学習講座
ホーム > 学習講座 > 遠山村 > 室根山伝説によせて

室根山伝説によせて

   室根山伝説によせて                    平成20年9月25日

(話題提供 菅原一郎氏 武者昭一氏) 

講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生

<この歳でもお役に立てるならと>

 皆さん、今日は(拍手)。ほんとうは私、公衆の面前に立つような歳ではないのでございます。でも今ご挨拶にもございましたように、これだけ立派な文化遺産、歴史というものを、私たち地元でもっておりながら、相手の人にそれがなるほど日本を代表するにふさわしい、日本の歴史であり文化であるというふうに言い切ることができるような学習が、果たして地元で出来ているのかということについて、私も同じ岩手県出身者として、たいへん残念に思っている者の一人なのでございます。

 それであっちに召される前に、私がこう思うということをできるだけ多くの方々にお話して、そしてそれが何らかのかたちで生かされて、具体的に言うならば、今回平泉の文化遺産などというのがユネスコの世界遺産に指定されるところまでいかなかった理由、これを相手がよく分かっていないからだというのでなしに、こちらの方が良く分かっていなくて、その大事なことを相手に伝えるだけの準備が出来ていないからではないかと、そういう反省を岩手県の人たちみんながもつようにして、その反省を踏まえて私は、次の機会には立派に世界の人たちに通用するような言葉と理解でもってお話ができるようなかたちになること、そういったものを、たとえばこの千厩の方々、奥玉の方々も一肌脱ぐようかたちで、もし世界の表舞台というところにアピールできるのであれば、これはたいへんすばらしいことだと、そういった機運を作るためにいくらかでもお役に立ちたいというふうに思い、このように老躯を引っ提げて皆さんの前に立っているのでございます。

 したがいまして、聞きづらいところ、みにくいところ、そういったところは勘弁していただき、そのうちの良いところだけを一つ生かして学び取っていくようにしていただきたいと、そういうふうに思っております。

 さて、ご紹介ございましたように、このたび、こちらの菅原一郎さん、こういった立派な本をお書きになったのですから、先生と申し上げておきます。菅原一郎先生によって立派なご本をお書きいただきまして、私もこちらの千葉正子さんにお願いをして、送っていただいたのでございます。読ませていただきました。そして「悠久のロマン」というふうに題しておられるのですけれども、私自身にも夢が広がって、大変感銘深い本でした。

 

 <伝承のロマンから歴史のロマンへ>

 さて私この本は「伝承のロマン」として、いつまでも伝えられてゆくものだと思います。しかし、伝承というのは歴史そのものではないんですね。こんなふうに地元の人たちみんなが思った感心したというようなかたちで伝えているそういうものである。今日ここにおられる皆さんは伝承のロマンでほぼ満足して居られると思いますけれども、しかしこのままのかたちでは、特に若い方々、よその方々に対して通用するというふうにはいかないかもしれません。私はそういうことからこの伝承のロマンということに対して勝るとも劣らないかたちでちゃんとした歴史のロマンというものがあると思うんです。学者であるとか専門の方々は、その歴史とか文化というものをわざと難しく固い言葉や理解でもってお話するために、ちっともうれしくないですね。ちっとも聞く人うれしくない。そういうことで私はそうではないんだと、伝承とはちがうかたちで歴史というものはそれに劣らないロマンというものがあるんです。ある意味においては小説よりもロマン、ロマンよりも、よりロマンチックだということちゃんと諺(ことわざ)にもありますよね。私はこれからは歴史というのは学者のあの固い言葉というものを全部やめて、こちらの新渡戸稲造先生のおっしゃっているように、センモンセンスというのは駄目なんですね。専門家だけに通用するような言葉と理解でではなくて、みんなが分かり、みんなが喜ぶようなかたちで、その歴史の真理というものを伝えていく、そしてそういった勉強をしていく、こういったようなことがもった大切で、新渡戸稲造はそういったことをコンモンセンスと言っているのでございます。コンモンセンスは英語ではコモンセンス、常識というふうに訳されるのですが、わざとコンモンという言い方をして、専門とは違うみんなの学問なんだとそういう言い方、もしこれをきっちりした英語に、コモンセンスと、そういうふうに置き換えていきますと、これは常識である前に普遍の真理という意味なんですよ、コモンセンスというのは。私はそのコンモンセンスを、普遍の真理、コモンセンスにまで高めていくような学習を、わたしたちみんな、ここにおられる皆さん方が、自分達の学習で楽しみながら、普遍に、世界の人にも通用するようなものとして理解していく、そういうふうにしてほしいというふうに思い、私自身もそういう勉強をはじめているのでございます。

 そういうつもりで室根山の話も、本日受けとめていくようにしたい、そういうふうに思っています。それでそれを歌になるかどうかわかりませんが、三十一文字(みそひともじ)の短歌のかたちにしてみました。

「伝承のロマンに劣らぬ 史のロマン、吟遊詩人となりて語らん」 みなさん筆控えましたネ。「吟遊詩人」、これは学者のことばです。ヨーロッパの中世では民間を歩き回って民間の求めに応じて歌、詩というものを、みんなの歌や詩として語り歩いた詩人のこと、それを吟遊詩人、「トルバトール」とフランス語でいって、フランスでこういったようなものを一つの詩の形式にまで発展して、中世のみんなの詩というのは、吟遊詩人によって語られ、うたわれることによって、詩がみんなのものになっていくと、そういうことです。

 私が専門の詩人とか歌人とか、そういうものではありません。また私はそういうものになろうとも、なりたいとも思わないのでございます。そういう意味で、とても昔の吟遊詩人というふうにはなれませんけれども、その心は民間の歌人、詩人という意味で、新しい二十一世紀の吟遊詩人というふうにして、「吟遊詩人となりて語らん」。

 そうしますと、菅原先生が伝えたようなかたちの「室根山」、こういう神さま仏さまの伝承、これも大事です。しかしそれに勝るとも劣らないかたちでちゃんとした事実に立った歴史というものがあります。それを固い言葉やむずかしい、おもしろくない話としないで、みんなが喜んで、あーそうかと、それならこれまで伝えた話はそれはそれとして良いけれども、こういうかたちで語り伝えていくようしたならば、他所の人にも分かってもらえる、世界の人にも分かってもらえる、そういうことにしていきたいものだと、そういうつもりでこれからのお話をさせていただくと、こういうのでございます。そしてわざとこういう言い方をしたのは、こういう学習会というのは決して田舎の二流、三流の勉強ではないということを皆さん方に自信を持っていただきたいと、そう思って、実は文学や文化の歴史で立派に本に書かれている「吟遊詩人」というようなかたちでもってこれを語り伝えていくと、こういうふうにしたのでございます。

 何となく、こういう一般の人への話というのは格を下げて、レベルを下ろして話をして、それで喜んでもらう、水戸黄門のようにしないと分かってもらえない、喜んでもらえないと、こういう考えがあるのでございます。そうではないのです。かえって歴史の本当のことがよく分かってくると、それは小説だの作り話などよりもずっとおもしろいのだと、こういうことを皆さん方が、この機会に自信をもっていただきたいのでございます。

 

<「遠山」と「東山」>

 その具体的な証拠にこういう話を私はここでなく、別の市民会議の機会では何回も話しております。それは皆さん方も聞いたことがあると思いますが、遠山村というものの新しい勉強を私はぜひともこの千厩、この奥玉の方々にもこの際、記憶を新たにし考え直してほしい、いいですね。「遠い山」です、「遠山」です。私はひょっとしてですよ、「ひょっとして」というよりかなり本気になって、皆さん方この地域、「東山(ひがしやま)」といいますよね。ですがこれをひょっとしてこれを東山(とおやま)といったかもしれませんよ、これはつまり重箱読みですけれども。そうしてその(とおやま)はこの「遠い山」からきているかもしれない。なぜならばここは、その「遠山」の故郷だから。ただそれと混同しないようなかたちで(ひがしやま)というふうによんだのかも知れない。私はむしろそれが本当でないかとさえ思っているからなんですね。そうであれば皆さん方にとって「遠山」ということは、いってみれば故郷の本来の姿を考える話になってくる。こういうこと高橋さんという人は言ってたと、こういうこと記憶に留めてください。

 

<「続日本紀」に「遠山村」が何回も>

 さて、この話はちゃんと日本の歴史の正式の本格的に政府で編纂した歴史書の中に出てくるんです。これも良かったら記憶にとどめてください。日本書記に続く歴史書との「続日本紀(しょくにほんぎ)」です。この正式にお上でもって編纂した書物の中に何回も何回も繰り返して出てくる個所があるのでございます。それが奈良時代の終りころですから、先ほどお話にありましたね。桓武天皇の延暦だの田村麻呂だの、それよりも二十年から三十年かた古い時代の、奈良時代の終りになる時期、宝の亀、「宝亀」という年号がありまして、そこのところの五年から十一年にかけて出てくる歴史記録の東北に関する記録の殆どすべてが、この遠山村に関係した話なんでございます。ただいちいち繰り返して「遠山村」「遠山村」と言ってはいませんよ。だけれども、そういうつながりがあるものだから言わないだけであって、読んでみると全部これは遠山関係の記録だということがはっきり分かるようになっておりまして、そういう話がなんと丁寧に拾って見ますと、三十箇所くらい出てくるのでございます。

 

<その「遠山」は「登米(とよま)」でない>

 ところがいいですか、みなさん方はそういう日本の正式の歴史記録の第二番目になるこの「続日本紀」の中に、地元の「遠山、東山村」の話が、こんなに本格的にお上の重要問題事件として取り上げられているということを、殆どの岩手県の人たちは理解していないのですね。理解しようとしないのです。そして学者自身がそうなのでございます。そしてそのために「遠山村」などというものの解説を、古く仙台の大槻文彦さんたちが、りっぱな「大言海」などという辞書を書いた方としては最高の学者ですけれども、こういう方々がどうも「遠山というのは宮城県の最北端で、ちょうどこちらの磐井郡のすぐ南隣になる「登米郡」というところ、この「登米」(とめ)」という言葉は、(とよま)とも読むから、どうもこの(とよま)ということばをなまって遠山といったものだろう」と、こんなような説を古く明治のころに出して、それが今まで生きておって、そういうことであれば岩手県に関係ないんだということになっちゃって、こちらの方で真面目にこの話を取り上げている人というのは、どなたもいらっしゃらないのでございます。おそらく私がはじめであり終りですから、「終り初物」になるかもしれない。

 それならば、どんなに大事に書かれて、これは宮城県の登米あたりの話でなくて、実は岩手県南、それも東磐井の地から、気仙郡にかけての地区の話。ただ、そこがまだ政府の支配下に収まっていないで、「蝦夷」といわれた地元民たちの独立した国になっていたため、そこで正式に国家の方でここはこうだというふうになっていないことですけれども、この場所はこういうふうに書かれているのです。この歴史書で。

 

<大伴駿河麻呂が征討した遠山村、その位置>

 「蝦夷」という、東北の地元の独立の抵抗民族たちは、ここの「遠山村」というところを最大の拠点にして政府軍に立ち向かっている。政府軍はこれを何とかして収めめとろうというふうに努力したけれども、これまでの将軍たち、大将たち、政治家たちの中で、この大事業に成功した人は誰もいない。ただ「大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)」、この人は、大伴家持の親類関係にあたり、当時は家持よりも一枚上の地位にあった貴族でして、東北総督に任命されております。この大伴駿河麻呂という人が軍隊を引き連れて、そして一挙にこれに攻め込んで、これまでどの将軍も政治家も成し遂げることが出来なかった「遠山村」の征服というものを成し遂げた。これは最高の手柄だと天子様に激賞され、内閣から表彰されたんですよ。

 ところでその場所ですけれども、蝦夷がおって何年たっても攻め取ることのできない山国だとありますから、まず登米郡のように湿地帯が中心であるような地域では、始めから不合格です。そしてしかもちょうどここから北が政府の支配の外にある、ちょうどフロンティア、境界線になってくる。辺境になってくる。ということになると、だいたい岩手県南で登米郡の奥の方ですから東磐井郡になるということ自然に分かってくる。しかもその位置は政府側の行政区画では、東海道と東山道の奥地であると、こう書かれているんです。そしてこういうことについても、ちっとも学者の研究は進んでいない。

 

<東磐井・気仙両郡の山寄りが「遠山村」、そして「覚鱉城」も>

 当時、「東海道」というのは常陸の茨城県までですけども、その延長として福島県の海岸地域、宮城県の石巻とか、こういったようなあたりまでは「東海道」といわれるところの延長だというふうには考えられて、これはちゃんとはっきりしている。しかし、その北限も、今日の言葉でいうならば、宮城県の桃生郡あたりが限界でございます。そしてそこから北の「本吉」とか「気仙」という方は、この東海道の奥地として、蝦夷が現地で独立して抵抗しているところだと、そう考えられているのでございます。それから「東山道」というのは、山寄りの地域ですけれども、これは多賀城を越えて今日の宮城県の桃生郡の北上川領域までは来ているんですけれども、ここが限界でございます。ここに「桃生城」というお城を築いて、そしてそれから北の征服に入ろうとしておったのですけれども、それはなかなか進みかねて、これだけのことが分かってきましたら、東海道・東山道の奥で、そしてどんなにこれを攻め滅ぼそうとしてもなかなか攻め勝つことができない地域というのは、もう絞られてくるんです。

 つまり、東磐井郡と気仙郡と、この地域の山寄りの地域に拠って政府側に抵抗してトきりしてくる。その証拠には、遠山村の征服が終わって、この経営が成り立ってここに基地を置いた政府軍が、これを拠りどころにして胆沢の蝦夷をも征服にかかったと、こう書かれている。即ち胆沢地区の蝦夷を征定するための南の基地として、新たに整備されたところが遠山の地であると、こういうことが分かってきましたら、もう一層場所が限定されてきます。一層場所が限定されてくる。すなわち胆沢の南ということになったら、もう磐井郡しかないわけです。そういうことが分かってきて、そしてですよ、その次に大事なこと、この遠山村経営が終わった政府軍はすぐに、この征服が終わった二年後に、三千の軍隊を挙げて胆沢の賊を討つとこう書いてある。そうすると胆沢征討というものの基地として整備されたのが、かえってこれまで蝦夷の地域だった遠山村、新しく整備しなおされた東山・遠山の地区であるということが、こういうことで明確になって、その海岸寄りの地域まで含めて広い意味で「遠山村」と言っていたと、こういうことが分かってくる。更にその胆沢の賊が、抵抗きわめて強かったために、その直後にさらに二軍の軍隊を編成して、東山道・東海道の奥の蝦夷を一気に征服するという大軍事行動が計画された。これもちゃんと記録に書かれているんですよ。

そして、そこではかえって、胆沢だの何かと出さないで、そのために秋田や山形の方にも応援を頼んで、そして北は岩手の紫波方面から、西は山形・秋田の方面から、四方を囲んで一挙にこの蝦夷を征討するという大計画を立てて、そしてそれもなかなか成功しなかったために、これは本格的にこの地区に城を整備してかからないとうまくいかないと、そういうことが政府側で分かって「覚鱉城」という城を築いて、この城を基地として、北上川をがっちり押えて、その北に攻め込むための作戦計画を新たに練り直すことにしようと、こういうところまで詳細に政府側の記録が書いているのです。そしてこうも書かれている。これはこの前の市民会議の席上で私申し上げたのですが、この城がきっちり出来上がって政府側の基地が整備されるならば、東北の経営というのがこれで万万歳だ。陸奥の国、出羽の国にとって、これ以上めでたいことはないと、こういうかたちで政府の布告が為されている。だからこの城をちゃんと整備してこれによって胆沢経営というものを達成するようにと、こう書かれている。

 

<覚鱉城があれば胆沢城は必要なかった>

 良いですか。現在の歴史では、胆沢経営というのは坂上田村麻呂が出てこないと駄目だとこういうことになっている。その基地になったのは胆沢城だと、こういうことになっている。そして百パーセントこれは定説みたいになっている。みなさんもそうでしょう。だからなんでもかんでも胆沢経営の英雄は田村麻呂に始まり、田村麻呂に終わると、こういう考え方。何と政府側のきっちりした歴史記録に拠るかぎり、その始まりは胆沢の南の遠山村の基地整備にあると。ここのところの「覚鱉城」というのがちゃんと整備され、機能するようになれば、これで東北は一挙に政府側の支配下に入る。こういう考え方ですよ。奈良時代の終りの宝亀十一年というところの政府の記録にはそう書かれてあるのです。

 もしこれがこのとおりにいったならば、「胆沢城」などというのは必要なくなってくる。なぜならば、政府側でこの城が完全に機能するようになれば、もう東北はこれで万万歳だとこう書かれているからです。そこで、なんだ高橋先生、ここのところでいいかげんに大ホラを吹いているんでないかと、そう思うでしょう。そこで誤解のないような学習を皆さん方がそう思うならば、これはやっぱりこの政府記録というものをちゃんと読めるような勉強会をして、高橋先生、嘘を言ったのではないんだとこういう考え方になっていただくということ、これがこの勉強会の趣旨なのです。よろしいですね。

 

<伊治公砦痲呂の叛乱が覚鱉城築城をご破算に>

 そこでです。もし、そんなようなことがいえるならば胆沢経営などというのは、すべて田村麻呂にはじまり田村麻呂に終わって、そうして、そこのところでそれ以外のところはただ単に引き立て役のようにしか語られていないような歴史の中で、少なくとも遠山村経営、東磐井・気仙経営というものの基地になることなしに、胆沢の戦争というものはあり得なかったのだという、こういうことがはっきりしてくる。ただし、ではなぜその通り進んでこなかったのかというと、その間に大変な出来事が起ったのです。宮城県の栗原郡の「伊治城」というところにおって蝦夷の大将であって、郡司を務めておった「伊治公砦痲呂」という人の叛乱があって、総大将の紀広純という人も暗殺されて、なんと多賀城まで陥落するというふうな一大叛乱になってしまったために、それに引きずられてしまって、覚鱉城のその後の歴史がどうなったか、ここで築城もご破算になったんだと思います。したがってこの城を基地とした胆沢城経営ということもご破算になってしまって、新しく田村麻呂の登場、胆沢城の登場ということになってきたと、こういうことだろうと思います。

 

<日本歴史を書き換える郷土史のスタート>

 そしてこういうような話を、もし皆さんが事実として、歴史として知ることができる、学ぶことができるとなったら、これは水戸黄門の一人二人の人をやつけるようなかたちのあの痛快物語よりは、はるかに日本の歴史そのものを書き換えてさえいくことのできる可能性を歴史事実だと、まさにロマン以上のロマンになってくる。そう思いませんか。こういうようなものちゃんとあるにも関わらず、学者などという人たちは殆どこれを真面目に取り上げてさえもいないのです。そして学者がそうですから、一般の方はそんなようなことがあるなどということは夢にも思っていない。私はそういうようなことを考えてみてさて、さて、私たちの勉強がほんとうにロマンというものを求めるならば、ほんとうに「驚天動地」になるようなロマンにまで高めていくような勉強というものをしていくことによって、あ!これでは歴史の勉強などというのは大学に任せておくべきことでないんだ。現に私たちの郷土史のスタートになることなんです。そういうような提案を私はさせていただきたいと思って、それを吟遊詩人として、村人たちの心を詩にするような歴史と、そういうものとして遠山村のことなども考えていき、そういうふうにしたというふうに考えるのでございます。そうするとこれは学者の研究にお任せしては駄目です。何故かというと、学者の人たちの研究というのは、そういったような皆がわくわくするようなかたちでとりあげていくのでなしに、逆に文化勲章だとかノーベル賞を貰ったような人だけが喜ぶような、そういう言葉と文章でもって表現する、語っていく、そういうふうにするのが学問だというふうになっているからです。

 私は今度新しい内閣が出来て、もし学校の勉強の改革などというものがなされるようになるのだったら、こういうみんなが分かり、みんなが喜び、なお且つそれが本当の事実、真理というものに立った喜びだという、そういうことを小さな子どものときから教えていくような勉強をしていく、そういう先生方が小学校の先生になり、中学校の先生になり、高等学校の先生になるような、そういう教員養成というものが大学で為されないかぎり、こういう学問というのは遂に息を吹き返してくることは出来ないだろうというふうに私は残念に思って、それが私がこの歳をして、かえって大学の学生諸君ではなくて、皆さん方のような地域の生活を真面目に平凡に生きている人たちの前で、こういう話をさせていただくというのは、こういうところから新しい学問というものが育つようになってはじめて日本の学校は良くなっていくのでございます。私はそんなふうに思ってこういう話をこの場で取り上げることによって、その一環として室根などというような神様の話を、ここのところでこの埋もれてしまったところのみんなのコンモンの歴史をコモンにして、すなわち、みんなが伝承的に誰でもおもしろおかしく考えているようなお話を、世界の人たちが共通に関心を持つべきコモンセンス、普遍の真理に高めていくような勉強会にしていくようにする、そういうつもりでこのお話をとりあげようとしたのです。

 

<「千厩」が源義家にちなむ地名とはあり得ないこと>

 そのために先ず皆さん方に一つお聞きしておきたいと思います。いったい千厩というのはどういう意味であるか、私はいろんな辞典、辞書だとか読んでみました。そうすると今もって、これは八幡太郎義家が東北の征討に来たときに一千の軍馬をここに整えたその土地だと云うので、千厩というのだという、こういう江戸時代の中頃に出来た説が、今以てそのまま生かされているのだ。それ以外の説はどこにも出てこない。但し、こういうふうに紹介する人はホントかウソか分からないよと言い方なんです。しかしそれならどう考えるかという説は何にも出てきませんから、依然としてこれはそのまま否定されないで生きつづけていると思わないといけない。みなさんも半信半疑でしょうが、さてそれなら何だというところまでいきとめておりますね。それが新しい説がどこからも出てこない。いったいこんなような説をこのままに何となく足のある幽霊のように生かさせておくということは、全く勉強していない証拠です。学問というものが全くない証拠です。これは私こちらの方々に、そういうふうにかなり厳しくご忠告申し上げておきます。

 何故か。いったい八幡太郎義家がこの辺に軍隊、一千もの軍団を引き連れてきた戦争というのは、「前九年の役」しかありません。お分かりですね。ところが「前九年の役」というのは、大将の源頼義、義家のお父さんだった人、僅か一千とか、二千足らずの軍隊で、しかもその軍隊は、安倍軍の軍隊、八千とも四千ともいわれる、そういう大軍に阻まれて、全く動きがとれないような敗戦に敗戦、連続して完全なる負け戦に終わったのでございます。もう現地側の記録によりますと、大将の頼義が戦死したのではないかというような完全な負け戦です。そのような源氏の大将の一人として来ている八幡太郎義家が、一千の軍隊を引き連れて千厩、はっきりと安倍の、ここの地域は金為行という人の支配下にあるわけですが、そこの領内に堂々と引き連れて閲兵する、調練するなどというようなことあり得ますか。まるでガタルカナルの戦争でもって大将がアメリカを威圧するような訓練するというようなことと同じことです。あり得ないことです。そしてそういう話を、まあ江戸時代の人たちは江戸時代だからそれでいいでしょう。今もって理屈っぽく考える学者とか郷土史家方たちが今以て足のある幽霊のように生かしているということになると、何の勉強しているのか私は不思議に思うんですが、みなさんもそう思いませんか。そう思ってみなさんは「陸奥話記」などというところの「黄海の戦い」、「河崎柵の戦い」というものが、どんな源氏の連戦連敗の、敗北を重ねた一戦だったかということを考えてみてください。そうであればいったい、その八幡太郎義家の軍馬調練、閲兵などというものに結びつけての千厩などということは、小学生といえどもこの事実を知ったらそれはノーになります。ありえないことです。

 ところが大人の学問としてこのまま生きているのです。そしてなぜそうかというと、何となくおかしいけれども、それならそれに代わるものが何だということが分からないために、これはそのまま生かされているということになってくる。

 

<「千厩」より「勢間屋」の方「仙麻屋」が>

 「千厩」は別な言葉では「勢間屋」ともいわれている。これ皆さんご承知ですか。他所の人でも分かってますから、皆さん方はなお分からなければだめですよ。「勢間屋」は、勢いの間の屋根と書いて「勢間屋」、これは葛西時代には「勢間屋」と書かれたと、そうなっているのでございます。「千厩」がもし、千疋の馬を調練したと、こういうことであるならば、いったいそれなら「勢間屋」はどうなるだろうと。これについては全然これ通用しませんね。千厩は「勢間屋」に。そうすると勢間屋に通用しないような千厩ではこれ学問にならない。なぜならば同じ言葉を言い換えたに過ぎないからです。わたしはここにおられる菅原先生やなんかは、どんなふうにお考えかわかりませんけれども、私は「千厩」というのも「勢間屋」というのも、これみんな「当て字」なんです。

 そして元の日本語は何だったろうというふうに、その言葉の心を考えてみる。これどこからくると、これ「吟遊詩人」でございます。どうも「学者」というわけにいかないから。しかし私これは、この「千厩」・「勢間屋」は、「気仙」、上の「気」、「計仙麻」、これは室根神社は気仙神社の意味で「計仙麻神社」というふうに呼ばれた。「計仙麻大島」とか「計仙麻社」というふうに言われるのですが、その上の「計」を抜いた形の、従って「計仙麻屋」の意味の長すぎるために上の「計」を抜いて「仙麻屋」になった。従ってどちらかというと「千厩」と書くよりは、「勢間屋」と書いた方が原語「仙麻屋」に近いと、こういうふうに私は思います。

 そしてその心です。これは「計仙麻社」という意味の「計」が略されたかたちですから、したがってこれは室根山「計仙麻奥宮の神社」を、遥拝するところの里宮の土地という意味。こうなりますと菅原先生、だいたい今日ご案内いただいた、あれと関係してまいりますね。広い意味の計仙麻屋、勢間屋は、すなわち室根山を「神体山」として、山自身が神さまですからね、それを里宮として遥拝するところの「里宮遥拝所」の意味の言い方と考えることができるのではないか。いや、むしろ考えるべきでないか。それが私の吟遊詩人としての解釈です。したがってこれは学者としての解釈よりは、どちらかというと詩的な解釈の仕方、ロマン、したがってこれは歴史のロマンとしてはこれは十分に成り立つ論で、学説としても一説としてこれからは、高橋さんは、勢間屋は計仙麻屋の略だと。そしてそれは室根計仙神社の里宮遥拝所という意味、「屋」というのは神社の意味ですね。

 

<「奥玉」は「奥魂」、「室根御魂神社を祀る土地」>

 さて、そういうふうになって、それならばこの「奥玉」でございます。きょうのお話で、わざと私は菅原先生には質問いたしませんでした。「奥玉というのはいったいどういう意味なんだ」と。こういうことがお話に出てくるかと思いましたが、残念ながら聞くことができませんでした。そしてどういうお考えになっていらっしゃるか、私はもはや、この席ではお伺いしないことにします。なぜかというとそうなりますと論戦になるかもしれないから。吟遊詩人として、ひとつの民間詩人としてのロマンとして申し上げておきます。

「奥玉」。これは伝説によりますと、ここから玉かなんか宝石みたいなのが見つかったから玉になったんだとかいうことがあるそうでございます。これ辞典にそうあります。私はこれ「奥玉」の「玉」は「玉手箱」の「玉」ではなくて、魂の「魂」だろうと、従って霊になる。すなわち「奥魂」、「奥御霊」の意味になる。これ私の考えです。そしてそれをただ美しい言葉にして「奥玉」になったのだと。そうするとこれはいったい、室根山は「神体山」といいまして、ちょうど奈良県桜井市の「三輪山」のように、山自身がこれ神さまですから特別に神社は設けない。そしてみるとそれを里に下ろしてきた神さまの形代(かたしろ)としてのみ魂を祀ったところ、これも今日見学してつくづく思ったことですが、あのいちばん奥の祠(ほこら)が「山神社」というふうに彫られておって、この「山神社」というのは「室根山神社」の意味というふうに考えるべきとして、おそらく間違いなかろう。そうするとあの神社は、本来は「奥玉御魂社(おやしろ)」という意味の、あの石に刻まれた「山神社」そのものが、すなわちあそこの祠(ほこら)の本来のかたちになってくるだろうというのが、これ私の解釈です。そしてこういったようなことが「神祇信仰」としては極めて自然なことであり、そしてそれが地名として「奥玉」になってくるとすると、すなわちあの「山神社」、「室根御魂神社を祀る土地」という意味での「奥玉」ということだとすると、これすべて文句なくうまくいきますね。あまりにもうまくいきすぎるためにかえってどうかなあというふうに思われるかもしれない。しかし私はこの「地元学習」としては、この方がすきっとしてくる。如何でしょうか、これを地元学習としてこれをひとつ「新説」として取り入れてほしいというのが、私の老いの願いでございます。いずれにしてもこれは一つの説としては、学説としても成り立つのです。

 そうしてみるとここのところでは、一貫して室根信仰というものの一連のシリーズとして、この千厩地区のいってみれば信仰というものが育てられてきたところ。まず一番奥に山それ自身が神さまであるところの室根山、それをそのまままっすぐ里に下ろして山にお参りしなくてもここで拝めば室根お参りになるのだという、それが奥玉社「山神社」になってくる。これは今日でこそ我々、車でスイスイ行きましたね。これがスイスイ道路になったのは、ここ二、三十年のことでしょう。皆さんが子どもの頃、まして江戸時代、室町時代、或いは鎌倉時代、平安と、こうなったら、この地区が鬱蒼たる大密林になっていて、ちょうどあの奥でみた大森林を伐採したという話がありましたね。ああいう大森林の密林が山をなしていた地域だろうと思います。だからあの地域が「奥宮」、すなわち「奥御魂社」になるのであって、そこまでいくのも大変だ。そのために完全なる全くの「里宮」として整備されていったもの、それが千厩、計仙麻御山、計仙麻社だったと、こう考えてみると「計仙麻社」が里宮の遥拝所、奥玉がその「奥御魂」、形代として室根山の神をお祀りしたところの山、そしてその本当の奥宮としての「神体山」、それが室根のお山になってくる。一貫してこう連なっている

 

<「天子南面」が常識なのに西面の室根山>

 さて、そしてこの連なりがみなさん先ほどご紹介あったように、平泉藤原時代においては東西南北、四つの門が、入口がある中で、この西門「奥玉門」というのが表門として考えられていたというふうになれば、これが室根信仰の正面玄関ということになってきて、本道はこちらだということになってくる。これは千厩、奥玉の方々にとってはあたりまえになりますね。しかし常識的に考えてみると、これは異例ですよ。何故かというと、いったい政府側でもって神社信仰というようなものはすべて、これは天子が祀るものとして、「天子南面」ということばがあって、正式の神社の正面というのは、まず南というのが常識になっていて、「君子南面」と言い、神さまも全部そういうかたちで本来的に「官社」として整備されるものは、特別な理由がないかぎり南面が正面になる。あのように室根山の四方何処から見ても霊峰そのものに見えるところにおいて、なぜ南が正面にならないのか、そして西が正面かと。こういったようなことについてもこれは信仰、学問というのは真面目に考えていかなければいけませんよ。ところがそういったことについても、ちっとも本格的な勉強、考え方がなされていなくて当たり前のことだという、平泉がそう指定したからだという。ならばなぜ平泉がそれをそう指定したかと、そこまでいかなければなりません。私はこれには十分なる理由があると思う。そしてこれは正面でなければいけない。奥玉、千厩と結ぶラインルートが、すなわち室根信仰の正面ルートになってくるという理由があるとか、それが何であるかと、簡単でございます。千厩川流域にこれがすべてまっすぐ連なっているということと。それならなぜ千厩に連なることが正面になるのかと、そこに問題があります。千厩川はご承知のとおり薄衣、川崎まで下っていって、ここで北上川に落ち合いますね。北上川というのはご承知のとおり、少なくとも宮城県北から岩手県にかけて、これは南北の大ルートでございます。すなわちすべての都、間道として通じるところの水のルートになってくる。ところがそうであればこの水のルートは北上川に落ちることによって太平洋に注ぐのですが、皆さんはすぐに北上川が太平洋に注ぐとなると石巻と、こういうふうに考える。石巻は、これ江戸時代になって有名な伊達政宗の家臣だった川村孫兵衛という人の開鑿によって、水路がこういうふうに付け替えられた。それまではどうなっていたかというと、宮城県北でもって「追波川」「追波湾」といわれているこの川を下って海に落ちる。それがちょうど桃生城の建てられている位置が、これまで南北に流れていた川が一気に90度曲って東に向かい太平洋に注ぐようになって、それを追波湾というのでございます。その曲がるところに桃生城が建っている。これも重要な意味を持っているんですね。この桃生城というのが、覚鱉城の元のかたちになるものだったろうとは、私の考えなんですね。しかし、今日は皆さんにはあまり関係ない事柄なので省きます。

 さて、そういうことですが、これははっきりと太平洋を渡って、北上川に入って、そして北上川を溯って室根山に向かうところの、これがルートになってくるということが分かってくる。砂鉄川は室根とずっと離れておりますから、これは気仙のルートにはなるけれども、室根のルートにはならない。室根のルートになる川というのは千厩川しかない。さて、そういうふうに室根信仰を川で辿っていくならば確かに千厩川を溯るかたちが、室根信仰の正面になるということはいえますけれども、しかし、なぜそれなら千厩川という川を溯るかたちのルートというのが、室根信仰の基本の線になってくるかということ、この説明はこれだけではつかない。何故なら何も川だけ、水だけでなく、もっともっと陸の街道で来る。四方から室根には入れるようになっているわけですから。ある意味においては、かえって東から、気仙沼の方から大川沿いに遡る方が、かえって良いのではないかと、そう考えることもありうるのです。

 

<なぜ熊野水軍村上氏が室根山宮司になったのか>

 そうなってきて、今日のお話では残念ながら出てきませんが、この「悠久の文化の室根山伝説」の中には、大きく取り上げられているテーマの一つに「村上水軍」の大将である村上氏というのが、紀州熊野信仰というものをこちらに勧請して、それが熊野信仰の発端になるということ、はっきり書かれている。しかもご承知のとおりにこういうかたちで熊野信仰というもののこちらへの勧請なさった村上氏というのは、これはある時期というより、長いこと室根山の神事を司る宮司家を代々世襲した家柄だということ、これもはっきりしているのでございます。村上家だけではなかったかもしれません。しかし村上家が、その室根神事を司る最高の宮司家の中心になっておった家柄だということは、これ一点の疑いもないことで、そのご子孫の方々もちゃんと最近までここにおった、あそこにおったとまで、ある方に調べていただいて確かめているのでございます。

 さて、その村上水軍の大将が、何故にわざわざこちらまで迎えとられて、ここまで宮司のような役目を勤めるようになるか、これも不思議ですよね。皆さんこれ不思議に思いませんか。なにも不思議でなく村上氏が熊野山をこちらまで勧請したことになっておって、私これたいへん不思議なのです。軍隊として水軍としてならともかく、宮司としてということはこれは異例になってくる。全く異例になってくる。しかし、ここでもこれを異例としない理由がいろいろあるのです。そして、歴史家、専門家というのは、こういうところで働いていただく必要があるのに、ちっともそういう方面では働かないですね。私、なんだかたいへん不思議に思って、私も学者のひとりだと思われているから、自己反省として申し上げるのです。これでは学問になりません。

 その理由二つあります。一つは、村上水軍というのは、いつごろから始まったかというとだいたい平安朝末期からです。そして九郎判官義経が、平家を西海に討つときの重要な海軍、水軍としての働きをなして、義経に全面的な勝利をもたらした大功労者の一人が村上水軍だった。村上水軍が平家に反旗を翻して、義経に味方することによって、あの水軍を海上作戦というものを主とした平家というものを、遂に陸上戦で優れておった義経が、平家に壇ノ浦に勝利することのできる最大の要因の一つが、この水軍を味方にしたというところあったのです。こういうこともロマンになりますよねえ。こういう話だったら水戸黄門などを楽しむと同じくらいの気持ちで、こういう勉強してほしいのですが、そういう勉強ちっともなさらない。私、そういうふうに楽しみながら歴史を勉強しているんです。

 

<村上水軍と義経 秀衡の遺言 室根山との関係>

 さて、そういうことであれば思い当たることありませんか。平泉三代秀衡は亡くなるときこういう遺言をして亡くなったと。これちゃんと記録に残っている。私が自分が亡くなったら鎌倉の頼朝は必ず軍勢を挙げて平泉を攻め滅ぼしにかかるだろうと。それに先んじて平泉ではこれに対策を講じて、先手をうって鎌倉に勝利すべきだ。その手は源九郎義経を総大将とし、そして国衡、泰衡という秀衡の息子たちは、全部これの家来となって義経を補佐して、そうして頼朝、鎌倉を攻め滅ぼす策を立てるようにしろと。それが最大の親孝行である。そういう遺言をして亡くなったと、こう書かれている。これははっきりと「玉葉」などという公卿さんの日記にもちゃんと記録されている。

 そういうふうに考えるならば、秀衡という方は亡くなる直前から源氏に対する作戦を着々と立てておったという考えかたをし、そのための陸上戦はさることながら、水上の大将格、指揮官格として、壇ノ浦、平家戦争とのかかわりにおける村上氏を、礼を尽してこちらの大将に、海軍の指揮官に招いたということ、これも十分あり得ること、少なくとも「私の吟遊詩人」はそう考えるのですが、皆さんは賛成していただけないかしら。歴史はそういうロマンを語っているんです。したがって私は何回も申し上げていることですけれども、熊野水軍の村上氏がこちらに来られたというのは、伝承ロマンとしては大野東人の時代になっています。奈良時代でございます。ちょっとこれ早すぎますね(笑い)。これ菅原先生、すこしランクを下げていただいて、しかも奈良時代はもちろん平安の田村麻呂でさえも早すぎます(笑い)。その頃は村上水軍などというのはまだ出来ていなかったというふうに考えるべきです。したがってこれほどはっきりとした方を、こちらの祭祀の欠くことのできない宮司格として迎える村上氏というのは、平安末期を溯ることは出来ません。したがってこの伝説を、大野東人とか田村麻呂まで結びつけるということは、これは悠久のロマンとしては結構ですよ(笑い)、でも歴史のロマンとしてこれから先はこれと切り離して考えて行かないと、村上氏の出る余地がなくなってくる。

 さて、そういうことになってまいりますと、いったいそれならば、その村上水軍というのと、それから千厩川北上水軍というのはどうかかわってくるのか。まあ簡単に考えて平泉時代において北上川というのは、大きな水上作戦におけるルートになるわけですから、水軍の大将である村上氏がこういったあたりの支配者になっていくということは問題ないのですが、それが千厩に結びつくというところまではこなくて、北上川止まりになってくる。ここにはちゃんとした理由が、更にその先にあるのです。

 

<北上川と村上水軍>

 先ほど申し上げた「続日本紀」の遠山村の記事の中では、大伴駿河麻呂というのが遠山村を征討して、さてそのあとの安定を期するために政府では、安房国、上総国、下総国、常陸国、この四つの関東の国に命令を下して、五十隻の船を作らせて、これを陸奥の国に移して、そしていざというときの水上作戦に備えさせたと、こういう記録があるのです。これも皆さん方の勉強会でぜひ注目してほしいのです。

 遠山村の安定の為に派遣された五十隻の船、いったいどこに置かれたかということ。これは海上で考えると「追波湾」というのを第一候補に考えるべきです。それから陸に入ったならば「桃生城」というものを第二に考える。なぜならば、桃生城というのは北上川が大きく追波川に折れ曲がっていく、その屈曲する場所に置かれた最大の基地であるので、したがって桃生城指揮下の水上作戦に応えるための艦船として、この五十隻の軍船というのが整備されたと、こう考えて、これはいつまで残ったか分かりませんよ。しかし、こういうかたちの伝統が桃生城、それを受ける北上川の水上交通を確実に抑えるための政治措置として、続けられていったということは、これ十分考えられる。桃生城というのは、そういうときにおける遠山作戦の最前線、最南端の基地になってくるのでございます。

 これだけのことが分かって、遠山村経営安定のために必要な海軍、水上村上軍というのが、北上川というものを実をいうと、基地として残されておったその伝統を受けたものだというふうに考えてきますと、北上川と村上水軍を結びつけるということ、これは百パーセント妥当ですね。

 それが室根に結びついてくる。どういうことだ。千厩川に結びついてくる。どういうわけか。ここまでくるともう終わりですね。室根山、計仙麻大島神社と言いまして、今日でも室根山の大祭というのは、これは海上の海幸を盛んにし、海上の安全を期するための最大の守り神だという、海の守り神になっているんです。

 そういうことを考えれば、海上の水軍を司り、北上川の水上交通を一手に握る役目を託されている村上氏が、海の神、水の総本山神であるところの室根の信仰に結びついていく、従って熊野信仰が室根信仰に、千厩川を溯って結びつけられていくようになるということ、これまことに自然な理屈であって、小学校や中学校の社会科の教育で、こういう行き方だったら、生徒さんたち万歳と言うんではないでしょうか。そして高校や大学あたりになって若干首をひねるのではないでしょうか。それで私は小学校中学校並みの吟遊詩人として、こういう結びつきを考えていくことになったならば、村上水軍の総指揮官である村上家が熊野神社というものをこちらに勧請するかたちを通して、こちら、即ち千厩川流域を溯って熊野の宮祀り、神事というものにかかわるような家柄になっていくということ、これもまことに自然に考えられてくるんではないでしょうか。

 

<おわりに>

 私は以上のようなこと、これすべて歴史的事実としてこのとおりだと申し上げるのではありません。しかし、歴史を正確に考える人も、こういう考え方が一つの学説として成り立つということは、私十分に自信をもっております。まして歴史のロマンを考える吟遊詩人としてはこれ以外に考えようがないと、こういう言い方になってもいいのでないか。

 いずれにしてもこんなようなことが相当真面目な学習としてテーマになりうるということであれば、これ皆さん方のこの地元学習というもの、これ十分に本格的にこういう方向に舵を変えるようなかたちで進めていくということが可能ではないかと、それ以外のことについてもこのお招きがあれば私は喜んで参加して、また吟遊詩を披露させていただく、こういうことにさせていただきたいと思います(拍手)。

とびとびのお話で恐縮でしたが、ご静聴ありがとうございました(大拍手)。

 

千厩は八幡千騎さもありなん

  ならば勢間屋いかが答ふる

千厩も勢間屋も宛字その心

  計仙麻神山 遥拝の御屋

奥玉は奥霊(呈)の奥霊山

 神体御山 形代の宮

伝承のロマンに劣らぬ史のロマン

 吟遊詩人となりて語らむ

遠山に大伴駿河の名を聞かば

 大野も田村も三舎避けなん

村上の軍師を宮司に迎へしは

 判官ゆかりのもしや秀衡

気仙にも磐井も式内室根なし

 伝承ロマンは何と答へし