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東方見聞録のジパングのこと

 「平泉の世紀」学習会 「東方見聞録のジパングのこと」

講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生

                                                                         平成21年10月18日 太陽と風の家 

 <磐井学教本「蘇るみちのく中央」出版について>

事務局の伊藤先生からご連絡がありまして、皆さん方の「蘇るみちのく中央」の勉強会で、何か「正誤表」みたいなものについて話し合いがなされたようで、何とその数が百近くになるとのこと、そのメモを拝見して恥じ入った次第でございます。そのことについて一言、私からお詫び申しあげる他方からお願いがあります。

 まずひとつ私の実状を申しあげますと、私、最近たいへん視力が弱りまして、普通の活字は普通の眼鏡なんかではちょっと読めないような状況になっておりまして、大きく拡大した眼鏡などをかけて拾い読みしながら、それを字に現わしていく、それも皆さんと違って私は筆ぺんでもって走り書きみたいなようなかたちで原稿を書きまして、その原稿を出版社に廻して初稿らしいものは一応は見るにしても、ほとんど大部分は印刷社の係の方にお任せするというような恰好で本にさせていただきましたので、その結果としていろんなかたちのミスプリントであるとか、もしくは私自身の誤解のようなものがあったりして、たいへんなご迷惑をかけたことをお詫び申しあげます。

但し、皆さんにお願いしたいことは、仮にあのような誤殖とか誤字脱字のようなものが指摘されても如何でしょう。そこのところから「みちのく中央」というものの理解が、その訂正によって深まるとか、もしくはそれによって改められなければならないというようなことには、全くなっていないというふうに私は判断します。

たとえば、例の「軍中将軍の令を聞く」のあの「軍中」が「中中」となっているところはぜひ直していかなければいけないし、「子梨」、そんなような字については、私の記憶違いが「小」が「子」になっていたりと、こういったようなところはご訂正いただくにしても、その他のところはあんまり細かい恰好でやっていきますと、何となくこれ間違いだらけの本でないかというふうな印象を、もし一般の方に与えるようであれば、これは私の心外とするところなんです。

たとえこれを訂正全くなしでやっても、この本自体がどういう問題提起をしているのか、何を言おうとしているのかということの理解については、私はほとんど支障がないんでないかというふうに私は思っているところなんです。そういうことから一言でいって、皆さん方のこの誤植その他のこの訂正などというのは、そういう大局的な観点から大きいところについてだけにして、「テニヲハ」のちょっとしたようなところは、うっかりしてそうなったという程度のようなことで、読む上で、殆ど誤解は起ってこないと思いますので、そんなような扱い方をしていただいたら、皆さんのためにも、それから私へのご好意としても、そうしていただけたらありがたいと思うのです。

そしてそういうことを申しあげるために私は、「青柳文庫」の文章、原稿をお書きになったこの著者が、こういうふうに言っていることを改めて皆さん方にご注意していただきたいと思います。青柳文蔵という方はたいへんな大金持ちになって、そしてこのような本を書くようになったので、事情をよく本のことなど分からない人にとっては、何となくこれは気に入らないことというような感じがするかも知れない。これについてこういうふうに著者はおっしゃっているんですね。

「君子は人の美を為すを喜ぶにあっては、その短しとするところの如きは論ぜずして可也」と。

つまりその人が、人のめったに出来ないような新しい大事なことをやろうということを、敬意をもって見ようというときには、その人の小さな欠点みたいなものはこれは問題にしなくてかまわないんじゃないか。むしろそういうことを細かく議論するという行き方の方が、返って大切なところを見誤ることになるんじゃないかと、こう言っているんですね。そこで自分は長嘆して、そしてこういうふうに考えた。中国の古典の「礼記」のなかには、こういうふうに言っているではないか。君子は人の短を論ぜずしてもって交わりを全うする。この意味ですね、君子たる人たちは本当にもののわかる人たちは、相手の人が十分にすべてを尽しているということではなくても、大局さえ誤りがなければ、その大局においてこの人に敬意を表し、付き合っていくようにすると、そういうふうに「礼記」にあるんではないか。こういうふうにおっしゃっているんですね。これはさすがに立派なあれだと思いますね。

で、私はそれにおんぶをして、年寄りの仕事として,大変な見当違いや或いは誤植などのような間違いがあるけれども、しかし大局において誤りがなければそういうかたちでこれを見ていく、大切にしていくというふうな勉強方法をとって良いんじゃないかなと、そう思いまして一つ、「青柳文庫記」に従ってそんなつもりで大きくはっきりとしたミスプリント、誤植、誤解、こういったような大きなところについて限ってご指摘、訂正していただくというふうな行き方にしていただいた方が、かえってこの本のためにも、皆さん方のための勉強にとっても、一般の方々にとっても、その方が役立つのでないかなあとこういうふうに思います。

それでは具体的にどういうことをすることか。私はそこのところでは、法然上人が「学問論」というものについて、こういうことを仰っていることを、ここで改めてご指摘しておきます。法然上人には「四十八巻伝」という有名な伝記がありますけれども、これについて、勉強をする学問をしていく上において一番大切なことはと、最初にどういう気持で勉強に取り組んでいくかということ、これが一番大事だ。そして、なら一番大事な最初の勉強方法というのは何であるかというと、それは、全体をさっと見て、あっ! この本は結局はこういうことを言おうとしているのだという、その大局の考え方、根本的な考え方を見当つける。最初にそういう勉強方法をする。細かいことを一つひとつ個別に見ていくのでなくて、全体を大局からこれをつかんでいくという勉強方法、これが一番大事なんです。なら具体的にどうすることかと、はっきりこう言っています。

それはまず本の題名を見ること、それからどういう題でもって小節ですね、各章各節ができているか、その題目をちゃんと見て、それはどういう意味であるかということが分かってくれば、それがすなわち一番の勉強方法の第一着手になるんだと。こういう行き方です、そして私はそういうかたちで、本というのはさっと題名を見、その題名はどういう意味であるかということを考えて、そしてこの本は要するにこういうことを言おうとしているのだということを直感的につかまえることが出来るんです。それが私の勉強方法だと。これは「四十八巻伝」という本の第五巻の「学問論」というところに細かくまとめてありますから、そこのところをひとつ皆さん方ご覧いただき、さらにそこで、この線に従ってこの本の勉強方法について私からお願いすること、それは先ずいったい高橋が、「みちのく中央」と本の題をつけた心、精神、その理由、拠りどころ、それは何であるかと、そういうことを先ず第一に勉強のテーマにしていただきたい。そしてそういうことをある程度話し合ったら、この本は全体四十章程になります。更に附録が二章あります。そういったものについて一つひとつこの題のもとで、著者は何を言おうとしているか、そしてその言おうとしている拠りどころになっているものは何であるか、それから一体そういったものに基づいて、ここで述べられていることがその趣旨に適っているかどうか。そんなあたりを皆さん方が、四十章の一章々々について問題にしていって、その上でですよ、そういうことを明らかにするために、このミスプリントでは誤解を招くというような注意をなさって、そこのところでぜひとも訂正しておかなければならない大きなミスプリントや誤植や誤解や、そういうものを中心に改めて正誤表というものを考え直していただく。そんなふうにしていただいたならば勉強会としても役立ってくるし、正誤表というのはほんとに生きてくるんではないかと、そういうふうにして勉強し直して見てください。

念のためですが中国では古くから「記問の学は師とするに足らず」と。丸暗記のようなかたちの勉強方法というのは、これは人の先生になるというそういうふうな本当の勉強ではありませんよという、そういうご指摘がありますので、その線に従って改めて、先ず法然のこの学問論に従って、大局をつかむ上で「みちのく中央」というのは何を言おうとし、そのために四十章に分けてどんなふうにそれが具体化されているのか、その具体化するにおいてこの資料で十分なのかどうか、その解釈はこれで良いのかどうか、そんなようなことを問題にして、そして分からないところは飛ばしていってください。分かるところだけで議論するようにしていただきます。そういうふうにして改めて正誤表というものも、生きた形の実際に役立つ正誤表というものを勉強の結果としてまとめていただけばありがたい。こういうふうに思いますので念のために弁解がましくお詫びをしながら、他方で私がそれに関連したお願いを申しあげておきたい、そういうふうに思うのです。これ序論でございます。

 

<黄金づくめの国王宮殿>

さて、今日の本テーマでございます。まずマルコポーロの「東方見聞録」の中の、大きなものについてはともかくとして、その中で日本に触れたこと、ジパングのこと、しかもそのジパングというこの国が、もう黄金だらけの国であって、黄金を持っていない人は誰もいないんだという、そういう書き方にさえなっているのです。それを踏まえてそこの国王の宮殿というのは、まさに黄金尽くめなんだということで、これはご承知のとおりでございます。

もっとも簡潔にまとめられているのは、元の東北大学の東洋学の教授だった愛宕松男という方が、この原文を英訳したものに基づいて、たいへん分かり良い格好の本を出しておられるんですね。「東方見聞録」、二冊になっています。この解説、その訳文が一番しっかりしているんじゃないかなと思います。

そこでそれに基づいて今日、私がお話し申し上げたいことは、この内容は皆さんよく分かってますから、そこでこれまで一体この「黄金尽くめの宮殿」というものについて、こういう議論がなされているんですね。まずいったい日本では黄金尽くめの建物、建築などというと中尊寺金色堂いうふうなものに限られてくるけれども、しかしこれは「国王の宮殿」というふうに書かれておって、教会だのお寺だの寺院と書かれていないと。そうするとどうもこれはマルコポーロの大法螺吹きになっているんじゃないかというふうな考え方になったり、或いはまた、しかし日本で黄金尽くめの建物というと、ともかく先ず金色堂平泉に指を屈するわけだから、したがってこれは平泉の黄金文化というものについて、マルコ一流の大法螺を吹いた、大風呂敷を広げたような記事だろうとか、こんなふうな議論になっておって、あんまり本気かたちの議論にはなっていないですね。しかも、さらにそれに輪をかけるのは、そんなふうに金をもってない人はいない、建物は黄金尽くめだというふうになっているようなことを聞いて、中国のクビライと言う皇帝は、それならこれをひとつ征服してその金をみんな自分のものにしようというかたちで日本を征服しようと試みたとか、そんなような書き方になっているんです。

 

<「ミリオーネ(ほら吹き)マルコ」半信半疑>

しかし、日本の歴史というものを、「元寇」というものを多少とも歴史的に考えようとする考え方にとっては、とてもマルコポーロのこういう理解の仕方では筋が通ってこないわけですので、結論的にこれはマルコポーロが日本について聞き書きしたようなことを、それこそ「白髪三千丈」式に大風呂敷をひろげた大法螺になるだろうと、結局そういうふうな考え方に結局落ち着いているんでないかなあというふうに思います。

ここのところご承知のとおり「ミリオーネ」といわれまして、すべてのことが百万単位。白髪三千丈などと言いますけれどそれ以上なんで、百万単位の法螺吹きだというヨーロッパでもこういうふうな言い方になっているんです。そしてこの黄金の国ジパングというのはミリオーネ、マルコの大法螺になるだろうというようなかたちになっておりまして、でもやっぱり黄金というものについて、産金ということについて、そんなに云わば「大文章」が書かれているということから、ヨーロッパの人たちは半信半疑ながらその黄金の国ジパングというものを尋ねるというようなことが、ヨーロッパの新しい近代の始まりになってきて、例の「大航海時代」というものも拓けてくるということ、これも半信半疑のような恰好で、このマルコポーロの記事というものは何となく貶されるようなかたちで、内心では若しやひょっとしてというふうなかたちの期待感も持たれているような現状にあって、これについての本格的な学問研究というものはできていないと思います。

そこでこれは、皆さん方がこの本場に近いところの人たちの、しかもこういう勉強を本格的にやろうとなさっている方々ですから、私はここでしっかりとした学問に基づいた、史料に基づいたお話をしていこうと思います。

 

<「二つの日本」、その混同やら組み合わせやら>

まず第一にマルコポーロの「ジパング」というものには、中国で二通りに伝えられた「日本(ジパング)」というものが、混同したかたちで書かれておって、そして都合の良いようなかたちでその「二種類の日本」というのが、組み合わされて一つになっているというと、こういうふうに考えるのです。

二種類の日本とは何かというと、一つは、そうですね中国の「唐書」というものにはっきり書かれておりますように、日本国というのは、はじめこの日本列島国家「ヤマト日本国」のことではなかったんですよ。世界史的に日本国というのは大和の国の日本、日本列島全体を指す、「ヤマト」を中心としてそれを日本列島全体にひろめた国家についての日本ではなくて、東東北に偏ったその倭国、倭人の国の小さな一つの独立国としての名称が「日本国」なんですよ

私たちは日本というのは大和国家から始まったというふうに考えていますけれども、これはたいへんな誤解です。それはそのまま生きているんです。そうしないと具合が悪いから、そういうことにしてしまっているんです。そしてその根本の証拠は中国の史料です。「旧唐書」「新唐書」「唐書」。その「旧唐書」という本では、はっきりと「倭国」というのがすなわち大和国家の日本なんです。それと別個に日本国という国が一つ独立して立てられているんです。そしてそれがなぜ日本国というかというと、それは倭国、倭人の一種の国だけれども、これは「日の本の国」、日が出る国の、その麓にある「日出る国」の日の本の国であるという意味で「日の本の国」、漢字にまとめて「日本国」というのであって、したがって世界史における日本国の始まりは、この日出る倭人の国の一種としての日本国が第一であって、その当時の大和の国は「倭国」というふうにいわれておって「日本国」と言っていなかった。

ところがそれがなぜ日本列島全体の名称になっていったかというと、それは「倭国」と「日本国」の間の征服戦争が起って、そしてこれが一つの国にまとまった結果として、これまで「倭国」と言っておった「大和の国」が、「日本国」というふうに名称を変えるようになって、すなわち倭国が日本国となったのだと、こういう考え方になっているのです。

そしてその征服関係においても、独立していた倭人の国の一国である「日本国」が「倭国」を征服したので、新しい国号が「日本国」となったという説と、その反対に「大和の国」が「日本国」を征服した結果として、但し、征服した日本国の名前を倭国が頂戴して、そして「倭国」を改めて「日本国」にしたのだという、この二つの説があります。これが「旧唐書」、「新唐書」、「唐書」には二つの国があって分かれている。そして結果的には日本でいえば聖徳太子、大化の改新あたりにかけて、これは倭国が日本国を征服した結果として、その征服した日本の名前をそっくりいただいて新しい日本国になったのだという、これが定説化して今日まで来ているんです。

 

<日本を「ヤマト日本国」に限る定説を覆さないことには>

そして逆に今日では、ヤマト日本の前に日本国という独立国があって、これが先輩だったなどというのでは具合が悪いということから、はっきり、これは中国で誤解に基づいた書き方なのであって、ほんとはそんなことはないんだというこんなことが今でも本気になって行われている。もし中国の歴史というものが、日本の伝説時代の日本書紀や古事記などよりも歴史的に信頼できるとなれば、これははっきり日本倭人の一種の国としての日本国が最初にあって、それがヤマトの国と合併した結果としてヤマト日本国というふうになって、その後は日本というのは「ヤマト日本国」に限られて使われるものと、こういう考え方が殆ど定説みたいになっちゃって、皆さん方もほぼそういった考え方でしょう。しかしこれは世界史的には訂正して行かなければいけないことになるということははっきりしています。私はそういったようなことは既に私の前の本がら何回も主張していることです。残念ながら少数意見でございます。しかし私はこれからはこれが定説になっていくだろうと思います。

それならなぜ「ヤマトの国=倭国」が、征服した国の「日本」という名前にわざと変えたのかということ、それは「倭国」ということ、「倭」ということばが、何となく軽蔑された意味になっていたんですね。鄙隘(ひあい)な小さい、そういう国と言うような意味を嫌って、それで自分の国の中にちゃんとある日の本の国、日出る国という、こういう名前こそ、日が沈むところの、日没する国に対する日本という、倭国としてはちゃんと名誉ある言い方ではないかというような考え方に基づいてはっきりと「日出るところの天子、日没するところの天子」と、こういう考え方に切り替わって行ったのであって、もともとは日本国というのが、こういうかたちでヤマトの国家の他に、これと独立して、良いですか、独立して、しかも日本国という名前の下にあった小さな国が、後になって大国日本の名称に本格的に採用されるようになって、日本の歴史をつくるようになっていったのだと、こういう考え方を改めてし直すようにしてみてください。

 

<なお東北に生き続けている小国「日の本の国」>

ある意味においては、私はこういったようなことを半世紀以上前から主張してきているんです。にも関わらず、だめだという説は誰も言いません。しかし、賛成という意見も殆どありません。暗黙のうちに、こういったかたちの考え方が今まで生き続けてきて、これから先これは、大きな「地方の時代」における「新しい日本学」というものの拠りどころになっていくものになるだろうと考えております。

さて、この二つの日本という考え方で、中国の正式の歴史では「唐書」によって「日本国」というものが、新しく倭国の新国王になったということを承認して、その次の宋の時代からは、倭国とか倭人という言い方は出てきません。全部「日本伝」というふうになって「倭国伝」というものはなくなってきます。ですから中国の正式の考え方においては、倭国というものが日本国というものに正式に切り変わって、小国としての、もしくは本来の独立国としての日本国というものは、これで解消消滅死滅したというこういう考え方になっておったんです。

しかし、実状は全く違います。実状はこの小国としての日本国、日の本の国、日出る国、日の本、こういった行き方は、ひとり中国においての云わば「もう一つの日本」知識、日本の歴史として伝わっているだけでなくて、良いですか、日本の歴史においても、この日本国家としての日本という行き方と全く違うかたちで、伝統的なこの小国「日本国」、「日の本の国」、「日出る国」という伝統は、ずうっと継続しているんですよ。ずっと残っている。そしてその継続する「日出る国」「日の本の国」というのが、全部東北に限定されて生き続けているということを皆さん方は改めて認識し直してください。

 

<消滅したはずの「日本中央」「日の本」呼称が連綿と>

そのはっきりした証拠、それは歌の世界において、青森県で坂上田村麻呂が蝦夷を征服した後、そこのところに石碑を建てた。その碑の名前はみなさんご承知ですね、「都母の石文」というんですが、その碑面に弓の矢はずでもって「日本中央」と記したと、こういうふうになっているんです。

そして平安時代の終わり、鎌倉時代のはじめの歌学者である顕昭という有名な歌の学問をやった人が「袖中抄」という歌の本の中でこういう言い方をしているんですね。「石ふみやけふのせばぬのはつはつに あひみても猶あかぬ朝かな」。日本国の最果ての地であるこのみちのくにおいて「日本中央」というのは何としても聞こえない話で、大和とかなんかあたりが「日本中央」なら良いけれども、そういう議論をして、さてしかし、日本は千島列島全体まで含めて日本という考え方をするならば、「みちのく」の此処らあたりが日本国中央ということ十分成り立つ。皆さんこれ生かしていったらどうですか。日本中央という考え。千島列島の奥の奥まで含めて日本なんだから、そうすれば東北の最北端の地に日本中央ということも十分に理解できるんではないですか。とも角として、そういうかたちで日本中央という言い方がはっきりしたかたちで、平安末期では明確に問題になっているということです。

それからこれが中世になりますと、鎌倉室町期になると蝦夷というものに三種類があるとして、唐子、日の本、渡り党と言って、蝦夷の種類の一種類として「日の本」という言い方がある。そうすると「えぞ」とか「えびす」とか、そういうものの代名詞として、この「日の本」という言い方がある。これは地名がそのまま種族名に変わったものという、これは「諏訪大明神絵詞」というものにちゃんと載っておりまして、こうなりますと「日の本」というかたちの地名、若しくは人種というものが、日本国家の日本というものと別個独立して東北の地について言われているということ、これはっきりしていますね。これは歴史的に明確なんです。

その次に戦国に近くなって、「日の本将軍」という言葉がちゃんとあって、これは津軽の安倍氏の子孫である安東氏について「日の本将軍」という言い方がなされていますね。そしてこういうことが可能なことになるこの人は、都近くの若狭の国のお寺に寄付をするために、自分が金を送りその復興を手伝うというときの名前として、勅命によってこの若狭の国のお寺とつながりをつけるときに「日の本将軍」と言っているわけですから、皆さんお分かりですね。当時、「日の本将軍」などというのは、「征夷大将軍」を除いてあり得ないわけでしょう。そういう勅命に基づく地元の地方の豪族が日の本将軍を名乗っているとすれば、この日の本日本というのは、これは日本国の意味の日の本とは違う意味の使い方なんで、何ら不敬にも失礼にも抵抗を生むことなく、みんなに日常使われ認められていたから、したがって「日の本将軍」などということが、「征夷大将軍」が日本国将軍というのとは別な意味で使われ得たという、これは明確な証拠になってくるんですね。

 

<太閤文書「置き目」の「日の本」に注目>

そしてです。最後です。最後は豊臣秀吉です。太閤のところまで来ます。小田原征伐を終わった後、秀吉こういう命令を出しているんです。「小田原を征服してしまうとここにおけるやり方というのは、関東日の本までの置き目に、つまり命令書、法律になってくるから、ここでは徹底した政治を行っていく」と、こういうことが太閤史料にはっきり残されています。

そこでです。これについてこれまでの学者達の、「関東日の本」の「日の本」は、「日本国」の意味だ。関東地方、引いては日本全体にまで亘るところの命令になってくるから、したがって徹底して行うということで十分意味が通るだろうと、こういう解釈なんです。これが定説みたいになっているのです。これは「太閤文書」を好い加減に読んでいる証拠なんです。秀吉はこのひと月ばかり前の手紙の中では、この「関東日の本までの置き目」というふうに言うべきところを、これを「みちのくまでも」と、「関東みちのくまでも」という、こういう書き方をしていて、あるところでは「みちのく」と言い、他のところでは「日の本」と言っていますから、この「関東日の本まで」の「日の本」は「日本国」そのものの意味ではなくて、広い意味の「みちのく」の意味の別な言い方としての「日の本」、つまり「関東みちのくまでの置き目」ということで、このとおりになってくるわけですね。実際小田原征服が終わった後、そのまま引き続いて東北の奥州置き目というものが、秀吉が直に出馬して行われることになってくるわけですから。

そういうふうに考えて「みちのく=日の本」という意味の言い方が、ずうっと秀吉の時代まで生き続けて現地には残っておって、それがしかも日本国の意味の日の本とは違うかたちで、ずっと生き続けて使用されていったと、こういうことが分かってきたなら、そして日本でこのように二とおりの、すなわち日本列島国家としての日本日の本という言い方と、それから蝦夷の国、或いはみちのくの国という意味の日の本、日本という言い方とが併行して存在しておった。それが何ら抵抗なく行われていたという、この事実がそのまま中国の歴史にも反映して、正式に日本といえばヤマト日本国の意味だけれども、しかしその本来の元になったもう一つの、言ってみれば地元の、地方の意味での日の本の国、日本国というのが併行しておこなわれていたということがあって、それがいったいどういうふうにして問題になってくるかというと、それがマルコポーロのジパングの考え方にはっきり現れてくるんです。

 

<地域呼称「日の本」が、マルコの「ジパング日本」>

なぜかといえば、マルコポーロは、日本国を黄金の国、金はあらゆるところから出ている。金を持っていない人は誰もいない。だから日本人みんなが大金持ちだというこういう考え方が大げさになって、それなら征服しようというかたちで、元の「元寇」というものも、それに基づいて起ってきたとたというのがマルコポーロの説なんですね。しかし私たちは、こういう考え方がもし「ジパング日本、日本、日の本」に二通りの言い方があって、大きな日本列島全体にわたって日本というのを、狭く蝦夷の国みちのく、そういう東北地方のある限られた地域に本来あったところの伝統的な地域呼称としての日の本日本という考え方が、それが中国にそのまま生かされて、そうしてジパングということになって、この黄金の国が日本全体にわたるのでなくて、東北における特産物としての金というような、そういう意味の黄金の国ジパング日本ということならば、これは百パーセントは当らないんですけれども、五十パーセントぐらいは当たってきて、これはミリオーネにならない、百万の大法螺にはならない。ある程度拠りどころのある「足のある幽霊」になってくる。こういうことを私は皆さん方に改めて勉強しなおして欲しいと思います。そしてもしそういうものについてはっきりした拠りどころを見たいと思ったら、私が東北大学にいた若い頃に書いた「奥州藤原史料」というものの中に、それに関連した史料が、いろんなところで何回も何回もちゃんとした出典を挙げて説明されております。

 

<平泉藤原氏の支配下に奥州金のすべてが>

平安時代の中ごろの摂関政治とか、院政のころにはミヤコの貴族政治家たち、藤原氏とか院政の政治家達はこういうふうに言っているのです。「日本で金を産するところは奥州しかない、陸奥の国しかない。みちのくしかない。そこで都における政府における金の保有、金の保持というのは全部奥州から貢金、献金、納入されて、はじめて日本政府の金というものの保有が可能になっている。ところが最近あんまりその金の貢納、税金としての納入、もしくは献上が怠っておって、金がすっかり金庫には金がなくなってしまって、たとえば中国から使節が来て帰る時には、日本みやげとしてこの金を、奥州から献納された、納付された金をおみやげとして中国の使節に渡してやるというのが恒例になっているんです。ところが政府の手持ち金までなくなっておって、せっかく中国から来た使節にも与えてやるところの金がないということになると、これは国辱になる、国の恥になる。だから急いで陸奥の国に命令を出して金を献上するようにさせろ」という、こういうようなことが真面目に藤原氏の大官貴族たちの日記の中にちゃんと詳細に書かれているんですよ。詳細に書かれています。そして金を出すところは日本では奥州しかないということは、これは歴史的事実でございます。小さなかたちでは全国あらゆるところにいくらかはありましたけれども、大量に経済的に問題になるところの金というものの産出は奥州に限られて、そしてその始まりは天平産金になるということ、みなさんご承知のとおりでございます。

そしてそのために奈良時代から東北は、何をさておいても米のほかの税金は、それこそ正に「金」とあるとおりに、納付税はぜんぶ金でやらされた。金にやらせた。布やなんかは必要ないと、そういうふうに東北は、日本における納付金は陸奥の国にはっきりと特定されたところの納付金として、これが法律化されておった。そしてその伝統がずっと平安時代まで続いておった。そしてそれを最後的に朝廷に行く前に、現地ですべて自分の手元に一括して、そして地元の判断でもって、必要な限り、必要なときに、必要な額を朝廷に献上するという政策をとるようになったのが藤原氏平泉になってくるんです。

 

<歴史的事実「平泉黄金文化」とマルコの見聞録>

そういうようなかたちになって、マルコポーロのときには既に平泉は滅んでおりますけれども、中国における金というのは全部こういうかたちで「奥州金」ということに限定されて、これ中国でははっきりそういうふうに、日本金といえば奥州金に限定されておった。しかもそれが歴史的事実としてあった。こういうことになってくる。そしてこういうかたちであれば、すべての人たちが金を持っているとかいうこと、これは大法螺です。

しかし産金国が奥州に限られているということ、その産金を経済的な政治的な拠りどころとして、東北における最大の豪族が、建物といわず政治といわず、すべてのところ、それこそ今日のドル外交と似たようなかたちの「黄金外交」というものをとって、そうしてこういうかたちの日本における「もう一つの日本」というような実力を、経済的に貯えるようになっていたということは、これは厳然たる歴史的事実であります。したがってこれは藤原時代に政治的に一箇所に集中されるようになった奥州金の伝統というようなものが、話として、歴史事実に基づいた話というようなものが、ずっとマルコポーロのあたりまで続いていって、そしてそれに尾びれをつけたようなかたちで、みんなが金を持っていない人は誰もいないというようなことは、また聞きもまた聞きの大法螺ですけれども、しかし、ここにおける国王の宮殿が黄金づくめだということは、こういうかたちで皆さんは、平泉文化が皆金色、黄金文化だということは定説でしょう。なんら不思議でない。歴史的事実で、それが今日残っているかたちでも、金色堂がその最高代表になってくるということを考えてみたら、これなんら不思議ではないということが分かってくる。

 

<「宮殿」と「お寺」のちがいをどう読むか>

さてその次が問題です。これはお寺でしょう。お寺です。しかしマルコポーロは宮殿と言っておって、どうもこれは政庁ではないんでないか。そうするとやっぱりここにもマルコの一流の大風呂敷があるんでないかということが起こってくる。これについては皆さん方は勉強し直さなければいけませんよ。歴史家は当てになりません。歴史家はそういったことは抜きにして勉強しているんです。したがってそういった勉強は地元からやり直してください。

まず平安時代になってきますと、特に浄土教が一般化してきて、しかもこれは学問やなんかでなくて、日常生活の中で南無阿弥陀仏というふうなかたちでもっての信仰ということなために、まるでみんなあらゆる人たちが宗派を超えて、みんなこの浄土教というものの信者になっていくようになるということ、皆さんご承知の通りです。だから浄土宗とか浄土真宗というのが、宗派として独立する前には、天台、真言から奈良の宗派を含めて、みんな「寓宗」と言いまして、寓居の寓、仮寓の寓、それぞれの宗派に各宗派に関わりなく、「浄土教」はみんなこれは信仰するように、「天台宗」はその代表ですね。「朝題目夕念仏」と言いまして、「常行堂」を中心とした天台宗などは、朝の正式の修行は題目「南無妙法蓮華経」、しかし夜の修行は全部「南無阿弥陀仏」にするという、こういう行き方は天台宗の伝統なんです。「真言」も同じです、こういう点では。

こういうふうになってきますと、いったい平安時代の摂関時代においてはそういうことから、それぞれの阿弥陀堂というのは「持仏堂」として、貴族たちみんながこういう「阿弥陀堂」というのを、自分の邸宅の周りに、もしくは一部に、必ず設けるようになってくる。そして道長や頼道、その他、院政時代の法王はいうまでもなく、もう入り浸りでもってこの「持仏堂」お守りをするようになったんです。分かりますね、そうなりますと、天皇はともかくとして、法王であるとか摂関であるとか、一流の政治家達は、みんな持仏堂お守りをして、そして何となく持仏堂そのものが、半ば政庁の別所、半ば役所の一部のような恰好になっていくんです

 

<「持仏堂」が政庁(宮殿)でもあった平泉の世紀>

現にそういったようなかたち、平泉の毛越寺の「大泉ヶ池」なんか見てご覧なさいのところ、ああいうところを見ますと、正面に見える金堂というのは、まるで屋敷のような恰好になっておる。そしてそこのところに基衡というのは入り浸りなんです。そうであれば基衡の政治などというのは、極端に言えば半分以上は毛越寺のあの大泉池の向うの金堂においてなされていたというふうに考えて、少なくとも「北方の王者」という言い方があるくらいに、「平泉の王者」たちの別荘みたいな、離宮みたいなものとして、中尊寺も、毛越寺も、特に無量光院などというのはなお更ですね、あったということを考えてみるならば、これに尾ひれをつけてヨーロッパ風に考えるならば、この中尊寺や、毛越寺、無量光院のような浄土寺院というものが、国王の別荘、別邸、もしくは離宮のようなものとして機能しておって、行ったことのない人たちが、その華やかな「みちのく王者」の文化生活というものがなされている「ご殿」というようなかたちで、中尊寺や毛越寺のような話が尾ひれをつけて伝えられるようになって、マルコのような伝説を生むようになって、すなわち無量光院、もしくは毛越寺、金堂、中尊寺、金色堂、そんなような国王のただ「一宮殿」となっているんですよ、すべての宮殿でない「一つの宮殿」となっているんですね。一つの宮殿がこういう皆金色に、黄金尽くめになっているというふうなことは、尾ひれをつけて多少誇張して考えれば、これ歴史的事実ですね。歴史的事実です。

そういうふうな考え方をすることによって、マルコポーロにおけるジパングというのは、大きな島国であるとか、国民がみんな礼儀正しい良い国であるとか、クビライが征服しようとしたとか、こういったようなところは大国「ヤマト日本国」を指すにしても、この中の黄金に関係したところは、すなわちこういうかたちの「平泉みちのく」に、政治的に大きく集約された「産金国みちのく」、さらに遡って「日の本日本国」、そんなような伝えや伝説がごっちゃまぜになって、しかも全部「黄金伝説」というような恰好に集約されて、マルコ「ジパングの黄金の宮殿」という話になっていったのだとすれば、半分は尾ひれのつけられた話ですけれども、拠りどころになった「ジパングみちのく」、それから宮殿、浄土寺院。こういったようなものとのつながりを考えていけば、七八割は、平泉における黄金文化を基にして、それに古く日本国とされていた「ヤマト日本国」の話が、すべて一つに交じり合わされたかたちでの、半ば歴史、半ばフィクション、半ば伝説、そんなようなかたちの物語として、私たちはこの中から、かなり歴史につながる部分というものを六割七割から、多少おまけをつけるなら七割八割近くまで回復することができるのではないかとそんなふうにさえ私は考えているのでございます。

 

<「正統史学」のゆがみを「みちのく中央」から正していこう>

こんなようなことから、マルコポーロの話というものを、もう少し日本の歴史の中で具体的に裏打ちになる歴史事実というものがどのくらいあるかというようなことと、それから遡ってジパングというものの拠りどころになった話というものには、「旧唐書」以来の小国独立国日本国とヤマト日本国というものが合併されて一つになって、しかも、日本の使節たちのこの話を中国の朝廷に紹介するときには、大事なところでは曖昧にして言葉を濁していたと、こういうふうに中国の記録は伝えております。それは何故であるかというと、いったい征服した国が、征服したその相手の国の名まえを使って、自分の新しい国名にしたというのは、何としてもあんまり名誉な話ではないんですよね。そういうことから何となく、そこのところの出典を曖昧にして、とにかく日本国に新しい統一国家が出た段階で、古い謂れのある地名というものに基づいて日本国というものにしたんだという、その程度の話にして言葉を濁して、遣唐使がそういうような説明をしたというふうにちゃんと中国の歴史に書いてあるんですよ。私はこれは歴史的事実だと思います。

ただそういうかたちで、日本というヤマトの名誉などというようなものにこだわるような学問とか、そういうような正統史学というものだけが、こういった歴史事実というものを正確に見抜いていくことが出来なかったためだというふうに思って、私は今あらためてこの「みちのく中央史学」というものが新しく日本全体に提出されたのを機に、そこまで遡って、「日本という国」そのものが出来上がる上において、だいいち、「日本」と名乗るために東北が、みちのくが、平泉が、どのくらいに重要な欠くことのできない役割を果たしていたかということを、改めて勉強しなおしていって、この「みちのく中央」という本は、そういうことをもっとも系統的に議論していくような第二著書になってくると、そういうふうな考え方をして、そのつもりの勉強していただく、そのつもり。正誤表はそれに基づいてやり直していただきます。そうですね。なぜかというとこの正誤表がどんなに正確に出来ても、今言ったようなことの証明や説明にはあんまり関係しないことになってくるんです。そういうことにあんまり時間をかけないように、大事な、第一義的な学習というものに全力投球をする。そのために残念ながらこういう若干の過ちがある、ミスがあるというような恰好で、うんと大事なところだけはぜひとも訂正して欲しい。そういうふうに思います。

まとまりない話しでしたけれど、こういうところであんまりきちっとした話をすると、却って分り難いと思いますので、今言ったような半分おしゃべりのような話にさせていただきました。御静聴ありがとうございました。