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縄文遺跡「貝鳥貝塚」

             花泉町油島「貝鳥貝塚」学習会 

講師 東北大名誉教授 高橋富雄先生 
 2006年830
 
<「盤具公母禮」は「磐貝公母體」>

先ずご理解いただきたいことは、田村麻呂の胆沢戦争において、最高の敵として戦った人がアテルイ、それからモレという人だとはっきり記録に出てきていますね。そしてこの二人の戦いが胆沢軍の大勝利に終わったが、その後に降伏しています。まだ500人の部下がいたにも拘わらず、それを全部引き連れての降伏でした。そこで田村麻呂は、この二人を捕虜としてミヤコに連れて行く。田村麻呂としては、この二人はたいへん人望があり、また力もある大将だから、今回はこの人の罪を許して、この人の呼びかけによって、まだ反抗している人たちを全部降伏させ、戦わずして平定を実現させるようにしたらどうかと政府に建議しました。ところが政府側では、それはまるで虎に翼をつけて野に放つようなことになる、こういう怖い者が幸いにもこちらに降伏してきているのだから、ここで処刑した方が良いとなって殺害されます。

 そのときのアテルイについて、これを何と読むか分からないが「大墓公」と書かれてあるので、「オオハカノキミ」「タイボノキミ」など、さまざまな読み方がされているのですが、これについて私もいろいろと考えてみました。そして結論的にこれは「オオハカノキミ」と読むべきだとしています。今の胆沢町にある「角塚古墳」に結びつけて考えてみると、それが妥当であろうと判断しているからです。この地区で、大きな墓というべき古墳はこれしかありません。

その奈良時代のはじめ頃、ヤマト政権に降伏を誓い、友好的に協力する者について、これを地元の貴族として扱うという特権を与え、その証拠として「公」という姓を名乗ることを許すとしているのですが、そうするとこれは「大塚公」、その「公」ということばが正式に認められた呼び名になってくるのですね。そして地元での有力者で、中央の文化の恩恵にあずかるような豪族を別格扱いするようにしていました。そこで全くこの宮城県の古川地区で止まっていた高塚古墳が、中間を全部飛び超えた胆沢町に、たった一つポツンとこの「角塚古墳」がある。これは特権を許されて、中央側と協力関係に入っていたエゾの豪族のお墓だと考えることができるので、私はアテルイの先祖にあたる人が何百年も前、つまり大和朝廷の古墳時代の中ごろから政府側と協力関係に入っていた豪族の一人として、こういう別格の古墳を作ることができるという、全く例外的な扱いでもって「オオツカノキミ」と言われたのであろう。そしてその豪族は、ほんとうは直前まで朝廷と協力関係にあった。ところが大和朝廷の軍事的な政略が急激に高まり、事を軍事的に解決していくようになってきたため、これまで大和政権と平和的な関係にあったアテルイの先祖にあたるであろう「オオツカノキミ」の家柄もまた、反抗する側にまわっていくようになったのだと思われます。いずれにしても地元権力の象徴が、このような古墳によって示されていたということと、はっきりつながってまいります。

ところがこのアテルイと並んでもう一人の有力な大将がいた。それが「盤具公」。普通これを「バグノキミ」という読み方できています。そしてその名前がモレ(母禮)です。アテルイ(大墓公)とモレ(母禮)。この二人が大きな指導者だということが政府側の記録にございます。

そして私は、この「盤具公」というのは、地元の事情を全く知らない中央の学者たちが、ただ音とか訓とか、字画なるもので、そのまま鵜呑みするかたちで書いたのであって、地元の事情を良く分かる人に関する限り、「盤」は下が「皿」ではなく「石」、したがってこれは「磐井」の「磐」になると見ています。それから道具の「具」、これは「貝」という字とほとんどそっくりで、この「貝」の字も間違った書き方で「具」にしてしまったと考える方が正解で、したがって「盤具公」は「磐貝公」ということになっていきます。それから「母禮」の「禮」は、シメスヘンではなくてホネヘンになっていて「體」。したがってこれは「母體」(モタイ)ということになります。当時は、人名を地名で呼ぶ呼び方がごく普通でした。したがって東磐井の奥にある「母体」も、「母體公」ということからモタイと呼んだということがはっきりしてまいります。したがって「盤具公母禮」は「イワガイノキミ(磐貝公)モタイ(母體)」ということになるのです。そしてその「イワ」が「磐」、これを地名にあてていくと「磐貝」となって、この「イワガイノキミ」が「イワイノキミ」の古いかたち(原形)ということになってくると。これ私の新しい説になってきます。」(

)それで地名としては「磐貝」「磐井」だが、本来は「磐の貝」だった。ところが貝の種類については「イシガイ」というのがあって、淡水産の貝の内でも代表的な貝の一つでした。したがって「イワガイノキミ」というのは、実際にイワガイ(イシガイ)という貝がたくさん採れ、それが地域経済の目玉にもなるような産物、それが地域を代表するような経済風土、そこから「イワガイ」という言い方、「イワガイノキミ」という支配者も出てくるようになってきた。「イワイノクニ(磐井国)」で、そのような貝が、地域の産物、生活の拠りどころ、生産様式となるようなところは、この「貝鳥貝塚」のあるところしか他にありません。「イワガイノキミ」の「キミ」というのは、本来これは「貝鳥貝塚」のある、この地域の首長について起こった名前だと考えられましょう。

 

<「買鳥貝塚」は「貝島貝塚」>

 次ぎにこの「貝鳥」という地名、これは地元からおこったことばではありませんね。他所の地域のことを聞いたり、考えたり、文献に書いたりする人が書きあらわした字なんですね。その頃、地元民は字を読めないし書けない時代だったので、他所の人が書いたものをそのまま受け継ぎ、そのまま「カイトリ」としたのであって、私はこれをトリ「鳥」ではなくシマ「島」だと思う。「貝島」だと思うのです。島と鳥、ほとんど漢字に書けば同じですね。したがってほんとうは「貝島遺跡」なんですね。こういうことが分かってくると、「貝島貝塚」が「イシガイ(イワガイ)」中心の貝塚とされていたことにつながってきます。

ところで先ほど、千葉達夫さんから、遺跡としては縄文と弥生しか分からない、その後の古墳時代、奈良時代に、ここがどうなっていったのだろうという問題提起がありました。そのこととも関わることですが、遺物遺跡でチェックしていくやり方では何らの手がかりもないけれども、この「イワガイノキミモタイ」という人が8世紀末から9世紀はじめ、奈良時代の終わりから平安初期にかけての人であり、その名前が「イワガイノキミ」として、地名が「カイジマカイヅカ」として、記録に残されているのです。これが地域の首長の家柄か、もしくはその伝統を受けた豪族の名前だということが分かってくれば、仮に遺物遺跡について確認することがなかろうと、「カイジマカイヅカ (カイトリカイヅカ)」の伝統、それにつらなる何分の一かの生産様式、経済様式、生活様式がそのままズーッと受けつぐような伝統がないかぎり、弥生時代で終わってしまった豪族の家が数百年後の8世紀9世紀まで続くということはあり得ません。「貝島貝塚」の伝統が、縄文弥生の時代ほど大規模ではなくても、その伝統や方式は細々ながら受けつがれ、それを基盤にした政治組織が続いたかたちの家柄として、「イワガイノキミ」という一族があったにちがいないと、こういう考え方をしていくべきでありましょう。

 

<縄文・弥生の後が分からない>

それなら何故、縄文・弥生の後が分からないのでしょうか。その理由は簡単です。貝が大規模に採れるような条件でなくなったためです。仮にそこで生活経済が続いたとしても、遺跡遺物には残らない条件の変化があったのです。貝だと残るが、貝ではないかたちの生活様式、生産経済様式の変化が、具体的には「蝦島」などといわれる、蝦が貝に代わっていく生産様式経済様式の移り変わりがあった。「蝦島」の名前を中味で考えてみましょう。貝以外の漁獲物、遺物としては残り難く、すぐ土に変わってしまうようなものが、生活基盤になってきた。そのため発掘調査ではチェック出来かねるような状況になってきた。そのため「イワガイ」「カイシマ」の名前がずっと生きてきたのだという重要性を着目していくべきでありましょう。そして「蝦島」の名のように、貝に代わる生産物漁獲類に生活基盤が入れ替わっていった歴史を考えるなら、それほど心配することはないでしょう。

 

<海水の後退による生活様式の変化>

それなら何故こういう収穫物の変化が起こったのかという問題ですが、海水がずーっと後退するようになっていき、したがって淡水がどんどん南下するようになっていった。そうなってくると、それまでの生き物が、この地域だけに集中するような条件がすっかり崩れてしまい、貝その他の生き物も広く分散するようなかっこうになってきて、大量に貝だけに依存するような生産様式、経済様式、生活様式が崩れていってしまう。したがってこの地区における沼沢の状況、湖沼地帯が大規模に干上がっていき、だんだんには南西方の伊豆沼とか、内沼、長沼などの地域に限られてしまい、ここの地域が干上がってしまう。したがって川の水が細々としたものになってきて、生物もその分だけ少なくなってくる。そのため貝類など大量の漁獲物が生活基盤になり難くなってくる。このような地勢地域の変動ということを考えないことには、この貝塚の証明が出来ません。

そういう歴史というものを考える学問が、ここでは全く出来ていないように思うのです。私が今日、一関から車でこちらに入って来ながら見られる茫々たる田んぼや原っぱ、これは全部湖沼地帯ですね。これ今になって原っぱになったのではなく、既に古墳時代・奈良時代ころから湿原地帯のようなものになり、そして今のような土地の景観に移り変わっていく。そういう歴史を考えていったら、これ地勢の変動というテーマに目を向けるべきでしょう。大きな海水の後退、淡水が非常に小さく分散して流れていく状態に変わっていき、そのため経済様式にかかわる貝についても細々となっていってしまう。

 

<杉山古墳に目を向けよう>

にもかかわらず栄光の伝統が、この「磐貝公」にはっきり残されているではありませんか。そこで私は、その拠りどころとして「杉山古墳」に目を向けているのです。ちょうどアテルイの先祖が「角塚古墳」という立派な古墳をもった豪族だったのと似た関係が、それほど立派なものではないにしても、現在でも100を超える古墳群があるということは、普通の民間庶民にはできないこと、到底あり得ないことです。これはどうしても何か有力な一豪族の伝統を受けついだ古墳群だと考えねばいけません。それでこれ、貝塚の伝統の中で「磐貝公」といわれてきた大豪族ゆかりの古墳だと考えるほかに考えようがない。そうすると同じような豪族の古墳として、アテルイとモタイ両豪族が並び立つ存在だったと十分に説明ができます。どちらもが何百年もの伝統を受けつぐような豪族であり、最後は政府側の軍事政略に抵抗する抵抗族となって立ち上がった、そういうつながりも、これで分かってこようと考えます。

 

<「磐貝公」が「遠山(母体)」に移動>

それで問題は、それなら何故この貝島貝塚地区の豪族が、東磐井の奥、胆沢寄りの地に移っていくようになったのだろうか。これは一に係って奈良朝末期から平安初期にかけての政府軍の軍事征服が、その頃にぐっと拡がってきたことにかかわります。奈良朝末期の宝亀年間、大伴駿河麿という人の大規模な遠山(とおやま)村のエゾ征服ということが出てくるのです。「遠山(とおやま)」というのは「登米(とよま)」のことだろうというのが普通の説だが、これは全く地元の歴史を分からない者の考えです。「遠山」はエゾの巣窟であって、山奥のけわしいところだと書いてあります。登米ではありません。登米は水郷地帯であって、そこが「遠山」とはなり得ません。山奥の天嶮の地域、東磐井の山奥の地域を「遠山」と呼ぶのですから、東山道の奥の意味になってきます。そうすると、奈良朝末期から宮城県の栗原登米地区を越え、今日の磐井地区にまで軍事政府が強力に及ぼされることになってきたため、花泉まで含めた宮城県の奥の地域の軍事征服により、これまで花泉地区での豪族としての伝統を持っていた「磐貝公」の勢力も地元にとどまることが出来なくなり、後退するようになっていき、そうして東磐井・東山地区での抵抗勢力として、その失地回復のような抵抗に入っていった「磐貝公モタイ」が「大墓公アテルイ」と連合して坂上田村麻呂との決戦というかたちになってくる。実際、東山(東磐井)地区の経営開拓が終わった段階で胆沢経営に移るということが文書にちゃんと遺されているのです。「東山」地区の経営が終わった翌々年から、胆沢の賊を討つというかっこうになっています。奈良朝の文献にこれが出ているのです。この最後の決戦がアテルイ・モタイと田村麻呂。こう考えたら、花泉地区での遺跡遺物面では、まっすぐ縄文・弥生の貝塚の伝統にはつながらないにしても、「磐貝」という名前が8世紀9世紀までズーと続いていることや、「蝦島」などという地名が貝塚の後に出てきたこととつなげていくと、たとえ遺物遺跡でチェックできないにしても、文献によってそういう推定、復元が可能になってきますね。こういう考え方でもって、歴史のブランクを埋めていくことが充分に可能になってきますね。

ところが現在の考古学や文献の研究では、このような話が全く出てきていないのです。これは学者の責任なんですね。学者は弥生までしか分からないと言っているだけです。だが私、学者の罪滅ぼしのつもりでその穴埋めをしてみたのですが、これでいくらかは分かってくるのではないでしょうか。文献による学問の重要性がそこにあるのですよ。これまで、そのような文献考証が全くなかったため、分かるところだけポツンと分かるということだけになっているのですね。

 

さて大まかにまとめるとこうなってきます。 

①「貝鳥」貝塚は「貝島」貝塚と読み直すこと

②その後は蝦のような、遺物としては残り難い漁獲物による生活様式、それが「蝦島」の名で象徴されるものに受けつがれていき、まっすぐ貝島貝塚の伝統には続いていかない。だがそれが、どのように栄光に満ちた歴史であったかということが「磐貝公」の名前にはっきり受けつがれている。我々は「磐貝公モタイ」をアテルイにだけくっつけることなく、こちらの貝塚、蝦島、杉山古墳などと結びつけていく歴史を考え直してみましょう。そして我が磐井ではこの人、磐貝公モタイを、こちらの英雄に呼び戻すことに目を向けなおし、その解決に努めたらどうでしょうか。

 

<地名「流れ」のいわれ>

そしてもう一つ大事なこと。それは貝塚を考えるとき、海水がそこまでズーと押し寄せてきていたということを考えることなしに、この貝塚はあり得ないということについてです。この海水が後退することによって、淡水産の貝類がここに集中できなくなってきた。そういうように考えていかなければなりません。

なお加えて「流れ」の地名。文献の「流れ海」の意味です。流れ海とは、海水が内陸奥深く流れ込んで行くことです。一方、上流からは北上川が流れこんでくる。この二つの流れが落ち合い、はげしくぶっつかりあって大きな湖沼地帯、湿地をおこしていく。それを常陸風土記では「流れ海」と言っています。今日の「霞ヶ浦」が、その「流れ海」の化石湖です。そしてそれと同じ状況が、この花泉の「流れ」地区を最北に、今日の宮城県の登米郡・栗原郡・伊豆沼・内沼・長沼が、その化石湖となっている。わずかに残っているここの地名が「流れ」です。そしてもっと大事なことがあります。それは、岩手宮城の県境における「流れ海」の跡、湿原化・陸地化しているこの地区を、日本の大きい歴史にしていただくことです。日本列島の中で、海水が内陸の奥深く、日本列島の北の最果てまで入り込んだこの地区。北上川という日本の大河が海水とぶつかり合って大きな湿原地帯、もしくは「流れ海」を実現したという、日本列島の歴史での川と海とのたたかいの残る最果ての地でもって、二つの日本、即ち海型日本・山型日本のぶつかり合いで、もう一つの日本を創りだす最果ての日本歴史、そしてその磐井の流れ地区がそのセンターとしての役割をあらわすことにしていくことです。「流れ」の地名は、こういう大きな意味をもっているのです。大きな歴史を考える上での拠りどころとしての意味合いをもっていると考えます。したがってこれはもはや郷土史ではない、岩手県の歴史でもない、花泉の歴史でもない。日本列島形成史の大きなセンター的役割を荷うところでありましょう。