決め手になるのが「和同開珎」です。「和同開珎」などというのは奈良末、平安初期でしか考えることの出来ないもので、しかもこういうものは民間でどうこうだの、住居址でどうこうだというものではありません。これは官庁であるとか、城であるとか、そういったようなところの役人たちの、これは通貨というよりは守り神でしょうね。つまり鑑札のようなもの、証拠書類のようなものとして、国家権威の象徴として贈られてきているタカラとしてそこに置かれ、それを保管していることが、極端にいえば民間に対して、兵士たちに対して、国家の権威をここのところで行使するものだということが証拠として示すことに出来るものになりますので、こういうことが全部この遠山関係資料をきっちり勉強することを通して、自然に分かってこなきゃならないはずなのに、これを飛び飛びに読んで、これを系統的に活かす研究というのが全く出来ていない。そしてこれを漢文を漢文のままで何とか分かろうというふうな勉強方法をとっているから、専門家自身も無理ですが、まして一般の方々にはチンプンカンプンです。そこで先ずどういう漢文があるかということをきっちり書き出して、これを日本語にどう読み下すかということを、その次にきっちりやって、そしてそれをどう解釈するかということをその次にやって、そこにおける問題点をちゃんと洗い出すと、これだけの学習をするということが大事で、これがきっちりしてくれば、磐井の郷土学習は田村麻呂であるとかアテルイであるとか、ああいうかたちで問題になってくる胆沢問題の前提というものが、ここのところではっきりと洗い出されてくると、こういうことになってくるんですよ。それだけ重要なものが全然専門家の間でも、まして郷土史などというものに首っきりになっている皆さん方の間で、これが第一等史料としての研究テーマになっていないということは、何としてもこれは勉強していないということになるんです。何故なら大事なテ―マが全然抜きになってしまっているからです。そういうことが根本史料というものについての話だけれども、ただこれをこの根本史料そのものに漢文だけで問題にしたのでは、とってもそこまでは行けないので、そこでこれを分かるところまで易しいものに解きほぐしていくと、こういう勉強が大事になってくるということですね。

  

<「無刑録序解」>

 その次に根本史料についてということで、先ほど話題にしましたように芦東山の学習などというものを、もし地元みんなの芦東山無刑録学習というものにするんでしたら、あの漢文自身から始めるのでなくて、その解説を難しいだろうから、こういったようなことを書いてあるんだよというふうに、易しい日本語で書いているところの「無刑録序解」というものの学習を、もう第一等に始めていく。これでもこれをきっちりこなすためには、かなりの本文の理解をしていないと分からないでしまう。何故かというとここのところで本文の大事なところの解説をしているからです。ですから極端に言えば、この日本文の入門書で勉強した無刑録というのは、無刑録の全体的な理解のための最高の入門書になってくるということ、それを研究者たちはすっかり忘れて、無視してしまっているということが第一点、そしてこれをていねいに読んでいくならばですよ、無刑録本文の解釈に重大な転換を迫る問題提起がなされている。何故かというと、この易しい無刑録入門の「序解」という日本文はですよ、無刑録ぜんたい十八巻(本来これは十四巻、それを上下に分けて)、ある人の解釈ですと、漢字三百万言といわれるくらいの膨大な漢文なんです。その全体の解説で、あるかたちをとりながら、良いですか、その中味をよく読んでみると、何とその最初の第一巻、「刑本」の上下に分けるんですが、その「刑本」上巻の解説に終始しているんです。そのための入門の書を東山は「無刑録刑本小序」というかたちで書いてあるんですが、この殆ど大半を「無刑録刑本 上」の、しかもその要約した漢文の東山自身の解説の、更なる解説、それがこの日本文の「無刑録」入門の主重点になっているんですよ。そして大事なことは、この「無刑録刑本 上」の解説をもって、全体の入門としてるんです。全体の入門です。そして何故かというと、それから後の「漢唐宋明」の時代というのは、全部「堯舜夏殷周」の時期の伝統をそのまま受け継ぐようなかたちで、中国四千年のその後の歴史は経過する。周で衰えてしまったこの伝統を、孔子や孟子が出てきて、その道を説き示したために「孔孟の教え」によって「堯舜」の道を伝えていくというかたちで、中国四千年の刑法の歴史というのが終始するんです。そういうまとめ方になっているんですよ。

 こういうことを考えたならば、この和文「無刑録序解」の学習は、そのまま「刑本 上」の東山に「入門小序」というものの解説になって、そのまま無刑録全体十八巻の総論になっていると、こういうことがこの日本語で書かれている短い文章の中できっちりと見当つけることが出来るんです。ところがこれは和文で書いているから無刑録にふさわしくないという解釈でしょうね。ほとんで「無刑録」というのは、99パーセント以上「漢文無刑録」で終始しているのです。私はこの「和文無刑録」というもので、70%、80%までの無刑録学習が出来るというのが、「コンモンセンス無刑録」なんです。無刑録常識です。そして大学の一年、二年の教養課程、初頭過程ぐらいは、もうこれで充分です。そして学位を取ろうとする大学院クラスになって漢文をきっちりやる、その大学院でも三年、四年の学生ぐらいは「刑本上下」で先ず終わって、そして本当の大学院に入ってその他の部類にも入ってくる。根本は「刑本 上下」で、そのだいたいの精神というものは和文序解でもって全部学習されていく。こういうことを私は、今回のこの学習会の勉強のために、私も遅まきでしたけれども、やらしていただいたんですから、これだけのことを折角「記念館」までお造りになって、無刑録をきっちり勉強していこうということを建前にしているところで、果たしてそういう認識理解になっていらっしゃるのかどうか、私はもったいない話だと、そして大事なこと、もっとも分かりやすいかたちで書いた東山の記録というものが、無刑録学習のための最大のテキストになるということ、こういうことを考えたなら、地方学を以って、そして日本学というものの入門にしていくということ、何ら誇張でも何でもなくて、実はこういう学習をきっちり固めるかかたちの専門学習というものになっていないところに間違いがあり、郷土学習がこういう間違った専門学習の落ちこぼれみたいなものを、何とか拾おうとするような学習は。地方日本学はここのところでもう返上すると、そういうふうにして欲しいというのが私の希望でございます。 

<平泉中尊寺問題>

 それからもう一つ、先ほど話題になりましたね。奥州氏の市長さんが、何か衣川というのは「ルビコン」だと言って、二回三回も、ルビコンを渡って平泉にあれこれしているというお話しですが、私はそちらが先に「ルビコン」とおっしゃったのか、私が「ルビコン」と言ったのが最初か、これ分かりません。しかし私がはっきり「衣川がルビコンだ」と言うことは、これきっちり「陸奥話記」というものを読んでくると、序文のところで、安倍氏が奥六郡でもっては、どんな乱暴我がまま勝手なことをしても大目に見られていたけれども、それがようやく衣川の外に出たというところで、公的扱いを受けて、そして「前九年の役」という討伐の対象になってくる。このことから「衣川」というのが、はっきりと奥六郡の蝦夷世界と、それから内郡(内国型)の日本とを、大きく南北に分ける境いの川だということになっていて、そうであれば正しくルビコン、「賽は投ぜられたり」となってくるということがはっきりしてくるんですね。そしてそのことと、平泉に清衡が出てくるということとは、密接不可分の関係にあるんです。

 そこには二つのことがあります。一つは清衡が最初「後三年の役」が終わった後は、江刺郡の「豊田舘」というところにおりました。本来はここに居ついて何ら差し支えなかった。ところがその「豊田舘」をさて置いて、平泉に移ったというその理由は、単に南に移ったという程度のことではないんです。これははっきりと、衣川がルビコンであるということであり、衣川のすぐ北に安倍氏があって、「衣川舘」が奥六郡支配者の居るところなんですが、そのすぐその南に行くということは、即ち蝦夷世界から南の内国に向けての突破口を拓く、言ってみれば南型・内国型日本への発言権を、ここできっちり固めていくための足固めをするのが、衣川の北に位置するか、衣川の南に位置するかということで、距離的にはほんの数キロしかないですよ。半里か一里ぐらいしかないにもかかわらず、安倍は奥六郡蝦夷俘囚長、それを清衡がその南に越えて、「俘囚長」という名前は名乗りますけれども、東北全域の王者になって、出来ればここから関東へも、あるいは都にも、発言権を確保するような大きな基盤を創っていこうとする。そういう考え方なんです。

 それともう一つ、ここが東北の中央、「白河関」から「外が浜」のちょうど真ん中に位置するところ。だからここに位置するということは、ひとり衣川の南、奥六郡を超えるということではなくて、北方の王者、東北の王者、東北全体の王者になるという自覚をはっきり持ったかたちでの移転になってくるということを考えてくると、衣川の北に位置するか、衣川の南に出るかということによって、いわば日本古代の北方におけるシーザーという人が、清衡という人を通して考えてくることが出来る。だから改めて「ルビコン」、衣川がルビコンになってくると、そういったような大きな考え方というものが、ここのところで出来るんですね。

 ところが、そういう読み方をきっちり「豊田舘」から平泉に移って来る、平泉が「白河関」と「外が浜」のちょうど中間にあって、そこのところに清衡が役所を建てたり城を建てたりする前に、先ず中尊寺を建てたというふうにあることのもつ意味。こういうことを考えたら、ちょうど聖武天皇などが国分寺とか東大寺というものによって新しい仏教国家、仏国土という、これ黄金浄土をつくっていくというような思想のもとに、日本中央の中、東北中央の位置というものに清衡が、はっきりした自覚をもって乗り出して行ったということが、ここで証明できるんです。

 私は今度の、仮に中尊寺が世界文化遺産に登録されるかどうか分かりませんけれど、そういうときの根本的な理由として、こういう雄大な国家思想、宗教思想、文化観。こういったようなものを、きっちり踏まえたかたちの「此土浄土」というものとして、中尊寺金色堂というものが位置づけられている、それをはっきりと死んでもこの眼で見届けるというかたちが、即ちご遺体・ミイラとして、平泉の人がああいうふうに保存されていった理由になるんです。これはちょうど法華経における仏さまがはっきりと、亡くなっても「此土浄土」が実の法華経の理想が実現するまで、自分がちゃんとあの世の中で、法華堂の中で、それを見守っているんだという、こういう思想がはっきり生かされたかたちでの「金色堂」になってくるんです。

 だからこれは雄大な国家思想、政治思想、仏教理想というものを、そこに込めたかたちでの文化になってくるのであって、私はそれだけの意味をもったものであるならば、これ本当の意味で日本文化とか、日本の心というものを代表するような文化遺産とうような位置づけに当然なり得るはずのものであって、問題はそういったようなことが、はっきりどういうふうなかたちで当局に申請されているかどうかということに、一に係ってくると思うんです。それで私は遅蒔きながら、その中尊寺のお膝元にある、この磐井の地域の人たちがそういうかたちで、私たちが考える大きな「日本学」というものを、形のある世界文化、日本文化というかたちで、最終的にまとめ上げて行ったものとして平泉文化というものを検証していくと、そういうことになっていくことによって、本当にこれは指定の意味が出てくると思うんです。で私はこれ、単に金ぴか、黄金文化というようなことだけで指定になって、多分私はそうでないと思いますが、仮にそれが大きな比重だとすれば、それは早い話、貴族文化としての指定であって、こういうふうに日本国民ぜんたいの歴史や文化を代表する世界遺産というものにはならないのでないかと思って、さてどういう理由でこれが指定になるか、指定から外れるか、私はそういうことを慎重に見守っていきたいというふうに思っているんです。いずれにしても、そういうものを私たちが頂点、言ってみれば富士山の頂上にいただいて、その広い裾野を形成するかたちで磐井郡というものが出ている。だからこの磐井郡もまた、世界最高、最も高い意味を持つ富士山というものを支えるにふさわしい、理論と歴史と実績を踏まえたかたちでなければ、富士山が転んでしまうかも知れません。裾野がきっちり広く拡がって、そうして底辺ががっちりして、その底辺が十分にこの最高の黄金文化を支えるにふさわしい力、内容、それから何よりもそういう理論をふまえた裾野になっているというところに、中尊寺が世界文化遺産としての指定される必然の理由というものが出てくると、そのための学習が私たちの地方学習になっていくと、そういう考え方をしては如何でしょうか。

 

<建部清庵と大槻玄沢>

 最後に、私はこれを全然触れてきませんでしたけれど、一関というものを考えるときに、これは蘭学ですね。そしてその蘭学でも、大槻玄沢の「重訂蘭学解体新書」などというような、そういう駅前に飾ってる「大槻三代」。それ私はいつも不満なんです。何故かというと「大槻三代」というのは、建部清庵という先生がおっての玄沢であり、そのお子さん、孫さんだということになっている。私は遅まきながら、あそこに大槻子弟の碑というようなかたちで、建部清庵をいちばん上に飾って、そしてその下に三人をこういうふうに並べるというかたちの大槻三代の墓になる、こういう行き方にしたら私、これ最高だと思います。

 その理由、先ほど申し上げた「和蘭医事問答」の中の、特にこの「序文」などというものを、ていねいに読んで御覧なさい。まるでここのところで東洋、西洋、和漢、みんな一緒にここにして、そして「一つの世界学」というものが、ここのところで新しく発足するんだというくらいの意気込みの序文になっているんですよ。和漢始まって以来、これだけ大きな学問文化の出直しというものはないと、こういったような学問は、江戸では、さっき言ったようなかたちの二人の、杉田玄白とか前野良沢という先生が始めているけれども、そういう問題提起を北から強力にして、これに最高の評価を与えたのは一関の「建部清庵」という人である。そいう言い方をして、千里を隔てて和漢東西始まって以来の学問の出会いというものが、ここで始まってきた。そういうものの始まりに当たる、聖書で言えばこういうのを「アルパ」という、始まりですね。その始まりになるのが建部清庵と杉田玄白との往復問答であるという、こういう言い方になっている。そうすると、これまったくの、東洋西洋を締めくくり、そこのところに東洋と西洋との学問の出会いというものを大きく取り持つような役目を、一関の建部清庵という方はなさったのです。だからこれ蘭学の塾において、これがテキストとして使われるんですよ。この「蘭学医事問答」、つまり建部清庵と杉田玄白との蘭学談義についての往復問答が、そのまま蘭学を学習するための入門のテキスト、必修過程として指定されるようになってくる。そしてその序文を、大槻玄沢や、その子の杉田伯玄というような人たちが書いていると、そういったようなことを一関、磐井の人たちが、いったいこの原文そのものについて学ぶということをしないならば、この感動、感激は浮かんできませんよ。

 ただ「和蘭医事問答」という往復文書があったという程度に終わってしまうからなんです。そしてそういったようなものが、実は私たちの「地方学」学習における重要な一つのテーマになって、そういうところから踏み込んでいくことによって、何これ、「日本学」を超えて「世界学」になってくるんです。何の誇張でもない。誇張だとか、大風呂敷などというふうに言うのは、その本を読んでいないから。読んでいないからです。勉強し、原典につけば、それ無理なく頭を下げて、そのとおりですと言うことになってくるんです。

 私は、そういうようなかたちで「解体新書」より何よりも、杉田玄白よりも前野良沢よりも、そういう恵まれた地域で、恵まれた資金でもって学習できた専門家よりも、そういう遠く離れた田舎学者が、こういうふうな問題提起をし、それが最高に評価されて、こういう位置づけを最高の学者によって与えられているというところまで、皆さんが学習なさったなら、これだけでも感動ですよ。

 そしてこれだけでもっても、何となくギクシャクしている一関市内の学者たちと、皆さん方とのコミュニケーションが充分に成り立ってくる。そのコミュニケーションの手は、皆さんから差し伸べていくようにすると、そういうふうな態度をとって行ったならば、ほんとうに建部清庵も感謝脱帽なさるんじゃないかなというふうに思います。

 いずれにしても、このような短い時間での学習を通してでも、これだけの深い意味をもった学習になるとすれば、そこまで掘り下げることのできないのは、我々の不覚なんです。我々の不覚です。歴史は、それを真実として呼んでいるんです。「河は呼ぶ」と言いますが、「歴史」が呼んでいるんです。その呼びかけにはっきり応えていくような学習会をもつようになっていったら、私も冥土に行って皆さん方にエールを送ることにいたしたいと思います。これで最後のお話になるかも知れません。ありがとうございました。