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二重遺跡「河崎柵」と「覚鱉城」

講師 東北大名誉教授 高橋富雄先生 

 平成20年5月20日

    二重遺跡「河崎柵」と「覚鱉城」 

<原典で「覚鱉城」史料を読む意義>

 今日は午前中から見学をさせていただいたりして私も疲れましたので、声も良く出ないかもしれません。今日、みなさん方にお配りした漢字だけの資料でございます。ここには今発表いただいた千葉先生、畠山先生のような詳しい方もらっしゃるわけですけれども、大部分は漢文というのは英語かドイツ語ぐらいに、私たちからは遠い文章になっているわけです。そこで何となくかた苦しい話だろうというふうにお考えだろうと思いますが、極端に言いますとこれ全く皆さんがたが読めなくとも読まなくとも結構でございます。

 ただ、にも関わらず、今日こういったようなかたちでもって資料をお出ししたのは、よその方々がですね、たとえば皆さん方が、覚鱉城であるとか河崎柵などということの話をするときに、原典を、もとの資料がどうなっているかということを全く見たり聞いたりしないで話をしているのでないかというふうなご批判を受けて、だからそれは素人の意見だ、田舎の人の、言ってみればまあ話にはなるけれども勉強にはならないと軽く見られてしまう心配がある。そこでいや違うんだと、高橋先生という人が来て、ちゃんと原文を示して、そしてそれに基づいて、こうだろうとか、こうでなければいけないというふうな話だから、これは今のところもっとも確かなものを踏まえた考え方だと言えるための、その拠りどころになるものとしてこれをお配りした、そういうことですので安心して、気楽に聞いてみていただく。

 ただし、今日ぜんぶ全部みなさんにお配りしてあるようですので、前半はこれをまず読んでみます。どう読むのかということですが、今、千葉先生のお話を聞いていますと漢文きっちりお読みいただけていないようですので、こういうふうに読むんだと、そしてそこに書いてあるのはこういうことだと、そこから何が分かると、そういったように話を一時間半ぐらいできめてみなさん方の新しい勉強のスタートにしていただく、こういうふうに思います。

 

 <「覚鱉城」を継承・造り替えての「河崎柵」>

 まずこの勉強が必要な理由。それは私がここにお伺いしてからも、「前九年の役」、安倍氏関係の「河崎柵」がここのところではないかということについてはたいへん熱心に勉強していらっしゃる。そして私も「河崎柵」を考える第一候補というだけではなく、ほとんどここ以外に考えることが出来ないだろうという結論に達しています。

 それは良いんですが、これは、皆さん方がこれから先考えていく「河崎柵」の問題の半分でしかありません。これが完全な答えが出たとしても、この研究の半分にしかならない。その残りの半分というのは、「覚鱉城」との関わりを考えない「河崎柵」ということはこれから先あり得ないということでございます。 

そしてその根拠になるものが、今日みなさんにお配りした史料でございます。そして、これは皆さん方にとって、たいへんこう煙ったい史料であるだけでなく、専門家をもって任じる方々も、この史料をきっちりお読みいただく、解釈している、そういったような研究ができておりません。そのために覚鱉城とは何ぞや、どこか、どういうものであるかということがはっきりしないだけでなく、ましてそれと河崎柵との関係などというのがこれまで話題になったこと、いっぺんもございません。

 しかし、私はこの問題の半分は覚鱉城、残り半分が河崎柵。そして極端にいうと覚鱉城の伝統を受けて、もしくは、もっと具体的に、私、ここ二回、三回現地に行って見学させていただいたんですが、そのままそっくりではありませんけれどもが、覚鱉城の遺跡を継承し発展させて、そして時代的にも「河崎柵」というのは百五十年かた後になるわけですから、そういうかたちで、若干場所がずれたり、それから河崎柵それ自身はもちろん新しくつくらなければならないということにはなりますけれども、ここに河崎柵を造った理由、それから、それのかなりの部分が前の覚鱉城というものを受けて、これを新しく再編成すると、造りなおすというような恰好で出来たものだろうということがほとんど疑いありません。ほとんど疑いありません。

 

<この根本史料「続日本紀」に出てくること>

 そしてそういうことを考えるための史料として、ただし現地のことがよく分からないまま当時の歴史家が書いたものですから、細かいことをここで考えることはできません。しかし、大まかに、どこに、どんなかたちでもって、どういう目的でこの城が造られたかということは、この皆さん方にお配りした史料によってもう十分理解できるようになっているのですよ、十分に。そういうことであれば、こういう勉強を少ししていかなければならないというお気持ちになっていただけるだろうと思います。

 そこで、ここに関係した史料を一応ここで二十五ぐらいピックアップしてありますけれども、これ細かく見て、先ほど話題になった(これはるのきみ)というのは後でそういう読み方をする歴史家も出て来たのであって、正確には(いじのきみ)で宜しいですよ。「伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)の反乱」というところまで「覚鱉城」というのはまっすぐ結びついていくのです。覚鱉城を造る過程でもって、この大将とその部下の間の行違いがあってこの反乱がおこってくるわけです。そういうことまで考えていきますと、これは遠くの奈良から平安初期にかけてのすべての大きな問題の出発点であり、またある程度方向づけをした史料にさえなってくるのでございます。そこで、まず読んでみます。

 

<「遠山村覚鱉城基本史料>

 この原典になっている史料は「続日本紀」、これは「続」と書いて(しょく)と読みます。(しょくにほんぎ)といいまして「日本書紀」に始まった政府(お上)ではじめた正式の国史、「正史」と言います。六つあります。それでこれを「六国史」、六つの国史といいます。「日本書紀」、それから「続日本紀」、「日本後記」、「続日本後記」、「文徳実録」、「三代実録」。こう書いて平安時代の初期まで、六つの正史が出来ましたので、合わせて六国史。「続日本紀」はその二番目でございます。関係する覚鱉城関係の話というのは、その二番目の「続日本紀」というものに載っているんです。そのずっと終りごろになります、「宝亀年間」というのは。奈良時代の最後の天皇、光仁天皇のときの年号になります。このその次が桓武天皇になって、平安時代になっていくんです。そしてその「覚鱉城」というのの起りになるところが「遠山村」というところなんです。そして「遠山村」とはどこか、どういう意味を持つかということも全く研究ができておりません。勝手な議論がされております。それは原典を読んでいないからです。

 そこでこの史料は続日本紀に書かれている遠山村と覚鱉城、これ、同じ地区ですよ。同じ地区。これもし私の推定が間違わなければ磐井郡、それから気仙郡、これに関わるところの地域についての政府側の記録です。それで「遠山村覚鱉城基本史料」というふうに書いたのです。よろしいですね。

 

<史料解読に入る>

 漢文はこんなふうに読むというふうに、お分かりになるかどうか分かりませんが、一応読んでみますから。そしてその解説をしていきます。

 

「宝亀三年九月廿九日紀」(ほうきさんねんくがつにじゅうくにちき)。

 

 「紀」というのは六国史の記事を略していうときにこの「紀」という。したがってこれに上に続日本紀と書かなくても宝亀三年とあればこれは続日本紀のことだということを略して「宝亀三年九月廿九日紀」というふうにいうのです。こういうこともこの機会にきっちり勉強してください。これがきっちり分かると大学並みですからね。よく理解できたら大学院なみです。大学院講座です。したがって皆さんは大学院生になったつもりでお聞きください。読んでみます。

 「従四位下大伴宿禰駿河麻呂 陸奥按察使(じゅしいのげおおとものすくねするがまろ、むつあぜち」。「陸奥」というのは平安初期になっての言い方で、正式には「みちのく」と読みます。ですが略して「むつ」と読んでおきます。「按察使(あぜち)」というのは国司、現在の県知事の上にあって、もっと大きな総督にあたる、ガバナーにあたる地位のこと。それを「あぜち」というふうに言います。東北では九州の大宰府というところと並んで、広域にわたって、しかも非常に高い立場から、半分以上政府の権限を代行できるような別格の総督を任命いたしました。それを「あぜち」と言うんです。按察使というんです。したがってこれは国司のもうひとつ上ですが、大体は国司と兼任にするのです。これを陸奥の按察使となす、「よって勅す。」そこで天子様からこういう勅命が下ったのです。「今聞く、汝駿河麻呂宿禰辞す」。これは按察使に任命されたけれども、とっても自分はその任でないといって辞退したというのですね。そういうふうに辞退してきたけれども、その理由は「年衰え身衰えて仕え奉るに堪えず」。とても年をとる、それから病気、体も衰えてしまったのでその任に堪えないからと言って断わってきたと、こう言う意味です。しかれどもです、「然れども、陸奥の国は、もとより(元来)人を択びてもって、その任を授く。」この陸奥国按察使などという地位は特別に人を択んで任命するのであって「汝駿河麻呂宿禰、唯(ただ)朕が心に称す」。この「称す」は「適う」という意味です。お前だけが天皇の心に適った人物である。光仁天皇が心に適った人物である。だから辞退するに及ばないというんです。「朕が心に称えり。ここをもって任じて按察使となす。宜しく此れを知るべし。」 「宜」は二度読むんです。戻ってまた「べし」と読む。したがってこういうつもりで特別にお前を任命したんだから辞退は認めないと、即日その日のうちに従四位下という位を正四位下というふうに格を一つ上げて、名誉ある任命をしたと、こういう言い方なんです。

 

 それで何故これを上げたか。この大伴宿禰駿河麻呂という人が後で出てくるように、はじめて遠山村の蝦夷経営をやっている。これは長いこと計画しても実行した人がないのに、この人がはじめてやって、ここのところを政府側の基地として新しい軍事作戦をするときの、拠りどころにすることができたということがこの後で出てきます。そういう見込みをもってこの人が任命されて、後で分かりますように大伴駿河麻呂がはじめたことに基づいて、胆沢におけるあの蝦夷経営、田村麻呂というのは、ある意味においては、この大伴駿河麻呂という人が遠山村経営でやった事業を、そのまま胆沢に継承するかたちでこれを完成させる人ということになります。

 そういうことから、磐井の人にとっては、皆さん方にとっては、田村麻呂などという以上に大伴駿河麻呂という人は是非とも記憶しておかなければならない人ですよ。是非とも。

 ところがこういうことについては田村麻呂という人は分かっておっても、大伴駿河麻呂などという人、「大伴」といえば「家持(やかもち)」という人に決まちゃっているわけですよ。こういうような勉強というものを出なおす、これ初歩ですからね。従って田村麻呂並みの人がいるんだと。その先駆をなした人だと。それが大伴駿河麻呂という人だと。しかもこの人は天皇の特別な信任厚い特命によって実現し、こちらの仕事に当った人だという。初めから田村麻呂なみに期待されて仕事に当った政治家なんですよ。そういうことがこの史料によって分かるわけです。この史料によって。したがってこういう言い方は、田村麻呂にも出てきませんよ。「大伴宿禰駿河麻呂はただひとり朕が心に適うと、こういう誘惑の言葉。お前しかいないんだとこういう言葉を賜った。こういうことなんです。こういうことについても皆さんはきっちりとした勉強をなさることですね。でそのためにはこの程度の漢文は十分読めるような勉強もしていくということ。これも大事ですね。

 その次もいろいろと大事なところがありますが、これを一一やっていたんでは時間がかかりますので、しばらくとばしてその次の大事なところは、史料の「八」に行って下さい。

 

「宝亀五年十月四日紀」

 

 「陸奥国遠山村者 地之険阻 俘夷所憑」(むつのくにとおやまむらは ちのけんそ ふいのたのむところ) 「陸奥国遠山村は地の険阻」、土地が険しい。「俘夷」、これは「蝦夷」の意味です。「俘夷憑む所」、蝦夷はここの土地でないと駄目だというふうな、第一等の基地にしているところだ、遠山村は。

 「歴代諸将 未だ嘗て進み討たず 而して按察使大伴宿禰駿河麻呂等直進して之を撃ち 其の巣穴を覆す 降る者相望ま使(し)む 是に於きて使いを遣わして宣慰(せんゆ)せしめ賜るに御服(ぎょふく)の綵帛(さいはく)を以ってす」

 「歴代諸将」、これは陸奥国の鎮守将軍とか、按察使とか、こういう人たちを指している。「未だ嘗て進み討たず」。これまで名将、軍将、たくさんの将軍たち、政治家がいたけれども、遠山村を征討したとか、征討しようと軍を起こしたという人は未だ一人もいない。「而して按察使駿河麻呂等、直ちに進みて之を撃つ」。ところが計画して一気呵成に遠山村を攻め滅ぼしてしまったと。「其の巣穴を覆し」、そしてその拠りどころとする本拠を、本丸を悉くこれを打ち滅ぼし覆してしまったと。「遂に窮寇をして奔亡」。「窮寇」、負けて逃げ場を失ってしまった敵という意味。「奔亡降る者相望ま使(し)め」、敗北してしまった蝦夷たちが逃げ場を失って「奔亡」。「降る者」、降参するもの。「相望ましむ」。本拠を滅ぼされてしまったので、逃げ場を失って続々と降伏するようになったと。「是(ここ)に於いて使いを遣わして宣慰(せんゆ)せしめ、賜うに御服の綵帛を以ってす」。こういう読み方です。そこで使いを遣わしてその功をねぎらった。愛(う)いやつ、天晴れの仕事をしたということで、天子が身に付けている衣服というものを贈ってその功をねぎらった。何かこれちょっと軽いように思うでしょう。これは何回も戦争が続いて、最後は立派に位階も地位も上がっていく。そういうことになります。

 

<「遠山村」は何処だったか>

 ここだけですと遠山村というのは何処なのか見当がつかないでしょう。そこでこういうときには皆さん方、一般的にその当時の蝦夷経営というのがどうなっていたかということを考えなくてはいけません。

まず、南では海岸通りに今日の宮城県の桃生郡「桃生城」というのが、河北町というところ、石巻の北です。ここに桃生城というのがあって、海岸通りの蝦夷経営の最前線でございました。良いですね。そうすると宮城県の仙北の中ほどまできている。それから山道北側では先ほどあった「伊治城」、今日の栗原、元の栗駒町ですが。今日では栗原市です。そこのところの伊治城、今日の築館の地区ですね、ここが西側では最北の基地でございます。栗原の北が磐井郡ですよ。皆さんの。それからこちらの桃生城の北を登米郡を隔ててこれ東磐井郡になります。

 こうなってきますと、遠山村の蝦夷経営ということは、少なくとも桃生城の北、伊治城の北ということでなければいけませんから、最南端でも登米、東磐井。それから西側では西磐井。いずれにしても磐井地区という、しかも遠山ですから、すぐ桃生の北隣の桃生が遠山になって、この将軍たちがどのように攻め滅ぼそうとしても滅ぼせなかったなどというのは、すぐ桃生城の北にあるということは考えられないでしょう。そういう常識論からいって、この遠山村というのは、西で言えば西磐井郡か、それを含むその北、それから東側で言えば東磐井郡を含むその北の地区、こういうところに当るということが、これで略分かってくるわけでございます。

 そしてこの後で出てきますように、その地区について、東山道の奥、東海道の奥という言い方をしておりまして、西磐井方面がこれは東山道の奥ということで、それから東桃生城の奥の方は東海道の奥ということになって、遠山村というのは、その東山、東海が落ち合う拠点になっているということがこのさっきの史料の読み方ではっきり分かってきます。しかも、それが胆沢までいかない、閉伊までいかないというようなことも、胆沢はもうこの後、磐井の北にあって、それから最も頑強な蝦夷の基地であることがもうはっきりしてくる。さらにはっきりすることは、最後の史料で分かりますように、この遠山村の経営でもって中通りを東山道として進み、海岸通りを東海道の奥として進んできた二つの経営の路線をドッキングさせて、ドッキングさせたところの力を結集して、胆沢の賊を討つということがここのねらいになっているわけです。そういうことを考えれば、この遠山村というのは、東山道・東海道、即ち磐井郡とこの海岸通りというのは桃生郡の奥として、当時まだ本吉郡というのは郡になっておりませんでした。ですが桃生郡の奥ということになり、それから胆沢に行く前の土地と、それから桃生、気仙というものが、どこかドッキングする、落ち合うような地点の、その重要拠点、最大拠点として「遠山村」というものが考えられておって、それを全部経営した、打ち滅ぼしたということがここの記録に出ているのでございます。

 そういうことであればまず遠山村というのは、東磐井郡と気仙郡というものが落ち合うような地区というものとして、今日、室根高原地帯というものが岩手県における、何か自然公園の指定されているそうですが、ほぼこの地区に相当する地区が、広い意味における遠山地区、遠山村地区という。「村」というのは蝦夷では、政府側でいう「郡」に相当する。郡よりもっと広い幅をもった地域を「村」と称して、これは政府側で「郡」の下に「郷」とか「村」とかいうものを数えるのと全然違いますよ。従って「遠山村」というのは「遠山郡」というような、そういうふうに考えますと、ほぼ今日の東磐井、それから磐井寄りの気仙地区、しかも山岳地帯を中心とした、そういうものとして考えられているということがこれで分かります。

 

 その次に重要なことです。それは「十七」の史料を読んで下さい。

 遠山村の経営が終わった段階で何が起ったかと言いますと、ここのところを政府側でがっちり握って、ここを基地として宝亀七年、「陸奥の軍三千人を発して、宜しいですか、胆沢の賊を討つ」と書いてあります。そうすると、遠山村の経営というのは、まず地理的な位置として胆沢郡の南にあって、そこの基地をきっちり抑えることによって胆沢経営の侵攻拠点にするための位置として、遠山村経営というものがなされたと、こういうことがここではっきりするわけです。

 そして大事なことは、坂上田村麻呂やなんか、それからその前の紀広純などという桓武天皇の時期を迎える前に、既に奈良時代の末において、胆沢経営というものがもう緒につきはじめていたということがこれで分かるんですよ。こういうことが全く注意されていない。但し、これが実際にどう実行されたかどうか、どの程度の成果を挙げたかどうかは分かりません。しかしいずれにしても胆沢経営を推進するための遠山村経営であり、したがって遠山村の征服、そして政府側がすっかりこれを討つ、これを政府側の手に収めきった段階でこれを基地として、胆沢作戦、胆沢経営というものは、もう実施され始められていたということがこれで分かるのです。

 こういうことが政府の正式の史料でもって確認されているということなんです。これが大事なことなのです。そして、その仕事の緒をつけて、基礎作りをし、大伴駿河麻呂はその直前に亡くなっておりますから、この次の責任者が「紀広純」という人。この人が大伴駿河麻呂の遺志を継承して、遠山村の経営をがっちり続け、東山道・東海道というもの、東日本における最北の経営ルートというものを、この胆沢・気仙地区でドッキングさせて、そこを踏み台、基地としてその北の胆沢経営というものに本格的に乗り出したということが、これで分かるのでございます。

 ですから、大伴駿河麻呂という人が、もし長生きしておったならば、田村麻呂の出馬などということはあり得なかったかもしれません。それから大伴駿河麻呂の後を受け継いだ二代目駿河麻呂としての紀広純という人も、先ほど千葉先生の紹介にもあったように、伊治公呰麻呂という人の反乱にあって伊治城で殺されてしまうんです。そしてその収拾作戦として胆沢経営というのが本格的に進んでくるのですが、もし紀広純という人が健在だったならば、それは殆ど疑いもなく、田村麻呂の出番というものは多分なかったと思います。

 何故なら、そのくらいに駿河麻呂の意図を受け、紀広純が実施に移したところの胆沢経営、その作戦というものが、大規模で本格的になっておったからでございます。そしてそのことも、この「続日本紀」のここで引用した最後の史料に明確に書かれているんですよ。

 皆さんは多少難しくても、千葉先生ならこういったあたりをきっちりと読めるようにここのところの史料をこなさなければいけません。何故かというと、ここのところが決め手になるのでございます。そして覚鱉城というのは実は紀広純という人が提案し、進言し、その手でもって軌道に乗せはじめ、着手していた。ところがそれがおそらくまだ完成しないうちに、伊治公呰麻呂という人の反乱にあって、殺されてしまったために、紀広純の政治活動も終わりになるばかりでなく、覚鱉城という城に期待された政治的な役割もここのところで終わってしまうのです。もし紀広純という人がこの乱に遭わないで、これから後もずっと蝦夷経営の指揮をとり、したがって覚鱉城の胆沢経営の基地化というものが実現しておったならば、これ、疑いもなく覚鱉城というのが後の胆沢城鎮守府の役割を果たしていたというふうに推定することは殆ど疑いありません。そういう重要なことが、この史料に簡単に、しかも正確に、書きとめられているんです。したがってこういうところをきっちり読むための勉強会をお持ちになったならば、覚鱉城というものがどこにあるのか、どういう役割を果たしたか、胆沢に対してどれだけの指導権をもっていたか、十分に分かるのでございます。そこでそこのところきっちり読んでみます。良いですね、そこのところをきっちり読んでみます。

 

宝亀十一年二月二日紀

 

 「陸奥国言 欲取舟道(船路)伐撥遺賊比年甚寒其河已凍不得通船令賊来犯不已故先可塞其寇道仍須差発軍士三千人取三四月雪消雨水汎溢之時直進賊地因造覚鱉城於是下勅曰海道漸遠來犯無便山賊居近伺隙來犯遂不伐撥其勢更強宜造覚鱉城得胆沢之地両国之息無大於斯」

 二月二日でございます。「陸奥国言」、これは漢文ですから、「もうさく」などといわないで漢文で「言(げん)す」と読んでいただきます。「陸奥の国言す」、ですから、これは紀広純という按察使であり、陸奥守である人の責任において、太政官、政府に申請してきたのです。宜しいですね。「船路を取り」、胆沢への正式のルートは北上川ですよ。それが「船路をとり」、船でもって川を溯ってと、こういうことですから、こういうこともきっちり読み取っていただかなくてはいけません。船でもって北上川を、北上川は「ひたかみがわ」と言います。北上川という名前は藤原時代・安倍時代頃からかも知れません。「吾妻鏡」というものになってはじめて「北上川」という地名が出てくるので、これは「ひたかみ」の読み替えとして出てきます。「ひたかみがわ(日高見川)」を溯って「遺賊を討ちはらわんと欲す」と、こういうことになります。そうしますと胆沢経営は既にある程度始まっているんですよ。しかもその基地は遠山基地です。具体的にはこの東山基地でございます。それが「遺賊」の意味でございます。まだ打ち滅ぼしかねて残っている、これほんとうは大部分は向こうとして健在なんですが、既に三千人の兵を発して、その後も二万人の軍隊を発して東山道・東海道両道の蝦夷を攻めたということ書いてありますね。これも既に若干の行動に移っているわけですから、成果はどの程度だったかは別として、胆沢経営は既に奈良時代の終わり、田村麻呂たちが出る十年二十年以上前に既に始まっておって、その進路は進んでいく道は、北上川を溯って進んで行く。そういう水路に依っていることが分かる。よろしいですね。そうして、その胆沢の賊を征討するための拠点、基地として覚鱉城を造ると、こういうことになっていますよ。

 ですから覚鱉城というのは日高見川、北上川の船のルート、就航というものを確実にするための基地ですから、正式にはこれはちょうど大宰府において「みずき」、「水の城」と書いた、そういう「みずき」、水上を抑える、水上から進んで行くという、そういう船路、船によるところの戦争の基地として設けられた城であるということがこれで分かりますよ。そしてそれが遠山村の経営によってはじめて成り立って、胆沢を征討するための水上基地としての城だということが、これではっきりするんですよ。こういうことをなぜ地元の研究家、或いは歴史をもって勉強していらっしゃる方々がきっちり押えないかというと、この史料をちゃんと忠実に読み下していなかったからなんです。良いですね。ところが「比年(ひねん)」というのは「この頃」、最近、近年ということ。「比年甚寒其河已凍不得通船」、(ひねん、はなはださむくして、そのかわすでにこおりてふねつうじえず)、ところがこの頃寒気が非常に寒くて、今のところ、ちょうど、年末年始に申請されているわけですから、冬になると河がすっかり凍ってしまって、船を通じることが出来ないと。最後までこの胆沢経営のルートというものが、水上に依っているということが分かりますね。

 その水上をどういうふうに敵が南下するのを食い止めるか、まっすぐこの水路を溯って胆沢ルートに入るための水上権をどういうふうにして確保するか。それが胆沢経営の生命線を握ることになる。その基地が覚鱉城でございます。よろしいですね。そこで船を通じることが出来ないのは政府側なんですよ。政府側は暖かいところで生活していますから、凍ってしまうと船を動かす技術を知っていない。ところが胆沢の蝦夷というのはもう雪国で育っているわけですから、しかも川を下ってくるわけですから、この凍った川を自由に行き来することができるわけですので、「賊をして来犯已まざらしむ」と、こう書いてあります。こっちは川が凍ったから船を溯らせることは出来ないけれども、蝦夷は地の利、川の利全部知っているから、こっちが全然動かすことが出来ない足元を見透かして、どんどんとこの川を攻め下って政府側の基地近くまで攻め下ってくると、こういうことになって、したがって胆沢地区、この狐禅寺峡谷などというのはそのルートになってくるわけです。そして「来犯やまず」というのは言うまでもなく、桃生城が支配しているぎりぎりの北の地区、伊治城が支配しているぎりぎりの北の地区、この地区は北上川が氾濫し、北上川が追波湾というものを溯って海水は例の「貝鳥貝塚」、この「貝鳥」というのはおそらく「貝島」と読むんだろうと思いますが、「貝島貝塚」あたりまでずうっと海水まで入ってきて広い海と川の水が一緒になって、満々たる湖、「霞ヶ浦」のような状況を呈しているところ。その地区まで賊は南下してくる。この「来犯已まざらしむ」、これも注意する必要がありますよ。「来犯」というのは政府側が支配している地域まで犯すということで、ただ賊が南下するという、それだけではないんですよ。こういうことも皆さん方は、日本語、漢字というものをきっちり読まなければいけません。きっちり読まなければいけません。それがここで書かれていることです。そこでどういうことかというと、胆沢に攻め込むための基地を確保すると、水路を確保する、それから蝦夷が攻め下ってくるのをここできっちり食い止めると、そのための城作り、基地つくりをしなければいけないというので、「覚鱉城」を作ると。こういうことになっているわけですよ。「三千人の軍士を発して三四月、雪が消え雨水汎溢(はんいつ)して」、水がすっかり溢れ出して川というものを自由に行き来することができる時期になったら、すぐに賊地に進むことができるようになった、宜しいですね。賊地に進んで城を造るんでないんですよ。千葉先生そこんところよく考えてくださいよ。賊地に進むために城を造るということですから。胆沢に進むための城造りをするということですよ。そうするとこの位置は胆沢に入ってはいけません。入ること出来ません。賊が南下してくるなかで、これを食い止めるための城ですから、政府側支配のぎりぎり北の方。それから蝦夷地区としてはぎりぎりここからこっちには入らせない。そういう胆沢と磐井の軍事上の接点に当って、しかも水上交通を確保することの位置、こういうことになってきたら皆さん方ほとんど見当がつくでしょう。そうするとはっきり北上川沿いで、しかも胆沢に近付いてなんてことはあり得ません。何故ならこの段階では胆沢の賊が政府側まで南下してくるのを食い止めるという基地つくりですから。

 そこでさらに大事なこと、これは遠山経営というものが終わったのを機に、これを基地として北に進んで行くという、こういう性質のものとして遠山村経営、それを基地として胆沢の賊を討つという軍事行動が、既に宝亀七年に始まっておって、それを更に本格的な城造りを進めて、それを基地として、北上川の水上交通をがっちり確保した段階で、そこから一挙胆沢に攻め込んで行く。そのための城が覚鱉城だ、こういうことになってきたら覚鱉城の位置が大きく言って、胆沢の賊の南下をぎりぎりそこで防ぎ、逆に政府側が支配している区域のぎりぎり北限の接点しかこの位置はありえないことが、これで見当ついてきますね。よろしいですね。

 

 それで問題は、その土地が磐井でも、東磐井の方なのか西磐井の方なのか。これ狭められてきますよ。これは内陸に入ること出来ません。何故なら、水上交通を確保する「水城」だから。したがって北上川を挟んで東岸であるか、西岸であるかという、この二つしかないんですよ。そういうことを考えましたらこの北上川の「水城」、としての、水上交通をがっちり確保して、そこのところに構えられた城ということをちゃんとおさえないようなかたちでもって、その所在地を考えたりなんかするということは、この基本史料に反するんです。そのためにこの漢文をきっちり読んでいただかないといけないということですね。そのためにこの原史料をここで出したわけです。

 そういうふうにして、それならばその位置、東か西かということ。はっきりこう書いてある。その次のところを読みます。「海道漸遠來犯無便」、今、海道は漸く遠くして、この海道というのは、すなわち東寄り、東海道地区、即ち東山地区です。「海道は漸く遠くして山賊は居近く」、これはどういうことを意味するかというと、東海道、海岸寄りの地域というのは確実に抑えて、ズーとこの辺まで確保してしまったからこっちは心配ないけれども、「山賊居近伺隙來犯遂不伐撥其勢更強」、川沿いの、今日で言うと東山、東磐井地区の山岳地区というのは、そのすぐ近くまで蝦夷が蕃居しているために、従ってこれを防ぐためにはこの川のルートを確実におさえなければいけないという言い方になって、これははっきりと東海道海岸寄りを抑えながら、しかも胆沢の賊というものを、すぐ近くにある賊というものを抑えるためのこれは基地づくりということになって、このように東海・東山の落ち合う場所としてその位置が限定された。もとの「遠山世界の北上川寄りの地区で、政府側支配区域と蝦夷が南下してくるぎりぎりの境の地区」というと、狐禅寺峡がちょうど切れるこの場所が、政府側の支配・影響区域と、胆沢の蝦夷が南下してくる地域のちょうど接点になっている。地形上もそういうことになる。

 

 これだけのことが分かってきましたら、狐禅寺峡谷が切れて、即ち胆沢賊が政府側の開けた地区に展開することが出来る前に、これを抑えるための基地づくり。それから政府側としては、安心して蝦夷の力を排除しながら基地づくりできる地域というのは、ぎりぎり政府側が具体的に言うと桃生城伊治城が確保しているところのぎりぎりの北限の地区ということになって、それはもう、狐禅寺峡谷が尽きるこの地域というものを除いて、しかも東海道とのつながりを確保しながら川を溯って行くということ、これが「遠山」の位置づけになりますから、そうすると北上川の右岸でなくて、つまり西側でなくて、左岸の東側地区と、こういうところしか場所の限定がなくなるということがこの史料をきっちり読めば一般的な理論の帰結として、そういうことになってくる。宜造覚鱉城得胆沢之地両国之息無大於斯

 そしてそれがこの「河崎柵」の擬定地として考えられている地区と完全に重なってくる。その理由は東海道方面に北上川ルートからの連絡ルートというのは砂鉄川を上って行くいうことが最短距離であると共に、これが後々まで内陸部と海岸地帯というものを結ぶ、これはルートになっている。ルートになっているということ。そうしてみると自然に北上川と砂鉄川の合流点、接点というようなことになってくるという、これは一般的な見通しです。それをもっと具体的に遺跡としてそのどの地域かということには、2キロとか3キロとか、そういう幅をもって考える必要あるにしても、大まかにみるとそういう見当しかつかないということが分かりますね。

 

 更に大事なこと。最後のこの史料の最後のところ。「宜造覚鱉城得胆沢之地」、宜しく覚鱉城を造って、胆沢の地を得べしと。こういうふうになっている。覚鱉城を基地としてそうして胆沢の賊を討って胆沢を手に入れることが出来たならば、その次の文章です。「両国之息無大於斯」、両国の息、両国は陸奥、出羽です。陸奥、出羽の国の息、「息」は平和、安定。陸奥の国、出羽の国、東北の平和安定、これより大なるは無しとありますよ。これ皆さん方どういうふうに読んでおられますか。

 これはほとんど今日では、胆沢の賊を平定し、胆沢城を造り、鎮守府をここに移して、胆沢城が鎮守府になってから、鎮守府に胆沢城に期待されていること、それがそっくり覚鱉城に期待されていることがこれで分かりますよ。「宜しく覚鱉城を造り、胆沢の地を得べし」と、こうある。そして胆沢の土地を征服、征討しなさい。そうしたならば陸奥、出羽の安定について、これ以上大きな拠りどころになるものはないとありますから、胆沢城など必要ないわけです。覚鱉城があれば。

 

 その覚鱉城が、伊治公呰麻呂の反乱で、だめになってしまって、ここの基地化が水泡に帰したために、全然別途の道を考えて、平安初期になって、西側より衣川の砦というかたちで西磐井から蝦夷を攻めるというかたちになったのは、覚鱉城がだめになった結果としてのことなんです。

 こういうことを考えてみましたならば、覚鱉城ありなば、完成しておったならば、胆沢城鎮守府に代わる仕事がこの覚鱉城でもって運営、推進されていた筈だということがここのところで分かってくる。政府側がそれを期待している。したがってそうであれば、大伴駿河麻呂、紀広純という、この二人の将軍健在なりせば、この二人の力によって胆沢経営も可能であり、また、そのために覚鱉城というものが造られたのだと、こういうことまで分かってくる。それが二十五の史料の持つ意味ですよ。

 それを軽く確実に一語一語きっちり読み下すような学習が出来ていなかったために、覚鱉城などというのがまるで宙に浮いたような議論になっていますし、また、胆沢との関係のことも全く分かってくる。田村麻呂たちが出てくる前に、胆沢の賊三千人の軍士を発してということもありますし、それから二万人の軍士を発して、東海東山の遺賊を討つということもありますけれども、これも具体的に言えば胆沢のある程度の軍事作戦がもう既に、奈良末期の紀広純の下で、しかも二万人からの軍隊を派遣してこういうことが実施に移されていたということ、これも分かってくるのでございます。

 これだけ重大なことが覚鱉城の記録というものによって推進できて、但しそれが、緒につこうとしてすべて画餅に帰してしまったということが、ほんとにこれは、胆沢城鎮守府が陥落したと同じような意味をもつことになってくる。

 さらに大事なこと、千葉先生。先ほど伊治公呰麻呂の反乱が出てきましたね。伊治公呰麻呂という人は既に、この覚鱉城を造る段階でこの築城計画に参加しているんですね。そのことがこの史料にちゃんと出ていますよ。そのために紀広純とか将軍、副将軍に恩賞を与える過程でもって、伊治公呰麻呂についても特別の外従五位外の位を与えるという恩賞がなされているのです。そうすると伊治公呰麻呂という人は既に覚鱉城を築城する過程で、この磐井地区の経営作戦に参画していたということがこれで分かってくるのです。

 そしてこの胆沢城経営が一段落してもう目途がついたというところで、基地に帰って休養しようとして紀広純という将軍が伊治城に引き上げた段階で、伊治公呰麻呂の反乱にあって殺され、多賀城まで失陥するという一大事に発展するのです。そうすると、伊治公呰麻呂の反乱というのもまた、覚鱉城経営と密接に関わってくる。そして伊治公呰麻呂がどうなったかということが全く分からないとすれば、彼の逃げ込む先もまた覚鱉城の奥、胆沢地区の蝦夷たちとのつながりというものが必然的に考えられますけれども、これについては全くの推定でございます。

 

 以上のようなことが分かってきますと、この奈良末期の「続日本紀」の「遠山村、覚鱉城」に関するこの史料というものを、ていねいに勉強するということが、専門家の勉強として大切でなくて、地元の人たちの「地方学」として「郷土史学」として、欠くことのできないものだということがこれで分かると思います。

ですから私は皆さん方はこういうための学習会というものをちゃんと開いて、地元の一関あたりの先生で、漢文をきっちり読み下せるような、「無刑録」を読み下したようなああいう先生がいらっしゃるでしょう。そういうような方を講師に来ていただいて、こういう史料を更に丁寧に講読していただき、その勉強会、研究会のようなものまで開いて、そうして覚鱉城問題というものを考えていって、そして結論として、この地理的位置は、現在「河崎柵」と推定されている地域と、完全にオーバラップしている。したがって「河崎柵」というのは、歴史的な使命、位置づけとしては、覚鱉城が果たそうとした城の役割を、百五十年経って新しくここで再現復活するという意味合いをもって造られものであるということもこれではっきりしてくる。

 ただし、それが厳密に重なり合っているか多少ずれているかは別として、大きな意味において北上川と砂鉄川の合流する範囲という、その内懐に含まれた北が先ほどあったあの位置ですね。しか考えられないということもこれは明瞭なことです。

 そこで大事なことは、覚鱉城として奈良時代まで、これ完成はしていません。しかしあるところまで水上交通を確保するための城造りのかなりの部分は進行しております。したがって特別なことがなければ、川の両岸に大きな石敷き、岩敷きのような、岩のようなものが敷かれているというようなもの、これはもうはっきり奈良時代覚鱉城関係というふうに考えて良いと思います。それから「木柵」のようなものについては、これは奈良時代にもあり得ますけれども、これは平安時代か河崎柵についても当然あり得ますから、そこでここでは遺物や何かを通して、この木柵は平安時代に入るのか或は奈良時代まで溯るのかということは、その造り具合によって古いもの、下にくるものが古いわけですから、したがって上にくるものが新しいわけですから、そういうことからくる地層も考えていく。それから遺物などによって、平安初期の遺物、例えば土器などですね。そういったようなものについても、新しいものか古いものかというものを区別して、その遺跡が奈良時代まで溯るか、古いものなのか新しいものなのかというふうなことも考えていく。

 それから、少なくとも和同開珎(わどうかいへい)和同開珎(わどうかいほう)などが出た二つの場所については、もし、これが動いていないものだとすれば、これの出土した地点は疑いもなく奈良時代まで、したがって、これこそが覚鱉城を証明するものになっていく。ただし、これ重なっているとすれば、その出土がいったいその地点をおいてないといっても、その地層が比較的古い地層か新しい地層か、そういうところまで本当は注意していただく必要があったんです。その段階では「河崎柵」オンリ―で考えられておりましたから、そういうこと殆ど問題になっておりません。したがって今考える余地はないのですが、こういうようなものを考えて、そうしていったいその居住地区であるとか住居址であるとかなどというような言い方は不十分でございます。これは本当に普通の兵士などの住んでいる、例えば長屋のような兵舎のようなものなのか、それとも或る程度まだ若干、官舎風な官人たちのような人のいるような施設、或いはつくりであったのかどうか、そういうようなことまでこれから先、丁寧に考えていく。こういうことも残された問題になると思います。

 いずれにしてもそういう大きなものに結びつくと同時に、二つの重要なこの地区における拠点になるような「城柵」について、問題が二重に提起されているわけですから、これはたいへんな意味を持ちます。しかも場合によっては鎮守府胆沢城並、もし夷俘の歴史ですね、もしあったならば、もしあの人が健在だったならば、田村麻呂に代わり、鎮守府に代わる機能を果たすように、国家的に期待されていた人たちであり遺跡であるということ、これ一点の疑いもないのですよ。これ一点の疑いもない。それ地元の何となくこの名誉とか、そういうお国自慢のつもりのことではないんです。そういう勉強もこれから先必要になってくる。そのために高橋先生という人が来て原典に基づいてこういう話をしてくださいましたよと。だから、この話は、この歴史は、この遺跡は、この調査は、胆沢城並みの扱い方をしていただく必要がありますということを、市長さんたち、教育長さんたちに自信を持って主張していき、将来博物館がどうこうなどいうことがあったとき、こんなようなことも研究テーマになっていくから、これは岩手県の南の小さな博物館などでは、とってもこういう大きな仕事はこなしていけませんと。例えばそういうための問題提起にもなってくるわけです。

 今日はたいへん硬いような話でしたけれど、その硬いものを解きほぐしていくと、こういうふうな、

みなさん方にとっては、固唾を飲むような大問題に発展していくようなお話の出発点になるような集いだったと、こういうふうにご記憶いただいて、ご質問があったら承りたいと思います。ご静聴ありがとうございました。


 

   一級史料「続日本紀」が明かす「覚鱉城」

一、             宝亀三年九月廿九日紀 七七二年

「従四位下大伴宿禰駿河麻呂為陸奥按察使仍勅今聞汝駿河麻呂宿禰辞年老身衰不仕奉然此国者元来択擇人以授其任汝駿河麻呂宿禰唯稱朕心是以任為按察使之即日授正四位下一」

従四位下大伴宿禰駿河麻呂を陸奥按察使と為す。(より)(みことのり)すらく。「今聞く。汝、駿河麻呂宿禰辞すらく、年老ひ身衰へて仕へ奉るに堪へず、と。然れども、此の国は元来(もとより)人を択擇(えらび)て以て其の任を授く。汝、駿河麻呂宿禰唯り、朕が心に(かな)へり。是を以て任じて按察使と()す。宜しく之を知るべし」と。即日(そのひ)、正四位下を授す。

 

二、宝亀四年七月廿一日紀 七七三年

「以正四位下大伴宿禰駿河麻呂陸奥国鎮守将軍按察使及守如故」

正四位下大伴宿禰駿河麻呂を以て、陸奥国鎮守将軍と為す。按察使及び(かみ)(もと)の如し

 

三、宝亀五年三月五日紀 七七四年

「従五位上上毛野朝臣稲人為陸奥介従五位下百済王武鏡為出羽守外従五位下下毛野朝臣根麻呂為介」

従五位上(かみつ)()(ぬの)朝臣稲人(いなひと)、陸奥介と為し、従五位下百済(こにきし)()(きょう)を出羽守と為し、外従五位下下毛野(しもつけぬの)朝臣根麻呂を介と為す

 

四、宝亀五年七月廿三日紀

「以河内守従五位上紀朝臣廣純兼鎮守副将軍陸奥国按察使兼鎮守将軍正四位下大伴宿禰駿河麻呂等曰将軍等前日奏征夷便宜以為一者不伐一者必當伐 朕為其勞民且事含弘一 今得将軍等奏蠢彼蝦狄不野心屡侵邊境敢拒王命一 事不已 一依來奏早發軍應時討滅

河内守・従五位上紀朝臣廣純を以て兼鎮守副将軍と為す。陸奥国按察使・兼鎮守将軍・正四位下大伴宿禰駿河麻呂らに勅して(のたま)はく、「将軍ら、前日(さきのひ)征夷の便宜(適当な処置)を奏するに以為(おもへ)らく、(ある)は伐つ可らず、一は必ず(まさ)に伐つべしと。朕、其の民を勞らんが為に、且つ(かつ)含弘(かむこう)(万物を覆う広大な徳=討たないこと)らを事とす。今将軍らの奏を得るに、(うごめ)ける彼の蝦狄、野心を(あらた)めず、(しばしば)邊境を侵して、敢へて王命を拒む。事已むことを()ず。(もは)ら來奏に依りて、宜しく(すみやか)に軍を發して、時に(あた)りて討滅すべし

 

五、宝亀五年七月廿五日紀

「陸奥国言海道蝦夷忽發徒衆橋塞道既絶往来桃生城其西郭鎮守之兵勢不支 国司量事興軍討之 但未其相戦而所殺傷

陸奥国言す。「海道の蝦夷(にはか)かに徒衆(づしゅ)(おこ)して、橋を焚き道を塞ぎて既に往来を絶つ。桃生城を侵して其の西郭を敗れり。鎮守之兵、勢支ふること能はず。国司事を量りて、軍を興し之を討つ。但し、未だ其の相戦ひて殺傷せらるる所を知らず」と

 

六、宝亀五年八月二日紀

「勅坂東八国曰。陸奥国如有急隨国大小発援兵二千已下五百已上旦行旦奏務赴機要

坂東の八国に(みことのり)して曰く。「陸奥国()し急を告ぐること有らば、国の大小に隨ひて援兵二千已下五百已上を差発(さほつ)し、旦つ行き旦つ奏し、務めて機要に赴け」と。

 

七、宝亀五年八月廿四日紀

「先是天皇依鎮守将軍等所一レ請令蝦賊一 是更言 臣等計賊所一レ為既是狗盗鼠窃雖時有侵掠而不大害今属茂草之臣恐後悔無及 天皇以其軽論軍興首尾異上レ計 下勅深譴責之

是より先に天皇、鎮守将軍らが請ふ所に依りて蝦賊を征せしむ。是に至りて更に言す。「臣ら賊の為せるを計るに、既に是れ()(とう)()(せつ)なり。時に侵掠(しんりゃく)すること有りと雖も、大害を致さず。今茂き草に()きて之を攻むる、臣、恐るらくは後悔(くやみ)及ぶこと無けむことを」と。天皇、其の(かるがる)しく(ぐん)(きょう)(あげつろ)ひ、首尾(はかりごと)を異にするを以て、勅を下して深く之を譴責(けんせき)したまふ

 

八、宝亀五年十月四日紀 七七四年

「陸奥国遠山村者地之険阻夷俘所慿歴代諸将未嘗進討而按察使大伴宿禰駿河麻呂等直進撃之覆其巣穴遂使窮寇奔亡降者相望是遣使宣慰賜以御服綵帛

陸奥国遠山村は、(ところ)(これ)険阻にして夷俘の(