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日本の未来を拓く磐井学の構築を

  日本の未来を拓く磐井学の構築を                    2006年6月25日

 最初に、「みちのく中央総合博物館」という題だが、このように正式に決まるにあたっては、私の考えがここに働いているのだろうと思っている。そのことのために、一般の方々に対してもそうだけれども、特に関係の深い皆さん方にとって、いこれを過不足なく、即ち過ぎたるところも、また足りないところもなく、この「いわいの博物館」のビジョンがホントウに具体的なものになっていくかということは、これからの努力次第である。ビジョンとして、こういう大きな未来を考えながら、文化の大きな目玉として構想していくことに、どなたも異論がないと思う。私としては、このことに自信をもっている。それは私個人がそう確信しているということではなくって、磐井の、一関の新しい市民の方々が、こういう考え方に意思統一でき、コンセンサスというものを得られるようになっていったら、それは地方から日本の未来を拓いていく上で、一つの大きな進路を開拓することになる。そういうふうに私は確信しているのです。

 

<磐井の歴史的真実がもつ壮大なロマン>

 ここにも関係の深い宮沢賢治が、はじめて出版した童話集「注文の多い料理店」という本がある。これを彼が広告するため「宣伝文」を書いているのだが、そこに書かれている文章は、明治百年における文学理論として、最もすばらしいものの一つだ思っている。でその中で、彼はいわゆる「イーハトヴォ」という、途方もない文学のユートピアについて問題提起をしている。「みんなこういうことを聞いたら不思議に思うだろう」というコメントです。「実にこれは著者の心象中にこのような情景をもって実在したところのドリームランド(夢の国)としての日本岩手県のことである」と書き、日本の岩手県というものを、もし日本の未来ある国として考えるならば、即ちそれはわがイーハトーヴになると、こういう言い方をしているのです。

 私はこの宮沢賢治のロマンとしての文学のことばとせず、学問のことば、特に歴史研究のことばとして言いかえている。「実にこれは著者がこれまで半世紀研究してきたところの心の中に、このような情景をもって実際に存在したところの、歴史的真実としての日本岩手県磐井というところ、即ちこれである」と。こういうふうに私は学問的にそう考えているのだが、その証拠が、はっきりした資料が、ここ磐井に実在しているからのことです。

 

<「みちのく中央磐井」のもつ大きい意味>

 鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」の中に、藤原清衡が平泉の町を拓く、中尊寺を建てる、そういうことをしていくのに、何故平泉の地が選ばれたかということについての記録で言っていることだが、「東北の最南端の白河関から東北の最北端の外が浜まで。この「外が浜」と書いているのは当て字で、一般には日本のはずれの方にある島だか国だという意味にとられている。これは中国の古典に「普天の下王土にあらざるなく、率土(そつど) の浜王臣にあらざるなし」という文言からきている。「率土の浜」というのは、陸地が続く限り何処どこま率土でも国家の民でない人はいないという意味です。その「率土の浜」ということばを日本語風に受け止めて、「率土」を「外(そと)」というふうに読み、「浜」を訓でよんで「はま」と読んで、それで「外が浜」というようになったということなっています。ただし日本では、これを最果ての意味として使っている。今日ではこの「外が浜」を津軽半島の陸奥湾沿いの沿岸地域というふうに解説されているのだが、これは清衡の場合の言い方には合わない。白河関というのははっきりした地名、地点です。そういうことであれば「外が浜」というのも地点でなければならない。海に面した最果ての港というように考えるべきです。これは歴史地理的にみて、岩木川河口、「トサミナト」(十三港)「十三湖」のこととして、ここのところで白河関に相対する北の最果ての地点としての「外が浜」と言ったのだと思われます。いずれにしても大きく見るとき、この白河関と外が浜が、東北というものを最南端から最北端を考える場合のターミナルとすることが出来る。

 それで「吾妻鏡」にはどう書いてあるかと言うと、

 「白河関から外が浜まで歩いて二十日あまりの行程である。二十日あまりかかる。そしてそのちょうど真ん中に、言わば東北の最南端から最北端のちょうど真ん中に当たる『中央地点』を選んで、そこに東北のミヤコを開いた。中尊寺を開いた。」

 こういうふうに書いてある。はっきりと東北の中央地点に東北を治めるミヤコ、文化センターを開く、そこを東北の政治の中心地、文化のセンターとすると、そういう自覚をもって平泉という地点が選ばれたのだと書かれているのです。

 「平泉」というのはこの際史上初出の言葉であるので、これは大きく見れば平泉を一つの小さな地点として含む磐井の土地、磐井郡というところが、ちょうど東北中央の地点であり、そこの中央の中央として狭く限定し、しかも軍事的にも地理的にも要害といえる地点を選んで「関山」の地が選ばれたことになります。したがってこの場合の「平泉」というのは村の名前でなくして、中尊寺のあるあの山内のあの特定地点を指しているのだと考えて宜しい。

 

「黄金文化」を生み育てた磐井の地>

 皆さんご承知のとおり藤原清衡の後、三代続いた百年の東北の政治というものは、東北に初めて独立した政治というものをもたらした画期的な歴史の出来事であります。しかも地方にこれだけ組織立てられ、長期にわたって安定した地方政権とか地方国家といえるものを創った歴史は、日本の歴史にはありません。それだけでなく、ここに成立した文化が「黄金文化」といわれているとおり、これは日本の歴史でもった贅沢な、豪華な、もっとも美しい文化のナンバーワンと言えるのです。これ以上豪華で、美しくて、立派なもの。日本では一番立派のことを「黄金」で表現しているが、「黄金文化」といわれるようなものを掛け値なしに指摘することができるのは、日本の歴史でこの平泉文化しかありません。奈良や京都でも、これだけ黄金でだけ固められた、しかも優美な文化に届く日本文化というのは現に存在していません。技術とか、知恵とか、技巧とか、そういうものでいえばとも角として、これだけのことからして、東北の真ん中というところをはっきり自覚したかたちで選び、そこに最高の東北政治を拓いた、最高の東北文化というものを拓いた。これはもう一つの日本歴史になります。こういうことを考えてみたなら、地方からの日本の文化、日本の歴史としては、平泉の歴史と文化は、これナンバーワンになります。このはっきりと政治の土地を狭く限定したかたちの平泉に創られた黄金文化の形式、これを誰でもが創れるというものではない。限られた金持ち、偉い人にだけ可能な文化形式であり、経済様式なのです。

 但し、その素材を提供し、これを可能にしたのは、土地の人たちが用意したものであります。東北の中央で、東北を代表する政治文化の基盤というものを、人民的なかたちで、国民的なかたちで、今日的なことばでいうならば市民的なかたちで拓いた場所、地域は、これ磐井郡ということにしかならないのです。これ皆さん異論ございませんでしょう。こういうことが歴史の中ではっきりと記録され、実蹟として遺され、誰もこれについて異を立てる人はいません。しかしながら、それが東北の中央、みちのく中央であるということを自覚的に言っているにも拘らず、それが無視されてきているのです。そういうことを全然考えずに、それを抜きにしたまま、ただ黄金文化であるとか、東北の独立した政権であるとか、そういうことだけを問題にしている。これでは学問にならない。きちっとした学問になりません。藤原氏が磐井郡というところ、磐井郡をなぜ意識して「平泉」という結果を造営することにしたのかという問題です。

 

<衣川を越えて磐井に入るということ>

 安倍氏は奥六郡の支配者として、東北の蝦夷を代表する政治家だと言われていますが、これについて奥六郡から衣川を越えて衣川の南に出たので、安倍氏というのが政府に反乱を起こす考え方をもつようになったということで、あの有名な「前九年の役」というものになってくるのですが、これは衣川というもので南と北を境に、蝦夷の地と政府側の国を、はっきり区別するという考え方に立っていたことに因るものです。その段階では、平泉などという言葉はなかった。衣川以北と衣川以南ということで、その一衣帯水の衣川以南のお膝元が即ちこれ磐井郡なのです。その磐井の土地の中の、特に狭めたかたちで平泉というものになるのですから、そういうことから私は、平泉の世界文化遺産とか何かということを考えるときには、それを支え、それを可能にした磐井の国というもの全体の裾野をきっちりおさえて、それを飛躍的に高めるというようなかたちで平泉の政治や文化が築き上げられてきたという考え方をするのが、歴史資料に確実に基づく平泉理解であると思っております。その考え方はちょうど、あの富士山という立派な山、秀麗なすがたについて、私たちは頂上だけを富士山だと思っているのだが、駿河・甲斐の国、そういうもの全体を裾野のようにして、その上に安定したかたちで築き上げられていって、あの頂上の美しさが出てきていることを思わなければならない。それがちょうど平泉の政治の立派さ、それから文化のすばらしさについても同じ理屈になります。たとえば黄金というものの産出する範囲を考えても皆さんお分かりのように、その当時は東磐井とか気仙とかが、この平泉黄金文化を支える直接的な基盤でした。東北全体がそうだけれども、平泉時代では特にそうなっている。

 

<磐井の歴史あっての平泉の栄光>

 そういうことから、こういう政治経済文化の裾野のセンターにあったのが磐井郡だということについては、一点の疑いもないのです。したがって平泉を最高の文化・政治として考える歴史を皆さんが持たれるなら、それを安定した歴史の主題にすることのできたものが、即ち磐井というものの歴史でなければいけないということが、これではっきりしてきます。ところが磐井郡について、そういう考え方がありません。平泉だけを例外扱いして、これだけをグローリア・アイゾレーション(栄光ある孤立)にしてしまっている。私はこれをミゼラブル・アイゾレーション(悲しむべき孤立)だと思っています。これは悲惨な孤立になってくると思っています。私はそう考えて、平泉の政治の名誉、文化の最高のかがやきを安定したかたちでもって支え且つこれを可能にした地域、あるいは文化の基盤としてに磐井の歴史を総合的にとらえていくことを抜きにしていては、平泉の歴史や文化の栄光をきちんと語ることができないと思っています。もし今日、平泉が世界の文化遺産としてスーッと進まない点があるとすれば、それは一にかかってこの頂上だけをあまりにも光りかがやいたものにしてしまい、中腹も裾野もほとんど歴史になるような具体的な価値が評価されていない現状があるからではないかと心配しているのです。私はそう考えて一言、平泉の名誉や栄光を考えるためにも、私たち一関市民、磐井の方々が、この磐井の自然、歴史、文化を最高のかたちで語るような歴史研究、学問研究、文化理解が為され、市民的なレベルでもってはっきりさせていかなければ、この平泉自身の名誉に限らず、折角日本歴史の中で「もう一つの日本」歴史の可能性を秘めている磐井の歴史が、それこそタカラの持ち腐れみたいなまま、ほったらかしになってしまう心配がある。野ざらしにされてしまう心配があると考えているのです。私はこういうことを決して大風呂敷で言っているのではありません。

 

<日本をリードする()地方(じかた)磐井学のすすめ>

 私は今、真剣に日本の学問の構造改革を考えているところです。そしてそのポイントは「地方からの日本史」を考えることにあります。この「地方」という言葉も、時代を絞った江戸時代から明治の初期まで、その漢字が「じかた(地方)」と呼ばれていました。この「地方」というのは「現地」ということです。今日で言うなら、それぞれの村、それぞれの字村、こういったものが即ち「じかた(地方)」です。私はその「地方の中の地方」としての「じかた」というものの歴史を、根本にまで掘り下げていくことで、そこから「じかた」も「地方」も超えた、人類、世界に結びつくような根本的な原理、原則がそこに働いているのだが、それがちゃんと理解されていないために今日、地方とか、田舎とか、それから「じかた」というものが喘いでいるのだと思っているのです。もしその「じかた(地方)」に、その土地に生きている普遍の法則・原理、人類の法則と言えるようなものを、地域の人たちが確実に理解することができるようになれば、きっと私たちは東京も大阪も京都も奈良も大和も、そのお世話に全くならないかたちでの日本の歴史、日本の文化、日本の未来を考えていくような歴史を考えることが出来るのではないかと考えるようになっているのです。「地方日本学」です。これ皆さんにとって初めてでしょう。ですから「高橋先生は大風呂敷を広げている。後藤新平の二代目だ」というように思っておられる。違うんです。私はそういったような何冊かの本の中で、克明に、さまざまなかたちで書いているのです。残念ながら未だ評価されておりません。第一皆さんが良く読んで下さっておるかどうか分かりません。私があの世に逝った後、「高橋という人が、こういうことを真面目に考えていたんだ」と言ってくれることになると思っています。私はこれらの本で、このようなことを言っているのです。間もなく皆さんにお目にかけられる1冊の本が出ます。「じかた日本学」と題されることになります。「じかた・田舎・辺境」、そういうように考えられている農村の片田舎に生きて働いている原則、法則。そういったものを、きちっと学問の理解にしたがって捉えていったら、それがそのまま普遍の法則になっていく。日本の歴史の原則になっていく。いやそういうかたちで奈良京都大和以外、東京以外には、日本をリードするような原則も法則も無い、無かったという考え方をしている今の日本人に対して「いや我々の足元に新しい日本を創っていくもう一つの原則があるのだ」と、はっきり自覚することになっていきましょう。

 

<地方(じかた)日本学その典型>

 ◇薩摩片田舎の歴史が世界史の典型的な法則となった「入来(いりき)文書(もんじょ)

 そのため今日は皆さん方に、二つの具体的な立派な書物になった見本を持参してまいりました。一つは私のものですから立派とは言えませんが、膨大なものになっています。もう一つは私とは別の方が、東北以外のところで書かれた本、これが何と日本のもっともみすぼらしい片田舎の歴史を掘り起こし、それが何と、日本の歴史を代表する歴史のサンプル、模範になるものだという評価が学問的に下され、しかもそれがイギリスではこういうかたち、フランスではこういうかたち、ドイツではこういうかたちになったという、言ってみれば世界史における法則とされている。日本のもっとも片田舎の歴史が見事に代表していたという証明になった書物、それがこの本なのです。皆さん聞いたことがないでしょう。本になったのはニ・三年前。私もこういうかたちで手にしたのは最近でございます。「入来(いりき)文書(もんじょ)」というものです。皆さんは「入来」などということ聞いたことないでしょう。鹿児島県薩摩国の熊本県寄りのほんとうの山中の、今では名前を知っている人は鹿児島県人だけだというくらい、今日でも片田舎なんです。そこに「入来荘」という荘園があって、鎌倉時代に今日の相模の国から「渋谷」という豪族が、ここの領主に移動させられたのでした。そしてなんと鎌倉時代、室町時代、戦国時代を忠実に生き延びて戦国の末、島津の家来になってしまうのだが、島津の家来になってもその伝統をズーッと引き継いで、鎌倉時代の武家の伝統、封建制度の伝統が、この片田舎の小さな領主の家柄に遺された資料によって忠実に伝えられ、今日に至っているのです。現在、この資料全部が東京大学の史料編纂所に収まっています。この史料に目をつけたのが福島県の二本松出身の「朝河(あさかわ)貫一(かんいち)」という方です。こういう方も皆さん方は、この「じかた(地方)磐井学」を考える方々には、新渡戸稲造と並んで是非とも覚えねばならない名前なのだが、皆さん朝河貫一という名前ご存じの方いらっしゃったら手を挙げてみてください。誰もご存じない。しかしこの方こそは、太平洋戦争を通じてアメリカの大学の教授をしていて、アメリカ国民から日本を代表する最高の良心をもった最高の学者だと評価されているのです。この伝記を「阿部善雄」という方がお書きになりました。これ皆さん一度は読んでほしいと思います。その題名は「最後の日本人」、おそらくこれを英語で書いたら、「The Last Man of Japan」という題になると思います。その意味は、太平洋戦争中、連合国側は日本人は全部敵国人、道義も正義も分からない国民だとして誹謗の的にされていたのですが、アメリカに居ったこの朝河貫一という大学教授だけは、立派に大学教授としての地位を保障されていました。アメリカ市民としての、あらゆる自由も戦時中保障されていた。こういう日本人はオンリーワン、この方だけだというので「最後の日本人」なんです。それくらい敵国において最高に評価されていた。彼は太平洋戦争が起こらないように、友人たち、軍部を動かし、そしてルーズベルト大統領も動かして、ルーズベルト大統領の親書の原案になるものを書き、これを日本の天皇に届けるという、外務省以上の外交努力をなさった。それが開戦を阻止するまでにいかないで挫折したのだが、またとない大きい影響を与える個人外交、民間外交を展開した方なのです。ですからこの方が戦後まもなく、昭和23年に亡くなったとき、アメリカの新聞が一斉に追悼のことばを書き、日本を代表する最高の学者が亡くなったと弔意を表しているのです。そして横須賀に来ていたアメリカ占領軍軍部では、軍隊の真ん中に半旗をひるがえし、この一人の日本人学者の死を国家的な規模でもって弔意を表したとのことです。

 こういうこと、日本の皆さん方何にもご存じない。こういうことを知らないで、私たち「世界の中の日本」などと言っているのですから、それではホンモノにならない。私が言いたいのは、これだけの見識と尊敬を受けていたこの学者が、アメリカの大学で最高の国際的な比較制度史学の大家であったことです。そして西欧の封建制度の学問においては、朝河貫一という人がアメリカを代表する最高の学者だとされていたのです。この方が、何とかして世界の中で日本の封建制度、武士の制度というものに名誉ある位置づけをしたいということで、必死になって史料を探した結果、探しあてたのが奈良だの京都だの東京だの、そういうところにある史料ではなかった。九州薩摩国の、日本人学者は全部、片田舎で辺境の地なんかの歴史は補助的なものにしかならないとして、専門の学者でさえこれをまともに取り扱っていなかった。ところがこの世界的な学者朝河貫一という方が、この「入来」関係の史料を系統的に調査してアメリカに持ち帰った。大正末年、一九二〇年代のことです。そして原文・日本文そのもので印刷すると同時に忠実な英訳をつくり、英訳と日本文と一緒にして、ヨーロッパ世界で出版した。そしてどういう結果になったかというと、これがイギリスの封建制度、ドイツの封建制度、フランスの封建制度、そこのどこの封建制度よりも、純粋に封建時代、中世を生きとおし、その歴史を展開した代表的な歴史がこの「日本薩摩入来」の歴史だとはっきり述べ、そしてヨーロッパの殆んど専門的な学者がこれを全部承認するということになりました。今日、日本の武家時代が、世界史における封建制度の一つの典型だと、学会の承認を受けるようになった最高の、そして直接的な功労者がこの朝河貫一、「入来文書」というこの本だったのです。そして彼はこう言っています。「日本では『入来』というのは、薩摩の鹿児島の地方史のテーマだと思っているけれども、実はこれは地方史ではない。郷土史ではない。人類普遍の歴史の法則を典型的に実現した歴史の一つである」と。私が申し上げたいのは、もし「じかた(地方)日本学」というものがあるとすれば、これこそ世界史学に届いた「じかた日本学」の代表だと言うことです。

 私は、平泉を頂点とする磐井の歴史には、この薩摩の「入来」以上にズーッと恵まれた条件にある風土であり、歴史であり、文化であると思っています。にもかかわらず日本の学者たち、岩手県の学者たち、磐井郡の郷土史家たち、誰一人そんなふうに思っておりません。そんなこと問題にしようとさえしていないのです。「他山の石」ということばがあるが、他所の山の石でも立派な玉に磨く材料にすることができる。薩摩の入来の朝河貫一教授のこの研究を、皆さんが磐井郡の新しい「じかた日本学」を創るための「他山の石」としてこれを学んで欲しいというのが、私が敢えてこのことを申し上げた理由です。そしてこれは私が何か狭く、岩手に来て一関に来たから、おだてるためにそういう言い方をして、仙台に帰ればまた別なことを言っているんだろうということにならないよう、こういう世界史にとどいた「じかた日本学」の代表をここに示し、しかもこの方も東北を代表する学者の一人で、福島県二本松出身なのです。「戊辰の役」で塗炭の苦しみを受け、「白河以北一山百文」といわれる中から、「世界の中の日本学」にまで生い育てていった人の学問として、私は身内から出た名誉のように誇りに思っているのです。

 

◇仏教究極の理論に決着をつけた徳一大師を顕す「検証 徳一菩薩道」

 そして私、自分のことで恥ずかしいんですが、やむを得ないので申し上げます。私は福島県の博物館で17年間館長を務めました。そこで私、一月に2回ずつ、「金曜講座」というものをもちました。そして東北、特に福島県を中心とした歴史と文化をテーマに、お話を17年間、一回も欠かさずに続けました。だから三百回か四百回程になっています。

 その主要なテーマの一つに「徳一」という人を採りあげたのです。この人はどういう方かというと、平安時代の初めに新しく天台宗、真言宗を開いた最澄や空海と、仏教の最高論争を続け、一歩も引かなかった方なのです。だが不幸にして彼は奈良仏教を代表していたので、その後最澄、空海の天台宗、真言宗が日本仏教の主流になったため、何となく奈良仏教の代表者として反主流のように考えられ、二流学者のように評価されてしまうのだが、これは研究不足です。私は過去20年近く、暇あるごとにこの研究を根本資料に基づいて考えたその行き先、それはその仏教理解を忠実に、文章に則してたどって行ったなら、徳一という人が南都仏教の法相宗に基づいて展開したその理論の方が、遥かに筋が通っているという結論に達したことです。仏教ではご承知のように大乗的に出来ていて、飛躍した理論を使うのが何となく立派なように考えられ、今でも大乗的なんてことを最高と考えておられるでしょう。しかし今日の学問や理論、科学から言うなら、大乗理論というのは飛躍の理論なんです。そりゃ宗教は最後、飛躍しなければならないのだが、しかしギリギリまでは科学的な学問としての理論を忠実に追っていき、最後のところで飛躍するのです。宗教というのは必ず飛躍が必要ですが、最初っから理論で考えるべきところまで飛躍の理論で、超論理で考えるようなものは学問になりません。最澄や空海という人は、立派は立派ですけれども、見様によっては余りにも超論理が多すぎます。即ち大乗理論は必要でないところでも大乗になっているということ、今日から観ると科学的になるべきところが科学的になっていない。だが科学的であるべきところで科学の理論を徹底して追究している代表者がいたとしたなら、それがこの「徳一」という方です。この方は奈良からその仏教を、宗教を、地方の恵まれない人たちに拡げていこうと、関東、東北に下って来て、最後は会津の恵日寺、それからもう一つは茨城の筑波山の中禅寺、そこを本拠にして、この仏教を拡げて行くのだが、大切なことは大方の仏教がインドで始まり、中国で最高に達して、決着のつかなかったものを日本に移して、最澄と徳一との論争をとおして仏教の究極の理論に決着を与えたということ。その最澄と徳一との論争という壮大なドラマの担い手、即ちこの方が日本の学会の半分を代表して世界仏教学にちゃんとチャレンジしている最高の学者だったいうことです。ところがまたこの方が、民間の一般の人たちから「徳一菩薩」とか「徳一大師」などと崇められ「生き仏」扱いされていたのです。その伝統は会津、岩城、茨城などで、今も生きつづけております。こういう伝説さえあります。徳一が建てたお寺には、雀でさえも遠慮して飛び込むようなことはしない。徳一が建てたお寺にお参りするなら、願いごとがかなえられないことはない。こちらがお願いすれば、ちょうど影の形に添うがごとく、徳一大師をとおして仏様の慈悲が下ってくる。声で呼びかければそれに応えるように、必ず仏様のお告げがあって慈悲の救いにあずかることができる。徳一に背中を向けたら往生できない。そういうことさえ鎌倉時代の末に、茨城県の僧侶が本に書き遺している。「住信」という人の「私聚百因縁集」がそれです。こういうことを考えてみて、私は東北の片田舎での信仰心理、宗教文化というものを拓き、しかもそれがちゃんと世界の学問や理論にも届いているようなものを、少なくとも過去の日本の東北の歴史で探すなら、「徳一」という方をその第一に考えるべきだろうと思っているのです。しかし研究はそこまで来ていない。及ばずながら私は、それをこの2冊の本にまとめてみました。立派でないかも知れません。しかし今日、東北の「じかた文化科学、文化歴史学」というものが「日本学」になる、世界にも日本を代表してこれをお届けすることができるような方がいるとすれば、この「検証 徳一菩薩道」というこの本が、少なくとも手引きにはなるはずです。

 

<大きい磐井の歴史が新しい日本を創る> 

 私が申し上げたいのは、こういうふうに「じかた」から、この地域から、掘り起こされた学問を、そのあるべき究極まで高めて行ったならば、立派にそこまで行き着くことができるはずなのに、にもかかわらず学者といわれる方々、郷土史家といわれる方々は、自分たちの都合の良い、自分たちの分かるところ、自分たちがよろこぶところだけを、歴史とし、学問とし、真理として、広い世界、日本全体の中に、それをきっちり位置づけて、一関の人・磐井の人たちが自慢するだけではなく、それが同時に日本の自慢になる、日本を代表してアジア地域において育った人類の歴史や文化として、これが最も純粋なかたちの一つになるのだというところにまで広げていけるものがあるのに、残念ながら全部眠らされてしまっている。それをまことに勿体なく思うのです。

 皆さんもったいないと思いませんか。これがごみの処理をしていたあの人たちが、一万円札を一千万とか二千万拾ったとかいうことが新聞話題になっていますね。それと同じことです。一万円札を一千万、二千万になるくらい、ゴミとしてこれを放棄してしまっているのです。そして他所の人が一万円だと言いはじめたときになって、慌てて「オレのものだ」と言い出しても、もう遅い。私はそういうことを「みちのく中央博物館」という言い方で考え、究極の理想となることまで狙いをつけた勉強の仕方をしていかないことには、二十一世紀の新しい文化都市一関市の柱に立ちあげることができないと心配し、そのための勉強をここから全面展開しなければならないと申し上げているのです。そしてその心算で考えると、資料は十分に残っているのです。(機会を見て紹介申し上げるつもりですが。)

 先ほど申し上げたように「みちのく中央」とは私のことばであります。八百年前の鎌倉幕府の記録、平泉の支配者が自覚をもってそういうことばを使っていたとなると、八百年の歴史をブランクにしていたことになります。今、高橋という余所者が来て、そういうことを言い出して、皆さん「そうかなあー」というように半信半疑ながらも、ここで話題になりつつある。勉強の仕方が、ここところで全面転換していかねばいけない。資料がないのではありません。読み方が違っているのです。「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」なんです。たとえば「磐井」というものを政治的に考えてみてごらんなさい。日本政府が、奈良京都の政府が、中央的な組織、政治の扱いをした最果ての国が、この「磐井郡」と「気仙郡」です。そういうことを考えたら、広い日本古代史のなかで、大和型・日本型・開明型の日本と、北型日本というものを、ギリギリのところで境界線を引いて考えることをしたなら、磐井・気仙と胆沢・江刺・閉伊というところに線を引いてまず考え、にもかかわらずその南型日本と北型日本を、同じ東北という中の真ん中でこれを結びつける仕事を、この磐井の人、磐井の政治家藤原氏が成しとげたのです。磐井の北隣では安倍氏で、胆沢の南の磐井では藤原氏であったり、またさかのぼってアテルイという人だったり、モタイという人だったりということになります。こういう考え方をしてご覧なさい。これはもはや郷土史のテーマでありません。奥州市ではアテルイだ、こっちでは別だ、そんな話でありません。これは日本を大きく二つに分けた、南型と北型二つに分けての日本、それが「東北日本」という構想、安倍・清原・藤原という北方王者たちの考えだったのですよ。にもかかわらず現地では、これを一つに結びつけるようなかたちの歴史、一つの「磐井」「胆沢」が、衣川で「一衣帯水」の隣同士だという考え方でした。この考え方に立って磐井平泉の歴史と奥州市の歴史というものをドッキングさせてご覧なさい。そういう考え方を抜きにしたまま、向うには奥州市というものがある、向うでも似たような考え方がある、こっちではこんなことを考えている。それをどう調整するかとなっていますね。勉強しないから、そんな心配をするのです。八百年九百年前に、この二つを一つに結びつけるというかたちで、東北の主要な歴史が展開していたのです。これが安倍氏から藤原氏に移っていく歴史、衣川を境にした胆沢と磐井の対決、そして対話の歴史なのです。これが地元の歴史を新しく考えると同時に、大きく日本全体の中で考えていく歴史になっていくのです。こういう考え方をすると、あの小さな衣川という川は、ローマのシーザーが例の「賽は投ぜられたり」と言って、ゲルマンとの国境の川を越えてローマ入りし、そしてローマを征服したといわれる例の「ルビコン川」、こういったものと比較しながら、衣川の歴史をロマンにふくらませて見ていくのです。朝河貫一という人を出してきたら、きっとそういう歴史をちゃんとやったんだと思います。私がこういうことを言うから皆さんは、内心半信半疑なんですが、これを朝河貫一という人や、新渡戸稲造という国際人の感覚でもって、今私が代弁しているのです。そういう勉強を磐井の方々が進めていくということが出来ないものだろうか。そうすることによって、もっとも底辺に降り立った地元の学習、勉強というものが、最高のところ日本全体、世界にちゃんと対話可能なところにまで開いていけるような歴史になる。私はそんなふうに考えているのです。そこで私が何か機会があって、一関のような大きなことを語る場があったなら、そこで私は大きくドーンとなるような鐘の叩き方をする。これを花泉であるとか室根であるとか、そういうところに呼ばれたら、そこの人たちが軽く聞けるようなたたき方のお話をします。ただし自分たちだけが満足し、よろこぶのではなく、それを分かることが日本の新しい知識の発見、未来に希望をもって行けるような、歴史の新しい出発点になっていけるようなものになる勉強の仕方を、膝つき合わせて話し合えるようにしてみたい。私、及ばずながら五十年間、そういう勉強をやってきましたので、この点では皆さんにいくらかお役に立つと思っています。あと私が何年生きるか分かりませんので、使えるだけ使ってみてください。ただ働き結構でございます。よろこんで奉仕いたします。以上、ほんとうはもっともっとと思いますけれど、一度にいろんなこと言っても、どうせご記憶いただけないと思いますので、大事なことだけにしぼってお話いたしました。ご静聴ありがとうございました。