磐井日本学
ホーム > 磐井日本学 > 磐井学序論 > 磐井地方学構想とその進め方

磐井地方学構想とその進め方

   磐井地方学構想とその進め方                                 平成19年4月22日

 私が何回か、この「地方学(じかたがく)」という、皆さんにとって聞きなれないことばについて、磐井の新しい勉強会の基本理論に、この「磐井地方学」というようなものを理論の拠りどころとして、新しい発足をしたらどうかということを申上げてきました。

 本日改めてこの問題についての私の考え方を要約して、なぜ私がこのような聞きなれない言葉を、みなさん方の言葉として根付かせていただくようお願いしたいと思うことと、それならそれに基づくシュミレーションのようなもので、具体的にイメージ化できるようなかたちでお話し申し上げねばならないと、こう思っているのでございます。 

<「大伴駿河麻呂」と「磐井郡」>

 皆さんご承知かどうか分かりませんが、「続日本紀」という奈良時代の正史が、奈良時代のことを書いた立国史「日本書紀」の次に来るんですけれど、日本正史の次に来る正史、この中に奈良末期において「大伴駿河麻呂」という人が、陸奥国の政治的な指導者となって「遠山村」というものの経営をしたということが書かれている。このことについて郷土史の方々は、名前ぐらいはご存知だと思います。しかしこの問題の持つ意味が、全く検討されてきておりません。私は、この「大伴駿河麻呂」という人が「按察使(あぜち)」として、「陸奥守」として、「鎮守将軍」として、それらすべてを兼ねた人ですから、坂上田村麻呂の軍職を先がけたようなかたちの人になるんですね。そしてこの人の遠山村経営というものこそは、大きく見れば田村麻呂の胆沢経営というものを引き出すきっかけになるものですし、それからまた、磐井にしてみれば、この蝦夷経営という日本古代史の大国家事業のなかで、「磐井郡」をどう位置付けていたのかということを考えなければいけません。これ歴史資料では、かなりはっきりとした方向付けがされているんですが、にもかかわらず現実は、そういう研究が全く出来ていないばかりか、日本の歴史では殆ど触れることさえしていない状況にあります。

 そこで私はこのテーマを本格的な歴史の大きなテーマにするためにも、新しく磐井郡の古代史学というものの出直しを図り、その理論づけの基に、この古代磐井郡というものを考えていくため、この「遠山村」の持つ意味を皆さんに分っていただこうと思って、実は今日、このことに中心をおいたお話をさせていただくことにいたします。

 

<「地方の時代」ということ>

 自ずから問題は二つになります。一つは「磐井地方学」というものを理論的にどういうものとして考えるかということと、それからそういう理論、あるいは方法に基づいて、具体的にどういう新しい日本の中の磐井の位置づけというものが与えられるかということ、この二つになります。

 まず一つ、私がこの「地方学」ということを、ここ二、三年強調するようになったのは、これが国が政策的なかたちで「地方の時代」ということを強く言い出し、その尻馬に乗って真っ先に取り上げたのが確か神奈川県で、それから後、今日では「地方の時代」ということばが共通語のようになりつつありますけれど、私はこの「地方の時代」というのは、却って「地方」を食い物にしてしまっている、「地方」をダメにしてしまっていると思っているんです。それは何故かというと、「地方の時代」というのは、現在共通に理解されているところでは「中央」、たとえば東京とか大阪とか、こういうところだけが経済的にも文化的にも学問的にもすべて潤っていると、そういうことを東京や中央だけのものにしないで、これを地方にも下ろしていって、「地方」も同じようなかたちで豊かになる、文化的にも開けたところになるという、そういうふうにしていくことがこの「地方の時代」の、何となく目標のような考え方になっているのでございます。意地悪く見るならば、これは東京の出店として地方を位置づけて、中央に余ったり、余分にあるものを地方にも「おすそ分け」していこうという程度のもの。私は、こういうような行き方は、はっきりと口汚いような言い切り方をするならば、これ「植民地型」の発想ですね。中央の出店として地方を考え、東京のように、大阪のようになることが「地方の発展」であって、東京なんかだけが得するという時代でなくしていくということ。こういう考え方からなのです。

 私はこういうものが「地方の時代」というものだとするなら、これは返上した方が宜しいと考えます。

 「地方の時代」というのは、本来、これまで大和だとか、奈良とか、京都とか、鎌倉とか、東京とか、そういうところでだけ「日本」というものを考え、これを基準にして「日本というもの」がこうだと考えてきた。私たちは、この考え方を一掃して、日本列島のそれぞれのところで、それぞれの町や村が、それぞれの意味において、「日本」というものをユニークに代表しているのであり、その原理や、理論や、それから目標としているところのものを、それぞれに深く掘り下げていくならば、それは自ずからにして、これまで埋もれて日本の中で日の目を見ないでいた「もう一つの日本」というものへのはっきりとした方向付けに具体的なイメージを与えていくようなものに、地方、大地、村というものを掘り起こしていく努力をしていく。それが「地方の時代」というものの理論になり、方向付けになっていく。そうすることによって、北海道の片隅にあって、何も夕張だけああいう形になって気の毒だというだけでなくて、むしろああいう、どん底まで落ち込んだところが、どういうかたちで立ち直っていくかということを通して、新しい日本の、ある一つのかたちが出てくると。こういったふうに私は、夕張というものを勇気付けていく。励ましていく。みんなで応援していく。それが新しい「地方の時代」における友情というものではないかと考えているのでございます。

 そういうことでこれを、特定のテーマとか目標をもたずに、一般理論として具体化していくものとして私は、この「磐井地方学」というものを、磐井の方々、新しい一関市民の方々がお考えになっていただきたい。そして郷土史などという枠を完全に乗り越えてしまい、「お国自慢」だの「井の中の蛙」だとか、そういうような批評を完全に乗り越えていきながら、これまで全く埋もれてしまって話題にもなったことのない「日本」というものを、こういうかたちで大地から掘り起こしていくという、そういう学問をつくっていく。

 私はそういうものを「地方日本学」と呼んでいるのでございます。つまり、地方のもっている根本的な理論や原理や性格、性質というものを、理論的にとことんまで堀りさげていけば、これは確実に「もう一つの日本」というものを、ここのところからイメージアップしていける、具体的なものにしていくことができると確信しているのでございます。

 そうであれば私たちは、そっちこっちに手を広げすぎている学問や理論のすべてを、この「磐井」に結集していき、そして「磐井とは何か」ということをはっきりとさせていくことができる。そういったような行き方というものが「新しい日本学」となり、こういう日本というものこそが、かえって私たちが埋もれさせていた日本を創造的なものとして、全く新しく掘り起こした「日本」というものを、北海道から沖縄まで、それぞれの形で、これも「日本」、これも「日本」だというようなかたちにしていき、そういったものの全体として日本列島の日本学というものを考えていくようにしていく。そういうふうにしていくための「郷土史」だというような、これまでの考え方を転換させていこうとするものです。あまりにもこれが「お国自慢」に過ぎていた。そして何よりもこれまでは、日本全体というものを「郷土史」から見わたすことができるようになっていたのかどうか。そういう問いかけをすることによって、これは一関磐井のことを成るほどある程度分るかも知れないけれど、その理論や考え方や公式というものを、そのまま仙台に持っていっても、東京に持っていっても、福岡にもっていっても、当てはまるかということになると、「郷土史」というもがそこのところでお手上げになってしまう。私はそういう郷土史は、もう21世紀の段階では返上したら如何かと痛感しているのでございます。

 この郷土を勉強することが、そのまま日本を新しくする勉強になっているのだろうか、地元郷土磐井を、そういったもので明らかにする手がかりにしながら、具体的なすがたで「日本というもの」を提示することによって、この考え方が、名前を「磐井」を「東京」に改めるなら、それが「東京の学問」になる、「東京の理論」にもなっていくのです。私は敢えてこれを「地方学」と言ったのは、これを漢音で読めば「ちほう」になっているわけです。つまり現今の「地方の時代」を、こういうかたちで、日本を新しくしていこうという行き方が、東京や他所の進んだところの真似をすることでなしに、大地を掘り起こすこと、そのこと自体が、すなわち地方を掘り起こすことであり、「地方の時代」を創るということになるのだと。こう言うことでございます

 こういったかたちで、「地方の時代」というものを敢えて大地に根付かせて、それが郷土自慢、お国自慢をするための郷土学問ではなくって、日本を新しくするための学問にするという意味において、地方としての「地方学」というものを考えたのでございます。「郷土史」というものを乗り越えるため、敢えて「地方日本学」という考え方に切り替えることによって、大和、奈良とか、東京だけでしか日本を代表する日本の学問というのは成り立たないものという考え方から、逆に、かえって村を丁寧に、地方を確実に掘り下げていくことが、かえって血肉の通う日本を、新しく再発見することにつなげることができる。私はそういうふうな行き方が、これロマンになってくると思うんですよね。ユートピアになってくる。そしてどこかの総理大臣が「美しい日本」を創るとおっしゃっていますけれども、こういったかたちのものでこそ、ほんとうの意味で「ユートピアとしてのロマン」になってくると思っています。ほんとうの「美しい日本」というのは、こういうかたちでないかぎり、富士山をどんなに磨きなおしてみたり、法隆寺をどんなにやりくりしてみても、従来のものに5パーセントとか10パーセント追加することができるかも知れないけれど、もし「磐井」がこうだということが、即ちこれが「日本学」ということになるものなら、これ殆ど100パーセント新しい日本になってくるんですよね。

 私はそういうことを考えて昨年は、「貝鳥貝塚」というものが、実はそういう考え方から、「貝塚」というものを通して「三内丸山」などで話題になっている程度の日本の新しい発見というものが、ここで確実にできるという見通しを、その席上で申し上げました。

 何故そうならなかったかというと、「三内丸山」では、遺跡と考えられるものの殆ど全面に近いものの全面発掘をやった。だから全体が分かるようになったので、「三内丸山」があんなに有名になったんですよね。そしてあわよくば今、これこそ「世界文化遺産」だというところまで行こうとする動きが出てきているようですが、私はこれ無理ないことと思います。何年か経って、私これ可能性十分だと思っています。なぜなら、三千年、五千年の前の、あれだけの生活文化の跡を、ていねいに、しかも大学の世話だの文化人の世話だの学者の世話だのに一切ならずに、あれだけの生活文化というものを掘り上げたということは、人類の歴史上、ほんとうにかけがえのないものだからです。これは言って見れば「陸における貝鳥貝塚」文化遺産です。これ全面的に何キロにもわたって発掘したから、ああいうことが可能になったのですね。

 

<貝鳥貝塚を例に>

 ところが「貝鳥貝塚」については、ほんの僅かの部分を物取りする程度の発掘で、発掘らしい発掘は全然出来ていません。あの遺跡、遺物というものが、どの範囲にまでわたって存在しているのかのていねいに調査確認され、しかもそれが「淡水産遺跡」だということの確認がきちんとなされていくと、そういう遺跡としての最も北の代表的なものとされるようになるのだが、そういう行き方にしている調査は部分的なものだけなのです。でもそこは、この前千葉達夫さんがおっしゃったように、海の影響というものを抜きにして「貝鳥貝塚」というものはあり得ない。そういうふうな考え方をしていったら、淡水(川水)と鹹水(海水)が落ち合う、まるで海と陸、川と海の十字路のような遺跡というような全容が明らかになってきて、その遺物、遺産というものがここで具体的に明らかになったなら、その段階でこれははっきり世界文化遺産の申請が可能になってくる。現在は残念ながらとてもとても、まだ緒にもついていない段階だと思います。

 

<「陸の貝鳥貝塚」と言える「遠山村」を例に>

 さて、その海の貝塚、水の貝鳥貝塚というものに対して、もしこの磐井において「陸の貝鳥貝塚」というふうなものに当たるものがあるとすると、この「続日本紀」に出てくる「遠山村」の経営ということになるのでないかと考えるのでございます。

 ところがこの「遠山村」というものについて、戦前においてちょっとした研究を大槻文彦さん、日本を代表する東北の学者の一人ですけれども、こういう人たちが中心となって、その「遠山」というのは、言葉として、発音として宮城県の「登米郡」、これは「とよま」というのが本来の言い方で、でもこの「とよま」(登米)というのと「とおやま」(遠山)というのが近い音(おん)だから、どうも「とよま」の語源になるものとして「とおやま」があるのでないかという言い方をされて、何となく登米の奥にある山のことではないかという考え方がなされて、しかも今なおこれ以上の言及が進んでいません。

 私はこれ、言語学者がこういうことをおっしゃるのは言葉だけのつながりなんですね。歴史事実というものを考えたなら、「登米」というところは大まかに言えば「水の国」です。登米で山というものが問題になる歴史はないんです。山はあるんでしょうけれど、登米というのは、今日でも霞ヶ浦のような水郷なんです。それに対して「遠山村」というのは、はっきりと「山また山」で、これを「続日本紀」ではこう書かれているんです。

 「遠山村というのは蝦夷の本拠とするところであって、そして蝦夷がここ以外に拠りどころとする天嶮要害はない。そこでこれまで政府の軍人武将も、ここを征服しようとしたけれども、とてもこの天嶮要害に阻まれて誰もこれに成功する者がいなかった。ところが今、大伴駿河麻呂という人が按察使、鎮守将軍としてこの山奥まで窮めるような征服を成し遂げて、はじめてこの蝦夷経営というものに成功した。これ以上の手柄というものはこれまでの蝦夷の歴史においてなかった」と。

こういうまとめ方をしているんですよ。これが「遠山村」であるとすれば、ことばというものにおいて登米というものに近いから奥の山だろう程度、登米の付録のような考え方をしていたのでは、これは第一歴史事実を全然ご理解になってない証拠だと思って、私学者仲間ですから自分の反省を込めて、こんなふうに歴史というものから遊離してしまった一人歩きの古代文学というものが、かえって誤解というものを呼びおこす基になってしまい、しかもこれが学問だとして今以て通用しているんですよ。ひょっとして皆さん方も、この程度の理解に留まっているのではないでしょうね。

もしそうだとすると、大伴駿河麻呂という人が田村麻呂以前の蝦夷経営に最大の功労を成し遂げた人だということが分るわけですから、まず第一、田村麻呂だけを「ヒーロー」にするのではなく、その前に来る鎮守将軍、按察使(あぜち)、蝦夷経営の武将としての「大伴駿河麻呂」という人を「初代坂上田村麻呂」としていく考え方が、「磐井古代学」で、なぜ起こってきていないのかということ、私は不思議に思っていますよ。これは全然皆さん方が「続日本紀」に、きっちりと第一等資料として書かれていることを、全然ご存知ないことによる。これを抜きにして「遠山村」などということを考えていらっしゃるから「磐井郷土史」にもなっていない。ましてこれ、田村麻呂を先駆する、田村麻呂以前の田村麻呂になるとすれば、この人を通して「磐井古代地方学」というものから「磐井日本学」というものを考えていくことが、十分可能になってきますね。何故なら誰もが、田村麻呂の胆沢経営というものを「胆沢郷土史」だなどと思っている人がいないのですから。これ日本史における最大の軍事経営の一つ成果として考えているわけですから。

 それなりのものを考えて行くことの出来る手がかりが、歴史資料としてきっちり残されているのに、なぜこういう勉強を「磐井郷土史」の方々がなさっておられないのか、私はまことに不思議に思い、改めてここに苦言を呈しておきます。これでは郷土史にもならない。まして「日本学」にはなお更なっていない。

 

<初代の田村麻呂「大伴駿河麻呂」>

 ところで大伴駿河麻呂という人は、坂上田村麻呂を先駆する初代の田村麻呂と、こういう言い方をしましたけれども、事実「大伴駿河麻呂の遠山村経営」というものを踏み台にして胆沢経営というものが始ってくるんです。これも資料にきっちり書かれている。宝亀5年、774年です。このときに遠山村経営が一応成功したと考えられています。すぐその翌々年、宝亀7年(776年)に、「三千の陸奥の兵隊を組織して、胆沢の賊を討つ」と、はっきりそう書かれているんです。だがこのとき本当に、胆沢に向けて軍事行動がなされたのだろうか。そういう計画が、方針が発表されたということなのか。このことは、それから後、例の胆沢経営まで大体十年以上の時間が経っています。その間、例えば宮城県の伊冶城の「伊冶公砦麿の反乱」などという飛入りのハブニングがあって、この胆沢経営というものがどうなったかは、はっきりしていないんです。そしてこの後の延暦七年八年に入って、はじめて胆沢経営というものの本格的な記録が書かれるようになっていますから、この「胆沢の賊を討つ」という、宝亀七年から胆沢の経営まで、十年以上の開きがありますので、事実ここのところで胆沢の政略戦争、軍事行動がなされたかどうかについてはチエックできません。しかし記録ははっきりと「三千の軍士を組織して胆沢の賊を討つ」というふうに、ちゃんと記録に書かれているわけですから。

 これによれば、遠山村の蝦夷経営の成果を踏み台にして胆沢経営が始まって、その最終成果が坂上田村麻呂によって刈り取られるようになったのだと、このことについては歴史的にはっきりしていることなのです。そうすると「遠山村経営」というものこそが、胆沢経営の第一段階であり、ここでの成功があってはじめて「胆沢経営」というものになっていく。したがってアテルイという人の登場にもなる。田村麻呂の出馬にもなってくる。

 こういうことになるわけですから、もし皆さんが「胆沢郷土古代史」を、きっちりこの史料を基に勉強しておられたなら、何も胆沢から総てが始まるのではなく「磐井」から、しかも磐井の「遠山村経営」というものからこそ、「胆沢経営」の始まりなのだということ、これ推定ではありませんよ。ちゃんとした歴史事実なのです。このような明確な記録をもっていながら、これを歴史にすることができなかったということは、一言で言えば、郷土史というものを、「磐井」ということばが出てきた段階でだけ「磐井史」になるんだと、そういう考え方をしていることに由るものなんですね。

 

<「遠山村は陸の貝鳥貝塚」、「貝鳥貝塚は海の遠山村」>

 これだけの歴史事実から考え、さていったいそれなら「遠山村」というのはどこなのかということになります。これについて私、その史料を「続日本紀」から全部抜書きしてみました。少なくともこれに関連した史料が24・5からかれこれ30に近いかたちの記録となって「続日本紀」にちゃんと出ている。皆さん方がそういったものを、一つ一つていねいに噛み砕くようにしていく「郷土史」でなければならないのに、そうはなってきていなかった。私は「磐井地方学」というものが「日本学」になるような郷土史の勉強をしていくという根本方針をもって進むとき、この「磐井地方学」の最大テーマの一つとして、この「遠山村」というものを取りあげ、そしてこれを「遠山村は陸の貝鳥貝塚」、「貝鳥貝塚は海の遠山村」になるという考え方をして、海と陸と相対比して考える大きな「磐井郷土学」、「磐井じかた学」のテーマになってくると、胸はずむ思いでおるところです。

 そこでいったい、この「遠山村」がどこを指しているものなのかについては全然記録されていません。しかし、手がかりははっきりこの史料の中に何回も繰り返して出てきています。その一つは、このきっかけになった出来事が宝亀5年という年、774年です。この年に「海道の蝦夷」、海の道。(いったい「磐井郷土史地方学」では、海道・山道というのが何なのかということの、ちゃんとした勉強しないようでは郷土史になっていきませんよ。ところがこういったことが「郷土史磐井学)に出て来ていると伺ったことがございません。こういうふうに、史料的にきっちりと出ているにもかかわらず、それをきっちりと歴史として活かしきることができないようだったら、郷土史学の根本に何か欠陥があると考えなければいけません。 

 話しを戻して、どうなってくるかというと、先ず「海道の蝦夷が反乱を起こして、蝦夷経営の基地である桃生城に攻め込んできた」。桃生城は宮城県、だいたい今日の石巻の北、登米の南、今日では河北町といわれているところで、遺跡がぼつぼつ出てきておりまして、まずここだろうと思いますが、北上川を海岸寄りにわたって桃生郡に入ったところに築かれた、北方最高の基地としての城です。「桃生城」に侵入して道路も壊してしまい、橋もすっかり壊してしまい、完全に孤立するようにしてしまったので「桃生城」が機能しなくなってしまった。そこで、この海道蝦夷を追い払って逆に、このような侵略反乱を事にするような海道蝦夷というものの徹底排除、攻略をするというかたちで、大伴駿河麻呂という人の蝦夷経営が始ってくるんです。ところがこれは、「海道蝦夷」の征討追討だけではなく、合わせてこれと一緒になって攻勢を強めている「山道蝦夷」も、海道蝦夷と合わせ追討しなければ、その成果をあげることが出来ないということになって、海道蝦夷の桃生城侵攻を排除し、その根拠地までをも覆すという、すなわち海道、山道の蝦夷二つながら合わせて、これを徹底攻略する「蝦夷経営戦争」に発展させていく。何とこの段階で2万の軍隊まで編成されるような、この蝦夷経営が、大伴駿河麻呂という人によって進められていくことになったのだと、そう思います。そうするとその海道、山道蝦夷の最後の根拠地であり、拠りどころとなっていたところの蝦夷本拠地が、この「遠山村」というかたちで捉えられていることが、この史料をていねいに読んでいけばどなたでも分かってくるはずです。

 

<遠山村の在り処を探る>

 そうすると桃生城の北の「海道」、海よりの蝦夷ということになりますが、その蝦夷が南下して桃生郡まで入ってくる。それが「山道」の蝦夷と連携して共同戦線を張って本格的な抵抗をするような動きを示してということになれば、これは桃生城の北というのはご承知のとおり「貝鳥貝塚」に結びつくような大きな入り海地帯です。この前申し上げておきましたような、霞ヶ浦におけるようなかたちの、これは淡水湖と海水湖が入り混じった海であって、これが今日でいう「流れ」だとか、大きく磐井郡から南、それから宮城県の北において大きな入り海、もし古代でいうならば霞ヶ浦以上に広い入り海だったところに当たる。登米郡がその東側における最後の拠りどころ、最後の入り海地帯になってくるわけです。「山道」はその奥になるわけですから、はっきりこれは東磐井郡の山寄り地帯の最も奥まった地を「遠山村」という言い方をしており、「遠山村」というのが最も奥まったところなら、そこに到るまでの山岳地帯が、すなわち「山道」ということになってくる。

 こういうことがはっきりしてきて、すなわち今日で言うなら東磐井郡の地域が、一般的に「山道地域」というふうに呼ばれ、その最も奥まったところ、これを地形的に考えると、まっすぐ北進するのでなくて、北東気仙寄りに進んだもっとも山奥の地域が、すなわち「遠山村」、山道のもっとも奥まったところの村。この村というのは蝦夷の、後の政府側でいうならば「桃生郡」とか「牡鹿郡」とか、そういうふうに言われる地域に相当する地域が、まだ蝦夷支配にあったときには、それくらいの広がりを持った地域を「村」と呼んでいるんです。だから、政府側で郡の下の「郷」より広く、むしろ「郡」に相当するものを「蝦夷村」と言っておりますから、したがってこの「遠山村」というのは、後の言葉でいうならば「遠山郡」と呼ぶことさえできるような広い地域であって、すなわち東磐井郡の奥まった地域を中心とした、蝦夷語に即した呼び方と考えて誤りありません。

 

<「海道」「山道」のいわれ>

 いったい海道、山道というのは何であるかということ。こうなってきますと、これはもはや「郷土史」の枠を越えたものになります。「海道」という言い方の本来は「東海道」の略です。したがって東海道というのは本来、伊勢国に始まって、尾張をズーッと来て、安房、上総、下総を通り、茨城の「常陸」でもって終わりです。ところが制度的には常陸で終わっている「東海道」というのを、慣例にしたがって常陸中心に経営開拓を進めていく「陸奥国」、すなわち今日の福島県「石城(いわき)地区」をも、これを東海道の奥という考え方をして、ここも「海道」と呼んでいるのです。そして政府側もある程度、この「海道」というのを半ば公けに承認して、そして福島県の海岸地域から宮城県の亘理地域まで、すなわち阿武隈川によって堺された東側の地域全部を、半ば公けに「海道」と呼ぶようになって行ったんです。そして、中通り、郡山白河福島を通って仙台多賀城に来る地域に置いた「駅」はですね、すなわち公用の交通ルートで、馬によって、官吏とか公の貢物などを運ぶための、今日でいえば「国鉄」に相当するような地域を「駅路」と言ったのです。この駅路を石城地域にもこれを拓いて、これを政府側で「海道駅」と呼んでいる。10駅あったんです。そしてこれは平安初期、ちょうど田村麻呂の時代まで続いているんです。そうしてみると、制度上の「海道」というのは常陸で終わったけれども、慣例上は「陸奥国」でも石城まで、半ば公然と「海道」とよばれていたということがこれで分かってくるんです。そうするとここまでが広い意味での「東海道区域」ということになります。ところが亘理地区で終わったはずの「海道」というのが、その次には宮城県で「海道」というのがここで切れてしまい、名取郡に入り宮城郡に入ると、山寄りを進んできた「東山道」と一本になっちゃうわけですけれども多賀城から北、仙台から北になりますと「仙石線」、こんにち石巻に行く方向から海岸通りに北進する行き方と、「中通(なかどおり)」をずっと進んで行く行き方と、今日もこれ二つの通りに分かれていますね。石巻、牡鹿、本吉というふうに、海岸通りを宮城県の北方、岩手県の方向に向けて北進するここのところについても「海道」という言葉が慣行上行なわれるようになってきているのです。

 

<「海道」定義の推移>

 そしてその証拠がこの「海道の蝦夷反す」という記録。この海道の「蝦夷」が今日の宮城県の本吉地区から岩手県の気仙地区にかけて使われていた言葉だと考えざるを得なくなってくる。そうすると、このように東海道が常陸で切れていても、陸奥国・東北の海岸通りまで「海道」であり、さらに多賀城で一旦切れても、更にその北、宮城県の海岸地帯も「海道」だとすれば、「東海道日本」というのが、正式、二次的、三次的という違いがあるにしても、宮城県北から岩手県南まで引き続いて「東海道日本」を形成する伝統がずっと続いておって、この名前において歴史が語られるようになっているというこのことを、いったい皆さん方の郷土史では、どの程度まともに考えてきたかということを、私、他所者として、改めて

 お伺いするのでございます。そしてもし、本吉を超えて気仙まで「海道」だと言うのであるならば、これがはっきりと「磐井日本学」になってくるんです。何故ならば「東海道」というものの伝統が、はっきりと福島県、宮城県、岩手県の海岸沿いにまで進んできて、ここまでが半ば公けの「海道日本」としてとらえられていると言えるからなのです。大伴駿河麻呂が「遠山村」の蝦夷経営をするというとき政府側が、二回にわたって「海道、山道、両道の蝦夷を征服する」という言い方をしており、そのときの「海道」というのが明瞭に、磐井・東磐井地区、北は気仙までを含めた呼び名になっていて、これはっきりと奈良時代の末まで東磐井地区が「海道」と呼ばれていた証拠になってくるのでございます。こういうことを岩手県史だの磐井郷土史で扱ってはいません。これは東日本史、大和朝廷、あるいは奈良京都朝廷の東日本経営が、どんなかたちで北進してきたかということを考えるとき、陸奥とか出羽とかいうように分けて考える行き方の前に、東海道の奥というものをどこまでぎりぎり中央型の発想でもって捉える行き方で、この蝦夷経営がとらえられていたかと言う証拠になってくるのですけどね。

 さて、気仙から北では「海道」ということばが終に使われません。閉伊地区について「海道」という言葉は使われていない。ということは東海道型日本というものの、ぎりぎりの最果ての地区というのは、気仙・東磐井どまりだということになってきます。そしてこのことが同時に、磐井の歴史というものを、これは東北の歴史だから、岩手の歴史だから、蝦夷の歴史だからとして、全部こちらの発想でだけとらえるのでなく、そういう歴史を大和型、奈良京都型、地方型、そういう発想でとらえ直してみると、ぎりぎりどこまで中央型発想、大和型発想でもって捉え得る歴史が、東北にあってのぎりぎりの北限が、東磐井郡、気仙郡ということになってくる。そこから北は全く別の東北、こここそほんとうの蝦夷、「みちのく東北」になってくるのでございます。

 

<「山道」定義の推移>

 さて「山道」、これもちゃんと近江、美濃、飛騨、信濃と、こういうかたちで大和朝廷、中央国家が東日本経営をするとき、「東海道」と並んでもう一つの内陸を北進する道として考えたやり方ですから、この「山道」というものが、いったいどこまで、どういうかたちで北進していくかと考えていくことによって「中央型日本」が、蝦夷経営、東北経営の中で、どういうふうに東海道と平行して進んでいくかということを考えるときの目安になってくるのです。ところが、山道と海道とでは、性格が著しく異なってきています。何故かというと、形式的にも実質的にも、磐井・気仙で完全に切れてしまう「東山道」(山道と略しましょう)、「山道」は形式上「陸奥国」全域にわたって使われており、陸奥国が制度上これ「東山道」の内に入ることになる。ですけれど、狭い意味でちょうど「海道」が磐井気仙で切れるのと同じような狭い意味の「山道」、ほんとうはこれ「仙道」でしょうが、この「山道」が切れるのも東磐井どまりなのです。なぜかというと「磐井」から北を政府側が問題にするときには、「東山道」という言い方では言いません。陸奥国が「東山道」とは独立した別個の国としてとらえられて、地元に即して言えば「蝦夷国」、その前から言えば「日高見国」、それから「陸奥国」、「道の奥」という言い方をして、少なくとも胆沢から北に関する限りは「山道」という言い方は殆ど出てきませんで、いつもこれは「陸奥」とか「みちのく」とか、そういう言い方で、最果ては「蝦夷国」という言い方でとらえられています。さっき申し上げた「大伴駿河麻呂」の蝦夷経営の中で、海道・山道二道合わせて征服するという場合の「山道」は、磐井どまりになっているのです。そして胆沢は、さっきはっきり言いましたように「胆沢の賊を討つ」という言い方になっているのです。こう考えてきますと、狭い意味で「山道・仙道」、すなわち東日本を内陸型に北進する「山道・東山道」というものも、磐井郡、東磐井郡をもってほぼ北限としている。こういう考え方ができるのでございます。

 

<内側日本と外側日本との接点「磐井・気仙」>

 そうすると、同じ岩手県の中でも、東北の中でも、「磐井郡」というところこそは、東北の中でぎりぎりどこまでが「大和地方型」らしい伝統で捉えようとした、支配しようとしたかと考えるときの限界が磐井・気仙どまりだということになってくることが、この経営を通して分ってくるんです。そして、それもこれも「大伴駿河麻呂」の蝦夷経営が、山道・海道の蝦夷の奥、「遠山村」の蝦夷の根拠地を覆すような征服をして、ここで完全なピリオドを打ったため、そこでここから北、胆沢経営に乗り出すことができるようになったと言って、磐井と胆沢の間に、はっきりした線を引くようなかたちの政治経営、軍事経営についての見通しを具体的に示しているもの、それがこの「大伴駿河麻呂の遠山村経営」というものになってくるのです。

 これだけのことが分ってくると、私は磐井というところこそ、気仙と合わせて、ぎりぎりの大和型、中央型になるものであり、そこが蝦夷型、東北型との最後の接点になるところ、ホントウの意味でのフロンティアが、ここのところで考えられるということになる。そういうことになれば、中国でもって、特にアメリカなどでもって、フロンティアというものがどんな役割を果たしたかなどということを考えるとき、私は日本のどこを措いても東北が、広い意味でのフロンティアになるわけですけれども、ぎりぎりそういったようなものの最後的に洗いつめ深く突き詰めていったとき、この磐井・気仙というものが、最後の「内側の日本」になる。「外側の日本」というのがその北になってくる。実際、古代において、郡とか村の制度がきちっと置かれた最後の北限がこの磐井・気仙なのです。胆沢江刺も入ってはいるのですが、これは「胆沢城」が作られたための特別な胆沢地区の胆沢であって、「特・胆沢」のお膝元という「胆沢城」の鎮守府お膝元という意味において、特別に置かれたものでして、実際、政府側が中央型とほとんど変りないかたちで「郡村制度」というものを敷いたその北限が磐井・気仙なんです。形式上、胆沢江刺が別枠で入ってきてはいますが例外措置で、ここ磐井・気仙から北はもはや「律令国家」、「古代国家」が責任を持って郡とか村とか、「国づくり」というものをしないことになる。制度上の村とか郡がここから北には、後になって置かれますけれども、本来的なかたちでは置かれません。

 

<「地方磐井学」が「新しい日本学、日本史学」に>

 これだけのことが分っての「遠山村」でございます。東山。「とうざん」ということばは、もし東磐井の略だったら東磐(とうばん)となるのでしょう。おかしくないですか。はっきりこれは「東山道・東仙道」の奥が終わるところという意味での「東山(とうさん)」。したがってこれを「ひがしやま」より「とうさん」というのが本来でありましょうが、「とうさん」では落ち着きませんから「ひがしやま」。「遠山村」というのは、この東磐井の「山道」だけでなく「海道」も含めてですから、これは気仙も含まれてのものです。しかし海道・山道一緒になるそこを「遠山」、「遠い東山村」という言い方を、「遠山村」という言い方にしているのですが、これ正式には「遠き東山」、「とうさん村」という言い方になってきて、具体的には先ほど話題になった室根山が、その東山道「遠山村」の南玄関になるわけです。これ890メートルあります。そしてこれが北上山地において、少なくとも北上丘陵地帯が終わりになるぎりぎり南はじの境になる山であり、したがって磐井地区・気仙地区における主要な川の源が全部室根山群なんですね。室根山に連なるような山々から南流・西流するかたちで流れてくる。私はそういうかたちで、室根山の神さま、これは鬼の首「鬼首山」と本来言ったということ、これほんとうだと思います。「室根」と呼ぶのは後のことで、元は「鬼首山」。「鬼首」、これ「おにがみ」と読む。すなわちこれは悪路王と呼んだような感じの、ここに蝦夷の首領が立て篭もっていたというようなことから、それを「鬼首山(おにがみやま)」というかたちでよんでいた。これ首(しゅ)というのは「かみ」と読む。したがって「鬼神」。そう言えば、気仙郡の山は「氷上山」(ひかみさん)ですよ。これは「日高見山」の略、本来はそれだろうと思います。例えば港で言えば「氷上港」(陸前高田)といえば「日高見港」の意味ですから。しかし私はこの「氷上山」は、鬼首山との対比において、「日高見山」の意味での{ひかみ}であると同時に、これは「火の神」ですね。すなわちこれも「鬼」の意味ですよね。餓鬼道とか、修羅道とか、そういう地獄の象徴が「鬼」とか「火の神」になるわけですから。その「火の神」に「日高見の神」を合わせた行き方で、おそらく南は室根の「鬼首山」から北、北は「火の神山」から南の、この間の地区がいわゆる「遠山村」の「鬼」の領域になるのでないか。これは推定でございます。

 このようなかたちで「磐井郷土史」を、そういうところまで発展させていき、それが広い「日本学」、「東日本学」というものを、ぎりぎりどこまで北進させることができるか。逆にいえば、北から南下しようとする「北日本型日本史学」が、いったいどこのところで接点になり、フロンティアになり、そうしてそこのところで「新しい二つの型の日本史」との出会いが考えられるか。その接点の歴史として、なかんずく東磐井の歴史が気仙の歴史と近い関係になってくる。そのようなことをこの「磐井地方学」の理念をもって追究していくならば、これもはや地方史とか郷土史とかという枠をはっきり越えて、にもかかわらず、地元の歴史をとことんまで資料的についても、現地についても、徹底して洗い出すような学問を踏まえて、これを地元の独り善がりにするのでなく、この日本の歴史そのものを新しく見直していって、「新しい日本学、日本史学」というものを創っていく、そのスタートにしていくと、そういうものにしない限り、このような問題は学問のテーマにならないだろうということを、この席上で申し上げて、ちょうど時間になりましたので、これでおしまいにさせていただきます。ご静聴ありがとうございました。