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武家政権としての平泉政権

 「武家政権としての平泉政権 将門に対し・源平に対し」
講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生        
                  期日:21年5月27日      
 

 <歴史の上での「平泉政権」は格下げの二流扱い>

きょうは「武家政権としての平泉政権」と、そういう題にしておきましたけれども、たいていの場合これは、平家に対して、平氏政権というのが武士の政権としての最初になるわけですので、したがって普通は平氏政権に対して、それを最後的に完成するのが鎌倉幕府なわけですから、鎌倉幕府の源氏政権に対して、いったい「平泉政権」というのがどういう関わりを持つものなのかと、こういうふうに考えるのが常識でございます。

そしてたいていの場合、平家も源氏も、言ってみれば中央において国家政治を牛耳った武門だったのに対して、「平泉」は東北という限られた地方の、悪く言えば「田舎の政権」だったのだから、したがってそれを二流にも三流にも格を下げて評価するというのが、これ常識なわけです。ただ、東北にこのような武家政権があったということ、その人たちが平泉文化という桁外れの黄金文化を創ったというようなことから、何となくこう特別扱いするにしても、全体としては地方政権としての、東北地方においては一級であろうと、日本全体においては、やっぱり平家に対し、源氏に対して、その前触れになったという程度の理解になっているんですね。

 

<新しい「地方の時代」づくりモデルがないことには>

私はこういう歴史常識を全面的に切り替えるような「歴史学の構造改革」がなされねば、日本は変わっていかないと考えているのです。そしてそういうことを、こちらから発信するには、皆さん方のように私と同じく、東北という地に生まれ育ち、そしてその東北で仕事をしているみんなが、そういう東北そのものに自信を持つような学問をしっかり身につけるということ、これがまず第一です。次にそれが、他人にじゅうぶん通用して、そういう考え方に納得までにしていただける、そういったところまでこの勉強を詰めていくことが大切でないかと、そう思っているんです。

 

ずばり言って今日、日本を新しくするには、「地方の時代」というものを真剣に考えねばならない。それが政治においても経済においても大きくとり上げられて、何か常識になりつつありますね。これについては異論がないと思います。ただ、そういうふうにいう「地方の時代」が、たとえば東京とか大阪にあるようなものを、地方にまで下ろしていって、そちらが豊かになっているものをこちらにまで、いわば分け前に与かるようなかたちでもって、地方を豊かにして行くというのが即ち「地方の時代」だと、何となく根本はどこまでも東京とか中央、その中央にいる人、都市にいる人たちだけが恩恵に預かっているものを、こちらにもおすそ分けするような考え方での「地方の時代」なんですね。わたしは、この考え方を根本から改めていくことが、常識としても大切ですが、学問としては一層大事だと考えているんです。何故かというと、いったいこういうかたちで「地方」というのを、中央の銀行とか会社とかの「地方支店」に他ならない。東京の支店、大阪の支店としての「一関支店」、あるいは「盛岡支店」、「仙台支店」というものを設けて、そちらにも恩恵がいくというようなかたちでもって、基本になるものは中央・東京を支配している権利、宝物が、そのままそっくりこっちにただ移動するだけ、原理は何も変っていないという、こういうかたちでは早い話、「地方の時代」というのは「中央どまり」、「大都市どまり」になっているものを、地方全体におすそ分けするということで、逆に東京全盛・中央全盛というものを隅から隅まで推し広げていくという結果にしかなりませんね、現在の「地方の時代」というのは。

 

そうではない。ヤマトとか京都とか東京とか、そういうところで考えられていた日本ではなく、これまでそういう大都市、ミヤコにならないでいた地方というものがもつ独自の意義や価値を再評価していくことで、新しくこれを、中央、東京とか京都とか奈良などと五分と五分に並べ、最終的にはこういう新しく発見された、まだ眠っていた日本の呼び覚まし、イノチの吹きかえし、具体的なかたちづくりとなっていくことで、そこから新しい日本づくりの指導原理が創りなおされていく。これからの日本というのが「地方的な日本」、あるいは田舎でねむっていたものを、新しく日本全体が見なおし、それに学んで出なおしを図っていくようになる、そういうことが「地方の時代」ということなんだとしなければ、ほんとうの「地方の時代」に生まれ変わることができません。

 

<「地方の時代」学びの最適モデルを平泉文化に>

ところで皆さん、今のような「地方の時代」程度、いわば東京・中央の「支店文化」・「出店文化」のような結果に終わっている理由が、いったいどこにあるか考えたことがありましょうか。これまでのわれわれの勉強で、「地方の時代」歴史がきちんと扱われ、具体的なかたちづくりまでなされたという勉強がまったくできていなかったため、今となって「地方の時代」をわれわれ自身がイメージできる基準になるものがなかったんですね。

ところが皆さん、平泉の歴史をモデルにして、現代の「地方の時代」を学びなおすことにしていくとなったら、「地方の時代」の考え方がすっかり変ってくるんでないですか。わたくしは、歴史の中で「地方の時代」というものを、きっちり考えることのできる具体的な代表例をとなれば、「平泉」を措いてほかにないと考えているんです。なぜかというと、これは単に5年とか10年というのではありません。一世紀、百年の長きに亘って「地方の時代」というものを、実績をもって代表した歴史だからなんです。これがその理由です。しかもそれがただ政治とか経済とか、そういう現実的な利益をもたらしたということ、それも大事なことなんですけれど、それだけでなくて、文化というような、宗教というようなものにおいても、日本の仏教、日本の貴族文化がそれを目指すものだったにしても、ついにそこまで行けなかったようなところまで文化を拡げた平泉。たとえばすべての人たちが往生できる、幸せにできるというような考え方は、理屈としてはずっと仏教にありました。それから出てくる「浄土教」、これが生命線だったのです。しかし今日でも源信という人の「往生要集」だとか、法然、親鸞などの教えを聞くと、易しく説かれているようなんですが、そのほんとうの深い意味というのを、一般の人たちがどの程度まで理解したかとなると、これ疑問なんですね。

ところが平泉の支配者たちに学問がなかっただけに、この浄土往生ということを、みんなが分かるようなかたち以外に考えようがありませんでした。そしてすべての人が、みんなが往生するんだというようなことを、理屈では言っているけれども、実際にそれがどの程度具体的に実感できるかと考えてみていけば、平泉文化ほど「此土浄土」、この世の中そのままそっくり浄土世界なんだということを、現実のものとして具体化したということは日本史上にないんですね。

具体例でいえば、「奥州国道」に置かれた一町毎の笠塔婆、その笠塔婆に描かれた金色の「阿弥陀像」、そこを通る人々が一町毎の阿弥陀浄土を実感しながら、次の一町、次の一町と歩んで行く。そうして中央の中尊寺での「此土浄土」本山参りができるというような、そういう道路政策・文化政策なんです。そういう「此土浄土」政策を、現実の道路政治で具現化させているんです。こういう政治は、たとえば昔の「国分寺」、それが国単位での「国土安穏」とか「国利民福」のためだったとしても、云ってみればこれ「描かれた餅」に過ぎないものだった。下々の日常生活を生きる人たちにまで、そういう仏さまの恩恵が届いていないんですから。

ところがこちら平泉の国土政策では、道路を歩くに一町毎の「浄土文化」、「浄土往生」を実感できるような道路、国土づくりがなされることで、みちのく国土総まとめでの「浄土世界」が実感できる。いわば「西方浄土」などという、見たことも聞いたこともない、そういう世界ではなくして、まさしくこの世の中における浄土世界、そしてその総本山としての文化が実感できる中尊寺とか毛越寺の造営まで成し遂げるんですね。「中尊寺」というのは、そういう意味における「此土浄土の中央本尊寺」なんです。すべての人たちがそこに行けば「此土浄土浄土往生」を実感できるその本山だという考え方が、こういう「中尊寺」を起こすことにしたんですね。

 

<地方の、地方による、地方のための政治の手本「平泉の世紀」>

私は、そういう考え方が日常生活にまで徹底するような政治政策が全面的に下りてくるなら、それこそ「地方の時代」の到来と言えるでしょう。というのは、こういうかたちでの政治文化が、これまでの奈良にも京都にも東京にもなかったことだし、考えられないようもなかった新しい日本の生き方原理が、まさしくここから起こってくるからです。ちょうどこれは、リンカーンがいう「人民の人民による人民のための」、「オブザピープルバイザピープルフォァザピープル」という、そういう形で「オブ」、「バイ」、「フォァ」。「誰々の、誰々による、誰々のための」という政治・文化・経済が具体化されて、中国での「三民主義」などという「民族・民権・民福」という考え方が、新しい中国をつくる原理になったと言っているのですが、ちょうど私は、ここでの「ピープル」、「人」、「人民」ということばを、「地方」という言葉に置き換え拡げた「地方の、地方による、地方のための」ということを、はっきり自覚する歴史観が出て来たならば、はじめてそこに「地方の時代」ということばが歴史による裏づけを与えられることになるだろうと思っているのです。

そういう考えで平泉政権というものを見なおすと、この「地方の、地方による、そして地方のための政治、文化、経済」が全面的に展開されたこと、しかもそれが一世紀の長きに亘って継続したのだと考えるなら、「地方の時代」というものが、単なる宣伝文句ではなく、まさにこの「みちのく」歴史の現実として、政治の上で全面展開されていたのだとお分かりいただけるでしょう。

 

さて平氏政権に対して、鎌倉幕府に対して、百年前、五十年前、既にこのような政治を具体化させる先駆者が「平泉政権」だったということ、そして日本の歴史における「地方の時代」というものを全面的に切り拓いて、大和や奈良、京都に代わるような日本というものの政治や経済のあり方を、規模こそ日本全体に及ばなかったにしても具体化させたこと、あるいは質的に考え、こういった行き方をモデルにしての日本の構造改革を遂げたとするなら、私は21世紀の日本が、これまでの日本とまったくちがった日本に成り得るのでないかと、そう展望しているのでございます。

 

<平泉政権を真似ての鎌倉武家政治>

そこに、理屈ではなくて具体的なかたちでこれを証明できる裏打ちが必要になります。私は平泉政権というのが、十分なかたちで鎌倉政府を先触れしていたと考えています。鎌倉幕府というのは、ある意味では平泉が百年前、東北全土に実現していた武家政治を模範にして、これを東日本全体に、そして日本全体に拡大したに過ぎない。それで鎌倉幕府が、そういうふうな単なる平泉の真似だといわれたくないために、遮二無二屁理屈つけて平泉を征討してしまったということ、こういう歴史観が十分成り立ってくるんです。鎌倉幕府自身が、ちゃんとそういうふうな記録を残しているんですからね。「吾妻鏡」を読んでいくと頼朝は、平泉の征討が終わった後すぐに、「永福寺」を鎌倉に建てた。現在「二階堂」と鎌倉で呼んでいるお寺です。宜しいですか、これがすべて平泉のお寺を真似したものなんで、とりわけ平泉の「大長寿院二階大堂」が、もっとも規模が大きくて立派だったので、それを模範にしたので、「鎌倉の二階堂」と呼ばれるようになったと、そう書かれてある。

さてそれなら、なぜ頼朝が平泉を模範に、鎌倉を代表するお寺を造るようになったのかというその理由です。それは義経だって泰衡だって、何も国家の敵、朝敵などといわれる、そういう悪いことをした人ではない。ただ源氏の先祖たちが「前九年の役」「後三年の役」以来、この東北の豪族、最後は平泉の豪族・首長たちに、煮え湯を呑まされるようなかたちで東北支配から撤退しなければならないようになったその怨みを晴らすため、遮二無二「平泉」を滅ぼし、義経も泰衡も征討したんです。ですからその罪滅ぼしのため、鎌倉に「平泉」を真似たお寺を造って、その霊を弔ったのだという書き方をしているんですよ、「吾妻鏡」に。そしてこういうことの繰りかえし、後の時代の「永福寺二階堂」追善供養の場合でも同じことが繰り返されているんです。

すなわち鎌倉幕府では、それより先に、そしてそれより上を行くような大きい政治統一というものが平泉ではじめられていて、それが長年に亘っての頼義・義家・為義、そして義朝という先祖が、どんなに太刀打ちしてもついに鉄槌を加えることが出来なかった、その怨みを晴らすための平泉征討だったのだと、だからその罪滅ぼしとして鎌倉に、平泉を真似たお寺を造ってその霊を弔ったのだと、吾妻鏡にそうあるんです。

 

<幕府の始まりを鎌倉から平泉に書き換えられるべき>

こういうことを考えてみたならわれわれは、鎌倉幕府が平泉に対して、どんなにコンプレックスを感じていたことかはっきりしてくる。そしてそれは単なる観念だの、精神上のコンプレックス程度のものではなく、現実の動きや記録がそうだったのだということになる。たとえばわれわれが、「幕府」というかたちで中世の日本の歴史を切り拓いたのは鎌倉、幕府の始まりは鎌倉頼朝と、そういうことが定説になっている。これを誰も疑わない。日本の歴史では、だんだんに武士が力を持ってきたという歴史が古くからあったんだけれども、しかし、それが組織をもってきちっと制度化されたのは鎌倉が幕府というかたちでこれを組織したからだということ、皆さんそういうふうに教わっているでしょう。そして学問の本はみんなそうなっている。常識化しています。

これは全面的に書き換えられなければなりません。そういう常識は成り立ちません。なぜなら、「幕府」という名前こそ使いませんけれども、「幕府」と全く同じようなかたちで、むしろ幕府という名に先立って「柳営」ということばでの有名な仕組みが、幕府に先んじて幕府の実質を意味するところの武門政府のあり方に使われていたんです。この言葉は中国の漢の時代の文帝のとき、紀元前二世紀の話ですが、「細柳の営」というかたちで、北方の匈奴に対して備えた武将「周亜夫」、これ「十八史略」に、その要点が書かれています。その中での「細柳の営」というのは略して「柳営」というと、そう書いてある。その意味について、こういうエピソードがちゃんと「漢書」に書かれていて、それが「十八史略」に特筆大書されているんです。こういうのは文学になりますね、ロマンになります。皆さんはこういったことを暗記するようにしてください。

 

<「軍中将軍の令を聞く天子の詔を聞かず」>

中国の漢の皇帝「文帝」が、その匈奴政策の第一線を視察しようとして前線視察に出かけて「細柳の営」に来た。周亜夫の屯営するその「細柳の営」に入ろうと前駆者がこう門番に伝えた。「天子の行幸である。門を開けてお迎えするように」と、そういうふうに言った。天皇陛下や総理大臣をお迎えするようなものなんですね。ところが門を守っていた将校が厳然とこれを拒否したんです。その言葉がこう書かれている。「軍中、将軍の令を聞く(戦場では最高司令官である将軍の命令は聞く)。天子の詔を聞かず」と。「天子が、皇帝が、何と言った、どう命令した。そういうことは、第一線、戦場では通用しません。戦場では将軍の命令が唯一絶対のものである。」と、こういうことなんですね。その言葉が「軍中、将軍の令を聞く。天子の詔を聞かず」です。皆さんこういう言葉を暗記してください。

そしてこういう言葉が普通に使われるようになっていき、そしてこれが基になって、それから後々の中国では、第一線で、戦場で、武士を、兵士を指揮する武将の命令が絶対であって、それは皇帝の命令も届かないところで、それを超えての将軍の命令が、絶対の指揮権、指導権能を持つということになる。それが「柳営」というものの持つ原理として、この「軍中将軍の令を聞く。天子の詔を聞かず」という言葉が引かれるようになるのです。

そして日本でも、平安時代の中期・末期に、この故事が引用されて、武将が、武門の棟梁が、場合によっては天子の命令に背いてまで自分の指揮権を発動する、そういう「武門棟梁権」の絶対性を主張する拠りどころとして、この「柳営」という言葉が考えられるようになっていく。

そして何と宜しいですか、これも頼朝が平泉を征討する勅許を朝廷に求めたところ、朝廷では「平泉は何も特に悪いことをしたのではない」ということから、征討の勅許が出なかったんです。頼朝は二十八萬騎といわれる大軍を鎌倉に集めておきながら、勅許が出ないのにこの大軍を動かしたとなれば勅命に反するということになって、賊名を受けることになるかも知れない、そういう心配をもって出動命令を出し兼ねていたんです。これもちゃんと「吾妻鏡」記録に載っているんです。皆さんはこういうことを聞かないで、幕府の話だけ聞かされているから、こういう不勉強になっちゃうんです。これを根本から考えなおさなくてはいけませんよ。頼朝は、その当時の武門の故実に詳しい大庭景能(石橋山の戦いの大庭景親のお兄さんにあたる人)を呼んで、さてどうしたものだろうと聞いた。ところが何と、この大庭景能という人、即座に十八史略のことば「軍中、将軍の令を聞く。天子の詔を聞かず。」というふうに言っている。これが鎌倉と平泉、武士と武士、武門と武門の間の戦いであるから、何も天子の命令を聞く必要がない、即座に発令をしなさい」と、こういうふうに進言したんです。それで頼朝も「このことあるかな」と決意して、即座に平泉征討の最高命令をここのところで発して、それで鎌倉軍の出動となった。

「吾妻鏡」にこのことばが詳しく書かれているんです。そうすると、これが即ち「軍中将軍の令を聞く 天子の詔を聞かず」という柳営の原理の始まりとなって、それが征夷大将軍というかたちで具体的に永続するような「幕府」というかたちに切り替えたということなんですね。こういうことについての勉強が、実は学者さえも不足なんですね。まして皆さん方は、こういうことについて具体的な話など、おそらくどんな本でも読んだことがないんです。何とこの「軍中将軍の令を聞く。天子の詔を聞かず」ということば。このとおりの言葉はたしかにあってないようなものですけれども、この言葉を日本風にアレンジしたかたちで使った最初が何と「平泉」なんです。

 

<「後三年記」での重光のことば「一天の君と雖も恐るべからず」>

どういうふうにあるかというと、「後三年の役」についての戦記物「後三年記」。実はこの戦記「後三年紀」が、今日残っているところでは、半分ぐらい欠けている欠陥ものなんですね。今「群書類従」なんかに載っている「奥州後三年紀」として載っているものは、その欠本をそのままのかたちで載せているんです。ところが、そのままではないけれども、まだ完全に「後三年記」がそろっていた段階で、この本の要約を漢文のかたちに書きとめたものがちゃんと残っているんです。そしてこういうものについて、学者はほとんど触れておりません。皆さんご存知ですか。「康富記」と呼ばれる公卿の日記です。室町時代の中後期にかけての日記なんですが、その中に仁和寺に保管されている「後三年記」を読んだときの感想を漢文で書き込んでいる。その中に何と、今の「後三年記」に欠けている部分が、漢文のかたちで要約されて残っているんです。

その「後三年の戦い」のとき、源義家の方から清原清衡、家衡たちに対して、お前たちこれ以上抵抗するか、ここで降参するかというふうに、和戦の最終的な通告がきたというんです。ところがそのとき、清衡の部下の一族に「重光」という人が徹底抗戦を主張してこう言ったという、その言葉が漢文で書かれている。「清衡之親族重光申云、雖一天之君不可恐、況於一国之刺史哉、既対楯交刃之間、可戦之由申之、与太守官軍及合戦、重光被誅了、清衡家衡両人跨一馬没落了」 その言葉、「一天の君と雖も恐るべからず」。武将が戦いをするときには、天子がそれはだめだというふうに命令しても、これを聞かないで断固これを撥ねつけて戦いをする、ということがある。「一天の君と雖も恐るべからず。況や一国の刺史においてをや」。中国では国守にあたる人を「刺史」と呼んだ。したがって義家は「陸奥守」でしたから、源義家を「刺史」と呼んで、「天子の命令でさえ聞かないことがあるのだから、ましてや一国の国守の命令など聞く必要がない」ということになって、ここで断固として抗戦、源氏と戦うということになったということなんです。

これはその後、この「重光」も殺され、清衡は政略的に義家と和平協定を結んで、義家と一緒になって戦うことになるんですが、根本にはこういう考え方が、安倍とか清原の、そして藤原の、武門としての根底にあって、この重光がちょうど柳営における「軍中将軍の令を聞く。天子の詔を聞かず」という、おそらくこの言葉を、多少アレンジしてのこういうかたち、「一天の君と雖も恐るべからず」、これは「天子の詔を聞かず」のかたちを変えた表現と考えて結構ですね。これははっきりと「柳営」の故事を知っているかたちでもって、これを武門の棟梁の戦争の原理にしたものだということがこれで分かってまいります。

そうしますと「吾妻鏡」では、平泉を征討するときの拠りどころとして、はっきりと「漢書」における「軍中将軍の令を聞く天子の詔を聞かず」を原文で引用しているのですが、原文引用は確かに鎌倉が先かも知れません。しかしこの趣旨精神というものを、それよりさらに一世紀半も先んじて、ちゃんと理解して、これを戦争の原理として活かしていた武門の棟梁というものが東北にあって、それを藤原清衡一族あるいは主従が代表していたということが、この「康富記」に引用されている「後三年記」によって分かるわけです。

 

<「白符を用ふべし赤符を用ふべからず」 >

鎌倉幕府は、平泉がこの考えに立って行っていた武門の支配、武家支配というものを、云ってみれば逆にこれを奪い返し、そしてこれでもって平泉が戦いの原理としていたところのものを、平泉と戦う原理にこれを生かし、逆手にとってこれを生かし直した。こういうことを私たちはこの「後三年記」を、「康富記」で補ってみることで、それを実感することができるんです。

こういうことがあることも、これが「陸奥話記」の中で、源氏に叛旗を翻して安倍方に投じ、安倍の婿になっていた人が、この清衡のお父さんの「藤原経清」なんですが、この人が政府軍の、具体的には源氏の支配領地から税金を取り立てるときのふてぶてしい布告「白符を用ふべし赤符を用ふべからず」があるんですね。税金を取り立てるときには国印、国府の赤い印を押して命令を出すから、そこで公式の天子国司の命令による徴収券はこれを「赤符」とよんだんです。それに対する安倍は、政府に反する人たちですから、国府の命令書を出すことができません。「白符」、赤い判子を押してない徴収書という意味です。これを税金徴収書のかたちで表わしている「軍中将軍の令を聞く。天子の詔を聞かず」と見ることができますね。経清という人はこういうかたちではっきりと平泉政権、清衡に先んじて清衡が言おうとしているところを、こういうもっと具体的なかたちで表現していたんだと、こういうことを考えることができますね。

 

<実質「幕府」にあたる「柳営」を「柳の御所」>

そしてこれは単に言葉だけのことではありません。私は清衡のおった御所が、「柳の御所」といわれること、これはみんな知っておりますね。そして「柳の御所」というのは、おそらく風流に並木にあるいは庭に柳の木でも植えていたので「柳の御所」というのだと、そういうふうに理解されているようですが、これあまりにも人が良すぎますね。

これは今言ったように、経清の言葉、それから重光の言葉。こういうものとにらみ合わせて平泉政権の、言ってみればこれは「政治の御所」、したがって実質幕府にあたるところだから「柳の御所」だとされているのだとして、これが中国の「柳営」にあたる言葉が日本語化、和語化されて「柳の御所」と、風流な名前のように置き換わったとこう考えたらどうでしょうか。この言葉だけだと、そこまでいうのは無理かもしれませんが、このように「柳営」の原理的な言葉が、何回も清衡及びその先祖に繰り返されていることを踏まえて、それを最終的に政治的に組織化した御所の名前が「柳営」になるということは、きわめて自然なことであって、それを更にあんまりまわりに影響を与えて刺激することのないようにということで「柳の御所」と言ったのだと、私はこういう考え方を何年も前に主張しております。これははっきり理解されるんではないかと、私そう思っているんですがいかがでしょうか。

 

<「地方の時代」具現最高の代表・代弁「平泉の世紀」>

そして結論です。これだけのことを武門の棟梁としての考え方、思想、哲学として、それからその組織した役所や御所や、その運営の仕方においても、「平泉政権」というのが、ほとんど八割九割、鎌倉幕府を東北において先駆する「東北幕府」「平泉幕府」というかたちをとっていたということが、これでもって言えるのではないでしょうか。そしてこれが平泉政権というものを、ただ単なる田舎ものの武力抗争、武力闘争だけを事とした「平泉」というのではなくして、政治組織としても制度的に考えて、また言葉遣いからしてもほとんど鎌倉幕府を一世紀先んずる、先取りするような「平泉政府」「東北幕府」といえるかたちのものに成長していたということを考える。ただこれが残念ながら「東北みちのく」に止まっていた北方政権であったことで、それを「東国」ぜんたいに拡大し、更に日本列島全体の新しい武門政権に拡大した点においては鎌倉に譲るとしても、その原理、体制、パターンを作り上げて、云ってみれば「東北型平泉」のようになりなさいという無言での圧力をかけていたものが平泉政権であったということは、これによって一点の疑いもなく、だから頼朝が遮二無二、大した朝敵でないのに、これを滅ぼしたというのは、こういうところにあるというふうに考える。これもうロマンではなくして歴史になってきて、その裏打ち、状況証拠として、「鎌倉幕府がそれを認めているところだ」していって宜しい。みなさんがそういう勉強をしてみてください。

そうしていくと我々は、平泉政権というのが日本全体を構造改革していくような新しい歴史、武門政権、中世、そういったものを地方から拓いていたのだとして、そういうところから「地方の時代」ということは、こういうふうに日本全体の構造改革をする原理、方式、それが具体的に地方から問題提起されて行くことで、それが国家的、全国民的に受け入れられるのをもって、「これが地方の時代ということのもつ意味」そのものであり、平泉がそういうかたちの歴史における地方の時代というものを、現代を含めて最高のかたちで代弁、代表しているのだと、こういうことになっていけるのではないでしょうか。

しかもそれが一世紀続いたとなれば、敬意を表してこれを「平泉の世紀」という栄冠を捧げるということ、これ決して誇張ではないと、皆さん自信をもってそう言えるようになっていく必要があるんじゃないですか。

 

<清衡の磐井移住に「平将門」政治思想が映って見える>

そしてです。私はこういったような武門政権の、公卿からも朝廷からも独立というのが、平家を踏まえて鎌倉になって完成していくというふうに考えられているのですが、私はそれをさらに平泉を先がけて、「平泉よ おまえここまで寄ってこい」というふうに大きく呼んでいた声が、実は十世紀半ば、平安中期の「平将門の乱」だったということを、私は最近これを痛感するようになってきています。そして今回皆さんにお配りした題にも「将門に対して、源平に先がけて」というふうにしたのはそこにあるんです。

これ、皆さん方にお聞きしますが、「吾妻鏡」では清衡という人がはじめどこにいたことになっていますか?ご存じですね。江刺郡の「豊田の館」というところにおったんですね。さて、その「豊田の館」というのが、もともとここにあった名前かどうかは保証できません。私は、清衡が自分の居館に対して新しくつけた名前だと考えているのです。これは「平泉」も同じです。「平泉」という名は磐井郡にありません。「和名抄」を見てもないんです。それと同じようなことが「豊田の舘」にも言えます。いったいどこから来たのか。これは平将門が、自分が住み、支配の基地としたところが「下総国の豊田郡」というところ。そのため「将門」のおった館のことを「豊田の館」とも呼んだのです。私は清衡が、江刺郡の自分の土地を、この将門の居館にならって「豊田の館」とした。そのココロは「みちのくの将門」になるんだという考えがなかったとはと言えなくもないと、そういうふうに考えます。そしてですよ。ただこれだけならば何となくこれは語呂合わせみたいなので、言葉尻をとらえただけだとして、みなさんも半信半疑でしょう。ところがもう一つあります。「豊田の館」をやめて「磐井郡平泉」に引っ越したとそう書いてある。そうしてこれも我々は無理なく後に平泉の町がここに拓かれて、しかもそこが東北の中央になるというところだったから、片隅(江刺)に引っ込んでいないで中央に出ていくということで、磐井郡への移転になったのだと、こうも考えられる。そしてこれでとおっているんです。

私もはじめそんなふうにも思っていました。しかし私はここ十年以上、これを根本から考え直したんです。確かに磐井郡という名前はありました。しかし磐井郡でなければいけないという考え方、いやそこが東北の中央であるという考え方は、後になって出てきたものです。はじめは「磐井」ということばも、「将門」のもう一つの館(やかた)で、しかも「将門」が「豊田の館」「豊田の営」というところ以上に、これも同じく千葉県下総国では猿島郡の「岩井」に「営所」とよばれている拠りどころがあって、こっちの方がかえって将門の本営にふさわしいもので、すべての組織や制度がここのところで整えられたと書かれているんです。この「いわい」は「石井」と書かれたり、「磐井」ともなったりしていますけれども、いずれにしても「いわい」です。そして後に「将門」が天子の都の宮城に代わって、この「将門の宮城」といわれるものを造り、それを「親王の宮殿」として「磐井の館」の南隣りに建てられたと書かれてあって、要するに「将門」が京都の宮廷に代わる新しい「将門朝廷」を関東に拓こうとしたところこそ「将門」自身の本拠としていた「磐井のとりで」だったと、こういうことがちゃんと「将門」の歴史で確認されている。宜しいですね。はじめの「豊田の館」、終わりの「磐井の土地」も、それからそこに造られたという「将門の宮殿朝廷」と称するところのものも、磐井の南にある御所、「磐井南廷」とよばれている。

 

<清衡の本心「朝廷の直轄支配に離れた蝦夷国:みちのくの自立>

これだけのことを考えてみましたならば、「豊田の館」も「磐井の館」ということも、これを新しく清衡が選んだ、使ったというよりも、その先輩である将門にちなんで「みちのくの将門」として、天下に号令するのだという意識が根底に働いておって、こういうかたちの館の名前が付けられるようになり、そして「柳営」「柳の御所」というかたちで、全国をカバーするような名称になっていったのだと。そう言えないだろうか。そう考えてみましたならば、平氏に対する、源氏鎌倉に対する、それ以前の「将門」に学んで、「将門」がそうなろうとしてついに挫折してしまったところのものを、新しくみちのくの北方の王者として清衡がそれを成し遂げようとしたのがこういうことなんだ。後で清衡という人が朝廷に刃向うことが得策でなく、かえって手を組んで平和共存するかたちの方が有利だという考え方に変わって行き、対抗的な抵抗のかたちは全部これを取り下げます。しかし平泉の独立・自立は絶対認めてもらわねばという条件のもとで、京都との平和共存のかたちに切り替え、平和的な政策を京都に対してとっていく平泉という姿勢だけが前面に出てくるのですが、その根底には、まして始めははっきりと、朝廷に対して、これと独立した新しい日本を、武門政権を造っていくのだという考え方が、平家にもあった以上に鎌倉にもあり、鎌倉にあった以上に、これまで蝦夷とか「みちのく」とかいうかたちで傷めつけられ、攻められっぱなしだった東北の蝦夷の国の、「みちのくの自立」を実現するためにと、こういう考え方がまず根底にあって、それがあるところまで行って政策的に妥協策に転ずるように、これは現在では国連なんかでも制裁政策をどうするというとき、いろんな妥協がなされていくのと同じような妥協政策が、後の平泉時代における平和共存の宥和政策になっていくんですが、しかし断固独立した自治を東北に守りぬこう、朝廷の直轄支配というものを認めないという行き方だけは、不文律として朝廷も認めた上での平和共存というものになってくるんです。こういうことを考えてみましたならば、私は、「将門」がそうしようとして成し遂げられなかったものを、これからの平泉政権が創ろうとする藤原氏の第一の模範として、それに学ぼうとする先人として「将門」という人が選び取られ、そしてこれを先輩に崇めたてたのだということ、これまことに無理ないことです。

 

<将門の柳営思想「撃ち勝つをもって君となす」>

「将門」には、はっきり「軍中将軍の令を聞く 天子の詔を聞かず」という、このことばをそのままのかたちで引用したことばは「将門記」に出ておりません。しかしこれちょうど重光という人が、「一天の君と雖も恐るべからず」といったのと似たような、それから経清が「白符を用ふべし 赤符を用ふべからず」といったような言葉が、将門においてはもっとどぎつい言葉で出てくるんです。ご存知ですか。「撃ち勝つをもって君となす」ということばなんです。そしていわんや自分も天子の子孫なんだから、自分が日本の半分ぐらいの支配者になったって少しもおかしいことはない。まして現在では武力で持って攻め勝つものが、実力でもって支配者になる。これが原則だと。日本ではそれがまだ具体的になってないかも知れない。しかしお隣の中国では、これがもう常識になっているんだといって中国の例を引用しているんです。「撃ち勝つをもって君となす」。この考え方はこれはいってみれば「柳営」の原理、「軍中将軍の令を聞く。天子の詔を聞かず」ということの、別の言葉での言い換えといっても良いわけです。  

「将門」には、こういう、実力でもって武力でもって東日本の支配者になっていくという考え方、そのための館が「豊田」であり、最後の軍政府のおかれたところが「岩井」だったという。こういうことを考えてみたならば、清衡が、この「豊田の館」から「磐井の館」、「奥の御舘(みたち)」に移っていくということをもって、「将門」が成し遂げようとしたものを東北において実現しようとする、そのモデルにしていたのだという考え方。これ決して誇張でないし、ましてロマンでもなくて、歴史的現実だということ、皆さんは賛成していただけませんか。

ところがこういったような歴史が、専門家といわれる人たちの間で、いっさい具体化されていません。こういうことを皮肉って「鬼門の学」、「物知りの学問」だといっているんです。「鬼門の学はもって師とするに足らず」と、こう言っているのです。こういう学問を先生とする必要はありませんと。こういうことが常識になっているんですね。常識になって皆さんの中でも、何ということなしに根本にひそんでいて、ダダをこねるようなかたちで郷土史における独立を主張するというふうな、そういうかたちになっているのではないでしょうか。

 

<「地方学」が「日本学」を造り変える、その代表「磐井地方学」構築を>

私は堂々と日本の桧舞台の中で、「地方の時代」というものを、こういうかたちで主張していく学問が出来てきて、はじめて「地方の時代」が「地方学」として、「日本学」というものを新しく作り変えていく拠りどころになっていく。もはやそういう段階では、「地方学」とか「地元学」とか言う必要がなくなってくる。そして更にです。こういったようなことを現実の問題として具体化した「平泉」の文化というものを考えた場合、京都のお公卿さんも、「平氏にあらざれば人にあらず」とした平氏政権ですら、ついに成し遂げることも、足もとに寄ることもできない美しい文化を創り上げたというだけでなく、それを宗教にまで深めていき、しかもその宗教も、貴族や偉い人や学の人たちが観念として受け入れるにとどまりがちになっているところのものを、学問のまったくない人たちを主とするところまで下ろしていき、しかもその最低の人たちに最高・最大・極大の文化の恩恵を与えようとするものだったこと、これが皆金色黄金文化、そして此土浄土という具体的な目標だったんですね。

法然上人の言葉というものを読んでも、確かにそれが学のある人たちに対してではなく、庶民の徹底した無学無知の人たちの学問なんですけれども、法然があとでこういう述懐をしている言葉があるんです。これはちゃんと「四十八巻伝」といわゆる法然伝記の代表の「勅修御伝」の中で言っていることば。それは京都に「空阿弥陀」という、全くこの学のない無学文盲の念仏僧侶がおった。この人は無学無知ではあるけれども、衆生を指導する面において、自分よりはるかに優れた先輩であった、自分は無学無知の人々ためととなえながらも、その無学無知を実践している空阿弥仏の足もとにも及ばないのだ。自分はやっぱり学問に拠りどころを求めた説教になっていたのでないかと、そういう意味の反省をしみじみ繰り返しているのです。比叡山や興福寺、こういったようなお寺での「聖道門」というものに対して、「浄土門」が無学無知の教えだということを主張しているのですけれども、肝心かなめの無学無知そのものを代表する念仏者に対しては、自分はやっぱり学問を拠りどころにしてこれを分かりやすく解説しているという結果に終わっているのでないかという、そういう反省をしているんですね。これが実状でしょうね。

 

こういうことを考えてみますと、この平泉の皆金色、黄金文化というのは、皆さんがたはこれを今日では、金色堂、中尊寺、平泉文化として問題にするから、これは藤原氏の貴族文化の贅沢文化、奢侈文化ということになり終わらざるを得ないんですね。しかしこれをこの次の学習会で、「平泉の歴史」というものを根本から考える「文治五年九月条」を扱うことにしていますが、そこに書かれた平泉の衆徒たちによる「寺塔注文」によると、こういう書き方、これ後で詳しく触れますから、何となく具合が悪いんですが簡単に言っておきますね。

 

<「寺塔已下注文」:みちのく全域の此土浄土をこそ第一に>

中尊寺のことを書くというのに、中尊寺のことはおしまいの付録になっているんですよ。その前はどうなっているかというと、「関山中尊寺の事」として、お寺は四十幾つ堂塔がある。禅坊は三百余あるとして、このお寺がどういうものかと言うと、そのはじめは奥大道、白河の関から外が浜、津軽の果てまでの道路は、一町別に笠卒塔婆をおいて、そこに黄金の阿弥陀如来を作って、旅人はこれを一町毎にこれを行脚しお参りをして、そしてどこに行くかというと平泉に行って本尊参りをするのだと言って、中尊寺のことを書くのに中尊寺のことは四段目五段目の最後のところに出てくる。その前は「みちのく此土浄土」の一町別笠塔婆の話になるんです。そしてその次はどこになっているかというと、平泉の中央において一基の塔を建てたと。何のためにどうしてかということは書いていない。しかしこれは多宝塔を建てて多宝如来が釈迦如来と並んで法華経を衆生に説くことによって、娑婆世界が自然七宝荘厳の浄土世界に化したということを象徴する意味になっている。すなわち、みちのく全体が此土浄土になる過程を事細かに書いて、平泉に行っても中尊寺のお寺やお堂のことは最後までとっておいて、まず中央に「多宝塔」をもって、みちのく全体が此土浄土になっていくということをまず言い表し、これが中尊寺のもつ意味だということを表している。

その次ですよ。その次、中尊寺の代表のお寺は現在の金堂でありません。これはその後大きく変わっちゃった。「多宝寺」が中尊寺金堂なんです。なぜかというと、中央に「多宝寺有り」。中央にあるお堂というのはすなわち金堂になるわけです。そしてその「多宝寺」には、多宝如来と釈迦如来が並んで安置してあると、こう書いてある。これが何を意味するか解説しておりません。解説しなくたって分かるからです。そして皆さんもこれを分からなければだめですよ。これは法華経に「見宝塔品」というものがあって、これによりますと「釈迦如来」が法華経を説法することによって娑婆世界全体が金色の浄土に化した。それを見とどけて地下に入定(にゅうじょう)しておった「多宝如来」が地下から多宝塔に乗ったまま地上に湧き出て天空に懸かって、この多宝塔の中に釈迦如来を呼び入れて、釈迦如来と多宝如来が並んでこの法華経を説法したために地上極楽世界が完成したんだと、こういうふうに法華経の「見宝塔品」というものが書かれてある。その釈迦、多宝如来が並んで説法することで浄土世界が娑婆世界全体に完成するということを表すために、「多宝寺」には、釈迦如来と多宝如来が並んで説法する姿で祀られていた。こういうことになっているんです。

そうするとこれは「みちのく全土」を極楽浄土、此土浄土にする願いというものを、法華経に基づいて中尊寺がこれを実行して、東北全土の此土浄土をまず第一に掲げていき、それを見とどけた上での平泉の皆金色、建造物の美術浄土となってくると、こういう書き方になっているんですよ。

このことを研究者は全く理解していないんです。すなわち、みちのく全土を此土浄土、極楽浄土にする。その極楽浄土が金色燦然とかがやいて、具体的には黄金によって皆金色に飾り立てるというかたちで「此土浄土」の黄金化、皆金色が示されることになっていくんですよ。「皆金色」が、こういうことを第一目標としている。

さて、全土がこれ「此土往生」が決まり、金色燦然とかがやく極楽浄土になったというところを見とどけた上で、平泉の建築としての、美術工芸としての、たとえば釈迦堂も全部金色に輝いて、金色堂はいうまでもなく全部皆金色だと、こういう記録になっている。

私たちはこの終わりの建築美術工芸として、平泉中尊寺にまとめられた、限られた黄金文化だけを「黄金文化」として考えている。これはまったくの誤解ですね。みちのく全土の「皆金色」を象徴するための皆金色が「中尊寺金色堂」になってきているんですね。この第一に皆金色が、黄金文化が捧げられたのは、何よりまず「みちのく此土浄土」なんです。そしてそのことがちゃんと記録に「中尊寺」のことを書くのに、中尊寺が第五番目、第六番目の終わりのところの限られた部分として書かれて、大部分、七割八割以上が「みちのく此土浄土」の皆金色に捧げられたという「みちのく此土浄土」を書くのが主なんだということが、この記事によって明瞭なんです。そういう読み方を歴史家は全然していないんですね。

 

<確かな国際評価を得られるポイント指摘あって>

これだけのことを考えてみましたならば、あの歴史、あの経済を、東北全土にわたって実現した人が、宗教や文化においてもこれだけの最高のかたちのものを、最高のこころでもって実現しているということを考えてみましたならば、私たちは平泉というものをもってこれを新しい日本を拓く先駆者としての代表になっていたと評価するに何の誇張もない。そしてこういうことを考えてみれば「平泉」、たとえば安芸の厳島にああいう立派な王経「平家納経」などといわれるような文化をつくって、これが如何にも武門文化としての代表のように言われていますけれども、平泉の「金銀字紺紙一切経」などと比べてご覧なさい。足もとにも及びませんね。「金銀字交書紺紙一切経」が全部揃っておったら、五千巻から七千巻近くなっておったはずです。

こういうことを考えて私は、武門としては鎌倉を先がけ、文化としては平氏政権を遠く見下ろすような高いものをもった、天子の朝廷やお公卿さんのあの「この世をば我が世とぞ思う」ような人たちの贅沢をもってしても、ついに実現することの出来なかったような文化、これが皆金色というかたちで実現されて、これについてはもう誰も異論を唱えないわけです。これ全部総合評価してご覧なさい。総合評価してご覧なさい。みちのくが仮に百点満点としたならば、平氏政権はどうでしょう。これ総合評価として七十点、鎌倉は八十点という、そんなようなことになる。これは総合評価ですよ。それから権力であるとか組織された制度がどうだったとか、力が何処まで及んだかということだけになれば、鎌倉にも平家にも及ばないということがいえるでしょうが、法然も源信も及ばないようなそういう宗教を、本当に庶民の場にまで徹底させ、一町別、村別に中尊寺の国分寺を小型に造りなおしたような単位文化を創って、それが平泉のためでなく、まさに地方のため人民のための宗教・文化を、こういうかたちで先駆けたという、こういうことを考えたならば、これは天子様といえども感謝の言葉を捧げなければいけませんね。まして摂政関白だの、院政だの、こういったようなものはなお更のこと、シャッポを脱いで敬意を表するということでなければいけないと思い、私は武門政権としてもこれだけの大きな実績を残し、それに文化、宗教を加えることでもう「鬼に金棒」です。「文武」というものが揃うかたちの武門としての一世紀をもったというこの平泉政権に対して、私たちは新しい出直しをするような勉強を始めてよろしいのでないか。こういう考え方が外国にも伝わったならばどうでしょう。日本を「ザピープル」から、あるいは地方から積み上げてきた日本の歴史の代表的な文化という評価として、十分に日本を代表する一定の評価を、国際的にも与えてもらえるものでないかということ、これが私の結論でございます。