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平泉文化の再評価

  「平泉文化の再評価……東北の中で、日本・世界の中で……」

講師 東北大名誉教授 高橋富雄先生        
 平成21年4月26日    
<極悪最下に極善最上を保証する平泉の歴史文化>

先ず最初に、有名な法然上人という方の代表的な書物として、「選択本願念仏集」(略称「選択集」)というのがございますが、その中で、阿弥陀様が「南無阿弥陀仏」という六字の名号に、どういう心が集約されているかということを要約しておられます。そこには仏様が何千巻とある本の中から「浄土三部経」、つまり阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経に要約し、そしてさらにそれを「南無阿弥陀仏」というものに要約したんだから、仏様のすべての教えというのはこの六字に要約されているんだと。これが「南無阿弥陀仏」というもので、それがどんな人でも、どんな場合でも、必ず極楽往生できる保証になってくれるんだと、こういう説明、こういう解説をしておられるですね。この念仏というものが、最悪最下の者に対して、最高最極善最上の教えをしたものであり、「南無阿弥陀仏」というものが、どんな人の、どんな場合にでも必ず救われるということの確実な保証になるんだという、こういう意味合いのことをおっしゃっているんですね。

それで私は、もし法然上人がこのように「念仏の心、宗教の心」として説いたところのものを、仮に歴史の具体的なことについてこれをあらわす、言いかえるとするならば、平泉の歴史文化というものは、正にこの極悪最下の者に対して、極善最上のものを具体的に保証するところの歴史であり文化であると、こういうふうに考えるわけです。

そして、もしこういうことを具体的な事実、史料に基づいて証明をし、さらにそれを誰にでも分かるようなかたちで世の中に紹介することができたとしたら、平泉が世界の文化遺産になるということ、指定を受けるということは疑いないことだろうと、私はそう確信をしております。ただ、そのことに役立つ具体的な証明になれるような研究が必ずしも十分でないということ、それから、かなり詳しく研究して居られる方々も、これを誰にでも分かるようなかたちで説明するというふうにまでなっていないこと、この二つの理由に基づいて今回は残念ながら門前払いになってしまったのだろうと、私は考えているのでございます。

 

<何を極悪最下 何を極善最上とするか>

そこで、私の方から、どういう具体的な事実に基づいて、これが歴史的に最低の人たちに対する最高のものであり、そしてどのような場合にでも誰にでも通用するような言い方でもって、「これが人類最高の遺産になり得るもの」だと指摘できることをここで簡単に申し述べてみたいと思います。

先ず。まずです。平泉の歴史と文化を打ち出していくのに、有名な藤原清衡の中尊寺を完成したときの「供養願文」というものがありますよね。その中でこういうことを簡単におっしゃっているんですね、清衡という人が。「そもそも自分は、先祖から自分までの経歴を辿ってみると蝦夷の首領に過ぎない。俘囚長の家柄。そういう俘囚長の身分でありながら、天皇様やお公卿様がなさるような、全国の日本人の幸福と安全を祈る鎮護国家のお寺を建てるようにしている」と。そういったようなことを清衡という人が、はっきりと「願文」の中でおっしゃっているんですね。

もしこのとおりのことを言えるとすると、実際に中尊寺の文化、平泉の藤原氏が達成したところの「北方の王者」としての平泉の政権、こういったようなものがまだまだ日本第一とか、日本でいちばんの歴史的な仕事であるとか文化であるとか、京都にも奈良にも、もっと立派な文化があるんでないかとか、こういうふうなことを言う人があるとしても、にも関わらずこれは日本における最高の文化としての意味、歴史としての意味を持つと、私はそう確信しているんです。

何故そう言えるのか。それは例えば幼稚園にも行かない、小学校にも行かない人が、もし「文化勲章」を貰ったとか、「ノーベル賞」というものを貰ったとか、そういうふうになった場合、皆さんどうですか。東京大学だの東北大学だの、そういう日本の最高学府で最高の勉強をし、最高の学歴を経たかたちで「ノーベル賞」にあずかった、「文化勲章」にあずかったという人と比べてみてください。

小学校にも行ってない、幼稚園にも行ってない人がノーベル賞を貰ったのと、最高学府の大学院なんかで、あらゆる手厚い組織機関の援助を受けたかたちで勉強して貰ったノーベル賞と比べてみて、皆さん方がどっちに軍配を挙げるかとなったら、いったいどうでしょうか。東京大学を出た人のノーベル賞受賞を第一に、小学校も出ていない人、幼稚園も出ていない人を二番目にするか、それともその逆にするか。お伺いするまでもなく皆さんは、百人が百人とも、幼稚園にも行かない、小学校にさえ行かない。にもかかわらず最高学府を出た人と同じ、あるいはそれ以上の仕事をした人を第一位として軍配をあげるということはご異論ありませんね。

 

<どういう地域、どういう条件での歴史文化だったかにウエイトを懸ける>

私は平泉の歴史と文化というのはそういう意味合いのもの、すなわち幼稚園にも行かない、小学校にも行かない、そういったような正規の手続きも学歴も保証も援助も受けなかった人が、全くの独力でもって成し遂げたところの最高の仕事として、これを第一とする理由は、歴史的に日本では先ず「みちのおく」だと言ったり、エゾと言ったり、エビスと言ったり、日高見国と言ったり。これは奈良や京都や、一般の日本の歴史の常識でいうと、言ってみればこれは問題外のところ。「道徳もない政治もない文化もない何にも出来ないあるいはまたやろうともしてこなかった最低の人たち、地域だ」ということにレッテルがかっきり貼られていたんですね。これ本来は日本の国の内でなかった、外だったんですね。外国扱いだった、異民族扱いだったんです。今日そういう伝統は、アイヌとかに対してないわけではないんですが、そういうところの政治の代表、文化の代表、経済の代表であるということを、平泉の指導者たちはがっちり自覚していたんです。

生物学的人類学的に藤原清衡という人は、お父さんの藤原経清という人がこれ、れっきとしたお公卿さん出ですから、したがって正確に見れば百パーセント蝦夷の出身というわけではありません。お母さんがはっきり安倍氏の出身です。だがそういうこととは関係なく清衡は、伝統的な蝦夷の風土、蝦夷の慣習、それから蝦夷のそういったような考え方・生き方を代表するかたちで、ここの歴史文化を創ったんだという自覚をはっきりもっておりました。したがって歴史的にこれは「蝦夷世界」、「みちのく」というところに現れた歴史文化としての一流ものだということ、ちょうど歴史的にこれが、幼稚園の勉強もしてない、小学校にも通うことのなかった人たちが大学院大学並みか、それ以上の仕事成果を挙げたという、こういうことを考えてみましたならば、これはそういう意味での努力賞ということで、日本を最高のかたちで代表するものになると、こういうことをちゃんと筋道立てて申請書の中で申し上げる言い方をしたならば、はっきりアピールするようにできたのではなかったかと、私は思うのです。どういう申請がなされたか分かりませんが、おそらくこういったかたちにはなっていなかっただろうということ、これが先ず第一です。

良いですね。実際に無条件のかたちで、奈良にある東大寺とか、宇治の平等院とかと比べて、どうだこうだという、そういったかたちの甲乙をつけるなら、その上だとか対等だとか、そういうことを離れて、かりにそれより劣るようなところがあるとしても、なお且つこれを努力賞という意味での第一番の評価を受けるにふさわしいものだと、これが第一の理由ですね。

 

<祝詞「大祓詞」の「大倭」・「日高見国」に注目する>

その次、これを具体的な歴史政治文化の問題として考えてみます。

先ず、いったい大和朝廷・奈良・京都の方に始まった日本の国家というものが、具体的に東日本・北日本のどれだけあたりまでが統一国家の中に、つまり一つの日本の中に組織され、それが日本列島全体の国家だと云えるようになっていたのかということを考えてみますと、(西日本にも問題はあるんですが、西日本を沖縄とか西南諸島とかまで合わせてみても、日本列島の面積としてはそんなに大規模なものではありません。ところがこれを東日本で見てみますと、仮にこれを「白河関」から北、北海道までとするなら、これは日本列島全体の45パーセントの広さなんですね。だいたい日本列島の半分近くが「みちのく」、あるいは「蝦夷の国」、「日高見国」。そういうようなかたちで政治的に文化的に、日本とは別な日本、正直言ってまだ日本になりきっていない日本、文化になってない日本という、こういう評価が「蝦夷の国」とか「みちのおく」、「道の奥」というのは、政治のないところという意味なんですよ。それから文化のないところ。したがって道徳のないところ。こういう意味なんです。それを人について言うと「エゾ」とか「エビス」とか、こういうことになってくる。

ですから日本では、聖徳太子から「大化の改新」ころにかけて、日本国家の最大の問題は何かとなると、やっぱり「ヤマト(大和)の国」というかたちで一つの国家を形成している日本の外側にある国を、完全に一つの国の中に統一して、文句なしに一つの日本列島国家といえるまでにしていくこと。これが最大最高の目標だということが、何と「大化の改新」から奈良時代のはじめころの大和朝廷国家の政治目標の理想とさえされていたんですよ。そのことを表しているのが祝詞「大祓え」の言葉なんですね。これは誰でも知っていることで、専門家ならこのことにふれない人がいないほどです。だがこの「大祓詞(おおはらえのことば)」のなかにこういう言葉があるんです。これは書きとめてください。「大倭(オオヤマト)日高見国(ヒタカミノクニ)を安国(ヤスクニ)と平(タイラ)けく知(シ)ろしめす」と。こういうことを神さま(神祇)の前で、天子がすべての官僚たちを率いて誓ったところの、まー大和朝廷時代における「五箇条の御誓文」に当るようなことば。これが「大倭日高見の国を安国と平けく知ろしめす」ということなんですね。

ところがこの言葉をどういうふうに理解しているかとなると、「日高見国」というのは、「ヤマト(大倭)の国が天空に澄みわたっているんだという意味での形容の言葉だというのが、代表的な解釈でした。本居宣長がそういう解釈をしているのです。そしてそれ以外には、「日高見国」を征服してヤマト国家の中に統一するということが国家の最高の使命だという、そういう程度の考え方が定説になっているんです。

ところが私は、この祝詞「大祓え」をどう考えてみても、「ヤマトの国と日高見の国とを合併して一つの統一国家にすることで、ほんとうの日本の国家というものになるのだという考え方で、ヤマト(大和)の国と日高見の国と対等の扱いなんですね。決してヤマト(大和)の国の中に、力づくでこれを統一するという意味には解釈できないようになっているんですね。

そしてこう考えた場合、いったいその「日高見国」というのがどこを指すかとなると、ずうっと南の方では現在の中部地方、関東地方が「日高見国」の始まりになるんですね。例えば「飛騨国」というのは「日高見国」の別な言い方で、「信濃国」というのはおそらく「ひなののくに」、「ヒナノ」は「日高見」の平原地帯という意味。それから関東の「常陸国」など、これははっきりと「日高見国」の別名だというのが定説になっているんです。

にもかかわらずこれは古い時代の話であって、少なくとも大化の改新以降、奈良時代以後での「日高見国」というのは、中部関東を離れて、そこから北の現在の「白河関」、「菊田勿来の関」、「念珠が関」から北の地域を、「蝦夷」の特別地帯として、昔ずうっと東日本を広くよんでいた「日高見国」の最後に残った純粋の「日高見国」。それが現在の「みちのく」といわれている地域、その奥に北海道が、蝦夷が、千島が控えるというかたちになっていきます。

 

<「みちのく中央」平泉の功績「国家統一の大事業」>

こういう日本国家の最大目標であった国家統一の事業を、北海道は一応は別としても、「白河関」から北、津軽下北半島の「外が浜」と言われているそこまで、例外なく一つの統一国家の中に組織して、ここに確実に中央の、今日で言えば県とか府とかに相当するような同一扱いではないにしても、原則として中部関東地域並みの支配、経済状態を作り出す仕事をほぼ具体的に成し遂げたもの、それが安倍氏、清原氏の仕事を受けて平泉の藤原氏の歴史的な仕事だったわけです。

そうしてです。皆さん方が先ほどこれをはっきりと名目変更にしようとしたけれども、その変更の中でも知らずにおられたこと、同じ「みちのく中央」ということばが、はじめて歴史上具体的な意味を持つ使い方になってくるのは実に平泉時代においてなんですよ。それ以前においては、奈良の政府にも、京都の政府はもちろん、安倍・清原時代でさえ、こういう考えを、こういう言葉をつかうことがありませんでした。

その意味はどういうことか。今日は皆さん方、東北六県を一束にして「東北」と、いつも例外なく考えていますけれども、しかし今日でもまだ「南東北」と「北東北」という、一応分けて考える伝統も残っていますね。一言でいうと「南東北」、福島・宮城・岩手地区まではだいたい律令国家の支配下、古代国家の支配に収まったけれども、その北の「北東北」は、岩手県の一部までは入り、秋田県の一部も入っての原則として「北東北三県」というところが、依然として統一国家の外か、仮に部分的に入ったとしても純粋の扱い方にならないで、今日の言葉でいうなら「植民地扱い」なんでした。「外分」とか「準分」とか、そういう言葉で言われている地域なんです。そう考えてみまして、日本の国家が最後の悲願とした日本列島の統一国家というもののだいたいの目標を、大和国家でも奈良国家でも京都の国家でも実現できなかったところのものを、その大和国家、奈良国家、京都国家に代わって実現をして、統一国家の基礎づくりというものをはじめて具体化した功績、功労者、それこそは平泉の政治であり平泉の統一で、平泉政権とか、北方の王国・王者とかというふうにいわれるのは、この体制国家、すなわち正式の日本国家が実現できなかった政治的な大統一事業というものを、東北の奥まで実現したことに対して名づけられての「みちのく中央」だったんです。

 

こういうふうに考えてみたならば、この地域は、必ずしも日本列島の大部分というわけにはいかないにしても、最後の課題として残された国家的な最高の使命を、中央国家に代わって成し遂げたという意味で、明確にこれは「日本における政治ナンバーワンの仕事」に当ると言いきれますね。国内でもってどういうに手直しをしたとか、文化を進めたとかいう以上に、こういう最高の仕事をこういうかたちで成し遂げた歴史的実績の評価をこそきちんと押さえてかからなければいけません。

しかもなお大切なことがあります。これまで日本内国、つまり内地扱いを受けた東北南部と、新しく国家の中に入ってきた植民地型の東北北部とを、区別することなく同一性質のものとして扱い、これを一つの東北、一つの北日本として考えたからこそ、この「みちのく中央」という言葉が出てきたということ。これ、北と南とが違うということであれば「みちのく中央」という言葉は出ません。南も北も同じ一つの「みちのく東北」であって、そのまん中にあって北も南も、なんら差別しないで同じ原理、同じ扱い方をする考えに立つから「みちのく中央」という言葉が出てくる。「みちのく中央」という言葉は、鎌倉幕府が平泉の人たちの申請に基づいて、このとおりに記録したものですから、この考え方は平泉において成立したことばなのです。

 

<「みちのく中央」とする日本史的意味の確認>

私たちはこういうことから「みちのく中央」と言うことばに、もし県庁の盛岡あたりで、また南の多賀城あたりで問題になり、まして北の奥州市でもって、「鎮守府」はここでないか、ここが中央でないかと言ったとしたら、こういう意味で地理的にも経済的にも文化的にも、「白河関」から北、「外が浜」津軽の海から南は、一色で、平等で、なんら区別することのない考えに立つ考え方は、多賀城にも胆沢鎮守城にもなかったと、こういうことを前面に出して主張して、「みちのく中央」はひとり「平泉」においてだけ、「磐井」においてだけ現実の意味を持つんだ。なぜならそれは北も南もない「一つのみちのく」、「一つの東北」、「一つの蝦夷の国」、「一つの統一国家」ということが、東北においてはじめて具体的に成立したからと、こういうふうに理解していただけばどうでしょうか。

ここまで考えてみましたらいかがですか、みなさん方。「みちのく中央」ということがどのように日本全体の中で大きな意味を持つか、つまり日本列島の半分近くの地域というもの、はじめて例外のない統一日本の中に組み入れていく歴史的な大仕事を成し遂げたことに対して与えられるところの評価になるんだと、こういうふうに考えて平泉はそういう自覚にはっきりたった政治であり文化であったとこういうふうに考えます。

 

<清衡「供養願文」があらわす平泉の広域支配>

ただ、若干問題に残るのは東北まではそういうかたちで一本化したけれども、北海道がやっぱり残ることです。北海道は今日でも日本列島の20パーセント、21パーセントあります。大変な地域です。そしてこの北海道についても、平泉ではこういう言い方をしています。これも皆さん方、「供養願文」、清衡の供養願文を見るときに、こういうあたりも注意して見てください。皆さん方にはこういう引用がなされていることについて聞いたことありますか。こうあるんですよ。「みちのく」では、陸奥の国でも出羽の国でも、みんな風に吹かれる草の葉のように、平泉の統一に感謝して自分から従ってきていると。良いですね、「みちのく」は一本になった、東北は一本になった。これまでは良いんです。そのうえこう言っているんです。

さらに「粛慎(しゅくしん)悒婁(ゆうろう)まで」。粛慎(しゅくしん)悒婁(ゆうろう)というのは今日の北海道にいるアイヌ系の人たち、あるいは沿海州を渡るか、もしくは沿海州を一つの湖としたそういうあたりにまで、日本のある種の影響力というものが及んでいたわけですが、いずれにしても北海道から、北海道の奥、もしくは西方面の地域まで含めての「粛慎(しゅくしん)悒婁(ゆうろう)」という言い方なんです。異民族という意味なんですよ。その「粛慎(しゅくしん)悒婁(ゆうろう)」ですから、北海道や沿海州方面の異民族たちまでがみんな、平泉の恩恵、恩徳というものにありがたく感謝して、みんなこれが「風にしたがう草のようになびきしたがっている」と、こう書いてあるんですよ。これは自画自賛の面もあると思います、若干は。自分の良いところを誇張しているところもある。しかしながらこのように、ひとり日本列島内の、これまで国家の外の異民族扱いされている、いわゆる「蝦夷」だけでなく、その更に奥の奥の「異民族集団」まで、すべて平泉の指揮支配を喜んで受けるようになって、ちっとも騒ぎを起こしていない。そういうものをすべて含めて、この中央に中尊寺を建てて国家民族の四海の安全を祈るのだという、これが中尊寺供養願文の趣旨なんですね。供養願文の終わりがこういう言葉で固められているのです。

これだけのことを考えましたなら東北地区は、実質的に平泉の支配下に、統一国家の中に入った。それから北海道地区もその影響力の下に、いわば正式の国家領土内ということではないにしてもその平泉に、あるいは平泉を通して日本の中央政府の指揮監督の恩恵に心から感謝して、服属するようになっているということなのですから、そこまで含めていきますと、直接間接を問わず、平泉の支配のもとに私たちは、奈良の国家も、それから京都の国家も、それから後の鎌倉幕府などではなおさらのこと、「蝦夷」だというようなことで振り向きもしようとしていなかったんですよ。

そういうことを考えて、日本が統一国家になるということの上で、最後に残された鬼門、最大の難関というものを、朝廷に代わり政府に代わって見事実現するか、実質それに近いような仕事を成し遂げたところのものが「平泉」であったと、こういうことを考えてみましたならば、これにもし文化勲章のほかに、科学賞などというようなものの他に、何かもっと大きな「人類福祉賞」などというものがあるとすれば、平泉は文句なしに時間空間を超えて、その最初の恩恵に与かる人になり得るだろうと、私はそう考えているんです。

そしてです。もし、こういう意味合いのことも分かり易いかたちで、しかも供養願文などというようなものをきっちり引用するようなかたちで解説申請されたならば、皆さんがもし世界遺産の選定委員だとしたらどうでしょう。賛成票にまわるんでないでしょうか。

私はそう考えてみて、いったい私たちが平泉藤原氏について、こういう勉強をしてきたかどうかということ、仮に読んだとしても、そういったものにもっともっと真剣に取り組むような仕事をしてきたかどうかを考え、私自身もまた、何十年か前を振り返っての反省を込めて、ここで出直す必要があるのでないか、いやあるのだと、そう考えるのですが、皆さんは如何ですか。 これが政治上の問題です。

 

<伝説「黄金の国ジパング」が奥州平泉を世界史に位置づける>

さて次の問題です。いったいこういったような問題は、やっぱり島国日本に止まっているのでないかというような考え方をして、いったいこれは日本としてはそういうかたちで大事な最高のテーマでしょうが、しかしそれは世界の人類とかユネスコとか、そういうところでみると、やっぱり何百何十とある国のなかでの一つの場合だということになるのでないでしょうかと、そういうことも問題になってくるかと思います。

しかしこの問題についても、平泉の勉強がもっともっと深められていかなければいけません。皆さんがたはよく「平泉の黄金」というものを問題にして、ここも黄金の産地、ここも黄金の産地と、そういうことを自慢風におっしゃるのですが、そういったようなお国自慢を離れて、そもそも日本の黄金というものが、いったい国際的にどういう評価を受けるものであったかという、もっと大きいことを考える黄金自慢をなさってください。単なる「お国自慢」におわってはいけません。

中国の歴史では、日本から輸入された黄金にかける税金、中国の中で日本から輸入された黄金にかける税金、これ日本でいうと平安時代から鎌倉初期にかけてのことなんですが、中国全土から出る鉱山税として政府が取り上げる税金より、はるかに大きいんです。それくらい日本から輸入された日本黄金というのが、當時知られている世界のなかで最も良質で、しかも最も大量生産されているものであり、その伝統がずうっと鎌倉室町時代を続いて、そこから例のマルコポーロの「東方見聞録」などというものをとおして、ヨーロッパにおいても「ジパング」という黄金の国が、はっきりとした伝統になっていくんです。そしてこれは「物語」ではありませんよ。良いですか伊藤さん、これは「歴史物語」なんです。

そしてそういう「黄金の国ジパング」を事実で確かめよう。いやそことの貿易をはじめよう。いや、その土地を占領してこれを自分達の国の宝にしようという考え方ではじまったのが、これ何と、コロンブスにはじまるところの「大航海時代」。今日のヨーロッパ以外の、特にアメリカ大陸とかアジアの地域とかに対する関心というのは、この黄金発見、黄金の国との貿易、ついにはこれを自分達の直轄支配に治めていくという内内の野心を秘めたかたちで、今日の全地球上にわたる大航海の大発見時代がはじまったということ、これははっきりとした世界史的な事実なのですよ。そしてこういう物語の大半は文字どおりの「物語」であったが、日本から産出するジパングの黄金というものだけは本ものの話なんですよ。

それが本ものである理由は、まず中国でもって日本黄金というものに対する最大の評価というものが、それを基にして尾ひれをつけてマルコポーロの「東方見聞録」、ジパングの黄金の国という伝説がそこからはじまって、これがヨーロッパの与論を動かすようになっていくのです。そういうことを考えてみて、さて中国でははっきりしていて、日本の中で産出する大量の黄金の産出国というのは、「奥州」という陸奥の国に限られるのだということが日本情報として、「日本記録」の中にはっきり書かれております。それは対馬というところの産物だとかそういう区別は、中国ではっきり確認されてあるんです。そしてそれを、奈良や京都の国家が健全なときには、この奥州が政府直轄だった。しかし安倍清原を経て藤原時代になりますと、奥州全土が平泉の直轄支配の下に入ってしまい、そのなかの最高の産物が「黄金と馬」ということになり、そしてこの奥州の黄金と馬が、すべて平泉をとおして京都に貢上、貢進。それを捧げるというかたちで京都の政府が東北の黄金にも馬にも与かる、こういうかたちなんです。

歴史ではっきりしているそういうことを、皆さんがちゃんと勉強しないかぎり、これは物語扱いになってしまうんですよ。これだけの事実が分かって、さて平泉が、奥州産の黄金をまるまる集める、その奥州金が日本金の全部になっていく。ある京都のお公卿さんが、「この頃奥州の陸奥国から黄金がこないから、政府の手持ち金がなくなってしまった。早く下知して陸奥国から黄金を献上させるようにせよ」と、こういうことも記録に残っているのです。こういうふうに全世界、ここならば黄金の国として世界を支配することができるとまで夢見られた産金の国が「陸奥国」であり、その金を一手にまとめることができるのが平泉だということを考えてみましたならば、平泉の歴史というものが如何に世界史の中の大きいテーマの一つになるかということ、お金がすべてであるような現代にとっては、いっそう真実になるんではないでしょうか。

 

<「別枠の日本国=蝦夷国」が「ジパング」だと言いきれる根拠>

私はそういうことを考えて、今度出版する本にも話題にあげております。マルコポーロが「ジパング日本」ということを二つの意味で混同して用いている。政府の、支配者の、国王の宮殿がまるまる金でできているとか、この国ではみんなが黄金を一般に持っている。だが、この国にこんなふうに金が行きわたっているのは、誰もその国に行って見たとか、貿易した人がいないからなんだと、こう言い方になっているのです。

こういう場合の直接の「黄金産出のジパング」、それからこれをみんなが持っているといわれている「日本国民」。これは奈良、京都、日本列島全体の日本を含めた日本国家のことではないんですよ。ここに言及している人たち誰もが無視している「日本」なんです。いったい「日本には誰も行ったことがないから、この国のことがよく知られていない」などということを「日本全体のこと」としては、これ全くのうそになってしまいます。

日唐貿易だとか、特に日宋貿易などというのは、世界によく知られている大々的な歴史事実であって、中国では、宋では、日本からの輸入金というものを離れて日本貿易はないというぐらい、日宋貿易というのは大々的な国家間貿易だったんですよ。しかもマルコポーロがここのところで15年以上にわたって官吏を務めていたんだから、こういうことを知らないはずはない。

 

すなわちここでは統一国家として出来上がっている「日本国」、それからそのなかで「もともと日本」=「日の本の国」とよばれていた地域というものが、依然とて「蝦夷国・みちのく」扱いなんですから、まだ日本国家の中で例外的な属国扱いになっている「本来の日本」。良いですか、「日本」という名称、「日の本の国」というその始まりは蝦夷なのですよ。これ中国の歴史書にちゃんとそう遺されてある。「ヤマトの国(倭国)」とは「別枠の日本国」というものが、はっきり中国の正史のなかに、正式の歴史のなかに書かれているのです。

この日本国というのは倭人の一種で、最近になってこの倭国、即ちヤマトの国ともう一つの日本国とが合併して、そして新しい倭国ヤマトの国を日本国をいうようになったと、こういうふうに中国の歴史にちゃんと書いてある。

「二つの日本」。大きな「大国家としての統一日本」と、「まだ独立していた『蝦夷』=北方地域の日本」、この二つが混同されちゃっているんですね。それが黄金伝説、「国王の宮殿は全部黄金ずくめだとか、ここにはまだ誰も行ったことがないとか、ここのところではみんながこの金を持っているんだ」とか言われるこの「独立ジパング」=「独立した東方のもともとの小さな国としての日本」とがごっちゃにしてしまい、そこからジパングの宮殿などという大法螺をマルコポーロが吹いたのだとされてしまう。もともとマルコポ-ロという人は大法螺ふきではあったんですが、しかしこの話は今言ったようなしっかりした事実を踏まえて、一言でいえば、まだヤマトという国が倭国と言っている時代に、ヤマトの国から独立していた日本国というものの伝承がそのままに残っているその古いみちのくにあたる日本国から出ている黄金ということであれば、この国との直接貿易などがないということがこれ事実になってくる。このごっちゃになっているそういう話について今度の本で、一章独立して扱っておりますので皆さんよく見てください。

いずれにしてもこれだけのことが分かってきますと、「平泉」というのが、人類の世界史においても充分大きな話題をふりまき、影響力を具体的に及ぼす代表者になり得るということが、これではっきりしてくるんですね。ただ勉強がこういったようなことをごちゃごちゃにしたまま、真理と物語とをきっちり区別してかからなければならないところをいっしょにしたまま、何となく学問の名において伝えているから、ちっともそこでこういったようなことがまともな話題になることがないんですね。

 

これだけのことを考えてみると、如何に平泉の歴史が、現実に世界を大きく動かしたものだったかということと、それが具体的には「黄金文化」、現在の世界での「ドル」というお金の位置づけに先んずる、いわば「ドル国家」の原型ともいえる「黄金文化」を平泉が実現したことかということが明瞭になってくるんですね。皆さんが「黄金文化」とか「皆金色」などというものを、そういうふうに考えなおさなければいけない。そういう点でも皆さんは「宝の持ち腐れ」なんですね。せっかくのこの宝を百パーセント、薬でいうなら「万能薬」、ただある方面にだけ利くような「黄金文化」にしてしまっているんですが、もったい話なんですね。僕なんかけちくさいから、あらゆるところにこの万能薬「黄金文化」を使うようにする。それが僕の歴史学です。

そういうふうに考えてみましたならば「平泉」を、何となく日本列島のずっと北よりの奥まった地域のある地方の田舎者の「夜郎自大」、中国では、小さい国で自分が一番偉いんだと自慢することを「夜郎自大」と言うんですが、そういう「夜郎自大」次元を離れて、大きい目でこれを世界史のなかで充分日本を代表させ、またある時期には日本そのものだとまで誤解されるようなかたちで日本を代表していたと、そういうことさえ云わねばなりません。

 

<「黄金文化」と仏法浄土「みちのく全円」>

さて、そういうことを考えて、これを文化の問題にしてごらんなさい。日本では、奈良から平安にかけて最高の文化とは何かといえば、すべて金でもって文化を表現することができたら最高の文化とされてきた。やっぱり貴金属のなかで金属の王者は金になるわけですから、そういうなかでの日本の唯一産金国であり、唯一それを自由にできる国というのは、平泉しかなかったということになったら、これは文句なしに世界随一の黄金の国、黄金文化として、人類の最高の富を代表しての代表的な政治、代表的な国としての平泉というものを問題にすることができる。これ文句ありませんね。最近のアメリカが「ドル国家」として世界を支配していると似たようなかたちで、そういったような実質「東アジアを代表した国」は平泉しかないということ。そういうようなことを問題にすることができるのです。

そしてそれをただ単に、そういう政治とか経済とかという現実の問題としてでなく、心の問題、宗教の問題として考えた場合、平泉のように阿弥陀さまとか仏さまとかが皆金色で、黄金でもって燦然と光りかがやく極楽浄土においでになるという、そういう神さま仏さまは「偶像世界」なんですね。ところが平泉のように、現実、日本におけるすべての金というものをここで直轄支配所有することができて、そのあまりの金を全部文化に投資して、ここに皆金色、黄金文化というものを創り上げる。それが今日「金色堂」で代表するようなかたちで現実に遺されているのですから、これ皆金色・黄金文化というのは物語ではありません。伝説ではありません、現実なんですね。

そしてさらに大事なことは、そういったようなことがひとり中尊寺金色堂だけでなく、基本的には毛越寺もそうだったし、無量光院もそうだったし、東北全土に置かれた主要なお寺もすべて、こういったような皆金色もしくはそういうかたちでの金色燦然と光りかがやく文化だったということは、例えば福島県の磐城にある「白水阿弥陀堂」などによって、現実に私たちは見ることができるんです。

そしてただこれは大きなお寺、平泉における大寺院、地方における代表的な寺院はそうだっただろうけれども、その他のところではそういったものの恩恵にあずからなかったというように考えるかも知れません。ところがそういうところでも、皆さん方が今回こういう席で話題にしたように、平泉では陸奥国出羽国を含めて支配した村が一万以上あるんです。そしてその一万いくつある村ごとに、平泉の支配者が必ずお寺を建て、そうしてそのお寺を維持する費用はすべて平泉の中央政府負担にしておったということ。これはっきり書かれていることですね。これを黄金文化だとは書かれておりません。しかし地方からみればこのように、平泉のようなところにしかあり得ないような文化が、小型なかたちで各地域に、ちょうど今日でいうならば地区ごとの公民館相当になるものです。そういう公民館ごとに京都文化、奈良文化の恩恵にあずかることができるようになったというような文化政策を、日本でとられたことはありません。奈良の政府も、京都の政府も、鎌倉も、室町も、江戸も、明治国家も、こんなことはできませんでした。思いつきませんでした。ただ戦後になって小さな部落単位、村落単位に公民館のようなものまで設けるようになったということが、やっと平泉が村ごとに寺院を置いたという伝統に近いものになったというふうに考えて結構でございます。

だがこういうふうに、今日でいえば各村落地域村落ごとという散文的なような公民館でなく、宗教・文化をこめたようなものとして具体的に施設したもの。日本政府としてはこれは今日をのぞいて初めてのことでございます。そしてこういうことが「みちのく中央政府」としては、白河関から外が浜、青森県の最果ての地区まで、一町ごとに「卒塔婆」を立て、そこに阿弥陀堂をおいて金色の阿弥陀像を描いて安置したと、こう書いてあるのです。いったい村落ごとの寺院、これは「国分寺」に対しての「村分寺」と言って良い。一町ごとの阿弥陀如来ということは、一町ごとの極楽浄土ということなんですよ。「此土浄土」ということなんです。今回の平泉文化遺産申請においては大きな目玉になったと思います。しかしながらこういう国村ごとの寺院、一町ごとの此土浄土などというところ、はっきりした史料に基づいて、具体的にそれを立証したのか、その全体を中央で総括するようにして「中尊寺」というものがあり、「毛越寺」というものがあったということになりますと、これは何のことはない、「国分寺」「東大寺」などというところで、聖武天皇、国家為政者達が考えたところのものを、郡単位、村単位、一町単位までおろしてやった考え方なんだと、こういうことになりますよ。これは「人類史」のもった、底辺にまでも降り立ったところでの最低の、人民の人民による人民のためのという有名な言葉が、政治のモットーとして物語られているのですが、これを仮に「文化」そして「教育」「宗教」というところにおろして考えるとしたならば、世界のどこの宗教政策といえどもこのように、村単位に、一町単位に、此土浄土、極楽浄土、神の国、天国というものを実現するということを、「理想」としてではなしに、「現実」として具体化した文化政策だったというものを、私たち「世界史」で勉強したことがありません。聞いたこともありません。

だから例えばトーマス・モアという人が書いた「ユートピア」などというのは、これはホントウの夢物語なんですね。もしユートピアを夢物語でなくて、現実物語にしようとした歴史があるとしたら、それは平泉しかありませんね。その実証が村単位一万余ある村落地域「一町佛の阿弥陀浄土」、こういう考え方になってきます。そうするとこれは、人種であるとか民族であるとかということを超えた人類の理想文化としての究極を、この「みちのく」支配者たちが実現しようとした、少なくとも考えようとしたのだと、こういうことがはっきりしてくるだろうと思います。

 

<究極課題 「此土浄土」を「入定相」で荘厳されたその意義解明>

最後にこういったような広いことを、人文科学として、あるいは文化科学として問題視するだけでなく、平泉にはご承知のとおりに三代、四代にわたってのミイラが保存されていて、現にそれがまだまだミイラとしての機能を果たしている。役割を現実を残しておられます。わたしたちは、エジプトやどこかでのミイラなどで考えるような、自然科学的な研究を、ここでも大々的に問題にしていかなくてはいけないと考えます。いったいそのように、まだ科学などというようなものを全く知らなかったはずの人たちが、どのようにしてこのような科学的な成果を現実のものにすることができたのだろうかと。我々がこういうことを考えるにも、空想的な話ではだめです。はっきりした科学的な研究をも導入するようなかたちにしていって、はじめて平泉文化というのが「画竜点睛」になる。

なぜかというと、平泉のあーいうかたちでのミイラを、仏教で「入定」と言うんですが、そういう「入定相」で葬られるようにしたのは、「此土浄土」。「浄土に往生する」ということを、観念でなくてして、その肉体でもって体現するように、「極楽往生」を「入定相」でと、すなわち現実に肉体を残すかたちでの極楽往生のかたちにしなければいけないとしたんですね。

そうなっていくとこれは、科学の問題でなくて文化の究極の目標達成のためのものとなっていきます。しかもそれを科学知識を持たなかった人々が、その科学を越えるような生活の智慧でもって成し遂げて行ったこと。いったいどのようにしてそのような智慧を獲得できたのか。そういう次元の追求課題が今の我々につきつけられているんですね。

これだけのことを考えていくと、平泉の文化が、底辺から、最低のところから生い立って「みちのく中央」にまで育ちあがり、そこから日本を代表し、世界にも大きな影響力を及ぼし、そして今日のわたしたちが、新しい人類の理想というテーマを総合的に、文化も科学も一緒にしたかたちで究明していかないことには、この平泉のほんとうの理解にとどきかねるのだと、襟を正さざるを得ない次元に目が向けられるのです。

 

こういう「平泉文化」というものを底辺から究極の次元にまで考えていく。こういうことを自然科学では「ミニマムからマキシマムへ」と言うんですが、最低の問題を最究極の問題としてまで考えていくこと。平泉をそういうミニマムの歴史からマキシマムの歴史にまで育て上げていく。そういう代表的な歴史というふうに考えることができるのです。そういったようなことを私は、平泉文化を再評価する大きな視点として焦点化させ、考えを深めていく必要があると思うんですが、残念ながらいわゆる学者集団ではまだ、こういったようなことを大風呂敷のような受けとめ方のまま、話題にもしておりません。

私はこの市民会議の学習会で、こういったようなことについて、大きな問題提起をしていくようなことがあっても良いのではないかと思っております。

以上、私の時間がきましたのでお話を総括的に申しあげました。終わります。