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蝦夷って誰のこと?アイヌとの関係は?

蝦夷って誰のこと?アイヌとの関係は?       平成19年10月27日

講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生   

「蝦夷知らで 過ぎ越し遠山 室根山 日高見群山 一の神山(みわやま)     

 おはようございます。ただ今の話題提供(太宰幸子氏)を伺い、私としてはちょっと戸惑いを感じております。というのは立派なお話でございました。立派なお話ではございましたけれども、さて今のようなお話では磐井郡、東磐井郡、あるいは東山、それから例大祭の近い「室根山」、気仙郡。そういったような私たちが本格的に取り組もうとするテーマに、いったいどこのところでどういうふうに結び付いてくるかということについては、残念ながら全く見当がつかなかったのであります。

 

<「他山の石 以って玉を攻(おさ)むべし」>

 歴史というのはいろいろな組み合わせのもとに出来ているから、一筋縄ではいかないんだということになるとすれば、いったい私たちが第一段階で本格的に問題にすべきテーマは何なのかということを考えて、今のような太宰さんのお話というのは、言ってみれば中国の言葉で言うならば「他山の石 もって玉を磨くべし」と、こういう言葉があるんですけれど、自分たちはこれだけが自分たちの宝ものと大事にするけれども、自分たちの力や技術だけでは立派な光をもつような珠にならないけれども、他所の山では単なる石ころであるようなものをここに持ってきて、それは玉にならないかも知れないけれど、それでもって玉を磨いていくとほんとうの光り輝く玉になっていくんだというような意味で、そういうようなものとして十分に「第二の学問」として使っていくべきである、使うことができると、そういう意味合いのことばとして「他山の石もって玉を磨くべし」と、そういうような諺が中国にあるのでございます。

 私は今のお話のようなものでは、私たちが考えていなかった地域の問題点というものについて、別な方向から光を与えていただいたことは確かである。しかしこれをそのまま展開していっても、例えば「遠山村」というのはどういうふうなことになってくるのか、室根山というのはどういうことになってくるのか、なぜ東磐井郡が「東山」であるのかというような問題には、これ発展していかないんですね。そこに私たちが、今のお話を踏まえて、改めて考え直すべき一つの方向が出てきたと思っているのです。

 それは仮に奈良時代、平安時代を遡って大和時代に、東北岩手県この辺におられた人たち、その地域を、大和朝廷のこれに関係を持った人たちが、それ自身として評価していたかということ、これは別問題として、私たちが問題にすべき「磐井郡」とか「東山」とか「室根」とか、こういったような問題は、すべて大和朝廷側がこれをこういうふうに受け止めて、こういうふうに文字にし、文章にし、本にしていたのであるという、このことから私たちは、たとえば「エゾ」にしても「エミシ」にしても、これを考えなければいけない。

 第一このことば自身は、現地の人たちが与えた言葉でなしに、中央から大和側の人たちがこれをどう受け止めて、彼等の理解における現地人、現地を、そう言うものとしたかということを文字に表わして「蝦夷(えぞ)」という漢字になったり、「エゾ」という言葉になったり、「エミシ」という言葉になったりするわけですから、先ず第一に私たちは「古事記」とか「日本書紀」とか「続日本紀」とか、そういう朝廷側、大和朝廷側でこれをどう受け止めて「蝦夷(エゾ)」というものになったのか、「エミシ」というものになったのかということを徹底的に洗い出して、それだけでは現地それ自体に即した、例えば後にアイヌとなるアイヌ人とか、その人たちの言語のアイヌ語とか、そういったようなものから見ると、「古事記」や「日本書紀」や「続日本紀」に書かれている蝦夷(エゾ)という言葉、もしくはそこで考えられている概念、そういったようなものが、「エゾ」とか「アイヌ」とかには何分の一にもならないと、そういったような考え方になることは結構ですよ。だけれども、私たちが先ずそういうふうに、私たち自身が踏まえている歴史資料というものにおいては、それがどう考えられていたかということを、まず第一にしなければならない。これをきっちり捉えた上で、その上でここが足りないとか、ここはこうなるべきであるというふうな議論になっていきませんと、混乱するだけになりますね。そういったようなかたちの問題提起として、ただ今のお話を私はたいへん貴重に考えたのでございます。

 

<呼び方「エミシ」、「エビス」、「エゾ」の混乱>

 なぜこういうことを問題にするかというと、いったい日本の古代史料、古代記録の中で、「エゾ」とか「エミシ」とかいうようなものが、どういうふうに表現され、どう考えられ、どう位置づけられ、どう評価されていたかということの議論をきっちりやって、そこでひとつの結論に近いようなものまで進めた上で、今のようなお話を承るとたいへん参考になるし、たいへん役立ってきますけれども、こっちが何分の一も進まないようなかたちで、いきなりこういうことになると、混乱するだけです。そういうことから私はここのところで短い一時間のうちで、そういった定説みたいなものを概論としてお話をするということは出来ませんけれども、おおまかにただ今のお話の中で、何としてもそれで宜しいのかなと思うようなことについて具体的な例を出します。

 たとえば、私たちが「エゾ」といっているのは、昔は「エミシ」というふうに言っていたというお話し、これは大体定説になっているんですよ。だから今の発表された方がそれを踏まえられ、但しこれを「エビス」と云ったこともあるという言い方で、「エミシ」という言い方を若干もじったかたちで「エビス」という言い方もあったのだと、それから更に人名には「エミシ」という名前がたくさん出てくるから、これを悪者だとかいう意味合いだけではなかったはずなのだというようなお話もあったりして、そういうことを承って皆さん、「なるほどなあ」というふうにお感じになったかも知れません。しかし、私、若干こういったことについてまとまった意見を発表しておりますので、そういうこともご参考にしていただけたら、たいへんありがたいと思うのでございます。

 

<文献をきっちり読み分けねば>

 文献をきっちり読んでみて下さい。そうなさると「エミシ」「エビス」「エゾ」「アイヌ」、これ混同してどれもこれもごちゃごちゃになってどうにでもなるという使い方になっている場合もあります。しかし、逆に言えば「エゾ」、それから漢字で書いて「カイ(蝦夷)」、これを「エビス」、「エミシ」といったような言葉があるとするなら、それはそれぞれの意味があってのことだと考えなければいけません。なぜ同じものが「エゾ」になったり、「カイ」という漢字になったり、ただ単に夷(イ)という漢字で表現されたり、「エミシ」となったり、「エビス」となったり、「エゾ」となったりするのか。このことは、それぞれの意味でその使い方の違いを考えていくことをきっちりやった上で、「但しごっちゃに混同して同じような意味に使うこともある」というふうな結論になっていかなければなりません。

 

<蘇我蝦夷の「蝦夷」は「日本書紀」での書き変え 大化改新以前は「毛人」>

 まず相対的な区別があった。ずばり言って古代では「えみし」ということばがたくさん出てくる。そしてこれが人名に使われている。しかもこれ人名に使われるときには「蘇我蝦夷」という日本語だけではあの「(カイ)の「蝦夷」の言葉になってくる。しかしそれ以外では全部「毛人」、毛の人と書く。そして人名でもってあの漢字の「蘇我蝦夷」の「蝦夷(カイ)」と書くものは、まずありません。これは後になってこれを軽蔑したり、悪く見たりするようなかたちで、そういう言い方をするのは起こるかもしれませんが、古代で私たちがきっちり確認できるかぎりは、絶対にまず「蝦夷(カイ)」と漢字で書く人名というのはありません。「蘇我蝦夷」、例外です。そしてこの例外の意味を考えると。皆さん不思議に思いませんか。「蘇我蝦夷」というのは、今日で言えば内閣総理大臣の意味なんですよ。内閣総理大臣が悪者の代表である「(カイ)蝦夷」という名前の「えみし」ということで呼ばれることに、ちっとも不思議に思わないということ。いったいこういう学問はないんですよ。こういう歴史はありません。こういうことを何も問題にしないで研究というものはありません。他方で、この蘇我蝦夷を除いたかたちの、その他私たちが知っている代表的な「エミシ」という人名は全部「毛人」と書かれている。いったい「蝦夷(カイ)」と「毛人」と、どうちがうのかということも、これにもまだ問題がありますよ。しかしいずれにしても、人名として、しかも貴族や官僚になれるような人たちまでが、名誉の自分の名前とするときに「エミシ」という言葉を使い、それが殆ど90パーセント以上「毛人」と書かれるのだというふうに考えてみますと、蘇我蝦夷だけがあの「カイ(蝦夷)」という「エゾ」と同じような使い方になっているということは、何としてもおかしいことだという、皆さんはがそういう疑問を歴史の中で聞かされたことがない、感じたこともないような勉強では、これ蝦夷研究になりませんよ。蝦夷研究になりません。

 これははっきりと「上宮聖徳法王帝説」というものの中で、これ非常に古く「日本書紀」に準ずるような、古い聖徳太子の伝記だというふうに考えられていますが、ここでははっきりと「蘇我毛人」と書かれている。そしておそらくこの書き方が正確で、大臣が何故征討の対象になる悪者の代表であるような「蝦夷」という字になったのかというと、これ中国語でいう、いわゆるこれ「筆誅」になっているのです。大化の改新におけるこれ、悪者の代表としてこの人が征討されることになりますので、後になってこれを悪者の意味の「蝦夷(かい)」というかたちで「日本書紀」が書き変えたのだという考え方をすべきものです。私は百パーセントの自信を持ってそう申し上げる。そしてそれによってこの謎が解決されて、やっぱりこの人も「毛人」なんだと、そういうふうに言える。

 

 さてその次です。「蝦夷(エゾ)」。いわゆる「エゾ」ですよ。いわゆるエゾ征討がずうっと続いて最盛期に達している段階の奈良時代の初中期において、私たちが確認できる貴族・官僚のずっと上位の人たちの名前に誇りをもって、名誉の表われというかたちでもって「エミシ」という名前がたくさん使われている。たくさん記録されている。こういうことを考えたならば、征討される「蝦夷(エミシ)」というのが、朝廷から見て悪者であることは一点の疑いもないのですが、これが悪者自身に対して初めっからつけられている名前であるならば、それが征討する側に立っている人たちの誇りある自分の名前として「エミシ」、蝦夷と書いてこれをつかうことはあり得ないでしょう。こういう不思議も、全然古代史料を分析し研究する人たちによって提起されていないんですね。こんな学問はありません。私は五十年近くこういったことを勉強してきて、こういったような不合理、むしろ学問にならないようなものが学問として通用していることに対して、問題提起をずっとし続けてきているのですが、残念ながらそういったことがさっぱり生かされていないということを思って、自分の非力を痛感しているので、今日もこの席でもってその非力を告白しておくのでございます。

 

<「エミシ」の語源は漢語「ユミシ(弓士)」にある>

 さてその次でございます。そうなるともう一つ問題がある。はっきりしたことは言えませんけれども、人名として誇りある名前に書かれた「毛人」である人名については、これを「エビス」とか「エゾ」と呼んだ証拠は全くない。全くないのです。後になって出てくる。後になるとごちゃごちゃになってきますから。そして確認できるかぎりでは、全部人名として名誉ある自分の名前だとしているときの呼び名は「エミシ」でございます。「エビス」と読んだという証拠は全くないのでございます。全くない。こういうことを考えてきて「エミシ」と「エビス」というのが、全く同じものの別な言い方だというのは、言葉の上においては転化が可能です。しかし理屈としてあり得ないことです。逆に後々まで悪者という意味での蝦夷(エゾ)をいうときには、「エミシ」という言い方を混乱してそういうふうに呼んだのでないかと思って、今の学者たちは全部これを「エミシ」と読んでいますけれども、私がチェックできるかぎりにおいては全部これは「エビス」。「エビス」です。悪者としての蝦夷(エゾ)は、これを「エビス」とよぶのが普通であって、逆に「エミシ」というときには、これは誇りのある人名として、みんな喜んで使う言い方になっているから、「エミシ」と「エビス」が、ほんとに不可分の親戚関係、兄弟関係のようになっていたとすれば、こういうこともあり得ない。あり得ないですね。

 したがって古代のある時期においては「エミシ」という言い方は、いってみればプラス評価に使われる場合、ポジティブに使われる場合に「エミシ」になり、ネガティブに、マイナスに使われるときには「エビス」という言い方が、少なくも普通だったと、こういう考え方がなければこの矛盾は解けません。いったい蝦夷(エゾ)について、こういった最も基本的な問題点というものを、古代の歴史を問題にする人たちが話題にすることが殆どないということも、これもまことに不思議なことなんです。

 

 そこで、いったいこの人が誇りとする「エミシ」ということば、いったいどこから出てきているのか。何故それが悪者を意味する「エビス」になっていくのか、こういったようなことを中国・日本を通じて漢字でもってこのことを表現する日本の歴史、中国の伝統的な文字の使い方の中で、徹底的にこれを調査しなおした上で、改めて、この漢字文字で表わすような言葉とは、あるいは学問とは、違う分野からこれを批判していく、追加して考えなおしていくというふうな行き方にしないで、これ中途半端にコンセプトしてしまいますとどっちもうまくいかない。

 私は「エミシ」という言葉は「ユミシ」という言葉が本来で、「ユミシ」は漢字、弓の人、すなわち弓の名人、「弓の人」と書く。人というのは「し」と読みますね。「弓士」、「弓人」、「弓の名人」。従ってこれは武者、武勇の人という意味になります。そういう言葉「弓士」が「エミシ」になって、すなわち男性の勇者たる美称として使われたということ、これは「エミシ」という言葉の研究としては、大きな柱の一つに立っている考え方です。そういうご紹介が先ほどございませんでしたが、私はこれが最も正しい「ユミシ」の語源になっている。何故かというと、いったい漢字の「夷」でございます。「蝦夷」というのは後でこの「夷」を悪口を言う、悪者の意味において、特にこの字を付けて言ったのであって、本来はこの一字「夷」であります。「夷」という漢字、これはご承知の通りこれ象形文字です、したがって具体的に意味があります。これは「弓」という漢字と、「人」という字を組み合わせて一字にアレンジしたものですよ。それが「夷」という字であるということは、これ漢字の語原研究で正確に証明されて、誰が見てもそのとおりでございます。そうすると「夷」という言葉が本来「弓士」「弓人」から出て、中国語の弓人を「弓士」と、日本語にしたのだというこの解釈は極めて正確なもので、そしてこういうことを考えてきましたならば、下手にアイヌ語がどうだ、何がどうだという議論をする前に、私たちは先ず、いわゆる蝦夷研究の中の最も重要な関門の一つは、この伝統的な漢字文化、漢字言語というものきっちり勉強することなしに、いきなり他所の学問や人類学とか何かまでこれを広げてしまって、ごちゃごちゃのカクテルを作ってしまった。そういったあたりに混乱の原因があるというふうに私は考えるのです。そうであれば「ユミシ」「エミシ」というのが、名誉ある人名として喜んで使えるようになったということが、まことに尤もだと云うことがこれで分かってくる。

 

<それなら何故「エミシ」が「エビス」に?>

 したがってこの「ユミシ(弓士)」、「エミシ」が先だと考えるべきです。それなら、これが何故同じ字でもって悪者の代表になるかということについては、これについても十分に理由が考えられます。その理由の最たるもの。それは何処にあるかというと、いったい「弓士」、勇者、武勇のある武者の代表的なもの。もしこれがプラスの良い方向にだけ働くならば名誉ですが、どうでしょう。これを奴、旗本の奴とか、そういったような江戸時代にもどっさりありますね。刀を無茶に振り回す。力を無茶に振り回して乱暴狼藉をやり、果ては人殺しをやったり、反抗だけ繰り返す、盗みだけをやるようにしている。そういったような勇者、武者というのは、これははっきりとマイナス、悪者になってくるわけですけれども、その悪者である勇者、武者について「エミシ」という言葉を、文字を変えるようなかたちで「エビス」というふうにして、悪者の勇気、武勇をふるうものに対しては「エビス」である。それに対して、きっちりと良いこと、立派な勇者としてほれぼれするような立派な勇者武将という者については「エミシ」だと、こういうことであるならば、これは私たち漢字文化すなわち古代史料に即して蝦夷問題についての重要なことについて、かなりきっちりとした分析評価というものを学問的にすることができるようになってくるのです。

 

<それなら正反対のものに何故同じ字を使ったのか>

 但しなぜそれならば「エミシ」「エビス」というように、正反対のものを同じ言葉でつながるような結びつきというのをするようになったのか。別の言葉で表現したらよかったんじゃないか。そういうことについても、古事記、日本書紀、日本の古代文献というのは、漢字史料のなかで十分なる説明をしているのですよ。ところがそういう研究も、学者はほとんどやっていない。ほとんどやっていないんです。私はこれを、ほんとうに、何のための研究であるのかということを疑わざるを得ないんです。日本書紀では、この「蝦夷の国」のことについては、これを「日高見国」と言うと呼んでいます。「日高見」というのは、おそらくこれも「日本書紀」を最終的に完成する段階で文字をきれいに切り替えた言い方だと思います。これは「ひなかみ」で、「ひなほとり」で、辺境の意味だろうと思います。その意味は「あずま(東)」の奥の地域を「日高見国」と言うといって、そこにいる人たちを全部「蝦夷(エゾ)(カイ)」というのだと、こういうのが「日本書紀」の景行天皇の日本武尊の東征が出てくる段階での定説になっているのでございます。

 

<「日高見国」は関東地域に始まる>

 さていったいその「ひたかみ」、「ひなかみ」ということであれば、この言葉の本来の使い方を、皆さん考えるように北上川流域、岩手県地域ではありませんよ。宮城県の後になってだんだんこれは北に移って来たのでして、本来のこの言葉の使い方は、茨城県「常陸国」において、この言葉が「日高見」の本場だったということが「常陸風土記」で確認されているのでございます。関東地方が「日高見国」の本場なんです。さてそこのところもかなり落ち着いたかたちなので、いったい近畿地方、奈良京都の畿内から東全部の、今日の中部地方以東の地域全域が広い意味における「日高見」、「ひなかみ」という意味で使われて、本来これは「エゾ」とか何かでなくて、「田舎」という意味でございます。その代表が「あずま」ということばで、「あずま」というのは「田舎」という意味でございます。そして「鄙(ひな)」ということで、「ひな」も「いなか」です。そうするとこういう言葉、例えば岐阜県の「飛騨」というのは、「ひな」が訛った言葉だということがはっきりしてきますよ。「信濃国」信州、これも「し」と「ひ」とは日本語で混同されてきますから、したがってこれは、信濃の「しな」は「ひな」と似ている。大高原地帯だから、それで「ひな」の原野地帯の意味で「ひなのぶ」と。

たとえばこういうふうになってきますと、「日高見国」というのは、本来は日本列島の中でも中部・関東地域のように、ずっと西寄りの地域を大和や何かの畿内地域に比較して、田舎の開けない、そういう未開の土地だという意味において、「ひなか」とか「あずま」というふうによぶ言葉の極端な最後の形態として「ひなかみ」。「かみ」というのは「ほとり」の意味ですからね、「ひなほとり」の意味、辺境の意味です。フロンティアの意味です。そしてそれが「常陸」に落ち着き、常陸の開拓が進んでくるとそれが東北に入り、さらにそれがずっと東北の福島宮城を越えて岩手の方に入り、だんだんに北進するようになってきて、日高見の移動が始まってきているわけです。そしてそれの終わりに近いようにある程度落ち着いた地域が岩手県で、その最南端がこの東山地域になっていくと、最北端が岩手のここから青森の地域なんです。

 

<「エミシ」が「エビス」に、そして「エゾ」に>

 こういうふうな地域になってくると、単なる田舎、辺境、まだ開けていない片田舎という程度で住んでいるところの勇者については、主としてこれは地域の人たちについても「エミシ」という言い方になって、それがだんだんに凶暴、悪者、そしてもう武器を取って反抗する、そういうふうなものになっていくにつれて、悪者としての「エミシ」、すなわち「エビス」というふうになって、境界がはっきりしないようなのがだんだんだんだんに東へ北へずれてくるから、したがって言葉も自然にまだ「エミシ」だけれども、ときには悪いこともするという「エビス」から、いや悪いことを主とするようになった「エミシ」、悪いことしかしないような「エミシ」と、こういう変化が出てきて、したがって言葉の上においても「エミシ」の変形としての「エビス」という言い方になってくる。これ、まことに自然に理解できませんか。私はそう思います。

 そしてそういったようなもので理解できないかたちで、先ほど話題になったように、現地の中においても大きく、そこに住む人たちの変化、というようなものが築かれるようになって「エミシ」、「エビス」という言葉で表現できるものから別の「エゾ」という、原理の違った言葉が出てくる。私これ「エンジュ」というアイヌ語で説明するということで宜しいのでないかというふうに思いますが、私は宮城県の「伊治」などという中にも、先ほどの太宰さんのような言葉でいうならば漢字である「伊治」という言い方と、「エゾ」につらなるようなニュアンスというものがあり得るのでないかという考え方もするのですが、いずれにしても宮城の北部から岩手に入って、しかもぎりぎり岩手の最北部から出羽の方でいえば秋田からの北の方の地域、津軽にかけては、これは全く異質の人たちによる「エビス集団」だということになって、「エゾ」という言葉が出てくる。

 私はこの「エゾ」という人たちと「エミシ」といわれている人たちの間の断絶があるのではないかという考え方には全く同感でございまして、話題になっておりますように、「エビス」の人たちというのは、これは天性の騎馬民族集団だといって、この「エビス」の人たちが馬に乗って騎馬戦を挑んでくる戦いには、政府軍が十人百人をもって戦っても、この「エビス」の一人に敵わないということがはっきり書かれている。

 ところが、私たちの知っているアイヌとしての蝦夷集団というものに、馬が入るのは後になってからなんです。この人たちは本来、馬を知っておりません。熊とかなんかの伝説があっても、馬という伝説が全く「ユーカラ」にはない。これだけはっきりとした文化、生活の違いというものをもっておれば、同じ「エゾ」、「エビス」というものの中で、いったいこれを同じ人たちと観るということは殆ど不可能です。私はそういうことから「エゾ」と「アイヌ」とは殆ど一つに結びついてくると、この人たちは古代でもって「エビス」、いわゆる蝦夷征討をしたときの「エゾ」というのとは、これは場所が違うだけでなく、人種的にも人も違うような人たちが出てきている。にもかかわらず同じ北方「みちのく」の、悪者の勇者たちであるという点から、「エビス、エゾ、アイヌ」、こういったものが一つで表現されたりする場合もごちゃごちゃ出てくるわけです。

 私はそんな混同したかたちでもって総合的に表現するときには、エミシもエビスもアイヌもみんな「蝦夷」というかたちでいうときには、これはいってみれば最も広いかたちで東北北方の現地のあまり良いことをしない未開拓の勇者たち、悪いことをするのを主とする勇者たち、武者たちという考え方が朝廷側にあって、それが広い意味において「カイ(蝦夷)」という漢字で日本語的には「エゾ」という言い方でもって、全体を表現するようになってくるけれども、その起こりであるとか、相対的な区別というものを考えていくと、かなりはっきりとした区分を、地域的にもしていくことができる。そういうかたちで、東日本全体、史料でいうならば「三関」と言いまして、伊勢国の「鈴鹿関」、それから関が原のある「不破関」、越前国の「愛発関(あらちのせき)」。この三つの関所がある。そこから東の地域全体をこういうふうに「日高見国」、「鄙の国」、「日上の国」、そんな言い方をして、そうして「エビスの国」、「カイの国」、「蝦夷の国」。こういうような見方を地域的に区別しながら、その段階を考えていくような学問をして、そのなかで「磐井の地域」、「東山地域」、これがどういう位置づけになるのかという、こういう考え方をしていきますと、私はあんまり他所の学問を借りないでも、日本の古代史料のていねいな分析研究を理論的実証的に進めていくことによって、八割九割まで結論に近いものを考えることができると、そういうふうに考えているのでございます。

 

<「室根山」を軸に「日高見国遠山村」の顕彰を>

 そしてそれだけのことを踏まえて私たちの主要なテーマである、なぜ磐井の地域が「東山」になるのか、いったいそれは「遠山」といわれる地域とどう結びつくのか、それからいったいその審問の役のようなかたちになる「室根山」というのはどう結びついてくるのか、こういったことについては、私は今度、11月に総括の全体の集まりがあるそうですね。私そこのところで丁寧にまとめてお話をするつもりで、今日はその序論のようになります。ただ、こういうふうに一つの短歌のかたちに結論的にまとめてみました。

 

「蝦夷知らで 過ぎ越し遠山 室根山 日高見群山 一の神山(みわやま)

 こういう言い方。何だか分かったような、分からないような感じでしょう。これ私の歌になってない歌だからということもあると思います。しかし半分以上は、これまでのいったい蝦夷史料についての古代文献の解釈が、全く学問になっていなかった。そしてそれで説明つかないと言って放棄して、余所の方からこれを説明しようというふうに切り替えてしまったところに間違いがある。その間違いを指摘することがこれ、「蝦夷知らで」、知ることが出来ないということを「蝦夷知らぬ」と言います。この言葉は、蝦夷という言葉の意味をよく知らないで、私たちが磐井のこと、東山のこと、室根のことを考えてきたので、「遠山」の意味も、「室根山」の意味も良くわからないでしまっている。しかしこの山というのは、実は日高見の中の代表する、シンボルになる山であるぞよというのが、「日高見群山」です。そしてこの何故そういうこと言えるかということは、出典まで含めて、次にお話をしていきます。

 「室根」はおそらく「群山」の「群」からきている。たくさんある名山のなかの「代表一の山」というのが「室根」。「根」の意味です。この前見学に行った千厩というところでの登り口が「根山」となっていました。私これ非常に大事なことばだと思います。私はひょっとして、やっぱり千厩からの登り口というのが、室根の本道になるのかも知れない。「根」というのは大地根本(だいちこんぽん)という意味ですね。即ちたくさんある日高見、すなわち蝦夷世界の山の中でも、「根本第一の山」というのが室根の「根」の意味、したがって地元ではこれを「根山」とさえ呼んでいたかも知れない。「室」を省いて。そしてそれは最高第一の神様の山「神山(みわやま)」になってくる。

 私がそれを結論的にはっきり言えるようになったのは、これはこちらの芦東山が室根山に登ったときの「詩」が漢詩が残されておって、これ畠山先生から頂戴しましたけれども、この漢詩の持つ意味よく分かりませんでしたが、最近、中国の「詩経」を読むことによってこの心がよく分かってきました。これはこの次にお話します。そのときに短歌もいくつか詠んでいる。これは芦文八郎先生の伝記に載せられているもので知ったというもので、これによると、いったい他所からこちらの見学に来た人たちも「室根山」を見ることによって、山というのは「室根」だということが分かるだろう。富士山を私たち日本の代表の山だと言われているのですけれども、「室根の山に寝て、そして見上げてみると、これはここの富士山になるんだ。ここからだと富士山も見える。沖の小嶋までぜんぶ見える」。こういうふうに言っている。室根山に日が昇ってきて、それが天に上って西の山に入ることによって、はじめて「日本」という国は「日の本の国」であるということが分かるだろうと。こういう意味合いの和歌が、五つ六つ書かれているのです。私はこれ皆さん方、改めて勉強しなおしてください。そうして「東山室根」というところで、芦東山という方が何を見たか。ここにおって日本そのものを観た。これは私ひとつ、あれもあると思って、実は「日本」ということを「日の本」というのですが、「日高見国」というのを略して「日の本」とも言うんですよ。だから「日本国」というのが大和に出てきて、その日本語読みが「日の本」だというのが定説になっていますね。これも学者の不勉強です。学者の不勉強です。私も不勉強でした。私はここ三十年ほどかけて、すっかりそれを乗り越えました。

 「日の本」ということばは、本来「日高見の国」の略語として起こってきている。これを大和朝廷の方でそっくりいただくようにして、そして日本を「日の本」ともいうようになったので、原点は近くにある。芦東山も「日の本を知る」というのは、ひょっとして芦東山、「日高見」の略語が「日の本」であるということをよく分かりかねるか、もしか分かっておってもわざとひねって、そう言ったのかも知れませんが、いずれにしてもそれだけの意味を「室根山」というものにかけている。そしてあるいは「日高見一の山」であるということからきているということ、更にそういったようなものを私たちは、室根山が本来「鬼首山」、鬼の首、オビト(首領)の神であったということ、私これは本来、「鬼」というのは蝦夷の意味ですけれども、鬼の総支配者である人の山という意味で、「気仙」という言葉も本来これは「きせん」と読むのが正しくて、そしてこれはひょっとして鬼の山、「きせん」というのが始まりだったと思いますが、これがちょうど悪く考えて悪者の代表として「日高見」、「蝦夷」を考えていた段階の政府側の考え方です。「遠山村」を征服して、これを政府側の基地とする段階から、「鬼」は空気の「気」になって、そして全部良い意味に変わっていくのですけれども、本来この「鬼」というのは「鬼か蛇か」の「鬼」の意味でして、すなわち悪いことをする蝦夷の意味で使っている言葉だというふうに考えてみて、いずれにしても「日高見 蝦夷 第一の山」として、本来は神さまである支配者が、そこのところに君臨していたところが、ここのところですっかりと「神山」として切り替えられることによって「室根山」というふうになって、しかし遠山村界「日高見一の山」ということになって、「日高見」という言い方も、少なくとも気仙から北においては生きておっても、この地域においてはその地域含めて「遠山」というふうな言い方に切り替えていくようになったから、「遠山」というのは「日高見」の中の「東山地域」について、「東山」というのは広くこれは気仙も含めてのことですよ。そういうふうに言った。したがって私たちは「室根山」などということを考えているときには、「日高見遠山村の第一の山」という意味から、せまく気仙から区別された東磐井の山などという考え方をすること、けちくさいです。これでは芦東山の詩が出てきません。日本全体が室根山で分かるだろうと言うぐらいの考え方を、江戸時代でさえも実感できる山だからです。皆さんはそういう考え方をしなければいけませんよ。そういうことであるならば、この磐井郡の山の中に室根山というのが出てこない、気仙の中にも三つある式内社の中に室根というかたちで考えられるものがちっとも出てこないというような言い方は、あり得ないことです。室根という言い方、少し後になってから出てくるから。しかし室根山自身を最高の山として、名前が室根でないかも知れませんよ、とらえるような考え方が江戸時代にないかぎり、こういった例えば「鬼首山(きしゅせん)」などという言い方、室根山から日本全体というものに、ここから日が昇るんだというふうな言い方ができるはずがないということを考えると、私はこれは「気仙三座」の中に言われている気仙の「式内社」の中の一つとして、室根山にかかる山が必ず入っていなければいけない。なぜかというと、磐井郡に入ってない。磐井郡には「配志波神社」というものを考え、「舞草神社」というものを考えて、このどれにも室根山が入る可能性は百パーセントありませんから。そうすれば必ず入っていなければならない室根山が、「室根」という名前を使わないで、ちゃんとリストアップされている地域は「気仙三座」しかないと、こういう考え方をして、広い意味において気仙と東磐井というのは、その点からも「日高見遠山村」として一体のつながりで、少なくとも平安初期まではあったのだというような考え方が十分可能だと。いずれにしてもそんなようなことから私は「えぞ(蝦夷)知らで 過ぎ越し遠山室根山 日高見群山(むらやま)一の神山(みわやま)というふうな、こういったようなこと。これは古代の文献資料というものを要約して、これを芦東山の短歌の気持ちでもって詠み合わせていくと、こういう歌になるんじゃないかというかたちでまとめてみましたから、これは事務局に預けておきますから、皆さん参考にして下さい。ご静聴ありがとうございました。