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平泉歴史のすべて 吾妻鏡文治五年九月条

 基本学習「平泉歴史のすべて」…吾妻鏡文治五年九月条…

講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生       

                               日時 平成21年7月18日   

<「吾妻鏡」文治五年九月条全文にわたる学習あってこそ>

私が本日お話ししようとするのは、文治五年の九月の吾妻鏡の全文にわたることなんです。そして平泉の僧侶たちが頼朝に対して保護を求めて注進した「寺塔巳下注文」という、中尊寺、毛越寺、無量光院、それから平泉の館、高屋、そういったようなことについての史料は、その中で大事ではあるが、ほんの僅か「九月十七日」における部分の史料であって、もっともっと全体にわたらなければ平泉の全部にわたる話を「吾妻鏡」から考えていくということは不可能であり、「寺塔巳下注文」だけでもって平泉のすべてを考えるということは正しくないし、間違いだということですね。

ただ平泉の中尊寺、毛越寺、こういったようなお寺の性格やなんかを考えるにあたっては、この「寺塔巳下注文」、十七日の吾妻鏡の記事で、ほぼ七割八割満たされますけれども、「平泉とは何ぞや」というその歴史とか文化全体の性格を考えるにあたっては、この「寺塔巳下注文」は何分の一かに縮められて考えなければいけませんよ。

そういう考え方でまず第一に、ここに集まられた皆さん方に対しては、「平泉とは何ぞや」、その本質、その全容、そういったものを要約するような史料というのは何かと言うと、それは「吾妻鏡」という本の九月いっぱいに亘る記事、それを総合的に解釈し、そのなかで平泉の僧侶たちが保護を求めて申請した関係資料が、その中の大事な中心になる資料になってくる。ですがあくまで大事なものの一つだと、そういう考え方をしていただくということ、これが大事なんです。そしてなぜそう言えるかというと、まず第一、皆さん方は平泉の研究をするにあたって、いろんなかっこうで、たとえば清衡の「供養願文」というのはこういうふうにあるとか、中尊寺のことを書いた史料については「寺塔巳下注文」にこういうふうにあるとかいうふうなことを、これ大事ではあるんですけれども、それが全体史料の中でどれだけの意味を持つかという、そういう総合的な研究勉強というものを全く欠いたかたちで、大事なものをいくつかピックアップして並べて、それに基づいて「此土浄土」がこうだとか、「中尊寺」というのはこうだとかいうような議論になっているために、他所の人たちを説得するというのに十分な効果を上げることが出来ない。まして世界の人たちに対して、日本を代表して、平泉というもの、中尊寺というものを、人類の文化遺産として指定していくなどというところまで行きかねる理由は、私は半分以上、こちらの不勉強に関係していると考えるのです。なぜなら、それは平泉というところ、中尊寺というところは、そういうかたちで第一、日本にある関係史料さえもこなさないかたちで、これを世界のテーマにしていこうというのですから、それは日本人である私達自身から考えて、土台無理なことなんですね。

<「奥州藤原史料」をこなさずして「平泉」を口にするなかれ>

そのために私まず最初に、皆さん方はこのことについての根本史料というものを、少なくともこの史料なみに大事に勉強していくというようになったら、まずこの本、手に入るかどうか分かりませんけれども「奥州藤原史料」という、こういう本があることをご存知ですね。これは私がまだ東北大学に勤めていたころに私がまとめて、それを「東北文化研究所」という名前で発行したものですけれども、平泉関係・藤原氏関係について可能な限りの史料がほぼ全部網羅された本でございます。しかもこれは原文のまま書いてありますので、漢文で書いてあるものは漢文のまま、和文で書いたものは和文のままにしてありますけれども、ただこういうかたちでの「奥州藤原史料」というもので、こういったものについてのほぼ現在可能な限りのもの、少なくとも八割九割まではここに一括してあると、そういうふうに考えて、少なくともこの本の中に書きとめられている「文治五年九月いっぱいの史料」だけは、皆さんがた徹夜してでも、やはり一週間か十日は全力投球しなければ、とてもある程度読むことができないと思いますね。

その中での九月いっぱいの記述、平泉関係の記述は、九月二日から九月二十八日までの間にかけて、平泉に滞在して、平泉についての施策をとり、それから地元からの陳情、その他のものについてもほぼ一切の記事が、この九月いっぱいのところに収められているんです。そういうふうな格好で先ずこれを開けてみてください。そしておそらく、大体の方々はこういう漢文ではちょっと手がつけかねるなと感じになるかもしれません。まずそのくらいのものをあるところまでこなしていくというかたちでなければ、平泉のすべてということを問題にするなどということは皆さん口にしないことですよ。何分の一も問題にできてない。そういうように、まず私達が平泉についてどの程度のことが言えるかということを謙虚に反省する立場から出て行かなければいけませんね。この史料を見たこともない、ある程度こなせない、読めない、そういう状況では平泉ということについて、これを正面きって問題にする前の段階、幼稚園の段階、小学校の段階にあると、こういう反省を謙虚にして、そこから中学校、高等学校、大学、そして学者学問と、そういうところまで進めていくというお気持におなりになっていただくと。そしてそういうことのための第一の入門の役目を今日、私が一時間ちょっとでもってお話をすると、こういうことになります。

 

<「吾妻鏡」九月いっぱいで平泉全体を見わたせる理由は>

そこで、なぜそれならば九月、「吾妻鏡」という記録の九月いっぱいでもって、平泉の全体を見渡すことができるようになるのかという、まずその理由からです。

まず第一、「吾妻鏡」というのは、鎌倉幕府が編纂したところの、まあ鎌倉にとっては根本史料になるもの。平泉から見れば敵側になります。ちょうど太平洋戦争を勝ったアメリカとか中国とかイギリスとかという側から見た日本というような、平泉ということの理解としては、敵側からの理解として、悪意に満ちたものになっているんでないかと、まずこういう心配があります。何分の一かはそのとおりです。しかし大部分はこの本が鎌倉幕府がずうっと百年くらい経ってから本にまとまるのですから、そういう点で、菊池寛の言葉でいえば「恩讐の彼方に」、もう平泉は政治的には敵だったけれども、今にしてみれば「朝敵」とか何かという、本当の意味で悪者だったとは言うことのできないような、ただ政治的に対立したから、その段階では敵としてこれを悪者扱いしたんであって、平泉が滅んだあと頼朝自身がそういうふうに自己反省をしているんですね。そしてこの考え方が、鎌倉幕府の指導者の間では一貫して延長されているんです。そして最後になって、鎌倉幕府の終わり近くになって、将軍どもがこういう反省をしているんですね。「平泉が滅んだ後、鎌倉では平泉の霊を、義経とか泰衡とかこういう人たちの霊を弔うために、平泉のお寺「二階大堂長寿院」にまねて、鎌倉に二階大堂「永福寺」を建てたんですね。建物としては五丈の高さ、仏像は本尊が三丈の高さ、脇士は丈六、一丈六尺あったと。そういったものが最も平泉として感銘が深かったというので、鎌倉では平泉の霊を弔うためのお寺は「中尊寺」、分けても「大長寿院」というものをモデルにして、鎌倉にお堂を建てると、こういうふうにしているんです。

 

<敵方「吾妻鏡」にみる鎌倉側の懺悔と顕彰>

その時にこういうふうに懺悔をしているんです。今日は大長寿院にまねた「二階大堂永福寺」を修理修復するための記念のときである。いったいこの寺を建てた頼朝公はこういうふうに反省していた。良いですか。「義経と言い、泰衡という、何も国家の敵、朝敵などというふうな悪者ではなかったけれども、しかし源氏としては「前九年の役」以来、怨み骨髄に徹する敵方であるために、その先祖代代の恨みを晴らすために、泰衡という人を遮二無二攻めて、これを滅ぼしてしまったんだ。だから今になってみれば、本当にこれはその霊を慰めてお詫びをしなければいけないというようなことを繰りかえしおっしゃっていたのだと。そういうつもりで政治的、軍事的には敵だったけれども、霊魂を祀るためにはむしろ、自分達が悪いことをして滅ぼしたのだというふうな、懺悔の心でこれを弔っていくようにしなければいけないと、こういう意味のことを鎌倉幕府の最高責任者が公然と言って、それがそのまま吾妻鏡という記録に記されているんですよ。この本の終わりあたりにその資料もそのまま記録されております。

こういう反省を踏まえたかたちで見直された平泉ですから、かえって味方の人たちが自分たちの自慢をするために、平泉中尊寺をほめるために書いた記録よりも、かえって敵方に立って敬意を込めて、敵味方に関わりなく、こういうふうに立派な仕事、立派な創造的な仕事を成し遂げた人たちだったということを、客観的に書きとめるかたちで、現在吾妻鏡の少なくとも平泉が滅んだあとの藤原氏についての記録というものは書きとめられているんです。

だから、平泉が現存して戦うまでのというと、文治五年の八月いっぱい戦争が続きますから、この間は敵味方としてこれはお互いに五分五分の戦いだった。勝った後はそういう反省に立って、むしろ勝った人の痛恨の、懺悔する気持をこめてまとめられている平泉関係記録、その最初の記事が、平泉が滅んだ後の九月に始まっているんです。

そういうふうに考えてくると、結論的に鎌倉幕府の記録ではあるけれども、そういう反省を込めて、平泉というものに対して心から自分達の痛恨のこころを、相手を讃えるかたち、少なくとも正確にその意味を理解するという考え方に立っての記録であることが、これで分かってきますね。しかもその記録は、大部分は地元の責任ある最高の平泉の下では、政治の中枢にあった人たちとか武将とか、そういう人たちの言葉を丁寧に受け止めて、そのまま記録にしているわけですから、そういうために吾妻鏡の少なくとも九月以降の平泉関係の記事というのは、現在残っている平泉関係の記録としては、もっとも総合的で且つ客観性をもったところの記録史料であると、こういうふうに言うことができると思います。こういう考え方をまず最初に持ってください。

 

<「吾妻鏡」の読みなおしで平泉の根本を>

さてそれならば、なぜ吾妻鏡の文治五年九月いっぱいの記事というものが、そういうかたちで敵側から公平に客観的に捉えたところの認識、あるいは評価、そういったものだというふうに言うことがきるかというと、それは一つひとつここに書かれていることを丁寧に読んでいったならば、なるほどそのとおりだということを皆さんも納得するはずです。

そのためには皆さん方の、この平泉の根本に関する研究は、面倒でも「吾妻鏡」から漢文、本当は漢文でないんです。日本語風に書かれているものを、ただ全部仮名を漢字に置き換えただけで、読み下していくと漢文ではありません、日本文になるんです。そういう格好で、たとえば岩波文庫の吾妻鏡の翻訳文というのも出ていますし、それから人物往来社でも吾妻鏡の全文を読み下したようなものがありますので、こういうものについて皆さんは読みなおしてみてください。そしてこれをていねいに読むことによって、なるほど文治五年九月いっぱいに書き止められている「吾妻鏡」に記録されているところを、裏の裏まで読んでいったならば、平泉のどのような史料よりも、より良く平泉というものに徹しきった史料になっていると、そういうことがいえると思います。その具体的なことに入ります。

 

<源氏としての意趣返し「藤原征討」>

文治五年の平泉征討の戦争というのは、八月の末で事実上終わりました。八月の末から九月にかけて、泰衡、四代平泉の泰衡は、現地では戦争にならないと観念して、「蝦夷島」「夷狄島」、北海道に渡って、そこのところで軍を立て直し、最後の反抗をしようというかたちで、数千の部下を引き連れて北に逃れたと。その北に逃れた泰衡を追撃する目的でもって平泉入りしていた頼朝が、この追撃の軍隊を平泉から出発して北に向かった。それが九月二日のことです。北に逃れた泰衡を追撃しようとして平泉にわたって北に向かった。そしてなかなかこれを捕らえることができなかったために、残敵を掃討しながら、ついにこの盛岡の北にある「厨河柵」というところまで進出することになる。

なぜ「厨河柵」かというと、先祖の源頼義の「前九年の役」で安倍氏と戦ったときも「厨河柵」を攻め落とすというかたちで、敵将安倍貞任をここで討ちとった。その後を追って、この「厨河柵」まで進めば、第二、第三の「前九年の役」、安倍氏との戦いとしての「平泉の役」も、何らかの結論を得ることが出来るのでないかという、そういう漠然とした見込みから、追撃の究極の行き先を「厨河の柵」と始めっから決め込んで、ここまで進んでいく。そして「厨河の柵」というところに行く前に、泰衡が肥内郡の「贅柵(にえのさく)」というところで泰衡家臣の河田次郎という人の寝返りによって殺されてしまい、その首を逆に褒美に預かろうとした河田次郎が届けに頼朝の陣営にまで向かってくる。この記事は九月六日のところに書かれてあります。で「九月六日」のときには、厨河に行く前に「志和郡」の「陣岡蜂杜(じんがおかはちもり)」というところで、ここが「厨河柵」と平泉の間の中継になる大事な基地になるところ、ここにしばらく泊って指揮をとっているところに泰衡の首が届き、ここのところでこれを磔の刑にして、ここで完全に平泉というものの戦争は、総大将を攻め取ったことになるわけですから、ここで終わりになるのですけれども、しかし一応まだ残敵掃討という、先に目標を立てた厨河までは進出して、ここのところで一週間ぐらい泊って、ここからまた引き返してくる。

しかし、泰衡の首が届くのは厨河に行く前の志和郡の陣岡蜂杜というところです。そしてここのところには、東海道、北陸道、そして中央道と、こういうふうに三軍に分けて平泉進攻を考えた鎌倉軍のうち、北陸道を進んだ宇佐美實政とか、こういった人たちの軍隊も、出羽の平泉軍というものの残敵を掃討して、ここから引き揚げてきて、この北陸道では秋田まで進んだ鎌倉軍の「陣岡蜂杜」というところまで戻ってきて、ここのところで鎌倉軍は総勢、凱歌を奏することになって、その軍隊は合わせて二十八万四千人というふうに鎌倉側は記録に残している。

だからそういう点で、泰衡の首をとった、それから東海・北陸・中央道の鎌倉出征軍が、全軍ここで勢ぞろいすることになりますから、鎌倉の征討というのは事実はここのところで終了することになるんです。

その泰衡の首を、前九年の役に貞任の首を磔にしたその儀式に則って、これを磔の刑に処して、最後的な平泉に対する勝利を、凱歌を奏したとか、全軍がここで勢ぞろいして勝利を祝ったとか、そういうことも全部、九月の早い六日の記事のところで記録されることになる。

そこでここのところの記録を丁寧に読んでいくならば、頼朝、鎌倉軍の平泉に対する征討というのが、どのように「前九年の役」の安倍氏との戦いとの怨み骨髄に徹した最後の怨みを、ここで晴らすのだという気持が惻々(そくそく)と読めるようになっているんですね。

ところがそういったような勉強を全然していないんです。これがよく分かることによって、後で頼朝鎌倉幕府の責任者達が、「平泉の役」というのは、源氏が武将の意地を貫くための無名(大義名分が立たない)の戦いを挑んで平泉を滅ぼしたのだという、この心底、腹を割った鎌倉幕府のこころ、気持ちというものを理解することができないんです。

 

<源氏を日本第一の地位に収めるため>

私は「平泉の役」に対する最大の供養というものは、征討した鎌倉の責任者たちのこの懺悔の心というものをきっちり読み取ることで、これが何よりのもの。ちょうどそれが太平洋戦争、日本人が日本の心で弔うのでなく、もしアメリカとか連合軍が日本人に代わって、太平洋戦争で亡くなった人たちの霊を弔ってくれるというふうにしたら、日本人としてこれは、誰が弔ってくれたよりも感謝するでしょう。そういう心がこの「吾妻鏡」の中に惻々と感じ取れるような書き方になっているんですよ。そういうところまでこの「吾妻鏡」を読み取るようにしていく必要があるんです。

そしてそのためにも、前九年の役における貞任を磔にしたと全く同じやり方でもって、その関係する子孫達がこれを行ったのだというところまで見ていくことで、平泉の戦いというのは、ひとり義経に、泰衡に対する戦いではなくて、平泉全体に対する、「後三年」の清原氏に対する、更には遡って「前九年」の安倍氏以来の、東北の源氏に対する敵との最後的な戦いに勝利をおさめたと、そういうふうな勝利をきっちり飾った後で、さてとなります。これは武将対武将の、武士の意地による勝敗であって、実のところ国家、国民全体からみれば、何も平泉も安倍も、源氏というものに対して悪いことを企んだのではなかったのだ。ただ、日本で第一の武将の地位を確立するために、これに対抗するような武士に対しては断固として排撃し、第一の地位を確保しなければいけないというところから、遮二無二これを攻め滅ぼしたのだと、こういう反省の心が、この磔の以後克明に記されているんです。

 

<「首桶」の泰衡の生々しさの謎>

私はこのことを考えて、皆さん方からひとつぜひお願いしておきたい。終戦後、太平洋戦争が終わった5年後の昭和25年、1950年。中尊寺平泉では三代の遺体調査というものを本格的にやりました。その時にまったく新しい事実が発見されたのです。それはどういうことかというと、三代秀衡のミイラ、遺体のそばに添えて葬られている「首桶」というものがある。これをこれまでは、寺でも他所でもすべて、義経が「高館」で戦死するときに、これに殉じた秀衡三男の泉三郎忠衡という人の首であって、平泉のために最後尽した人であるために、その首がこのように、「三代秀衡」に準じて葬られているのだという、こういうふうに言い伝えられていて、このとおりにみんな信じていたんです。ところがこの遺体調査で分かったことは、この忠衡の首と伝えられている武士は、正面眉間に大きな磔の痕、鉄釘を貫いた痕が正面に残っておった。その貫いた首の痕がこの背後の首の後ろまで貫いていることがはっきりして、この首の主が磔にあったのだということのはっきりとした証拠になったのです。ところが忠衡という人が磔になるはずがないし、磔にしたという証拠もない。逆に平泉の名のある人であって、そのように磔にあったというふうにある主は、これは四代泰衡しかない。この泰衡が磔になった記事は、詳細に吾妻鏡に書かれているんですよ。皆さん、これらをひとつ読んでみてください。そういうことを全然あれしないで、うろ覚えのような恰好でこういったようなことを話題にするために、平泉の歴史というのが歴史にならない理由がある。

それによると八寸釘という、鉄釘でもって磔にしたということが細かく正確に記録されているのですが、それでそれにピッタリ合う状況。そういうことから、改めてこの忠衡の首というふうに伝えられていた首桶の主は、四代泰衡公の首であるということが断定されて、今日はこれで決定されているのです。

さて、そこまでは学者は分かる。しかし陣岡蜂杜でもって磔にあった首の主が、どういうわけでこの世に現在、この首桶の主はこの眉間の鉄釘の痛々しい傷跡もさることながら、三代のどの方々にもましてこの首が、非常に良く生前の俤を遺している事実。そうするとこれは、磔にあった泰衡の首が野ざらしのまま、いつまでもそこに置かれたというのでなくて、磔は儀式だ、それが終わった後、丁重にそれが下ろされ、野ざらしとか、捨てられるとか、埋められたりするのでなしに、丁重な礼をもって、即ち武士道の仁義をもって平泉に送り届けられ、かつ三代に準じてこれを神とも仏とも祀ることを鎌倉側で正式に許可したために、そういうことがあり得たのであり、そうでなかったなら、鎌倉の占領下に泰衡の首が、このような、まさに生きているような生々しいかたちでもって、金色堂に祀られるということはあり得ないことなんです。

ところがこういう勉強、研究、あるいは議論ということが、この調査をなさった方々の間では全く出ていない。ただ傷跡に磔にあった痕があるから、磔にあった主は泰衡しかいないから泰衡の首だと、ただそういうことの確認だけでお終いにされているんです。これはあまりにも人の情けというものを知らない考え方です。まず不倶戴天の敵の張本人というものの首が、このように礼を尽くして敵側に渡されたとすると、この首が陣岡から中尊寺に引き渡される段階で、もう鎌倉側頼朝の考え方というのは、はっきりとこれは武士道の礼に準するかたちでもって、礼を尽して丁重に扱われて、罪人だの敵だのという考え方は全くここで消えているということを、私たちはこのミイラ調査の段階でこういうことが明確になっていなければいけなかった。こういうこと、「寺塔巳下注文」だけをもって、文治五年九月の吾妻鏡の記録だとする考え方では、全く入ってきようがありません。

 

<武士道の心が観えてくる歴史の真実>

こういう反省から皆さん方のこの学習会、「平泉の世紀」勉強の出直しが図られないことには、本当の意味での平泉の霊のお弔い、平泉を最高の仁義をもって祀るという私たちの気持を伝えることは出来ませんよ。こういう勉強を歴史がきっちりすることができる、しなければいけないように書かれているのに、そういう勉強が全くなされていないというところに、平泉学習の盲点があるんですね。こういうことでは他所の人たちに「成るほど」と言わせることが出来かねます。そう考えてみると「吾妻鏡」に、そういうかたちで磔になった後、その首がどうなったということが全く書かれていません。中尊寺の方でも、そういうことについて全く触れておりません。しかし事実はそういうことなのに、わざとそういうことを書かないでいる。無言のうちに、そういう真実を伝えたという、いわば武士道の本当の情けを、そこに読み取っていくという考え方をしていくこと。そういうことが大事なんです。

念のためですが、私この前、平泉の束稲山に行ったとき、中腹のところありましたね「頼朝神社」でしょうか。頼朝を特別丁重に祀ったところがありました。これどういうことなのか地元の人もまわりの人も理解しかねているんです。私は、こういうことの真実がどこにあるか。鎌倉が武士道の意地をもって平泉を攻め滅ぼしたけれども、武士道の心として、ましてや自分達がやったことが本当に武士の仁義に適ったものであるかどうかということの反省を、鎌倉側が泰衡たちを攻め滅ぼすその過程においてこういう反省をしている。そしてそういうことが磔にあった首が、そのまま平泉に丁重に送り届けられているということに表わされているということを考えてみると、少なくとも宗教文化、心に関する限り、鎌倉側が平泉を、武士と武士との戦いにおいては敵として扱ったけれども、人間としては、宗教としては、これはかえって鎌倉が罪人であって、平泉は罪なくして攻め滅ぼされたのだという、そういうことを地元の人たちが実感するようになったから、戦争が終わった後、信仰として、仏教として、仏様として平泉を祀る、そういう心においてはかえって鎌倉が保護者であって、平泉を大切に守ってくださって今日まで伝えて下さった恩人なのだという考え方がここから出てくるのです。

 

<書かれない裏を 事実に即して読み取る>

こういうことを考えるためにも皆さん方は、この文治五年九月の吾妻鏡の記事の書かれていない裏というものを、厳然たる事実に即して読み取っていく、読み込んでいくという、こういう勉強をする必要がある。そういう勉強が全くできていなくて、私達のこういう勉強会でもって、そういう勉強を本格的に軌道にのせていこうという考え方に立つようになっていく。皆さんがそのパイオニアになるわけです。だから、「吾妻鏡」読めないとか難しいとか、そういうこと言わないで、遮二無二これを読みこなしていくような勉強をなさっていく。こういうことが大切になってくるんです。

 

<「寺塔已下注文」までの流れ読みとりをこそ>

さて、そういうことになってくると、それならいったい鎌倉側は、この首を誰が、どんなかたちで、どんな手続きを通して中尊寺に送り届けたか。こういうことを考える手がかりもこの記録、九月の六日から七日、そして十日ごろにかけての記事を慎重に、皆さんがお読みになったならば、全部「なるほどなるほど」、この人たちがこのようなかたちを通してこの首を払い下げさしていただいて、そして平泉に持ち帰って安置することができたのだと、こういうことが分かります。

そういうことをきっちり知らせるための史料も、この史料も全部皆さん方が丁寧に読んだらば、すべてそこに出揃っていますよ、材料として。それ皆さん方お読みにならないから、読んでも心ここにあらずして別なことだけ考えるから、したがってこれにつながらない。どういうことになるかというと、まず、陣岡蜂杜(じんがおかはちもり)というところに滞在して指揮をとっている頼朝の陣営に、平泉の代表的なお堂である「経蔵」。例の「紺紙金銀交字一切経」、金文字と銀文字を一行ごとに書いて一切経、六千巻にもわたるような仏教願文を大事に保存しているお堂、それ「経蔵」です。そこの当時の別当は「心蓮」という坊さん。この人が真っ先に頼朝のところに挨拶に来たのが九月十日。平泉の僧侶の第一交渉が何と陣岡蜂杜(じんがおかはちもり)で、心蓮という経蔵別当によってなされたんです。そして、中尊寺、毛越寺をはじめ平泉の寺塔というのは、こういう代々の人たちが力をこめて建てたものだから、日本でまたとない大事なものなんだから、敵側の鎌倉側といえども、この平泉のお寺を大事に守ることが、国の支配者としての大事な勤めなんだと、そういう堂々たる嘆願をしているんです。この第一の交渉が「心蓮」という経蔵別当によってなされたんです。おそらくこのときの関係だと思います。頼朝の部下であるこの比企朝宗という人が、頼朝の命令を受けて、ここから平泉に派遣されているんです。そして藤原三代がどういうお寺を建て、それがどんな状況に現在残っており、その保存状況がどうなっているか、その扱いがどうなっているかということを丁寧に調べて、その保護を与えるために、比企朝宗という第一文官を平泉に派遣していることが、ちゃんとここに書かれているんです。これは心蓮という人がそういう嘆願をした前日に書かれているんです。この二人が交渉し、話し合ったという記事はありません。しかしこういったような記事を踏まえて頼朝は、心蓮という人に会ってなるほどそうか、それならそれを大事に保存する、とりあえず経蔵についてあなたが来て分かったから、これは敵味方を問わず大事に保存する。その保護について保障を与えると言って、まず「経蔵」の保護を約束し、「ついてはお前の方で、経蔵だけでなく平泉全体について、それなら寺はどうなっている、行事はどうなっている、現在はどういうふうに運営されている。そういうことを詳細に報告するように」という指示が、ここによって頼朝から心蓮という経蔵別当に下された。

おそらくこれをふまえてとりあえず鎌倉からは、代理者としてこの比企朝宗という人が現状視察に向かって、取りあえずこれを保護するというふうな指令が出された。そしてこれを踏まえてそれならばということで、すぐそれに二日三日置いて平泉を代表する僧侶たち、「源忠」とか「快能」など、「心蓮」を含めた僧侶たち全部揃って、頼朝の御前に出て正式嘆願をする。そしてその正式嘆願するときに詳細な資料として付属されたのが、皆さんここに渡された九月十七日付けの「寺塔巳下の注文」という、これなんです。

したがってすべてはここから始まるのではなくって、こういった史料になる前に、すでに一週間前からの事前折衝というものが既に平泉と鎌倉の方においてなされておって、その中においても主導権をとって積極的にこれを保護し守り保全していくというかたちをはっきり表明しているのは鎌倉側であって、平泉側は、それならこれも、これもこれもというかたちで、全部それに乗っかって申請を百パーセントに拡大して提出したのが、この十七日の「寺塔巳下の注文」だと、こういうことなるんです。

 

<「平泉の役」後 鎌倉側の平泉保護の見事さ>

これだけのことが分かってきますと、皆さん方は、すべてはこの「寺塔巳下の注文」の十七日以下のこの注進書、報告書提出書類から始まったのでなくて、こういう資料が提出することが出来たのも、すべて鎌倉側からの配慮で、指令でもってなされたものだということが、この吾妻鏡の記事を丁寧にお読みになる方々は全部分かってくるはずです。

これだけのことを踏まえたならば、平泉の寺側で、まるで清衡基衡秀衡公が、敵側に生まれ変わったようなかたちで頼朝公という人が、この世にお生まれになったのだという、そういう考え方になるのは当然ですね。

これはちょうど太平洋戦争の後、すべてがそうだったかどうかよく分かりませんが、日本人があのマッカーサーという人の総司令官の指揮というものに対して、全面的な支持を与えたというようなことも、今は滅んだ敵側に対してこういうかたちでその復興を積極的にしてくださるお方がこの方だというふうな直感的に受け止めた考え方が、あのマッカーサーという人の日本占領というものを、あのように大成功に導いた理由だろうと思いますけれども、こんな比較が適当かどうか分かりませんよ。だけれども頼朝というのは、そういうマッカーサーに先んじて、軍人として武将としては敵だけれども、平泉の保護者は秀衡亡き後の唯一の保護者は鎌倉の頼朝公だという考え方を、こういうかたちですでにはっきりと確認させるところまで、平泉の僧侶方の全面信頼を勝ちとるところまでの政策をとるようにしたということは、頼朝という人のうまい政策だったと思います。これはかなりゼスチュアーもあると思いますよ。しかしながら戦争が終わるか終わらないかの過程でもって、平泉の命ともいえるような寺に対して、このように全面的な保護政策というものをはっきりと打ち出して、平泉側の動く前に、こちら鎌倉側の方で、もう積極的に動き出し始めているというふうなこと、こういうことについて平泉の研究者達は全くこれを問題にしていないんですね。

私はこういう考えで、皆さん方こそは本当に比企朝宗という人が平泉の保護のすべてに先立って、真っ先に平泉に乗り込んで、頼朝の命令を受けて、その全面保護政策というものに乗り出していたということを、皆さん方、この史料を良く読んでみてください。こういう勉強を全然しておらないんです。ほんとうに情けなく思っています。五十年かた平泉の勉強をしておって、何となく学のある方々、興味をお持ちの方々のポイントの置き方が違っていると感じているのです。

そしてこれも全部九月の最初の六日から十七日までの間に全部揃っておって、皆さん方がもっとも重大視するこの「寺塔巳下注文」のこの記事というのは、その総仕上げに来るのであって、これが初めなんですよ。これが総仕上げにくるのです。そういうような勉強をしていくこと、これが平泉の研究をこの寺塔別当十七日の記事に限定しないで、九月全体にわたって、その初めから考え直していかなければならないという、そういう理由になってくるのです。賛成ですね。史料を読んで史料の裏を読んで、そういうふうに考えることができるのです。

 

<「平泉武士道」第一の由利八郎顕彰()

その次でございます。何と平泉の寺塔、寺をどうこうしたという前に、「平泉武士道」というものを、「鎌倉武士道」というものに全面的に対決させて、そしてもし史料通りに読むならば、いったい鎌倉武士道が上で、平泉武士道はその附録である。負けた者の「引かれ歌」のようなものだというふうな感じ、これは、史料を読まない者の、その点でも私は改めて皆さん方に、平泉武士道というものを考えて、もし平泉武士道がこのまま生き延びたならば、日本武士道を代表するものは鎌倉武士道ではなくして平泉武士道だったということを、良いですか、敵味方合わせて承認したところの記録が、ちゃんとこの「吾妻鏡」文治五年九月七日に、詳細に載っているんですよ。詳細に。これそのうち私が、「武士道の歴史」というもので。これを仮に再版することができたならば、皆さんに読んでいただきたいと思います。

ただ残念ながらこの物語は、平泉が滅んだ後、即ち平泉武士道がここで最後の自分の遺言として言い残したもの、しかも記録としては僅かただ一人の武将の言葉として記録されているために、丁寧に読む人といえども、これを何となくエピソード並みにしか扱っていないんです。私は歴史家としてはっきり断言しておきます。これは僅か一人の平泉武士が、千人万人の鎌倉武士に勝るとも劣らない武士道を発揮しているところの記録だと、そういうことをここで言い切っておきます。その人の名は「由利八郎」という人ですよ。覚えて下さい(板書)。秋田県の由利郡の人だったんです。どういうことが書かれているか。ここで、かいつまんで披露しておきます。これは皆さん方が、この九月十七日の「寺塔巳下注文」、これが宗教仏教についての第一ならば、「武士道平泉」としてはこれが第一の記録です。鎌倉を圧倒する記録です。そのとおり忠実に私がこれを紹介しておきます。皆さんが分かる日本語で、会話調で。

「出羽の国秋田方面に進んだ宇佐美実政たちが率いる軍隊は、この方面の総大将だった由利八郎と戦って、見事これに打ち勝って由利八郎という人を捕虜にした。ところがこの捕虜を、宇佐美という人が捕虜にしたのか、それとももう一人別の人が捕虜にしたのかというかたちで、これは捕虜をめぐって誰がこの捕虜をとらえたのか、その勝利者は誰かということについて、これをめぐってたいへんな論争が起ったんです。これは由利八郎という人が平泉においては一、二を争う勇将名将として名が知られていたためです。

そこで頼朝はこういうふうに前もってこれを記録して、「どういう色の鎧を着て、どういう馬に乗った人が、お前をとらえたかということ」を、ちゃんと事前にチェックさせておいて、そしてあの有名な梶原景時に命じて訊問させたんです。「誰がお前を捕らえたか」。梶原という人はほんとうにこの人憎まれ役ですが、どうも歴史的に憎まれ役に出来ているんですね、この景時は。ここでも完全な憎まれ役です。こういうように聞いた。「お前は平泉でも名前の聞えた武将である。まさか嘘をいうな。あるいはこじつけたことも言うな。どういう鎧を着て、どういう馬に乗った人に、お前が捕虜になったのか、ありていに言え。」こういう言葉で言っているんですよ「吾妻鏡」は。「ありていに言え、嘘を言うな。」こんな質問ありえませんよね今日でも。刑務所でもこういう言い方しないと思います。鎌倉武士道なら尚更のこと。ところがこのとおりに記録されているんです。

由利八郎はかっとなって、怒ってこう答えた。「お前はそれでも武士なのか。それでも武士なのか。鎌倉の頼朝公の家来だと思って、捕虜になっている私に対して、そういう無礼雑言を窮めるということは、武士としては許されないことだ」。良いですかこれ、私が言っているのではありませんよ。吾妻鏡の言葉を私が代わって通訳しているんです。いったい平泉の三代将軍は、代々鎮守府将軍の伝統を受けた家柄である。頼朝公の現在の地位とは、はるかに昔は上の地位にいた人だ。「武兵衛佐」といって頼朝は島流しされていて、「平治の乱」の段階では「鎮守府将軍」などという足もとにも及ばない地位だった。ところがそういうふうな頼朝公でさえも、こういう無礼な言い方をしないと思うのに、ましてあなたは頼朝公の家来、私は平泉の家来、武将・武士としては対等、五分と五分である。そういう武士道というものを全く心得ない無礼雑言な言い方に対しては、一言も答えること出来ない。一言も答えることは出来ない。」そういって沈黙してしまったんです。

 

<「平泉武士道」第一の由利八郎顕彰()

皆さん万歳でしょう、拍手でしょう。「吾妻鏡」で、敵側で、このとおりに書かれているんです。梶原はすっかり顔を赤くしてしまって、すごすごと頼朝の前に引き返して「由利という男、悪口を勝手に言うよりほか何も言わないから、どうもそれが誰なのか、はっきりと実を明らかにすることが出来なかった」と、こういうふうに報告したんです。頼朝はちゃんと分かったんです。「ハハー、梶原は無礼な言い方をしたから、相手がそれをとがめて何も答えな7かっただろう。これは武士としては一理ある。」頼朝はやっぱり一段上です「ヨシ、それなら畠山、お前が代わって訊問に当れ」と、代わりに畠山重忠に訊問させた。頼朝はちゃんと分かっているんですね。梶原がだめならば畠山だと。

さて、この畠山です。どうしたかということ。これも全くまるで、私はこういうこと、やはりNHKあたりで、はっきり出していくことができるんじゃないかと思って、皆さんこういうこと勉強したら、「直江山城」並みか、またはそれ以上の武士道になる場面になんですよねえ。皆さんが勉強不足だから、そういうアピールができないんですね。直江山城は立派ですよ。でも直江山城の上を行く、まるで武士道の見本のような人なんですね。

畠山、まず真っ先に座布団を勧める。茣蓙に坐らせていたんです。鹿の皮の座布団をきっちり勧めた。自分自身で座布団を敷いて、そして手をとってその上に由利を坐らせた。そしてこうふうに言った。

「いったい武士は戦いにおいて捕虜になったり、捕虜にしたりするということは、どこにもあることで、中国でも日本でもこのとおりある。まして日本では私たちの鎌倉殿・頼朝公も、「平治の乱」においては、敵に捕らえられて島流しにさえあっている。しかし時の運というものが巡り来たってこういうふうに、今は勝ち大将になることができた。あなたが、今でこそ不幸にして捕虜の身であるけれども、いついつまでもこのように、捕虜の苦痛に甘んじるということではないと思う。そういうおつもりで一つ、坦懐に、虚心に、お答えいただきたいものだ。あなたは平泉側では、これと知られている名将であるために、誰がこの人を捕虜にしたかということを鎌倉の武士たちは夢中になって争っているのだ。それはあなたの武将としての名誉に関わることだ。そういうことで、どういう色の鎧を着て、どういう馬に乗った人が、あなたをとらえたのか、どうか克明におっしゃって、鎌倉武士達のそういう喧嘩論争が終わることができるよう、ご協力願えないか」。

りっぱな言い方ですよ。これ以上の良い言葉ですよ。私の通訳はいい加減な通訳です。由利の言葉。「あなたは畠山殿だろう。前のああいう人とは全く違う言い方だ。」そういうふうに言って、正直にお話したところ、それは宇佐美実政という人、鎧、馬の主になって、ただ敵が大勢来てその二番目に来た人が、その後どさくさまぎれに自分も最後捕らえたけれども、最初に馬から引き摺り下ろして私を捕虜にし始めたのはこの人だと云うことで、宇佐美という人がこの人を捕虜として捕らえた第一人者だということが、これで決まったというんです。普通はここで終わりになっているんですよ。畠山の出番はここでおしまいです。したがって皆さんここで、畠山だけ自慢してはだめですよ。半分の自慢です。その後が本番です。

 

<「平泉武士道」第一の由利八郎顕彰()

さてその畠山の報告を聞いて頼朝は何と言ったか。今の梶原の報告といい、畠山の報告というのを聞いていると、この由利という武将は中々の者だ。この我が、頼朝が、直に聞きたいことがある。ここに連れて参れ。頼朝、これやらなければよかった。頼朝ここで、すっかり株を下げてしまった。その株を下げたところまで吾妻鏡はちゃんと載せているんですよ。だからこれは、歴史家として正直に客観的に記録しているということができるんです。さて頼朝はこういうふうに聞いた。私もこういうことは聞かない方が頼朝のためだったと、頼朝のためにこれを惜しんでいるのです。

「泰衡という人は、陸奥の國、出羽の國両国を支配して、その下には十七万騎の武士がいるというふうに聞えている。そこでこの平泉の戦争、相当手ごわいのでないかと思ったら何のことはない。二十日足らずで、これという戦争も出来かねて負けてしまった。何と情けない。それから十七万騎の武将だとも言いながら、僅か河田次郎ただ一人の返り討ちにあって、そして殺されてしまって、このように首になって私の許に届けられるというのは、何と情けないことだ。何と情けないことだ。」

これ頼朝という人、時々おっちょこちょいなところがあるんですね。こんなようなこと言わなければ良いんだがなあと思うんですが。案の定、由利八郎はきちっとこれに対して切り返した。「お言葉ながら、泰衡公には武士という武士、ないわけではないのだけれども、何しろ東海道、東山道、それから北陸道、四方に分けて、そして自分のような強い者も、こういうふうに捕虜になったりして負け戦になって、ついに最後まで泰衡公のお供をすることができなかったために、こういう非業の死を遂げてしまって、まことに残念ことである」。そう応えて「さて、それなら私からあなたにお伺いする。」頼朝公に由利の方からの返し刃なんです。「いったい、平治の乱では、あなたのお父さんの左馬頭義朝公は、東海道十五カ国の武将として」、東海道十五カ国全部というわけではないでしょうが、伊賀、伊勢、志摩から常陸まで十五カ国あるんですね。要するに東海道方面の総指揮官として「何万という武将を率いて平家と戦ったはずだけれども、平治の乱ではたった一日も支えることが出来ないで負けてしまったんではありませんか。」保元・平治の乱。保元物語、平家物語がありますからご覧下さい。「たった一日で負けてしまった。それから数万騎の部下をお供に引き連れながら、何と僅か尾張では長田庄司のためにあっさり殺されてしまったではないですか。泰衡公の支配した国は、東海道十五カ国に対して奥羽僅か二カ国である。二十八万四千という大軍を率いる皆さん方に対して、平泉の十七万騎で二十日ぐらいにわたって抵抗していたことを考えたならば、いったい源氏の戦い、あなた及びあなたのお父さんの戦い方と、泰衡公と我々平泉側の戦いと、どっちが上でどっちが下か、一つご返答願いたい。」こう言った。皆さんはどう答えます?これ私から、由利八郎として皆さんに聞きます。ところが、これほど決定的な材料を敵側(源氏側)が克明に史料に残しているにも関わらず、鎌倉と平泉を比較するときには、こういったことばが前面に浮き出るような扱い方というのは誰もしていないんです。誰もしていない。

比べましたら、武士道の仁義・礼儀といい、歴史的な事実に照らしてください。明らかにこれは全面対決、お相撲で言ったら、勝ち名乗り軍配は充分由利側ですね。梶原、それから頼朝、これはすっかり由利の引き立て役です。そして畠山は五分と五分の引き分け。鎌倉は畠山が出てやっと由利と対になる。梶原、頼朝を代表として出したお相撲においては完敗ですね。こういう記録が吾妻鏡の文治五年九月の七日条に、正確に長い記録をもって書き記されているのですよ。

皆さんは武士道を論じ、平泉を論じるときに、こういったようなものについて、もう少し一年、半年ぐらいかけてこういったことを浮かび上がらせるような勉強をすること、あっても悪くないと思うのですが、如何でしょうか。

 

 <一町別笠塔婆も「中尊寺」>

こういうふうにして例の中尊寺、毛越寺、無量光院について、こういう謂われのものだということがちゃんと出ている。時間がありませんから、これはここに記録がありますから、これを皆さん読んでみてください。

最初に中尊寺ということ、良いですかこれまず、総論が「「中尊寺」というタイトルのもとに書かれていますから、ここのところが全部これ「中尊寺」関係ということか。ところが何とこの中尊寺関係の記録の冒頭は、清衡の支配した地域が、白河の関から外が浜までの二十日間にわたる行程の全奥州にわたる地域であって、清衡はそこにおける東北支配の第一事業として、一町別に道路に笠塔婆を一つずつ置いて、そしてそのまん中に中尊寺というものを置いたのだと、こういう書き方なんです。

先ず、これまでの研究は全部、この一町別笠塔婆というのは、平泉のことでなく、確かに町としての平泉のことでないから中尊寺とは関係ないことにして、中尊寺を支える、中尊寺の延長上にある周辺を固める仏教寺院、お寺関係のことではあるけれども、中尊寺というのはあくまで中尊寺の四十いくつの寺塔、三百余の坊塔、これに限るというふうにみんな一致して考えているんです。

平泉の坊さんたちはそんな考え方ではありません。なぜか。中尊寺というのはこれこれだといって、「毛越寺との事」に入るまでに書いてあることは、全部これ中尊寺関係なんです。そうするとこれは広い意味において中尊寺の中に、この白河の関、外が浜の間における一町別笠塔婆というのは、広い意味の中尊寺の内に入っている。しかし狭い意味の中尊寺である。したがってこれは我々の知ってる言葉でいえば「ミクロ中尊寺」です。小さな最小規模の中尊寺というのは、即ち一町別笠塔婆である。平泉にある中尊寺というのは、これは「マクロ中尊寺」。大規模に大きく全体を代表するお寺としての中尊寺は確かに平泉だけれども、これを寺、宗教、信仰自身として清衡が中尊寺を建てるというとき、まず第一段階で道路一町別に小さな最小単位の「ミクロ中尊寺」というものを、「一町別の笠塔婆」として建てて、それを全体を総括する「マクロ中尊寺」、大中尊寺として平泉の中尊寺を建てた。だから中尊寺という名前はそこからきているんです。私ははっきりと、これは大きく「みちのく中央本尊寺」という意味で、みちのく全体を中尊寺として考える中の、その中央の本尊の寺が、すなわち狭い意味の中尊寺だと、こういうふうに考えて良いだろうということが、この記事をきっちり読む人たちによってこれは理解されなければいけません。そしてこのことが平泉というものを、中尊寺というものを、ひとり平泉における金色燦然としたお寺ということでなくて、東北全土に宗教の仏の功徳を説き広めていくお寺の、その「中央本尊寺」として、狭い意味での中尊寺というのがあるんだと、そういう考え方がこの史料を読みときの根本的な勉強の仕方になければいけません。

 

<本尊寺の名「多宝寺」>

その次に大事なこと。中尊寺というのは、少なくともこの史料に関する限り、清衡が建てた段階では、四十余の堂塔、三百余の僧坊が、すなわち中尊寺の中心になるお寺でないということを、この史料を読む人たちみんなが理解しなければなりません。ところが学者達は、こういう史料をちゃんと読んだにしても、そういう研究はどこにも出ていないんです。中尊寺というのはやっぱり関山中尊寺で、平泉にあるあのお寺だと、こうなんです。

二重の意味でこれは嘘なんです。第一、みちのく中央の全くのまん中に当る山上に、一つの塔を建てたというふうに、一町別の笠塔婆がミクロの中尊寺であるならば、そのまん中にあるいわゆる中尊寺金堂とか何かとかいわれている、金色燦然とした堂塔の中尊寺金堂こそは、中尊寺本尊堂でなければならないのに、そうは書いてないんです。中央にある寺、つまり中央本尊寺は、山上に一基の塔を建てたとあって、その塔が何という塔であるか書かれていてありません。これは寺の僧たちが言わなくたって分かるから書かなかったし、また暗黙のうちに鎌倉に遠慮してそうも言わなかったと、そう思いますよ。

これはその次に中尊寺の四十幾つある堂塔の真ん中にあって、一番大事な塔は「多宝寺」だといっていることとの関係で、ちゃんと理解できるんですね。

「多宝寺」というのは、多宝如来像を本尊とするお寺です。そしてこの多宝如来を本尊とするお寺というのは「法華経」に書かれているんです。これは釈迦如来が法華経を地上娑婆世界に説くことによって、その功徳によって地上世界が全部金色燦然とした極楽浄土に生まれ変わったということを見とどけて、地下にねむっていた多宝如来が、多宝塔に乗ったまま地上に湧き出、天空に、空に浮かび上がって、その中に釈迦如来を呼び入れて、釈迦如来と多宝如来が並んで天空から、娑婆世界に対して法華経の説法をしたので、地上極楽世界は完成したと。地上極楽浄土というのはこういうかたちで法華経による限り、多宝・釈迦如来の法華経説法によって実現したということになります。

 

その後これ、阿弥陀如来による「此土浄土」というのは、「阿弥陀三部経」による読みかえた考え方で、これ二重に多宝如来と釈迦如来による法華経説法による地上極楽世界浄土というのが、この本筋の行き方なんです。そしてこれは中尊寺の本来の行き方であると言うことは、その次の記事も皆さん注意して読んでくださいよ。堂塔である寺の中央に多宝寺があると書いてある。そしてその多宝寺には釈迦如来と多宝如来と左右に並坐させていると、こういうふうに書いてある。左右に並んで。そしてこれが中尊寺の本堂、中央にある本尊寺であると書いてあるから、本来の本堂というのは「多宝寺」だということと、その多宝寺は、ただ多宝・釈迦並んでの二仏並存のお堂ですから、したがってこれは法華経に基づくお寺であることがはっきりしている。

そしてこれに基づいて山上一基の塔というのは、疑いもなく天空にかかって法華経を説法することによって地上極楽が実現する、そのさまを描く多宝・釈迦両尊がこのなかで説法する姿を「多宝塔」のかたちで現わしたところのもの、それが山上一基の塔だと、こういうことになってくるのです。

 

<法華経と浄土教との関わり>

これだけのことを私たちがこの史料を読むことで、この史料が最終的に語っている真理だというふうに考えなければならないわけですけれども、そういうかたちの議論になっていない。これでは全然何のための平泉研究であるかということが、分からないことになってきます。ただし、こういったような考え方は天台の考え方に基づいて、これを「朝題目夕念仏」といって、天台その他でもすべて、浄土教というのはみんな付属宗教として、半分は本論の一部になっているわけですから、したがって時代の流れとともに「浄土三部経」にもとづく浄土信仰によって読みかえるかたちで、この信仰は阿弥陀信仰とダブったり、あるいは阿弥陀信仰に置き換えたりして理解するという行き方にはなってますけれども、中尊寺では最後までこの法華経というものによるところの浄土信仰というものは、きっちり生き続けているんですね。それに浄土信仰、阿弥陀信仰というのが重ね合わされているというふうに理解していくべきです。

平泉の此土浄土ということをいうときには、中尊寺を中心として、東北全土にこの信仰を推し広めていくという意味での此土浄土ではないんですね。これはっきりしています。ミクロ浄土、小さな最小単位の平泉中尊寺は、東北全土にわたっている。笠塔婆が全土にわたっている。ただ平泉では中央の中尊寺がそれを地上における本尊寺として、これを総括一括するというかっこうの寺ですから、宗教的にみる限り東北全土がマクロ中尊寺、「大中尊寺」ということになってくる。その「小中尊寺」が一町別の笠塔婆で、中尊寺の「諸堂宇」というのは、そういったようなものを中間的にまとめる役割なんですね。そういう恰好でいっそう平泉中尊寺というもののもつ、大きな国家的東北的世界的な意味というものが、これによって代表されるということ、皆さんこれ賛成ですか、反対ですか。反対するには、この史料をよく読んでからにしてください。この史料を読まないで賛成も反対もありません。ところが読んでいる人たちがこういう考え方にならないから不思議なんです。こういうことを中国では「心ここにあらざれば見れども見えず、聞けども聞えず」といっているんですね。

こういう考え方をすることで、その考え方に浄土信仰が重ね合わされることで平泉の信仰、藤原氏の信仰というものが、日本仏教を最終的に集大成するかたちでもって、「此土浄土「という考え方に到りついたと、こういう考え方、これ無理なくできるというふうに私は考えているんです。

 

<拠点「みちのく中央」 安倍と藤原の違い>

そして念のためですが、こういったような考え方が、白河の関と外が浜のちょうど中央にある中心の地、こういう考え方は、安倍氏の衣川の館の話をするときにも、安倍氏はちょうど白河の関と外が浜の中央にあってと、ここのところではっきり中央といっている。中央にあって衣川の関というものを建てて、ここのところを東北全土を支配する軍事基地としたといっているのですが、この「衣川の館」を中心とする「中央」という考え方と、平泉を中心とするところの「関山中尊寺」という考え方、その安倍と藤原の違いは何処にあるかというと、安倍氏は最後まで軍事的に中央を、東北を一つにまとめるというかたちを中心にして、「衣川の関」、関山というものが軍事拠点として整備されているんです。

それに対して、藤原氏の場合には、その軍事拠点である「衣川の関」を「関山」という、これ文化的な宗教の寺号、山号としてこれを置き換えて、そして政治、軍事のすべてが、この宗教の法のお寺であるところの「関山中尊寺」にすべて奉仕するというかたちでもって、この安倍氏に始まった軍事拠点としての「衣川の関」というものを、すべて文化的宗教的精神的、そういうものの拠点として置き換えて、一切をこれに奉仕従属させるところのものとしての、政治も軍事も考えていくようになる。そういうところに安倍と藤原の違いというものがはっきり分かれる。

そしてこういう考え方を明確に示しているのが、この九月十七日の平泉の「衆徒注進」の中尊寺の報告の中で、一言半句も「平泉館」をどうこうしたなんてことに触れないで、全部お寺中心に清衡の仕事を整理しているということ、このことに安倍との違いが明瞭に示されていて、もし日本の歴史に「文化国家」ということを文字通りにこれを具体化することが出来た歴史というものがあるとすれば、その第一号を平泉に捧げるべきでしょう。この三代の歴史・栄華を、軍事的なことを一言半句も書かないで、全部仏教中心に語っているということに意味があるんです。

 

<頼朝の「無量光院」見学の謎解き>

これが秀衡のところになると一層明瞭になるんですね。無量光院のことについてこういうふうに言っているんです。無量光院というのは金色堂の正方、正方というのは正面に向かってということ、すなわち金色堂が、無量光院という新しい文化政治の中心を興す根源の力であるという意味が、ここにこめられている。いかにも無量光院とあるから、お寺のように考えるでしょう。これも間違いです。ここで「無量光院」と言っているのは、半分は無量光院というお寺です。半分は秀衡の平泉の館、「伽羅の御所」、平泉の政治軍事の拠点のことを指すんです。このことを皆さん方、この史料を読むときによく注意して読んで下さいよ。

秀衡の館は「無量光院」の門の傍にある。秀衡の館である「伽羅の御所」というのは、無量光院の東北門の傍にあるとこうあって、鎮守府将軍陸奥守を名乗る「秀衡の館」、「平泉館」「伽羅の御所」は、すべて無量光院付属政庁、付属御所のかたち。こういうことを考えれば、頼朝が平泉の見学をしようとするときに、「無量光院」の見学をしたとこうある。中尊寺とか毛越寺を見学したとないんですよ。皆さん、これ不思議に思わなくてはいけませんよ。「無量光院」、どんなことをやったって「中尊寺」「毛越寺」の次です。ところが中尊寺も毛越寺も見学したと書かないで、無量光院を見学したということで、平泉全体を見学したとあるんです。なぜか。「無量光院」は、半分以上「平泉館」そのものだったからなんです。それから「伽羅の御所」そのものでもあったからなんです。

こういうことを考えてみましたらならば、無量光院を見学したということは即ち、平泉館、伽羅御所、藤原秀衡の遺跡を見学したということになるわけですから、これはちっともおかしくない。

 

<最終的理想人物を「阿育王」に置いた平泉三代>

大事なことは、このように三代にわたって、平家や鎌倉に並ぶような大きな軍事政権というものの最初になる、そういう歴史的な仕事をした人たちが、にもかかわらず、そのような軍事政権やあるいは政治支配というもので記年されないで、このように、中尊寺・毛越寺・なかんずく無量光院などという、お寺にすべて付属するようなかたちでもって、平泉三代が最後的に記年されるようになっているということ、このことがほんとうの意味での文化国家平泉の象徴になるんですよ。良いですね。そして皆金色とか金色燦然とか黄金文化とか、こういうものは、すべての政治、すべての軍事が、皆お寺に付属してお寺の栄光をほめ讃えるための手段に過ぎないのだと云う自覚に徹しているというここのところです。そして最後的にそういうことであるならば、平泉が最後的に理想とした、仏教の理想的な君主、中国における理想的な聖人君主、それ誰であるか。これは私ははっきりとインドにおける「阿育王」と、この方こそは平泉が最終的に理想的な聖人君主、宗教君主として拝んでいたところの、最後の理想像だったろうとそういうふうに思います。

そういうことから私、もうひとつ専門的な勉強を鉢巻してやっていただくようにお願いしたいこと、それは「宇井伯寿」という方の「印度哲学研究」、その第四巻の「阿育王刻文」。(板書) こういうことまで書かなきゃいけないというところに平泉研究の根本があるんですね。

阿育王には自分が、キリスト教でいうなら「入信した」とか「洗礼を受けた」というんですが、仏教では「灌仏」といいます。自分のことを仏様が自分を愛してくれ、自分もまた仏様だけが一番だといって拝む。それからすべての人たちに自分が本当にすばらしい、愛するに値する人だというふうに、自分をみんなの前に表していく。みんなからもそう観られる。そういうのを「善見」といいます。そういうかたちで自称「天親善見王」といったんです。こういうかたちで彼が支配する全国に、あらゆるところに岩を削って、この自分の勅命を出し、あるところには二丈三丈の高い石塔を建てて、そこに自分のこういう仏教政策というものを書き記して、そして特に、すべての人たちに幸せになるようにするだけでなく、地上のあらゆる生物動物、あるいは魚や貝や虫や、そういう「胎卵湿化」、こういうあらゆる生物動物たちみんなにまで仏様の恩恵というものが伝わっていくように、そして地上でそういう幸せに合うだけでなく、亡くなった後にも、そういう幸せがいつまでも続くように、そういう政治をしていく。そういうことをはっきり書いて、平泉がこれにそっくり真似ていただろうという考え方は、これで分かります。清衡の供養願文にこのことがはっきり、こういうふうに書かれているんですね。

これは最後みなさんで読んでください。

「自分は天子様のお陰で、地上においては最高の幸せを受けて長生きをし、亡くなったならばあの世でいついつまでも幸せに生きれるように、ひとり人間だけでなく地上のあらゆる生物が全部これに従うように、そして「善根覃ぶ所 勝利無量ならん」と、こういうふうに書いてある。この善根は、はっきりとここ「善見」を受けて、勝利というのは仏法のおかげでもってすべての人たちが幸せになる、最高の利益に預かるという意味なんです。私はそれと同時に武将としての勝利という気持もここに込めて解釈したいというふうに思いますが、いずれにしても、この供養願文におけるこの言葉というのは、明瞭に阿育王供養文の精神、その言葉まで受けて、自分の言葉に要約したものだということ、はっきり言えると思います。しかし、阿育王に結びつけて考えるというところまでの研究は貴重なんです。

なぜかというと、藤原氏というのは最後まで、釈迦でも、すなわち仏でも菩薩でもバラモンでも沙門でもない、やはり俗人としての信者というかたちをとることによって、「法王」つまり国王である人が、菩薩や沙門並みか、それ以上の信仰の人であるかたちのものに、理想標準を求めるというところから、私はこういうかたちで阿弥陀様だとか、観音様だとかというかたちでなくて、阿育王というかたちが理想として選びとられて、ただしそういう名前は出ておりません。しかし私ははっきりこの言葉による限り、そういうふうに考えることができるだろうと思います。

要するに俗人として、理想的な聖人君子、仏、菩薩の理念に到達、もしくは到達しようとしたその心をあらわすものという、そういう心でもって中尊寺も、それから此土浄土も選びとられていくのです。

そしてそういったようなことを直接はっきり書き、間接にそういうことを意味していることを、丁寧に読み取るための学習が平泉研究である。なかんずくこの「平泉世紀の学習」は、すなわち、文治五年九月の吾妻鏡の、敵側によって選び取られた平泉ということを通して、そこに理想化されているところの平泉の理想像というものを汲み取ることによって、本当に恩讐の彼方に行き着いた平泉の、日本を代表するところの理想像というものを考えることができるのです。

王法 政治的軍事的

末法 宗教的文化的