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遠山村「鬼は遠なり」

    遠山村「鬼は遠なり」                             平成20年8月20日 

講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生       

<「遠山村」は気仙と東山>

 私にとっても、この集まりがきっかけになって勉強をはじめて、新しく発見したことでございます。したがって私自身にも新しい勉強になりました。でみなさん方にとっては、なおさらそうだと思います。しかし、よくよく考えてみると、まことに当たり前のことなんですけれども、当たり前のことをずばりこうだと言い切ることが出来なかったわけですけれども、その拠りどころになる確かな、これ以上の証拠はないというものを、私はやっと勉強して気づいたのでございます。この年して気づいたんですから、皆さん方は、私以上のことをこれから発見するようにしていただきたいと思います。

 いま局長からご紹介していただきましたように、日本の奈良時代から平安初期のことを書いた歴史書「続日本紀」。「日本書紀に続く」と書きます。この中に「遠山村」というのが出てくるということは、これまで何回も申し上げております。

 その「遠山村」と言うのは、どういう意味かということ。遠い山だからおそらく政府側が拠りどころとしている支配地とか、基礎になる城、たとえば「伊治城」であるとか「桃生城」であるとか、そういうところから見て遠くにある山と、そういう程度のことだろうと、そして漠然とそれは今日の東磐井郡でもずっと山寄りの方、それから気仙方面までかかるというようなこと、それも「続日本紀」の先ほどあげた史料をよく読んでいただくと、誰でも漠然と気がつくことです。

しかしずばりその「遠山」と言うのは、単に漠然と遠い方角にある山ということなのかどうか、それがほんとうに東磐井とか気仙とか、そういうところに関わるものなのかどうか、これも何となくこう「隔靴掻痒」ですね。靴の皮を隔てて痒いところを上から掻いているようなもので、何となくもどかしい感じがしておりました。

 

<確かな史料の発見>

 それをずばり。ずばり、気仙は「遠山」であるということの証明になる史料が出てきたのでございます。念の為ですが、そのときの気仙(きせん)、気仙(けせん)というのは、今日の東磐井の少なくとも室根地区あたりは含んだかたちでの「気仙」で、皆さんの今日の理解では気仙と東山・東磐井というのは別々ですね。だから区別する考え方に皆さんは立っているわけです。

 ところが歴史はこれを一緒にして考えているんです。但し、なぜこれが東磐井・東山、気仙というふうに分かれたかというと、同じ遠山・気仙という言い方のうちの、一方は東山というふうにいって、おそらくこの東山は、私確信をもって言うことですが、これは「遠山」、遠い山を重箱読みして、そして「東山」をおそらく本来は「とおやま」と読んだのでございます。そして「気仙」というのは、本来これは(きせん)というのが歴史的に正しい読み方でございます。今日でも元気の「気」は、(け)というよりむしろ(き)と読むのが本来ですから、この「き」は元気の「気」ではなくて鬼神の「鬼」と書いた(き)、これがおそらく「気仙」の本来。しかもその(せん)もにんべんの「仙」ではなくて、「山」と書く(鬼山)、「きさん」。それを縁起の良い、通りの良い読み方に変えて「気仙」とし、「鬼」が元気の「気」になり、そして「山」も仙人の「仙」のようになって、すっかりそういう悪い厭な感じから離れるようになっていったのだと思います。そういう考え方を、ここのところでみなさん方、改めて学問として確認していただいて、これからはそういうつもりでお話合いをしていくという気持になって欲しいと、そういうことでございます。

 

<謎解きキーワード「鬼首山」>

 そしてそういうことであれば、私は同じ磐井郡の中では、西磐井など以上に気仙とのかかわりが歴史的には一体といえる、関わりが深いなと思ったのです。東磐井は本来、広い意味の「けせん」、「きせん」の国だったのでございます。そしてそれを「遠山村」というふうに日本風に読んで、そして政府の方でだんだんに村づくり、国づくりが進むようになって、西寄りの山寄りの地域は「東山」、これ今日みなさんが「東山」(ひがしやま)と言ってますね。私、これ改めて歴史的にはこれは(とおやま)というのが本来のかたち、そしてその出典はこの「遠山村」の、「遠い」というのを訓で読んで書いてあるものを、音で「東(とう)」と書いて「東山」というようになっていった。そしてそれが「磐井」と一体になって「東磐井」という名前になるのは最も新しいかたちなんです。

 そういうふうにして、その遠山村の最南端で気仙(けせん)(きせん)の国の最南端の最高峰である山が「室根山」ということになっている。そしてこの山が「室根山」といわれる前には、「鬼首山」とよんだというつたえ、みなさんよくお分かりですね。「鬼の首の山」。どういう意味なのか誰も説明しておりません。またこれが単なる伝説だろうという考え方もしておったのですが、これははっきり出典のあることばになっております。

 鬼(き)というのは「遠い」という意味ですから、そうすると鬼首国の最高の山というのが「鬼首山」、そういうことでございます。

 そして「式内社」でもって「計仙麻大嶋」というときの「計仙麻」というのは、これは「気仙」の読み替えではなくて、「鬼首山」を(きしゅやま)と読み、そのなまって(けせま)となった。したがって「計仙麻」は鬼首山、「室根山」の意味になった。そして大島というのがつくのは、山が遠山ならば海の島は(としま)。

 「としま」は皆さん、北海道では「渡島」と書いて、これは歌では(おしま)か(おじま)というふうによむんです。(と)は(お)ともよむ。すなわち「大島」はおそらくこれは(としま)と、「渡島」と書いて(おしま)の意味。そしてこの(おしま)は(とおしま)の意味になる。そして「計仙麻大嶋神社」というのは、そういうことから「遠山渡島神社」ということで、気仙東山から海岸一体の海の島々全体をここのところで一つにまとめる、東方面の最高最大の海の神、山の神、それをひとつに合わせて「計仙麻大嶋」というふうにいったのである。

 

<「鬼は遠なり」―中国漢字辞典「集韻」に>

 そこまでの考え方を私は、「鬼は遠なり」、遠いというこの言葉からすべて諒解することが出来たのです。「鬼は遠なり」ということ。これは中国の確実な漢字字典であるところの、これ後で色紙に書いてありますからコピー作ってください。「集韻」という辞典に書かれているんです。「集」は(集める)、韻は(韻文)の韻ですね。「集韻」という漢字字典。これは字画によって漢字を整理する、譬えば日本の漢和辞典のような辞典ではなくて、音訓によって、ちょうど日本の国語辞典のような、中国でいえば音訓を主とした辞典、これを「韻書」というんですね。これは韻書の伝統を日本語に移した辞典、これが今の日本でいう普通の国語辞典なんです。それに対して漢和辞典は全部字画によって、中国でいえば説文解字以来の伝統的な字の辞典になっているわけですが、「集韻」というのはその音訓によって、日本でいえば国語辞典にいうような音訓を主として、中国の漢字をおそらく系統的に最も整理された辞典だといっていいと思います。これが成立したのは中国宋代の前期、11世紀の前期ですから、日本でいうと平安時代の半ばになります。そのなかに「鬼は遠なり」という意味であると、「鬼」の解説としてそういう解説があるのです。

 そこで私はちょっと、皆さんもそう思うでしょうが、「続日本紀」というのは、年代では八世紀の終わりのことを書いているんです。そしてこの本ができましたのは九世紀、平安時代の初めでございました。ですからこの「鬼は遠なり」という、辞典に書かれた年代からは百五十年ぐらい前のことになります。ですからそういう後のものを材料にして、それ以前のことを考えると言うのは後の考え方によるのでないかという、そういう心配が出てくると思います。しかしその心配は無用なのでございます。なぜかといいますと、この「集韻」という辞典に「鬼は遠なり」、「鬼は遠い」という意味であると言うことに拠っている出典は、何と中国では「四書五経」という五経、「詩経、書経、易経、礼記、春秋」を合わせて「四書五経」というんですが、中国では論語、孟子などよりも古く、最古の尭、舜であるとか、夏、殷、周とか、こういったような最も古い年代の、紀元前を何千年も溯るような時期のこと、「易経」というものの中に、殷の皇帝である武帝という人、尊んでこれを「高宗」というのですが、この人が「鬼方を討つ」、鬼の方角を討つということばが「易経」という中国最古の古典にあって、その「鬼方を討つ」という易経の「鬼方」の「鬼」の解釈として、「鬼は遠なり」、すなわち「遠方の敵を征討したのだ」というそういう解説になっているのでございます。そういうことから、この鬼の出典ははっきりと「易経」、「五経」に溯るのであって、この解釈を最後的に整理したのが「集韻」というもので、おそらく「集韻」という、宋代十一世紀に書かれる前に、中国では「広韻」という辞典があります。その前の唐代には「唐韻」という同じ辞典があります。それから隋代には「切韻」という辞典。いったいこういう「唐韻」とか「隋韻」とか「切韻」とか、こういった辞典にどんなふうに書かれているか、残念ながらこれは分かりません。それから私自身、実はなんとこの「集韻」さえも、原典について知ることはできなかった。これは残念ながら、普通の人にはちょっと無理です。これを具体的に私が知ったのは諸橋轍次さんという方の「大漢和辞典」、12冊になる膨大な漢和大辞典があります。

 

<諸橋轍次著「大漢和辞典」 「鬼」の解説>

 この「鬼」というものの「おに」という字の解説のなかに、これまでのほとんどすべて設問における「鬼」というものの解説、それから天文学では「鬼宿」などというようなこういう解釈、仏教では「鬼」というのは餓鬼とかいうような、すべておそろしい怪異の力として書かれている。こういういろいろなものを引用している第三の解説の中に、「鬼は遠なり」、「遠いなり」というところを引いて、そして「集韻」にはこうあると書いて、しかもその「集韻」は何を拠りどころとして「鬼は遠なり」としたかというと、「易経」の中に、武帝高宗という人が「鬼方を討つ」と書いて、この「鬼方を討つ」というのは「遠方の賊を討った」という意味であるといって、はじめて「鬼」というのを神秘な、つまり心の恐ろしい鬼という意味ではなくて、方角についてまだよく皇帝支配に服していない悪者。中国では「東夷、西戎、南蛮、北狄」というふうに言って、蛮族というのは全部まだ皇帝の支配に服していない悪者、異民族のことを指し、東について「東夷」といった。この遠方、「鬼方を討つ」というのは、はっきり東の賊を、東夷を討ったことについてありますから、この東夷、遠方というのは、日本でいえば東夷のいる遠い世界、遠方という意味になってくると。

 これだけのことがはっきりしてきましたので、奈良時代における遠山村というのも、はっきりとこれはまだ政府側に従っていない遠方の奥の蝦夷、夷たちのいる山国の意味で「遠山」になっているということは、はっきりします、これは。それは「続日本紀」をみると明確でございます。ただそこには、遠いというのは蝦夷であり、蝦夷は鬼であるという、そういう言葉の上の明解だけが示されていないのですが、奈良時代、平安時代における、学問といえば中国の学問のことを指しましたからね。日本の学問などというのはなかった。全部中国における学問というものがそのまま日本の学問になって、そしてだんだんに日本のこともこの中国の学問にこと寄せて理解されていくようになっていくのでございます。

 そういうふうに考えていきますと、遣唐使であるとかなんかを通して、日本に持ちきたらされている中国のいろんな書物の中に、辞典にはっきりそう書いていたものによって書いたか、それともこの「易経」におけるこの解釈に基づいて同じように東の奥の方の蝦夷を討つ、蝦夷の国のことを「遠山」といったか、それは何とも証明はできませんけれども、少なくとも中国においてこの「遠」ということばが「鬼」のいる国、世界について、それを遠い遠い恐ろしい異民族の国という意味で「鬼国」、鬼の国はすなわち遠国、遠い国であるという考え方が、ここのところで成立してきたということは殆ど疑いがありません。

 

<「遠は鬼なり」と返せば遠山村が具体的にみえてくる>

 そこで「遠山村」というのを、非常に具体的に考えることができる。まず「遠方の奥の国」であると。しかもそれは「東の蝦夷と、えびすと呼ばれている国の人たちのよっている山国のこと」である。こういうことが明確になってくる。そうするとこの場合基準になっているところ、それは東では「桃生城」でございます。それから西の方では「伊治城」。今日の宮城県の桃生郡、それから栗原郡、この地域です。ここから見て、まだ政府の支配に入っていない山国の蝦夷の国、そういう意味で遠山ということになったのですから、われわれは逆に中国の古典では「鬼は遠なり」といいましたけれども、我々は逆に「遠は鬼なり」と、これ逆に読み取ることができる。即ち「遠山」は「鬼山(きざん)」。遠山は鬼山(きさん)なり、鬼山(きさん)は(きせん)なりと、ちゃんと言葉がきっちり残って、「きせん」という地名が現に残っており、そこのところが広い意味で「遠山」といわれたということが分かっておりますから、したがって「気仙の国」即ち「遠山の国」。村というのはまだ政府の支配下に入っていない広い意味の蝦夷の、夷(えびす)の国のことを村というのです。だから律令古代政府のもとで国、郡、里とか村とかいわれたその村よりは、はるかに広くて、律令政府の支配下では「国」といわれた後の「郡」に相当するもので、郡相当の蝦夷の国のことを「村」といったのです。いいですね。だからみなさんは「遠山村」というと、何となく江戸時代における国、郡、村の、この村の考え方で遠山村を理解していると、これは「遠山の国」、政府側の考え方でいえば「遠山郡」に相当する名前だという考え方をして、広域の村のことを指すもの。そしてはっきりと日本の方では「遠山村」と、それから「気仙国」「気仙郡」(きせんぐん)という、はっきりとこの二つを結びつけて一体に理解する言葉の使い方が確認できるのですから、こういうふうにして疑いもなく「遠山村」というのは「気仙村」、「気仙」は「きさん(鬼の山)」と書くことができる。それから、そうであれば「きさん」というのは気仙(けせん)ですから本来、そして気仙郡、気仙なんとかといわれていることばは、はっきりとこの言葉に出典を持つというふうに考えることができるとすると、「気仙」はすなわち「遠山村」であり、一方には遠山村という言い方があり、それをさらに狭く気仙村とか気仙郡というふうに言って、そうして後に遠山村というのはすっかり気仙という名前だけが今日まで残ります。

 

<気仙・東山、一緒にしての蝦夷村>

 しかし遠山村というのはなくなったと思って不思議に思ったでしょう。だが全然不思議でない。さっきいったように、この遠山と書く遠山村はこれが「東山」と書いて、ここのかたちでもって「遠山」というのが残った。ほんとは「遠山イコール気仙(きせん)」なんですが、これが非常に広いものですから、西側の方に「遠山」の伝統を受けた「東山」が残り、そして東側には「鬼山(きせん)」の伝統を受けた「気仙」というように、二つに分けたかたちで残るようになった。こう考えてみたら改めて「東山」というのはもともとは「遠山(とおやま)」の言い換えに過ぎないということがこれで分かってまいります。

 

<「遠山村」とは気仙郡と東山>

 そして東山三十三郷、遠山三十三郷というのが、これは西磐井よりも気仙に近いということを、もともと「遠山」は「気仙(けせん)」の意味の日本的な言い換えに過ぎないということがこれでわかり、その出典が中国にあると、中国の古典「易経」にあり、その解釈としての「集韻」によって証明されると、これだけ謂れのある地名を皆さんは帯びているわけですよ。

 したがって「遠山」について新しい解釈が起ってきていいと同じように、「気仙」についても古い伝統というものをここまで溯らせて考えてみると、おそらく気仙の人たちは「鬼なんというと縁起が悪い」というので、高橋説は遠慮しますということになるだろうと思いますが、それはきれいに奈良時代のうちにこれは変更になっている。「鬼」はちゃんと元気の「気」に変って、そういうふうに改まっておりますから、むしろ「気仙(きせん)」と書くことによって、奈良時代の終わりから平安初期のはじめにかけて、蝦夷の本拠地というものについて、気仙村(きせんむら)(きせんむら)という言い方をし、日本語ふうにそれを「鬼は遠なり」ということばに基づいて「遠山村」というふうに呼び変えていたのだとすると、もうすべて何の疑う余地もなく「蝦夷村」というものについて「遠山村」というのが言われておって、そしてその伝統を一方では「東山」、他方では「気仙郡」が受け継いでいるのですから、「気仙・東山」一緒にして古い「遠山村」ということになってくるということ、皆さんこれでご異論ないでしょう。

 

<歴史用語「鬼首山」>

 こういうことをきっちり考えて、そしてこれを今日の村づくり、国づくりに生かしていくということは十分可能です。十分可能です。磐井・気仙一体で考えていくこと、しかもさらにその気仙、鬼山(きせん)の国のもっとも南寄りに、そこの国の最高の山、これは「室根山」というのは、この地区においては北の閉井郡の山を除いての最高の山になってくる。そういうことから最も南よりの山、「きせん国」の最も南よりの山について、これを「きせんの国」最高の神の山という意味で「鬼首山」とよんだのですよ。これはこの文字通り、「鬼の国の、首は最高」です。最高主峰としての山、それが鬼首山(きしゅせん)。そしてそれが室根山になるというのは二次的、三次的になってのことで、こういったことまでやるとまた別の機会の話になりますから、いずれにしてもそういうかたちで、「鬼首山」という言い方は出典のある歴史的な用語なんです。ただ鬼首、鬼という「おに」などという言い方が、早くになくなってしまったために、したがって伝説的なかたちで残るようになったけれども、本来は歴史的な謂れのある山だ。

 

<「室根山」が「計仙麻大嶋神社本社」>

 そうすると、この「鬼首山」というものが、磐井、江刺、気仙、桃生、牡鹿まで含めて、この全域に渡る最高の神山であるというふうに考えられるようになることは何のことはない。蝦夷の国における最高の山、聖なる山として仰がれていた「鬼首山」の伝統を受けたものであるということが、これで分かってくる。しかもこの山は高いところだけから見ると山ですけれども、これは航海する人たちにとっては「海の山」なんです。航海する人たちは、この鬼首山を目じるしにして、方角にしても、これを決めるようにしておった。そのためにこの神さまというのは、山の神と海の神とを一体にしたかたちになって「計仙麻大嶋」となったのだと、そして先ほど申し上げたように「大島」は「おしま」であり渡島(としま)であり、そうしてつまり、気仙から、鬼首山・室根山から見渡すことのできる遠い東の小島、こじますべてがこの神の神意のもとにおさまっているのだという考え方が「計仙麻大嶋」という神社を生み出すことになっていく。そしてなぜこの計仙麻大嶋神社がそれならば、室根山自身に祀られないで、これ桃生郡の今確かこれは歌津町ですか、こちらの方にあると考えられています。これ歌津にあるというのも、これ本来の位置かどうか、これ問題だと私は思いますが、ただ、なぜ桃生郡にあるかというと、これはこの遠山村を支配する西側最高の基地になったのが「桃生城」であって、桃生城の中に、ちょうど後の奈良時代の中期になると東北のすべての神々が城輪神(きのわがみ)として、この多賀城に結集されるのと似たように、この遠山村を支配するための遠山の神の祭祀は桃生城において行なわれるようになって、桃生城の政府側が、この計仙麻大嶋神社の神祀り、神祭をつかさどる政府側の役所を桃生城に置いたために、桃生郡にこういう神さまを(きのわがみ「城輪神」)として祀られ、計仙麻大島神社をもって本社とし、そして室根山の本来の蝦夷時代の、夷(えびす)時代の「計仙麻大嶋神社」の本社は「奥の院」として祀られるようになったのである。こういう考えかたをすることによって、なぜ、「計仙麻」つまり気仙の最高の主神が室根山にないのかという理由も、これで明瞭になってくる。逆にこのことによって、室根山の計仙麻大嶋の奥の院としての権威は一層高まる。なぜかというと(きのわがみ)が形式的にお祭りするときの神社、それに対して奥の院というのは本当の神さまがそこに鎮座ましますところの神、ちょうど高野山の奥の院というと弘法大師がお出でになるところという意味、奥の院、最終最高の寺の院ということ、そういうふうに考えることによって、奥の院としての室根山、計仙麻大嶋神社本社という意味はこれによって微動もしないことになってくる。

 

<七言律詩「遠山鬼山のこと」>

 そこで私はこういったようなこと、これ漢文によって知りましたので、これを漢詩のかたちでまとめてみようと思って考えてみました。しかし皆さん、漢文だけ並べるともう敬遠されてしまうと思いますので、そのつもりでこれを漢詩から離れて、日本語の普通の詩のかたちにこれを改めてみました。ただこういうかたちのものを、中国では七言律詩といいまして、七言絶句の一行七字に書いたものを八行にするのがこういったかたちの基本になる形式です。それを律詩というんですね。それを七言律詩に基づいて、これを和文のかたちにまとめてみましたから、後で事務局にあげますから、コピーをつくって皆さん方見てください。



 

 

遠山(とおやま)鬼山(きせん)のこと  古詩に寄せて

集韻(しゅういん)曰く()(えん)なりと

(いずく)んぞ思はざる遠山(とおやま)鬼山(きせん)なるを

進んで気仙の(もと)鬼山なりしを

(また)(また)室根鬼首山(きしゅせん)鬼国(きこく)一の山の義なるを

鬼山は日高見山夷(さんい)山国の(いい)

東山(ひがしやま)遠山(とおやま)気仙(けせん)鬼山(きせん)の名残りなり

計仙麻(けせま)大嶋(おおしま)鬼首山(きしゅせん)渡島(としま)遠山(とおやま)遠島(とおしま)

日高見(ひたかみ)一国(いっこく)山海(さんかい)一の地主神(じぬしがみ)

二〇〇八年八月二十日

             高橋 富雄

市民会議学習栞


 

詠んでみます。「とおやまきせんのこと(題 古詩に寄せて)」

「しゅういんいわく 鬼は遠なりと」……これ後で原稿渡しますから……

「集韻」。ほど言いましたように宋代にできた漢字字典の最高の古典の一つである「集韻」曰く、「鬼は遠いところにある」。意味は先ほど言いましたように、出典は中国五経の「易経」の高祖、これは敬称で高い祖ですが、「武帝」と甲骨などでは書かれている。武帝という皇帝が鬼方、「鬼の方角を討つ」という言葉、これが「易経」。それに対する「集韻」の注釈が「鬼は遠なり」。すなわち武帝は、蝦夷、東夷のいる遠方の鬼を征服した。こういう意味であるといって「鬼は遠なり」と注釈した。

 この言葉がこれまで学者達のなかで、私の知る限り誰もこういったような引用の仕方をした人はいない。しかしごく身近の漢和大辞典にこういうちゃんとした出典が示されているのに、何と私たち学者と言われる人たちが不勉強であるかということ、これで明瞭です。これ私まで含めてです。85歳になるまで、私、この勉強をしていません。この年してやっとこの勉強ができた。だから、あんまり学者のいうこと皆さん真に受ける必要ありませんよ。尊敬する必要ありません。皆さん自身がこういうかたちで、最も厳粛な古典についての最新の勉強することができるのです。

 そしてこういうことは、宋代になって新説として出てきたのでなくて、それまでいろいろな、例えば「広韻」とか「唐韻」とか「切韻」とか、こういう解釈のはじまりはすでに「説文解字」、後漢の後の魏・秦の三世紀、四世紀ごろからはじまっておりますけれども、残念ながらこういう本は載っていないそうでございます。そういうものを全部整理して、最終的にまとめたのが「集韻」というのですから、この言葉はもう宋代からはっきり始まっていて、少なくとも隋唐の時代においては確認していたものが、ここのところで最終的に整理されて残るようになったのだと、そしてそれが日本に影響して「遠山村」即ち「気仙国平定」を、「遠山村平定」というふうな、日本化された言葉で理解するようになったと。しかもここのところでも気仙村(きせんむら)といわないで「遠山村」といっているところに、私はこれはやっぱりこれをあんまり「鬼」とか「蝦夷」とかいうふうな言い方でなく、おだやかにとらえていくという思いやりが「鬼山国を征す」と、本来あるべきところが「遠山村を討つ」というふうになったのだと、こういうふうに考えることも出来て、なかなか日本人というのは思いやりがあるんですね。そういうことも皆さん方、この磐井の人たち、一関の人たちの思いやりでもって「鬼の山」「鬼の国」なんだけれども、元気、たいへんに謂れの深い、奥の深い元気を与えてくれる村、国という意味で「気仙」になったのだと、こういうふうな考えかたをしてください。それだけのコメントをした上で「鬼は遠なり」とはっきりしてきましたから、即ち「遠山村」はすなわち「鬼山村」なりということになります。そこで私の詩にもどります。

「蓋んぞ思わざる 遠山は鬼山なるを」

 そうであればなんで私達がこういうことを思いつかないだろうか。遠山は即ち気仙なることを。いいですね、遠山即ち鬼仙、なぜならば鬼は遠だから。

更に第三句、

「進んで気仙の本鬼山なりしを」

進んで何故こういうことを考えないのだろうか。進んで気仙の本「鬼の山」なるを。良いですね、気仙というのは、縁起の良い文字に置き換えたので、戦争して敵対している段階では「鬼の山国」、「鬼の住む山」。「鬼」というのは蝦夷。これ「日本書紀」の中で、日本武尊や武内宿弥の報告書の中に、はっきりと人の住んでいるところは蝦夷の国だけれども、その蝦夷を支配する神さまの住む山は「気仙の山」だとちゃんと書いてある。神聖な山だとはっきり書いてある。人については夷、蝦夷、それから神さまについては鬼仙という。日本語で、立派な神聖な神様、つまり神通力をもった人について「神仙」というのですが、それを鬼に、蝦夷の方に置き換えて「鬼仙」いうふうによんだ。したがって「鬼仙」は良い意味においては山であるとともに、山の神の鬼仙でもあり、鬼の山そのものでもあるという、こういういろいろな言い方があるのですが、ここのところでは「遠山」の本つと出典ですから、これは仙人の山「鬼仙」ではなくて、鬼のいる山「鬼山」の言い換えが、読み替えが「遠山」であると、こういう考え方に統一しておきます。

 そこで進んで気仙が本(もと)鬼の山、鬼山なりしを。いいですね、なぜこういうことをいうかというと、はっきり室根山が「鬼首山」といっているところに、この伝統が消えないで残っている。「首」は第一の山の意ですから、基本は鬼山。鬼国第一の山ですから「首」をとれば「鬼山」。そしてそれは元気の「気」ではなくて「鬼」の山と書かれている。これが古い伝統、こういう神様を「地主神」。地主神(じぬしがみ)といって、蝦夷本来の伝統を受けたもともとの神さまの名前が「鬼首山」だということがこれで分かってきて、これは生きた歴史的な名前で、そして気仙の語原が鬼山でありその主峰になる山が「鬼首山」であり、それを日本語風に読みかえると「けせま」になり、「せ」と「しゅ」「し」は音が変わります。「やま」は「や」を略して「ま」です。したがって「けせま」は「きしゅやま」、「きしゅせん」、「きせん」、そういうことになります。したがって東磐井郡・東山にある最高の山が、気仙最高の山だと、こういうことになります。したがって気仙と東山・東磐井郡を、皆さん方は区別する前に先ず、一体の気仙の国であり、遠山の国であったのが、だんだんに開拓が進んで遠山,東山と気仙に分かれて、その分かれた段階で室根山(鬼首山)が気仙郡に入らないで東磐井郡に残ったのだと、こういうふうに考えてご覧なさい。そういうふうにしか理解できないのです。そういうかたちで気仙と東磐井の「東山」、「遠山」というのの一体が、これでもって再確認できるのです。

 そしてその原点になる拠りどころを「集韻」の「鬼は遠なり」という、こういう勉強にもどってくる。改めて皆さん方「大漢和辞典」、こちらの村にはあると思いますが、そこの「鬼」の部、第12巻ですけれど、ご覧下さい。はっきり私が今申し上げたこと、出典まで示して書かれています。そして進んで、気仙はもと「鬼山」というのが、まだ政府側の外に立った敵国、蝦夷の国の段階では、気仙郡は「鬼山国」といわれていた。これ明確になります。そして更に、そこに止まらないで、またまた室根を鬼首山というのは、鬼国、鬼の国第一の山の意味で「鬼首山」だということ。ここは「鬼首国」なのです。ここまで含めて「遠山村」、「鬼首の国」、「気仙国」になるんです本来。奈良時代末期、鬼首・遠山村の政府が終わって、おそらく「磐井郡」というのがつくられるとき、これは私の推定ですよ。はじめから東磐井郡は「磐井郡」ではなかったのではないかと思います。これはかえって「遠山郡」というふうに言われたかもしれない。で、その遠山も、遠い山でなくて「東山」と書いて、(とおやま)だったかも知れない。それが磐井郡、西磐井郡を中心として、正式に磐井郡が成立する段階で、これも磐井郡の内に併合されてしまうことになる。で何故そうなるのか、これについてもはっきりした理解がある。

 

<「磐井郡」に「東山」が組み込まれる裏にあった覚鱉城造営の挫折>

 それには覚鱉城の問題が重大なかかわりをもっています。「覚鱉城」というのは、桃生郡を北に進めて、いわば「第二の桃生城」とする意味をもったかたちの、これは政府側の最高の前線基地として計画されたものです。そしてこれがもし完成をし、持続していたならば、「胆沢城」というのは建つ必要がありませんでした。おそらく胆沢城というものを設けられずに、覚鱉城からすべての奥六郡支配というものがなされていたと、それを先ほど局長が言われましたね。覚鱉城がちゃんとできたならば、奥羽二国にとってこれ以上の幸せなことがないだろうということが、はっきりと「続日本紀」に書かれているんです。

 これが、これから覚鱉城を完成するための政府側の考え方です。覚鱉城が完成すれば、陸奥の国、出羽の国の少なくとも奥多賀城以北の地域は、すべて覚鱉城の支配下に入ることになるという考え方です。皆さんそういうことちゃんと原典について読んでいただく必要がありますよ。こういう勉強を、学者といわれる研究家、ここにもそういう学者たちがいる、私もその学者の一人ですから、私も反省を込めてそういう勉強をきっちりしていなかった。そういう覚鱉城が、ご承知のとおり伊治公呰麻呂という栗原郡伊治城で仕えておった郡司の叛乱によって、これが崩壊してしまった。これを推進していた紀広純という按察使、総大将都督が伊治城で殺されてしまった。そのため覚鱉城自身がここでストップしてしまった。そして覚鱉城を基地として北上川の東側地域というと旧遠山村、後の東山、良いですネ。ですから「東山」と書いてこれを「遠山」というのはここから来るのです。遠山村、遠山を中心とする胆沢経営というものはストップしてしまったのです。全部西磐井よりに、即ち河西、北上川西寄りを基地とする前進形態をとって、そして北上川の東側、江刺の方が磐井の中心の反抗基地だったにもかかわらず、ここは西側、衣川を西に越えて、西から東に川を越えてアテルイを征服しておる。もし、覚鱉城が健全で、ここが基地でいったならば、まっすぐ遠山を北に越えれば、すなわちアテルイの基地を討つことになる。それがアテルイの基地を征服している政府側が渡河した、川を越えて戦争をしていた政府軍に、東山からまた賊が出てきて攻めかかったので総崩れになったとこう書かれている理由もここでわかる。

 

<西磐井中心の前進体制に切り替え>

 すなわち覚鱉城が挫折して、西磐井中心になり、したがって「衣川の営」というのを基地とした胆沢経営が進められて、わざわざ中心になるアテルイ征討は川を越えて征服するかたちになる。こういう非常にまわりくどい胆沢経営がなされているのは、すべて覚鱉城が挫折してしまった結果なのです。こういうふうにして東山・遠山村を基地とする胆沢経営というのは覚鱉城の挫折によってご破算になってしまい、西磐井中心になって衣川の営というのが覚鱉城の代わりになっていく。そして衣川の営が最後的に大規模に整理されて「胆沢城」になってくる。こういうことになる。そういうために遠山村・東山というのが、西磐井中心の胆沢経営のなかに二次的に組織されるかたちになって国づくり、そして郡をつくるときにも西磐井中心の東磐井組織というかたちになってくる。そういうふうに変わった。したがってこれ、一にかかってこれは覚鱉城の挫折崩壊という結果が関わってくる。覚鱉城というのが確実に残っておったならば磐井郡などいうのは、これは明確に覚鱉城の下に置かれることになる。胆沢城もおそらくは幻の城になったかもしれない。なったにしても覚鱉城の前線基地というような位置づけになってくる。それは正史の中に、覚鱉城が完成したならば、奥羽二国これによって万万歳だと、こう書かれてあるからです。よろしいですね。こういう勉強皆さんは全然していないんですよ。郷土史の人たちが、こういう勉強をきっちりすることなしに、これから磐井郡をどうこうだとか、みちのく中央なんとかいう言い方、全く幻でないというようなことが、こういういろんな歴史事実を踏まえていって、これに平泉が加わってくるわけなんです。何の不思議もないわけです。そういう勉強を是非してほしい。そういうふうにして、改めて今日、皆さん方は東磐井郡室根村、磐井の室根山を考えることができないでしょうけれども、歴史的にはこれは、遠山村、気仙村、鬼山村、室根山、鬼首山だということを、ここで確認してください。そしてここのところではっきりと「鬼」は元気の「気」でなくて鬼の「鬼」だということ唯一残っている、唯一残している、これ「化石」ですね。「鬼」の化石です。そのために「鬼首山」というものを、改めて皆さん方は大事にして行くという考え方に立ち戻ってください。しかも、気仙郡ではないですけれども、気仙、鬼山国の最南端に位置する最高峰の聖なる鬼首、最高首の山である、これまでは確実です。

 

<最強の敵「蝦夷」の住む「鬼山」>

 ところで一体なぜそれなら「鬼山」と言ったかということです。これはいうまでもなく「日高見」、「蝦夷の国」の最南端の基地になる。したがって政府側としては、フロンテイアの蝦夷の国としては、ここは最強最南端の蝦夷の国だという考え方から、ここのところで「鬼山国」すなわち「遠山の国」という言い方がなされた。いいですね。「日高見の国」・蝦夷を、遠い東の蝦夷の国の最強の基地になる山国というとらえ方をし、そうして古典に基づいて「鬼は遠なり」ですから、したがって遠山村の中心になる山の城の構えられているところが遠山の国だと、こういう考え方になって、すなわち遠山・鬼山、鬼の山国という言い方。「鬼」というのは要するに最強の敵、蝦夷という意味です、それを中国漢字風に「鬼」とよみ、「鬼」というのは神であるところの最強の悪魔という意味です。外国語で言ったらデーモンにあたるもの。それが鬼ですから。そしてその拠りどころになる国、これは蝦夷は山におりますから、蝦夷を山夷と言いまして山の蝦夷という。それで日高見・蝦夷の国の中心になる山だという意味で「鬼山」と、「おにやま」と読む。そしてそれを「遠山」と読み替えたもので、何にもおかしくない。ぜんぶ筋が通ってくることもわかります。

 さてそういうふうにして今日、皆さん方は「東山」と言って、東山道の奥だからその東山を「ひがしやま」というふうに読み替えたというふうに考えることもできますけれども、それとのかかわりの下に、もっともっと古く「鬼山(おにやま)」とのつながりのもと、「遠山(とおやま)」の重箱読みとして、「遠(とお」)だけ「とう」と音でよんで「東(とう)」とし、「山」は訓でよんで「とうさん(東山)」。それを今日ではみなさん方は「ひがしやま(東山)」といって、「遠山」などとは無関係に考えています。これも不勉強です。「遠山」なしに「東山」はあり得ない。そういうことで、「東山」は「遠山」の読み替えに過ぎないということがこれで分かってくる。そして「西遠山」が「東山」になり、「東遠山」が「気仙」にして、両方混乱しないように呼び分けられたというふうに考え、そして「東山」は「遠山の名残り」になって、「気仙」は「鬼山の名残り」であるということがこれでわかってきて、これによってヤマト日本史ではなくて、ヤマト朝廷中心の日本史ではなくて、蝦夷中心の日本史というのは「気仙」でなくて「鬼山」だというふうに考えてください。

 

<「母體」を含めての「遠山村」>

 皆さんは、胆沢では田村麻呂以上にアテルイを英雄化する言い方、これみんな常識になっているんです。しかし、気仙で全く同じようなことを考えるならば、モタイという人がアテルイ並みであるならば、地名で「気仙」を「鬼山」と読み、元気の「気」でなくて「鬼の山」と書き、「鬼山(きせん)」と読むことによって、ちょうど胆沢でいえば田村麻呂以上に、アテルイを英雄化するという考えかたを皆さんが受け継ぐならば、なぜ磐井郡ではそれ以上地元にもっともっとアテルイをもその中に含むことのできる「きせん(鬼山)」という言葉がちゃんとここで残され、そして言葉としても「鬼首山」、「鬼仙山」、「計仙麻」という、「鬼」と書いた字が今日でも残されているのに、これが全く生かされていない。ちぐはぐだと思いませんか。私はそういうふうに思って、何となくこの地元の学問は、ある一つのことを覚えるけれど、それに関連したそれ以上に重要なことは全く理解していない、考えようともしない、そういう勉強の仕方をしているということ。その勉強の全面的な出直しがここで求められておる。これ、高橋の勝手な解釈ではないんですよ。中国の原典に基づき、それを忠実に日本に移し植えた古典の理解の仕方から、そういう勉強の結論というものが出てこなければいけないのだと、こういうことでございます。

 そういうことが「計仙麻大嶋神社」にまで結びつくというと、これは少し大げさになりますけれども、室根山、鬼首山、計仙麻というこの「鬼首山」は、陸地の山神ではなくて、より多く、海の神さまだったということを考えれば、なぜ「計仙麻神」という神社が、ちゃんとこれ牡鹿郡にあるんです。にもかかわらず、気仙郡や磐井郡には全くないんですね。「計仙麻大嶋」も「計仙麻神社」もない。不思議に思いませんか。みなさんはこの復権を、権利を、市民権を回復する意味において、この節目に挑戦する必要がありますよ。皆さんはたいへんお人よしですから全然不思議に思っていない。私はたいへん不思議に思う。本来「計仙麻大嶋神社」というのは、室根山そのものが「計仙麻大嶋神社」になるんですよ。それは室根山が計仙麻大嶋神社の奥の院であるということも、なんとなくへっぴり腰でもって怖じ怖じと言われている程度なんです。これは公然とそうならなければだめだということです。なお不思議なこと、その計仙麻神社の計仙麻大嶋神社の本社が、気仙郡にも磐井郡にもなくて、桃生郡にある。これは後にそうなったというのではない。既に「式内社」でそうなっているんです。そうすると古代のうちに「計仙麻大嶋」、すなわち気仙最高神というのが気仙にも磐井にもなくて、別な南の桃生・牡鹿の方に持って行かれていたということ。この不思議です。この不思議は、一にかかって計仙麻神社、気仙の神というのは、丘の神、山の神、陸の神である以上に「海の神様」であることに基づいている。そして桃生・牡鹿という、もともとこれは牡鹿郡から桃生郡がはじまっているんです。牡鹿郡には、はっきりそういうことを考えさせる渡島(としま)、大嶋渡島(おおしまとしま)という言い方がある。渡島は渡り島で、それは遠い島の読み替えにもなってきている。結局、渡島大島、遠い海を主として生きている国から遠く眺められて、この山が基準になって、海の航海、それによって生計を立てている桃生、牡鹿、本吉、気仙という、海岸の猟師達が、すべてこの室根山(鬼首山)というものを彼らの海、航海の神として斎(いつ)き守ることによって生計を立てるようになっているから。そうであれば、その渡島の本家というのは、牡鹿、桃生の方にある。桃生郡というのはこれは追波川(おっぱがわ)をさかのぼる、皆さんがこの前行かれたように「流れ地区」まで含めて大きく、陸に海が入り込んだところの「入り海」の地域なんです。それで「流れ」という、流れ海の意味です。そしてそれはすべて北上「流」、牡鹿、桃生、そして海の航海すべて一体に包み合わさって、それらを一つに、安全に、平和に、生計を支え守って下さるのが、この室根の海の神様だということになる。そうであれば、この神祀りというのは、これは「牡鹿柵」とか「桃生城」とか、こういうふうな南の海に拠って、或いは川に拠って、国をなしている地域における最高の祀りというふうに考えられること当然であって、そういう考え方から最前線基地としての桃生城の「城輪神」というかたちで、本社がこちらに移されている。したがってこの神さまは単なる山の神である鬼首山、鬼神のいる山神でなくて、大嶋、気仙沼の大島はおそらく、この計仙麻大嶋神社の大嶋にあやかってつけられた名前であって、この計仙麻大嶋神社の大嶋は、大きな島ではありません。これは渡島遠島です、要するに気仙・本吉・桃生・牡鹿全域にわたる島々、浦々の神という意味で「渡島」、これは渡り島、もしくは英雄の「雄」と書いた「雄島」ですね。これが本来の言い方で、それを縁起の良い言葉で「大島」と書いて、みんなは大きな島だという考え方をします。これは日本語の漢字というものを勉強していないからなんで、これらは全部当て字なんです。そういうふうに考えることによって、海神を中心としたかたちの牡鹿、桃生、本吉、磐井、気仙、全域にわたる神様としての「計仙麻大嶋神社」でなければいけないし、そのために本社も航海安全を主として祈る山の祀りとしての「計仙麻大嶋本社」が、磐井郡に勧請されていたという理由もこれもよく理解できるところなんです。いずれにしても私の「鬼は遠なり」という、この中国の古典を勉強することによって、気仙郡、東磐井郡、東山についての全くの盲点になっている勉強を、ここで皆さん方にボールでいえばこっちで投げ返し、そっちでキャッチしていただいて、これからこの勉強会のもとでこういった勉強も本格的にして行くというふうにしていただきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。