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平泉文化論が見落としてきたもの

   平泉文化論が見落としてきたもの         

講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生

       平成21年8月23日

 <「蘇るみちのく中央 ―磐井地方日本学―」の出版>

おはようございます。今度皆さん方の熱意を文章に表すというようなかたちでをもって、粗末なものでしたけれどもとにかく「みちのく中央」という一冊の本ができることになりました。必ずしも皆さん全部が賛成とか納得とか、そういうものではないと思います。それからある方々にとっては、それでは困るというところがあるかも知れません。

しかし私としては、この本は全体として見た場合には、これは「磐井・東山の歴史と文化」というものを全面的に考え直して、しかもそれが決して勝手な思い付きではないんだ、仮に賛成でないところがあるにしても、すべて確かな史料とか事実に基づいて、むしろこういうふうな考え方をする方が正しいのでないかという、そういう方向付けのようなものをしているつもりでございます。

それを遠い「磐貝公母体」といわれているところから磐井の国が始まったというようなことをはじめて、そしてその頂点が平泉になって、そしてその伝統が「芦東山」であるとか、或いはまた「宮沢賢治」とか、そういったようなところまで伝統を引いて、同じ日本のなかでも、この一関地区、磐井地区、東山地区における日本として、何か新しい日本を発見することができるのでないかという、そういう希望をもたせるような本になっているつもりでございます。  

ただし、この本は一般の方々にもちろん読んでいただくわけですけれども、専門家とか研究家とか学者と言われる方々も、必ず何らかのかたちでお読みいただくことになるものだというふうに思いますので、文章のかたちもテーマの設定の仕方もそれぞれに、あるときには学問的に、あるときには伝説を中心として、あるときには歌学問として、そんないろんなかたちで、何らかのかたちでどなたでも1章か二章かは必ず気に入って、自分の言葉・自分の文章にしていただける、そういうようなものになっているのでないかというふうに思って、私としては、皆さん方がはじめっから、ずっと通して読むというのでなく、このタイトルを見て、目次をみて、面白そうなところから始めて、そしていやになったらまた別なところを読んで、そしてそういったものを全体繋げるようなかたちで、最終的には全体を読んでいただけるように、そんなふうにしたら私は、きっと皆さん方の参考書になるのでないかいうふうに思ったのでございます。 

<学習三年 目出度しめでたし>

9月5日に予定の出版記念講演会、そのときにこの本に対する私の感想を発表しようと思いましたけれども、その前に、研究会の市民会議の皆さん方に、この本はこういう心で書いたものだということを、ここで発表しておきたいと思います。

 「甦るみちのく中央」刊行記念。 「蛍雪の功今成りて 磐井学 みちのく中央祝い納めむ」

私たち三年間、市民会議としてこの「みちのく中央」ということを勉強して参りました。それがやっと実を結んで、そして「磐井学」の成果として、これを発表することが出来るようになりました。

「みちのく磐井」という「いわい」は、言葉では祝賀の「祝い」、にもなりますよね。だから「みちのく中央」ということでもって、ここでみんな景気よく祝い収めて祝賀の心を表明しましょうと、そういうことでございます。事務局の方でこれは講演の当日、何かこういうところにでも貼って記念するようにしていただきたいと思います。読むとあんまり気持がよく出ませんけれども、皆さんがじっくり眺めてみますと、なるほど三年間勉強して、そして磐井学のまとめとして「みちのく中央」ということがはっきり分かってきたと、そしてそのことを通して私たちはみんなで目出度し、目出度しで、ひとつこの勉強の締めをすることにしようと、こういうことでございます。

 

<平泉文化の見なおしを>

さて、今日の研究会のテーマは、みちのくの文化史がこれまで何となく忘れてきているもの、「文化史」というふうに言っていながら、「平泉文化」と言いながら、その文化の心をホントウにつかんだかたちで勉強を進めていたのかどうか、これもう一度思いなおしてみる必要があるのでないかと、そういう気持ちのお話でございます。そしてこの「甦るみちのく中央」という本は、そのための全体としての問題提起の本だと、こういうふうに考えていただいて結構でございます。

たとえば、どういうことかということなんですけれども、私が何年か前、盛岡大学に勤めていた頃、地元の方の奨めもあり、出版社の要望もあって、「平泉の世紀」という単行本を出させていただきました。賛成の方もあったのですけれども、さて、どの程度これが一般の方々に受け入れられていたかどうかということについては、私も若干疑問に思っているところがあるのでございます。しかし今度「みちのく中央」ということをはっきり確認することができるようになって、私ははじめて「平泉の世紀」ということを、たとえば「天皇の世紀」、「摂関の世紀」、「院政の世紀」、あるいはまた「鎌倉幕府の世紀」、「江戸時代」。そういったようなものと並べて、もうひとつ「日本の歴史」というものを、全体締めくくるための一つの窓口のようなものが、「平泉の世紀」という言葉で言い表すことができるのではないかという確信を持つようになりました。

で、その心。これ大きく見て、平泉の歴史、平泉文化史、こういったようなものの根本になる基礎の哲学になるものだと思います。

 

<「みちのく中央」ということ>

いったい「みちのく中央」ということは、はっきり「吾妻鏡」という本に書いてありますように、「南は白河の関に始まって北は外が浜」、外が浜というと今日は大きく津軽半島地域、陸奥湾地域一帯の汎称、広い地域の言葉になっているのですが、これを場所的に限定して考えてみますと、恐らく岩木川河口の「十三湊」、「十三湖」といわれている、ここのところが大体「外が浜」というものを、ある特定の場所に定めたところだというふうに考えることができるのですけれども、この平泉というところは、あるいは平泉ではなくて磐井という地域は、その南の最南端の白河の関から最北端の外が浜というところまでの、ちょうど真中に当る位置になるとこういう書き方になっているのでございます。

このことは漠然と今日のたとえばJRの鉄道線路や、あるいはまた高速道などによって測ってみても大体言えるのですけれども、当時はこのことについて正確にちょうどそのまん中であるということを計算して、その山の頂上に「一つの高い塔を建てた」とこうありますから、これは漠然と白河と外が浜の中間にあるということでなくて、当時正確に計算してそのまん中だという、そういうことであるということについてこれを、私たちは慎重に勉強していく必要がある。

そしてこのことが何故そんなに重要であるかというと、一言で言って、白河の関から平泉のあるこの磐井の地域までが、言ってみれば「内国」、大和朝廷型、開けた日本、内国型の日本の最北端になるのでございます。大体において。

 

<「奥六郡」「外が浜」のこと>

そしてここから北はご承知のように胆沢郡、江刺郡というのは「奥六郡」といわれまして、これは本来は「蝦夷俘囚の国」の意味なんです。多賀城鎮守府が治める国になりましたから格が高いように見えますけれども、「鎮守府」というのは蝦夷を治める中央政府ということで、その場所自身は「俘囚」、政府側に征服されて降参したところの蝦夷が、集団的に住んでいる場所、それが六つの郡に分かれますので「奥六郡」というふうに言われているわけですから、これは政府内に組織された蝦夷の国という意味なのでございます。

そこから北の方は、平安時代にかけて、名目上は政府の支配がだんだんに奥まで行きわたるようにはなっていくのですけれども、正式に中部、関東や、まして近畿地方のような西日本で置かれたような正式の「郡」とか「村」とか、そういったようなものはついに設置されることなしに、最北端の津軽半島、陸奥湾までいったと、こういうことになるのでございます。

「外が浜」というのは、後で日本の字をあてたものです。中国の古典の「詩経」というものに書かれている「普天の下、王土にあらざる棃なく、率土之浜(そつどのひん)」、陸地が続いている限り、最果てのところというので、これを「そつどのひん」というのです。ところがこれを日本語ふうに読んで「率」は外になり、「浜(ひん)」は浜ですから、それで「率土」でなくて「外が浜」と、日本語風にこの本を読み替えたのでございます。

従って出典は「普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫し」、ということであって、天が続く限り、地が続く限り、すべて一つの帝王の支配下におさまるのだという、そういう考え方の「率土の浜」が「外が浜」というふうになったのですけれども、さてその「外が浜」というのは今申し上げたようなかたちで、名目上は天皇の朝廷の支配下でした。しかし実際は蝦夷の国の伝統がそのままずっと続いて、まあ言ってみれば「蝦夷植民地」今のことばでいうならばそういうかたちになっていたのでございます。従って日本の国でありながら日本の国でないような状況がずっと続いて、だから「蝦夷」と言ったり「みちのく」と言ったりしたのでございます。

 

<内陸型日本の外に「蝦夷国」が>

そうしてみますと、言ってみればこれまで、朝廷支配の下に確実に日本の国家というものといえるようなかっこうをとっている内陸型の日本と、その日本のなかに確実に組織されないままに形の上で格好だけ大まかに日本の領土だというふうにいっている蝦夷の国を、外が浜まで、蝦夷の国の最果ての地まで統一していくということが本当の意味における日本国家の、いってみれば最後の目標になるということ、これについて分かりますね。

千島列島のあのほんの僅かの島が、本来日本のものであるとか、いやロシアの支配する国なんだといって、ここのところで戦後五十年、いや六十年経っても依然として帰属の定まらないということが、あの小さな北方四島をめぐってさえ大きく問題になっているとすれば、この「蝦夷の国」といわれている、この広大な地域というものを、本当の意味において「中央」と、何ら内容的にも質的にも違いのないところの「一つの国」であるというふうにすることが、本当の意味において日本列島を一つの国家にまとめていくという上において重要であることはいうまでもないですね。

この伝統が回りまわって若干今日まで、東北とか、北海道というのが、何となく日本列島のなかで、沖縄やなんかと並んで、なんとなく百パーセント日本というような印象を与えかねているような実状に受けつがれていること、気持の上でですよ。そういう伝統は蝦夷の国の伝統が百パーセント切れたというものではないということがいえるかもしれない。但し、明治以降はこれは解消したと見ていいのですが、それ以前は蝦夷の国とか、みちのくといった場合は、別日本という感じだったのですよ。

そこで日本国家の最大のねらいはどこにあったかというと、この開かれた日本と、まだ日本になりきっていない蝦夷の国とを、どういうふうにして一つにまとめ上げていくかということが国家の最大の課題だったのでございます。こういうことはみなさん方は蝦夷経営とか蝦夷征伐という言葉で、何となく悪者を征伐する、征服することという程度に考えているのですが、これは全然考え方を一変にしなければいけませんよ。

 

<「みちのく中央」のもつ決定的な意味>

日本列島がまだ一つの国にまとまっていないところに、最終的に一つの国にまとめていく課題の最後の柱になっているもの、それが蝦夷の国ということだったのです。そしてそういう目標をもっともはっきりと具体的にあらわしたのが「祝詞の大祓い」の言葉というものに、それがはっきりと示されているのです。「大倭日高見国を安国と定め、平けく知らしめす」と、こういうことを朝廷政治の最終願文として掲げているものが祝詞のお祓いの詞にあるのでございます。

こういうことを考えてみて、いったいこの目標が本当に解決されたかどうかということが日本国家統一の最後の問題になってくるのですが、残念ながらかなりの部分、この目標は達成されましたけれども、桓武天皇をもってしても、あるいは坂上田村麻呂をもってしても、それから頼朝の奥州征討をもってしても、ついに質量ともにこれを一つの統一国家として、南も北も全く区別のない一つの日本ということには、ついになりかねた。このことは歴史的事実なのですよ。

こういった中において、「みちのく中央」ということばは、これは極めて重要な意味をもってくるのです。なぜかというと、「みちのく中央」という場合の南半分は中央型内国日本です。それに対して、北半分は蝦夷型日本です。この二つの日本、完全に日本を形成している国と、それから日本と言いながら日本になりかねていない、言ってみれば別のもうひとつの日本という体制をとっている蝦夷の国と、完全に区別しない、差別しない一つの日本にまとめていくという雛型をつくり上げたもの、これが平泉なんです。そしてそのために「みちのく中央」という言葉が千金の意味をもってくる。

なぜなら、「みちのく中央」といった場合には南も北も対等、同質同量の国のちょうど真中という意味でみちのく中央になるからです。こういうことが日本の責任ある政治の中で、歴史の中で、具体的なテーマにされて、そしてその中身はもちろん若干の違いやでこぼこはあったにしても、とにかく日本の歴史の中で、朝廷や幕府やどの責任政治においてよりも、徹底したかたちで、一つの日本というものが雛型のかたちで実現したもの、それが平泉における「みちのく中央」という考え方のもつ意味であると、こういうふうに考えなければいけませんよ。

 

<傘塔婆政策があらわす実質統一国家のすがた>

そしてそれが単なる観念でないということを示すために、この前話題にしたように、清衡は中尊寺というお寺を建てるときに、その第一着手として、白河と外が浜の間の国道に、一町ごとに傘塔婆を建てて、そして金色の阿弥陀像をそこに描き、旅人はそれをお詣りしながら、中央本尊の中尊寺にお詣りするようになったと、こういうふうに書かれていることの意味が、つまり観念として、ただ理屈の上で、東北は一つだとか、一つの日本だとかいうのでなくて、白河からその一町行ったところと、北の外が浜から一町来たところと、全く同じ考え方、同じかたち、同じ原則でまとめられているところの傘塔婆というものが、この道路計画の根本をなしていたということが分かってくるからです。

これが事実どの程度実行されたかということは、今日これを実証することは出来ません。跡が残っていない。ですけれどもこういう考え方が、責任ある記録の中で確認されているということに重要性があるのでございます。

これは東北の出来事ではありません。日本列島が単に名目上一つの国家であるのでなしに、実質的に一つの統一国家であるという、その実を歴史を通して具体的にこれを現わしたのが、この一町別の傘塔婆というものを白河関から青森県の最北端まで、一町単位でもってこれを確実に実現したというこのことによって実証されるからなんです。私はこのことを通して、日本列島が本当の意味で基本的に名実共に一つの統一国家の第一歩を踏み出したのは、このみちのく中央における、一町別の傘塔婆政策というものによってこれを確認することができると、こういうふうに考えるのでございます。

 

<中尊寺そのものの根本理解に狂いがある>

そして大事なことは、それを単に政治的に上から支配するとか、あるいはまた、経済的に何かご褒美のようなものをあげるというような恰好でなく、文化における大きな理想政治として、ここのところに大きく一つの日本に統一された平和国家の象徴のようなものとして私たちは、「阿弥陀如来」「阿弥陀浄土」、こういう考え方がここに実現されたということを考えて、そして私は平泉ということを考えるときに、このように理想政治が理想文化、そういったようなものとして具体的なかたちをとって実現されたと、こういうことを確認すること、これが私は平泉のもつ最高の歴史的な意味だというふうに考えて、そういうことになれば、こういう言ってみれば「北の独立日本」と「南の統一日本」というものが、完全に一つの同一原理・原則によってまとめられた日本の雛型を創ったという、この平泉文化の理想というものが計りしれない意味をもつものになってくると、こういうふうなことを私たちは平泉を考える場合に、みちのくの平泉という町やあるいは中尊寺や毛越寺という、限られた寺についてだけ問題にするのでなくて、東北全土にわたって一つの統一国家を、文化国家として一つにまとめあげていくという考え方が、こういうかたちで理想化されて、その中央を最大のシンボルとして飾り立てるものが中尊寺であり毛越寺であったと、こういうふうに考えることによって、私たちは平泉文化というものの持つホントウの心が分かってくると思うのですけれども、残念ながら今日、平泉文化というと平泉町内における文化、寺院文化であって、それ以外のところは平泉文化の影響を受けて、それを地域に推し及ぼしたところの言ってみれば地域文化というふうな考え方になっているのですけれども、この「吾妻鏡」を見ていきますと、白河関から外が浜まで一町別の傘塔婆を建てたというこの考え方は、中尊寺というお寺のことをまとめて書くときの重要な部分になっているんです。中尊寺の一部になっている。そしてそれを丁寧に書き上げた後で、中尊寺の本尊というものはこうだとか、お堂はこうなっているというふうな書き方になっておって、主要な部分は半分以上、三分の二近く、町別傘塔婆の置かれているこの道路、東北全域にわたるところの浄土世界という記事になっておって、平泉の中尊寺に触れる場合にも、その道路のちょうど中央にあたる最も大事なところを測って、山の上に大きな塔婆を建てたということになって、実はこの山の上の頂上に建てた塔婆というのが中尊寺そのものなんですね。そして金色堂であるとか、大長寿院であるとか、立派な建築やそれから美術とかそういうものとして残されたものとしては最高のシンボルですけれども、「中尊寺という壮大な計画」の中においては、山の中央、ちょうどみちのく中央の頂点を測って、そのシンボルとして建てたところの高い塔婆というものがすなわち中尊寺そのもの、中尊寺の理想をあらわすものだという、こういう考え方に立っているんですね。そしてこういう読み方を、実をいうと歴史の平泉文化の研究においては見落としてきたんですね。あるいは全然問題にしていない。現にいったい、山の頂上に一基の塔を建てたというこの塔が何であるか、どういう意味をもっているのか、こういうことを中尊寺文化というものを考えるとき、殆ど誰も問題にしていないんです。

いったいこの塔が何であるか、後になって二階大堂といわれたあの大長寿院が、この一基の塔に当るのではないかというふうな考え方が、「平泉史」などには出ているんですけれども違うんですね。大長寿院というのは中尊寺という一つのお寺の、寺塔の一つとして建てられたのであって、一基の塔というのは、これは全体を総括する建造物になっているんです。そういうためこれが何を意味し、何であるかという勉強ができていないんですけれども、私の考え方によればですよ、これは中尊寺そのものの本質がまだきっちりとらえられていないということになる。

金色堂だとか、大長寿院だとか、釈迦堂だとか、そういったようなものを通してだけ中尊寺を考えるということでは、少なくともこの清衡の中尊寺建立のホントウの心を理解するところまで行きかねるのでないかという考えを、私としては残念ながら持たざるを得ないのです。このことについては既に触れておきました。

 

<「一基の塔」とは「中尊寺」のこと>

この一基の塔が何を意味するかということ。これおそらく中尊寺を代表する多宝塔なんですね。そしてその意味は、中尊寺の本来の、清衡の本来の時期における「中央にあたるお堂」ですから「本堂」にあたるものです。それを「多宝寺」とよんだと書かれていて、多宝寺というのは釈迦、多宝両如来が並んで説法している姿だとこう書かれている。そしてこのことを調べても、それが何を意味するかについての研究が進んでいないのです。ここのところに正直いって「論語読みの論語知らず」というと失礼ですけれども私を含めてですよ。私も残念ながらこういうことのんびり考えておりました。

これははっきりと法華経に基づいて、多宝如来が地上に現れて釈迦と並んで法華経を説転することによって地上一律浄土、「此土浄土」が実現するのは、この多宝如来と釈迦如来が並んで法華経を説くことによって実現したのだと、そういう心がはっきりと書き記されておって、平泉の山の一番高い頂上に塔を建てたというのは、これは地下から天空に舞い上がって、そこのところに釈迦を呼び入れて、一緒に並んで法華経を説法をした、その天空に舞い上がった多宝塔というものを、地上に具体的に表現したのが山上一基の塔であって、それをお堂のかたちにあらわしたものが金堂としての「多宝寺」だと、こういうふうに考えるべきでございます。

 

<東北全土あっての中尊寺「平泉」に限る浅薄さ>

大事なことは、この白河の関から外が浜までにわたるこの「此土浄土」というもの全体が「中尊寺」という大きな枠の中に書かれておるんです。これ皆さん改めて読み直してください。文治五年九月の十七日です。中尊寺の坊さんの快能とか心蓮とか、こういったような人たちが頼朝のところに直訴して、これは盛岡の厨川の柵でですよ。行ったときに資料として提供した物の中に中尊寺の寺塔が、あるいは行事がどんなふうになっているかということを、詳細に書き記した資料が提示された。その呈示された中の第一に「中尊寺のこと」と書いて、そしてお堂は四十いくつある、僧坊は三百いくつあると、こう書いてありますから、はっきりここのところが中尊寺そのものの記録なんです。

そこまでは良いんです。その次です。その次に、さて清衡がこのお寺を建てるに至った理由はと言って、白河の関から外が浜までの間に一町別に傘塔婆を置いたということと、そのまん中の位置をきっちり測って、そこのところに一基の塔を建てて、旅人はそれにお詣りした後、これで平泉詣りを終わって、衣川の関にかかって旅を終わりとすると、こういう書き方になっている。その次にお堂としては釈迦堂がある、二階大堂がある、金色堂があるという、こういう書き方になっているんです。区別がないんです。一連に書いているということは、つまり、この一町別の傘塔婆が置かれた東北全土が、すなわち平泉中尊寺の、広い意味での一部になるのであって、ただその中の狭く建造物、お堂としてまとめられているものが、平泉における中尊寺だとこういう考え方になっているのでございます。

これは何を意味するかというと、平泉国家と平泉政治というのは、まだ統一されていない日本を、一つの統一国家にまとめていく。その原理はこのようなかたちで、法華経による「此土浄土」ということを、村単位、町単位にあらゆるところで定着させていって、その中央にそれを総まとめするようなかたちで、本山「中尊寺」を建てるということでもって、これを最後の結論にしているわけですから、言ってみればこういう一つの統一国家は、仏教的な此土浄土を地上に実現するところの文化国家として、平泉というのは、自分の政治を推進していくようにすると、こういう考え方になってくるんです。

 

<史料「中尊寺のこと」を読みなおそう>

ここまで徹底した考え方を、平泉の支配者というのは持っていたわけですけれども、大抵の人たちはそれは言葉の上であって、あるいは金持ちだったから、そんなようなかたちでもって文化政策をばら撒くようなかたちで拡げた、言ってみればこれは、景気の良い宣伝文句になるじゃないかという程度に考えて、中尊寺というのははっきりと平泉におかれているあの四十余宇の堂宇に限られてだけ問題にされている。全然違うのでございます。全然違う。これは史料の読み方が根本から間違っているのです。なぜなら「中尊寺のこと」という中で、この一町別の傘塔婆ということが語られているからです。これは序論としてそう書かれているというふうに実は理解されているのですが、そうではありません。平泉では、すべてがこういうかたちで仏教の理想というものを徹底させることによって、はじめて平泉型の統一国家、みちのく中央国家というものが可能だという考え方をはっきり示しているのでございます。

それがどこによって現わされているかというと、たとえばこういうことなんです。三代秀衡は、ご承知のとおりに無量光院というのを建てたといって、その無量光院は宇治の平等院をそっくり真似たものだとこれだけ考えられているのですね。皆さんもそう思っているでしょう。それよりも宇治の平等院より規模が大きかったなどということが自慢の種になっているのでございます。これは全く史料を何分の一も読まないのです。よろしいですね。半分にも及んでいない。三分の一にもなっていない。五分の一にもなっていない。大事な根本を読んでいない。論語読みの論語知らずでございます。

 

<頼朝の不思議 無量光院だけで平泉見学とは>

その理由は、この坊さん達の復申した史料の中に、はっきりこう語られているのでございます。無量光院というのは金色堂の真正面に建っている。従って金色堂の精神を受けて無量光院になったのですが、さて、その無量光院の門の傍に秀衡の館は建っている。「平泉館」といわれる政庁は、その北隣に置かれている。こうあって、「平泉館」とか「伽羅御所」だとか、こういったようなものはお寺の無量光院の付属施設のような、これを守るための館のような位置づけになっておって、独立した扱い方をされていないのでございます。無量光院の門の傍で、北隣に館があると、こういうかたちになっておる。

このことははっきりと「王法仏法」と言って、朝廷の政治と仏教の文化というものがお互いに助け合うということが、平安から鎌倉にかけての理想政治なのですけれども、これははっきりと「仏法主、王法従」です。

従って平泉の政治は、平泉文化、中尊寺や毛越寺が実現しようとした仏教の理想を助けるための政治であったということが、これではっきりするんですよ。皆さんはこういう読み方をする必要がありますよ。したがって無量光院は宇治の平等院をそっくり真似たとか、それより少し規模が大きかったとか、そういうことを自慢するなんてことはナンセンスです。これはやめてください。「平泉の館」も「伽羅の御所」も全部、無量光院を守るための施設、鎮護するための施設であったということの方が、もっと無量光院の名誉です。そしてこのことは、鎌倉幕府、征服した頼朝がはっきり確認していることです。頼朝が平泉に来て平泉を見学します。皆さんここのところを読んで下さい。九月二十三日ごろですかね。頼朝はこれは豊前介実俊という平泉の、言ってみれば鎌倉での大江広元に当るような大政治家だった人を案内者として平泉を見学するんですよ。皆さんはどういう見学をしたと思いますか。平泉を見学したということを「無量光院」を見学したと書いてあるのです。「平泉館」を見たとか、「伽羅御所」を見たとか、「柳御所」を見たとか、そんなこと一言半句もない。「無量光院」の見学が即ち平泉見学です。こういうことを考えてみて、そしてしかもですよ、中尊寺を見学したということもない、毛越寺を見学したということもなくて、無量光院の見学をもって平泉文化のすべてを代表させ、平泉市内見学のすべてを代表させているということ、皆さん不思議に思いませんか?こうでなけりゃいけないんです。それから毛越寺は焼けたときの記事があって立派なことは日本第一と言って、中尊寺以上に立派だといっているんですよ。それを全然目もくれないで、無量光院見学で平泉見学を代表させている理由はどこにあるかと、この根本の心を歴史家たち、研究家たちは全く忘れて触れていないんです。それはずばり、「平泉館」も「伽羅御所」も、「柳の御所」も、一言でいって、平泉の政治そのものがすべて、これは宗教仏教文化を守るというところに集中されて、最後にその平泉文化の最後を現わす、守ったものが無量光院であって、「伽羅御所」も「平泉館」も、無量光院の付属施設のようなかっこうで置かれているから、無量光院の見学が、即ち平泉文化、平泉の政治、平泉の町、平泉そのものを全体、ここのところで見学するということになってくるのです。現にそういうかたちでこの無量光院を案内しながら豊前介実俊という人は、清衡という人は義理の父の武貞の後を受けて奥六郡全体を支配したとか、こういう言い方になって、平泉政治をかいつまんだ恰好の説明も、この無量光院見学の中で述べられているんですよ。そしてこういう読み方が殆ど出来ていないところから、平泉文化根本のこころを遂にとらえかねていることになっている。そして皆金色、金色燦然、黄金文化、金色にぴかぴかと光りかがやくかたちだけが平泉文化になっているんですね。

 

<平泉皆金色仏教文化に観られる「阿育王」の影響>

これは阿弥陀如来の、釈迦如来の、佛そのものの理想が、地上くまなく誰にでもありがたい尊いものとして行きわたることを、金色燦然として光りかがやくという表現になって、それを具体的なものであらわすとなると、黄金による皆金色、黄金文化とこういうことになっていくんです。半分ぐらいは確かに、これは贅沢文化というところもあるんですよ。豪華な贅沢文化という面もあります。しかし、根本の心はここに置かれている。こういうことを考えてみますと、平泉の政治というものが最終的にすべて仏教文化を地上に実現する、即ち「此土浄土」というところに注がれての政治であり、文化であり、経済であったということがこれで分かってくるのですね。

こういうことを私達が真面目に平泉文化を考える根本の心として据え直し、その上に立った学習のやり直していかない限り、本当の意味の平泉文化というものの心を理解することができないのではないか。

さて、そういう黄金文化のようなかたちで、金色燦然と光りかがやくような文化をつくって楽しんだというふうな歴史が、日本では摂関政治だったり、院政だったり、法成寺とか宇治平等院とか、そういうお寺がみんな、目で楽しむ贅沢文化を最高のかたちで表現した高級文化だというふうに考えられ、その心をそうは言っていたとしても、実際は、生活の中でそのような美しい文化に浸ること、受け楽しむことにあったのではないかと、何となくそういう考え方になり、平泉文化というのも、そういうかたちで贅沢な高級文化というとらえ方をされていること、これ何としても否めないんですね。

ところがです。清衡、秀衡たちが模範とした黄金文化というのか、仏教文化というのか、そういうものが理想としたところのものは、実は、皆さんご承知の「阿育王(アショカ王)」という人にあります。阿育王。お釈迦さまが亡くなってから二百年ぐらい後、紀元前三世紀ころの印度の大統一を実現したマウリヤ王朝第三代の皇帝です。この人がカリンガという、言ってみればちょうど後のアレキサンダーが征服したペルシャのような大帝国に当る国でしたけれども、そこを征服した結果、戦死したものが十万人以上いたと、それから捕虜として土地から連れ去られたところの人たちは十五万人を超えたというような、惨憺たる被害というものをみて、ここから心機一転して「戦争はいけない 武力はいけない」ということから、仏教国家としてこの大統一国家、大統一帝国を生かし直そうという、再編成していくということを真剣に努力して、そしてちょうど中国でいえば尭舜に相当するような聖天子の評判を得た人がこのアショカ王という人でした。

彼はその精神というものを「阿育石塔」というふうな何丈の高さもある高い塔に、その精神を彫刻して書き、それから岩は研いて、そのようなところを全部、刻文、文章を彫り込んで仏教国家としての精神を全統一国家に宣伝したという、そういうふうに伝えられているのでございます。

この詳細については宇井伯寿という方が、「阿育王刻文」という題名でもって、詳細に書き記しているのでございます。今日でもこの原文が原石の格好で残っているのは十以上数えるということで大小幾つもあると、こういうことになって、そこに書かれているこの阿育王の刻文、石に刻み込まれた宗教精神という文章は、詳細に現代日本語に翻訳されて書きのこされているこの宇井博士は紹介しているのでございます。

 

<「阿育王刻文」と「供養願文」と>

私は清衡の例の中尊寺の「供養願文」の中に色濃く、この阿育王刻文の影響がはっきり残っているということを指摘できるのでないかと思っているのでございます。

たとえばこの本はこの文章は、「法の勝利」とか「法の征服」とか、「ダルマビジャーヤ」というんだそうです。この言葉はサンスクリットです。覚えておいて下さい。「ダルマ」は法です。「ビジャーヤ」。征服とか勝利とか言うんですが。自分が支配するこの大印度帝国は、すべてこの仏教精神によって統一されるべき国だと、こう云う意味で「法の勝利」、「法の征服」、「ダルマビジャーヤ」という言葉が使われているのでございます。

皆さん、これに似た言葉を思い出しませんか?清衡供養願文の締めの言葉、これ私、もしサインでもする場合、この言葉を書こうと思っているんです。「善根覃(ぜんこんおよぶところ)勝利無量(しょうりむりょう)」です。「善根」とありますけれども、阿育王は自分のことを「善見」と呼んでいるんです。「善見のこころ」という気持がここに示されているのです。「勝利」ははっきり「法の勝利」(ダルマビジャーヤ)のこと。こう考えてみましたら、このことばで締めくくる供養願文というのは、はっきり言って阿育王の法の勝利・ダルマビジャーヤという精神をそのまま受けつぎ、これによって平泉における仏教支配というものの最後のこころとしようという、そういうふうに読むことができるのでないかというふうに、そしてもしそういう考え方ができるのであれば、この供養願文にはあの鐘楼に洪鐘が懸けられ「一音の覃ぶ所千界を限らず。抜苦与楽、普く皆平等なり」と、この鐘の一音がなるごとに、すべての人たちの霊魂を救いとることができるようにと言い、そこでどう続いているかというと、「みちのくでは戦争が長く続いて敵味方というものがたくさん亡くなって、しかも何の罪もない生き物(毛羽鱗介)たちもみんな殺戮されてしまって、霊魂は天上に逝ったかも知れないが、肉体は土の中に埋まって、今もって霊魂はさまよっている」と。こういう書き方がされている。それを救いとるためにこの鐘が鳴り響くようにというふうにあるのですが、この阿育王の「刻文」、書いた文章の中にも、そういうふうに罪なくして亡くなった人たち敵味方を弔うという言葉がはっきりと出ておって、そして人を救うだけでなくて、動物や虫やこういったようなものまで殺さない救うために手を貸してやって、そしてそういう生物、動物を助けるための病院やあるいは医薬品を提供する場所も、同時に自分としては強力に進めていくのだという書き方がはっきりと、この阿育王文章の中には記されているのでございます。

そして清衡供養願文の中でも、これに似たようなことが「鐘楼」によって、罪なくして殺された虫けらや、こういったようなものまで、その霊魂を弔うということやら、それから仏教の善根を修善をして神仏様にお仕えするということは、人間だけでなく、動物植物生物あらゆる生き物すべてが、これによって救われるところのこれは教えである、法であるという、そういうことが繰りかえし繰りかえし書かれているんです。

日本の仏教の供養願文、そういったものの中で、悪人をどうする、あるいは愚かな者をどうするというふうに、人を地獄からあるいはまた修羅道から、悪道から救いとるということは強く出ておりますけれども、このように人間以外の虫けらやこういったものにまで、大きな慈悲、愛の手が及ぼされるということが、はっきりと書き記されているのは、この供養願文の大きな特徴なんですね。こういったようなことは言葉としては知られております。しかしこの最後の拠りどころとする第一原則というものが、阿育王から出ているのだということまで考えるような行き方というものは、ほとんどないのでないかというふうに考えて、私はっきりと「清衡供養願文」というのは、最終的には阿育王碑の仏教願文「ダルマビジャーヤ法の精神」というものに基づいて、これをずっと遅れて、千年以上遅れて、日本の最果ての地において日本文化の心とするそういう仏教文化を起こしていこうと、そういうこころに受けつがれているのでないかという考え方、これ決して無理でないと思う。皆さんはそのために「阿育王刻文」というものを、ひとつ宇井伯寿博士の詳細な文章によって学びなおすということがあっても宜しいのではないかというふうに思います。仮にそういうことであるとすれば、いよいよもって私たちは、藤原氏、なかんずく清衡、基衡、秀衡というような、この武将としての政治、政治家としての生き方の根本に、阿育王に学ぶ心というものを据えて考えなおすことができるのでないかというふうに思っているのです。

 

<「仏法」と「王法」のからみ>

私は不思議に思っているんですけれども、いったいこの「法の勝利」とか「法の征服」とかというのは、あんまり仏法の心にそぐわないような感じがするのです。にもかかわらず「阿育王碑」では、はっきりこれが「ダルマビジャーヤ」というふうに、はっきりとそういう、勝利とか征服とか、そういう言葉で翻訳しなければいけないような書き方になっているのです。

私はここに阿育王という人の二重人格、裏と表というものがはっきり出ていると思うのです。「阿育王碑」というのは、一方においては仏法の聖君ではあるんですけれども、他方ではその精神でもって王法の政治というものを徹底して、善は善、悪は悪というふうに、力でもって押し進めていくとう、そういう考え方。これは両面をはっきりもっておられる方なんです。私は清衡、基衡、あるいは秀衡とか、こういう人たちの仏教精神というものを、完全に聖者としての信仰ということであれば、これは若干問題があるかと思いますけれども、その精神を政治に生かして、政治もまたこの精神に合うようなかたちで運営して行く、いわば理想政治というものの代表者であるということになれば、この心もまた阿育王の伝統をはっきり受け継ぐもの。阿育王という方はそういう方で、正面見れば聖人君子、こっちを見ればやっぱり力の政治というものもちゃんともっている。ただそれを悪を挫き善を奨めるというところに徹底する力の政治という意味において、宗教に背くことのない王政だった。

 

<「北方の王者」と言わず、これからは「みちのく勝利王」と>

仮にそういうことだとすると、私はここのとこではしなくも思うんですけれども、昭和二十五年に例の金色堂の遺体調査がなされ、その全貌が報告されたとき、その遺体をおそらく写真で見たんでしょう「ある作家」、ご承知の大仏次郎さんが、この秀衡のご遺体を見て、その風貌に接して、これは「正しく北方の王者と呼ぶにふさわしい威容である」という表現をなさって、何となくそれから「北方の王者」という言葉が、藤原氏の政治家としての特徴・シンボルとして、ほとんど現在としては定説化するような状況になって、皆さん方も時々「北方の王者」などいう言葉をお使いになるのでないですか。私は、この「阿育王刻文」というものを見ることによって、はっきりこれは捨て去ることにし、これからは使わないことにいたします。そして何という言葉を使うか。「みちのく勝利王」という言葉です。

これには二つの意味がある。「勝利」というのは仏教用語としては「無上の利益(りやく)」という意味です。「最高の仏教の恩にあずかる」という意味です。しかし我々の普通の理解によれば、これは同時に武将としては負けることのない「武力勝利」という、二重の意味を持っている。ただそれは常に悪をくじき善のために使われる武力という意味ではあるにしても、いずれにしても平泉の王者たちを、何か聖徳太子や、聖武天皇や、あるいはまた法然、親鸞のような、最澄、空海のような理想的な宗教徒、仏教聖人というふうに見るのは何としても抵抗がどこかにあるんです。それは武将でありながら、にもかかわらずその武というものを、力というものを、悪をくじくために善を実現するために使うところの武将であるというそういう意味の勝利王だとすると、私は藤原氏は「勝利王」として表裏、二重一緒に重ね合わせる恰好で使えるのでないかと、こういうふうに考えて、そのためにも阿育王という方は平泉においては、どの教祖よりも大きな影響力を、指導力を持った人だということが言えるのでないかと、そういうふうに考えます。

「阿育王碑」というのは伝説によりますと、八萬四千基つくられたそうです。そして一人印度の阿育王支配の帝国の中だけでなく、仏教国家にはそれぞれのかたちでもってこの王碑の建造というものが推進されて、中国でも十九基の阿育王碑があったのでないかという、こういう言い方がなされているのでございます。中国には「阿育王寺」というお寺さえあります。「育王山」というのもあります。わたしが前に言った、平重盛が中国に金を送って菩提を弔うことをお願いしたというのは、「育王山」にお願いするという恰好をとっておりますから、これは平泉にとってはいろんな点で阿育王という方は、大きな聖徳太子のような意味を持つ聖王だったということがいえるのでないかという感じがするのでございます。

 

<ご遺体を「多宝入定相」>

最後でございます。こういったようなことをいろいろ考えてみますと私たちは、何となく根本にあることを真面目に考えないで、かたちに現れた美しさや、あるいは荘厳さというものに打たれて、そういうかたちでの皆金色とか黄金文化というものを理解するきらいがないわけではないと思いますけれども、真っ当にこの黄金文化、皆金色のこころというのを私たちは、仏教国家というものを創るときの根本精神として、真面目に受け止めなおす必要があるのでないかと、そう思うんです。

そう思えば金色堂に三体がミイラとして収まっていること、これははっきりと多宝如来の心を受けたものであって、多宝如来が「入定相」、つまり眠った状況で多宝塔のなかに「永久の命」を生きておって、そして釈迦が娑婆世界において法華経を説くのを聞いてそれを讃嘆し、地上極楽を実現するために塔ごと地上に現れて、そして釈迦と並んで法華経を説いたので、娑婆世界というのが一面の金色浄土、此土浄土に化したという、こういう伝説がはっきりと法華経に読み取ることができるのでございます。

藤原氏が三代ご遺体のかたちでいるのを、印度のミイラと比較したり、その他の例えば、そのまま地上に残っているようなこういうものと比較したりするのでなしに、はっきりこれを「多宝入定相」というふうに考えて、「多宝入定往生」というとらえ方をすべきではないかなと、こういうふうに私は考えて、そして平泉中尊寺も、「多宝寺」というのを「金堂」にしていたということも考え、「多宝塔」を山上一基の中尊寺、これいわば「法身の寺」といって良いでしょうね。この建物のかっこうをとった中尊寺の前に、塔のかたちをとって実現したところのお寺は、これを「法身塔」と言って良いのでないかと思います。

それに対して寺は、それをかたちにあらわした建物と考え、ここのところに「釈迦多宝」というものの心が、はっきりと「此土浄土」を見とどけるための、こういったかたちの仏教が仰がれるということが考えられて宜しいのでないか。そうするといっそうこの「ミイラご遺体」というものを守っていく心も生きてくるのでないかなあ。これ「多宝入定相」です。そうしてみるとこれはちょうど、高野山における空海入定仏というのと同じような意味を持つものというふうに考えて、十分に生かしきることができるのでございます。

 

<安倍頼時の娘 絶世の美女三人>

さてこれまで固い話をしてきました。グーっと柔らかい話を申し上げます。

平泉の基いを拓いたのが衣川の安倍氏であることは事実ですが、頼朝は平泉の見学も終わったすぐその後、「衣川館」跡も見学して、安倍氏の遺跡も十分にこれを視察をして、その詳細が吾妻鏡に記録されているのでございます。

ここにははっきりと安倍氏の「衣川関」「衣川館」というのは、「平泉館」を先がけるところの「みちのく中央」ということを計算に入れた「関」であり「館」であるということがはっきり書かれているのです。これは後になって平泉の考え方を安倍氏の側に移したものという考え方もあり得、現に私は昔はそんな考え方もしておりました。しかし、今は一擲(いってき)しております。

安倍氏に、この考えた「みちのく中央」、はっきり「みちのく中心」とまで書いてあるその考え方があって、その伝統を観念としてではなくて、具体的なかたち、実績でもって具体化したものが平泉藤原氏であると、こう言って良いと思います。そう思って、安倍氏における伝統は平泉藤原氏の先がけになるものですが、そうであればこれからお話する逸話のようなものも、広い意味の安倍氏の逸話として受け取っていいのでないかと思います。皆さん読んだことありますか。

安倍氏にはこの頼時の子供に、貞任、宗任という男性の他に、三人の絶世の美人の娘さんがいた。その名前、はっきり書かれているんです。長女が「有加一乃末倍」。これ何と読むのか誰も解説がないんですね。「あるがいちのまえ」。次女が「中加一乃末倍」(なかがいちのまえ)、三女が「一加一乃末倍」(いちがいちのまえ)。私は何年がかりでこれを読んでみました。結論は、トータルとしてはまとめて、長女が「あるがいちのまえ」、次女が「なかがいちのまえ」、三女が「いちがいちのまえ)。これは現代の言葉でいうならば「ミスワールド第一号」、「有加(あるが)」というのは、これは「どんな人がいてもこの人以上の美人はいない」ということ、「末倍(まえ)」というのは「この前に」ということ。中にです。そしてこの「有加(あるが)」第一の、世界一の美女、中の世界一の美女という、「一が一」と呼ばれている末娘も第一の美人だと、こういうのです。

もし私はこれをもって、安倍氏は、もちろん直接には「奥六郡」一の美人三人という意味だと思います、しかしながらこれは「みちのく」三人の第一の美人、そして「有る」というのは「ありとあらゆる」の意味ですから、したがって今日流にいえば、「世界一の美人三人娘」という。英語に訳しておきましたけれどもこれは止しにしておきます。

仮にですよ。男性について、貞任、宗任について、これほどまでには評価しておりません。しかしながらご承知のとおりに、貞任が嫌疑を受けて源氏に殺されようとしたときに、頼義が一族を集めて、貞任が殺されるならば安倍もなくなってしまうということで、それがもとで「前九年の役」になったということが書かれておりますから、こういう意味から見て安倍氏には、こういうかたちで自分達が奥六郡の支配者をとおして、みちのくの支配者になり、それをとおして日本全体の新しいかたちでの支配というものを北から起こしていくのだという、そういう考え方をこの自分の美人、ミスワールドみちのくの美人の娘に託して、そういう心をこういうかたちで、「有加」、全部一なんです、最後の娘は、なんか「一が一」なんて、おかしいと思うでしょうけれども、「有加一乃末倍」、世の中に対して一番といわれるの娘といわれる、その第一の娘と言われる一人の娘と、そういう意味の「一加一乃末倍」というところで、執拗にみちのく一、日本一、世界一という意識を、ここのところでミスワールドに、みちのく一の美女という心に託して、みちのく一の人、日本一の人を志すのだ、目指すのだという心が、ここに記されている。そういう考え方をして私は、この「有加一乃末倍」「中加一乃末倍」「一加一乃末倍」の、すなわち三人の安倍美女というものに託して、みちのくにおける新しいミスター、乃至ミセス、ミスみちのくというのが考えられるようになり、その先駆が安倍であり、清原を経て藤原になってそれを遂に、具体的な一世紀に亘る歴史の現実にしていったのだと、そういう心を真剣に考えていくならば、皆金色とか、ミイラのこころとか、此土浄土とか、こういったようなこころはもっともっと真剣に、真面目に考えられていくことができるのでないかと、私はなんとなくそんなふうに考えて、そういうこころをこれから、皆さん方の学習にも生かして、その心を平泉の方々にも反映していくようにしていったならば、これから同じ磐井を生き抜いていき、これから生き抜いて行く人たちの生き方として、私はふさわしいのでないかなあというふうに考えているのであります。