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「貝鳥貝塚」学習及び磐井祖人供養

平成20年7月20日

     「貝鳥貝塚」学習及び磐井祖人供養

講師 東北大名誉教授 高橋富雄先生 

 <前代未聞!縄文人のお弔い>

 皆さん今日は。私、こちらに伺ってたしか三回目です。ですからこれまでの繰り返しになるようなことは一切やめて、むしろ今日、縄文の御霊というものをこのようなかたちでほんとうに私達の親しい身内のものが、父とか母とか兄弟とか、そういう人たちが亡くなった霊を弔う、お見送りをする、そのような気持ちでもって縄文人をお送りする、お弔いをするというふうなこと。これおそらく前代未聞のことだと思います。この土地にとって初めてであるだけでなくて、広く日本全体にとっても、私の見聞きしている範囲内ではございません。
 
<「遺物」扱いを「ご先祖」御霊祀りに>
 しかも私、この際、今回の御霊祀りに対して特別に感動を覚えるのは、これが学者達の発掘調査というのは、人骨のようなものが出ましても、これは「遺物」として扱われるのでございます。よろしいですね。字を書いてごらんなさい。「遺った物」と書くんです。人間として扱われないのでございます。そしておそらくこういったようなことが、確かこの地区における発掘によって調べた人骨は、合わせて89体とのことなのに、どれ一つとしてそれに対する詳細な報告というものが出たということをお聞きしておりませんし、それから仮に報告書があるとしても、全くこれを猿とか犬とか鼠とかそういうのと同じで、性別は何である、年は幾つぐらいである。そんなような恰好での報告になっておるのでございます。そしてこれがいわゆる学問というものでございます。
今回のこの縄文の御霊祀りというのは、この常識を全く覆すような一大事件でございます。なぜならこれを人間として、我々の共通の先祖として、その御霊をお送りする、正式にお弔いの儀をここのところ(満昌寺)で取り上げるという、そういう性質のものでございます。地下から発掘されたところの人間が、人として、人格として、魂あるものとして扱われる、迎えられるということについては、全くこれは学問の伝統常識を覆す新しい行事でございます。
 
 しかも更に私は皆さん方にとって思いを新たにしていただきたいことは、これが普通の学問調査で進行したならば、この人骨はここにお出でになることはあり得ないことでした。これは調査した方々が、それぞれのかたちで、自分達の発掘成果として「研究室」という名の倉庫にみんな運び入れる予定になり、事実この一体を除いてすべてがそういう結果になっているのでございます。そしてそれがどうなったかという報告は全く聞かされていません。おそらく人骨、遺体、遺物というかたちでもって積み上げられているだろうというふうに思っています。
 これを人として扱い、その御霊を大切に守っていくというふうにしたのは、地元の有志の方々だったそうでございます。どういう経過でこうなったか分かりません。いずれにしても、特別な計らいによって、地元の人がこういうかたちではっきり人体として確認できるようなかたちで調べたとすれば、私たち自身がこれに対してお弔いをしなければいけない、お祀りをして行かなければいけないという共通認識が、コンセンサスが、期せずして地元の関係者の間にまとまって、そしてその結果がこのご遺体だけが、こちらに特別に移されて、今日こういう恰好で私達が、先祖の御霊としてお目にかかることができるような状況で、「縄文人」がここに現にお出でになるのでございます。
 
<血の通う新しい勉強がここからスタート>
 私は、この「貝鳥貝塚」のいろいろなことについて、皆さん方が誇りにし、自慢をし、語り伝えていくこと、これ大事だと思います。そのどれにもまして、地下から発掘された人骨、人間が、人として扱われるようなひとつの全く新しい行き方が、この花泉の地において現実のものになったということ、このことに対して最も大きな誇りを持ち、さて、それをどういうかたちで守り伝え、誇りとしていくかということが、これから先、皆さんに課せられた課題になるのでございます。そしてそうすることによって、いってみれば全く血の気を失ってしまったところの発掘の学問というものに、血の気の通うところの新しい勉強の仕方というものが出てきて、そういう行き方を地元の皆さん方がはじめられたんですよ。この伝統に連なるような勉強をして、この縄文の先祖の人を、ほんとうにこれから生きて、地下から甦って私達と共にあって、そしてこれから先、私達の将来を見守ってくださるところの何千年前の先祖というのを、私達が、ここでしっかとお祀りしているのだと、こういう考え方に立って、それにふさわしい勉強をしていくということ、それが貝鳥貝塚に対する皆さん方のこれからの学習でございます。
 
 ただ私一つ残念なところがございます。それはここにお迎えして五十年になるそうですね。これまでこのご遺体を、先祖の御霊として祀るという行事は、儀式はなかったそうでございます。そして今回が初めてでございます。ほんとうは、ここにお迎えしたときに、きょうのような儀式があるべきだったと思うんですけれども、そこのところでなされなかった、五十年前に欠けていたもの、聖書のことばで言えば「汝、なお一を欠く」ということ。私たちはこういうことをしている、そういうこともしているということに対して、イエス・キリストが、「いやお前もう一つ欠けているところがあるよ」。英語では“One thing you lack.”「あなたにはなお最も大切な一つのことが欠けている」ですけれども、私もその言葉を引用して、皆さん方にほんとうに立派に考え、行なってこられたのですけれども、残念ながら五十年前にあるべきだったものが五十年後になって初めて行なわれるようになったということは、やっぱり私はさびしい限りでなかったかと思うんです。
にもかかわらず良いことは、遅まきながらちゃんとそれが分かってこういうことになったのですから、これだけでもって私は、新聞とかテレビとか、そういったようなところでどう扱うかは全くわかりません。しかし私は、ほんとうにこれは、考古学の発掘において、一つのエポック・メイキング、画期的な出来事になるものだというふうに確信しているのでございます。
 
<市民会議の名で弔辞の奉呈を>
 そう思って私は、それをたたえるところの、何と言いますか、弔辞といいますか、弔詞というんですか、それに当るようなものを一寸書いてみたんですが、これは実はお寺さんでやるわけですから供養になる、法要になるわけですけれども、考えてみればこの御霊は三千年ぐらい前ということになっているんですか、私はこれ縄文中期、もっと古いのでないかなあと、五千年ぐらい前から始まるもんですから。いずれにしても五千年ないし三千年は下らない、そういう時期ですから、仏教などというのは全く知らない。儒教などというものも知らない。神道などというのもすくなくとも大和朝廷でやるようなかたち、祝詞で考えるような、そういうものもなかった。全く縄文の宗教というもので、もしこれを祀ることができたならば最高だと思うんですけれども、残念ながらそういったものについて考える手がかりが全くございません。
 そこで私は仏教的でもない、儒教的でも神道的でもなくて、何かこれにもっとも近いようなかたち、言葉、文章、そういうもので、私たちの心からなる感謝の気持ちを表わしたいと思って実は短い、こういう色紙のかたちにまとめてみたのでございます。そして実はこれ、会長さん、事務局長さんもいらっしゃいますけれども、私はこれを私個人の名前ではなく、ここに出席、連なっておられる皆さん方の合意を得たかたちで、これを捧げたいと考え、事前にそれをご披露申し上げて、そんなことでよければこれを、市民会議の名前でもって献呈申し上げたいと考えております。これに対して細かいところでなく、大筋のところで、「うん そんな気持ちでいい」ということに、できればご賛同いただければ、私としてはたいへんありがたいと思っております。
 
<贈り名を「磐井祖人霊位」に>
 まず、いったいこの「人骨」、御霊、これをわたしたち、いったいどういう言葉で呼ぶのかということ。これ私はいろいろ考えまして、「磐井祖人」、先祖である人という意味です。そして御霊ということばについてあれこれ考えて、磐井の共通の先祖にあたる「霊位」とさせていただくことにいたしました。やっぱりこれは現在はお亡くなりになったかたちですから。お寺さんで仏教的に弔ってくださるということは感謝でございます。ぜひそうしていただきたいのですが、この人骨、縄文人自身に、できれば縄文人が受け止めて下さるような、しかも私たちの共通理解で日本語になっている言葉で表現することにして、「磐井祖人霊位」というふうに表わさせていただきました。「戒名」でございます、仏教でいえば。戒名はないわけですから。こういうことにして。さてこれを学問的にそれなら何と読むかということでございます。
 これもっともいい例は、ずっと古く中国・北京でもって、はじめてどのくらい古いか分かりませんけれども、五十万年前とか三十万年ぐらい前とかというふうな、おそらく人類としては最も古い人骨だろうというのが発見されました。そしてそれが「北京原人」というふうに名づけられたのでございます。原語をご存知ですか。「シナントロープス・ペキネンシス」といって、「北京原人」と訳されています。私はこの「シナントロープス・ペキネンシス」という言葉で、できれば表現したい。そしてもしそういうことならば「シナントロープス・イワイエンシス」ということになって、できればそういうことにしたかったのです。
 
<ホモ・ジョウモンン・イワイエンシス>
 しかし、これには学問的に誤解を生む必然がある。それは何か北京原人に代わるような、人類として最も古いのが、磐井のこの人骨だというような誤解を招くと、これはやっぱり困るのでございます。古く溯っても五千年、三千年ということなのに、北京原人は万単位ですから。三十万五十万年というのですから。そこでやっぱりこの「シナントロープス・ぺキネンシス」というのにぴったりするというのがうまくないだろう。そこでそれに近いようなかたちで「磐井縄文祖人」というふうなかたちにして、「ホモ ジョウモン イワイエンシス」。これ文字通り訳せば「縄文磐井人」と、そして「ホモ」とラテン語で「先祖」という言葉が自ずから表現されますから、それで私はこれを日本語としては「磐井祖人」というふうに読むことにしたらどうかと。そしてもし多少これ、正確かどうか分かりませんけれども、「シナントロープス・ペキネンシス」とか「ホモ・サピエンス」とか、そういったような言葉に近いような学名が問題になるならば、「ホモ ジョウモン」。ジョウモンを入れなければいけません。しかもこれを外国語に訳すことできませんから、日本語そのままです。「ホモ」は人間、人です。「ホモ ジョウモン・イワイエンシス」、「縄文磐井原人」と。そういう意味合いのことで、今私たちの言葉に合うようなかたちで「磐井祖人」、そして戒名に似たかたちの「贈り名」を出すとするならば「磐井祖人霊位」というふうにしてお贈り申し上げたいと、こういうふうに考えたのでございます。
 
<「満昌寺祖人霊位奥津城」>
 そしてこれをお祀りしているお寺さん、これは「満昌寺祖人霊位」、お墓じゃありません。お墓はないわけです。それで日本語としてこれは「奥津城」。神さまがおいでになる神聖な場所ということ。例えば万葉集などでは、大伴家持などが「奥津城」という言葉を使われた。「奥の城」ですね。したがって「満昌寺祖人霊位奥津城」というふうに、お祀りしている場所をお呼び申し上げて、すなわちこれが墓所になります。そういうところにお捧げするというかたちをとらさしていただきたいと思います。
 
<「磐井祖人」が今に求めること>
 そして、ただ単にこれは発掘によってたまたま人骨がああいうかたちで、ほとんどそっくり私たちが人として見とどけることができるような恰好で地上に現れたというだけでなく、実際にこの人、もしくはこの人たちによって開拓されたところの文明、文化、歴史、経済、そういったものの大きな意味、しかもそれがただ単に縄文時代として立派だったというのでなく、今日の我々にとってもこの人は、忘れることのできない教訓を呼びかけているのだという気持ちを、私はここのところではっきり表わしたい。
 私はそういう点で皆さん方には何となく、あれは縄文人だ、縄文人としてああいう恰好であらわれたということは尊い、立派だと、その程度に考えて、何となくこの人たちはやっぱりわたしたちのように進んだ文明の人たちではなかったから、今日私たちが学ぶところはただ先祖として何千年前に、この国土をお拓き下さったのだという程度の考え方をしていらっしゃる。
 
 私は現在の日本人、あるいは広く世界の文明開化を誇る人たち自身が、心底反省しなければならない時期に現在来ている。それはどういうことかというと、近代化であるとか、機械化であるとか、あるいは原子力であるとか、こういったようなもので築き上げられてきている現在の文明とか経済とか、そういったようなものが、かえって今重大な危機に瀕しておって、この恩恵を感謝しながら、そのマイナス危険をどういうかたちで回復し、或いは乗り越えていくかということについて、今特に文明の進んだ国において最も強く問われているところなんです。
 
 これは日本人についていうならば、戦後日本が急速に遂げたこの機械化とか文明化とか原子力化とか、こういったようなもののマイナスをどういうふうに克服していくかということ。溯れば奈良とか京都とか江戸とか東京とか、こういう大都市によってひらかれた歴史というものが、今、実は行き詰まりに来ているのです。プラスだけを歓迎することの出来ないようなマイナスが、ひたひたと私たちの背後に押し寄せているのをつくづく感じます。これを溯ると、弥生時代から始まったところの日本文化、日本経済、日本社会、そういったものを次から次と積み上げてきたものが、今日のこういったような状況になっているとすれば、根本的には弥生とか大和国家というところから始まって、全部先進とか、都とか、そういったようなところの恩恵を感謝しながら進めてきた日本の歴史というものを、そのいいところを受け継ぎながら、そのマイナスをどういうかたちで埋め合わせていくのかということについて、真剣にいま日本人は問われているのです。
 そしてそれに答えるためにいろんなことがいわれている。例えば自然というものをもっと大切にしなければいけないなどというかたちで。しかし自然などいうのは、経済そのものでは、生活そのものではないんです。言ってみればこれはロマンティックな表現です。弥生とか、歴史時代とか資本主義とか、そういうものに対抗して、そういう人為的なものによってすっかりスポイルされてしまったところのものを乗り越えてゆくにもかかわらず、人間の経済力、生産力、発展力、そういったようなものとしてはっきり経済にもなる、生活にもなる、生産にもなって、にもかかわらず自然というものにがっちりと根を下ろしたところの生き方、生産様式、経済様式、生活様式。そう言ったら、もうみなさんお分かりですね。それは縄文しかないんです。日本列島における歴史の始まりは縄文だからです。そして、もし自然そのものが生活であり、文化であり、経済であり、産業であると、そういったようなものが日本の歴史において、現実として確認されるものがあるとすると、それは縄文しかありません。縄文しかありません。
 
<縄文のこころを生きること>
 私たちは何も機械を全部やめてしまう、新幹線も飛行機も、資本主義も原子力もみんな止めてしまって自然に戻るということではありません。しかしながら、その心、その精神、そういったようなものが、現実の生活、経済、生産、そういう中でどういうふうに現実に生かされて、決して抽象的な理想ではない、現実にそれは一つの生産様式であり、経済様式であったのだということを、確認できるようなものに立ち戻りながら歴史の進歩というものの舵取りを誤らないようにしていく。こういったようなことがいま求められている。
 
<自然そのものを生きた縄文人>
 私はそういうかたちで、「自然に帰れ」ということは近代におけるルソーという人のことばです。それから老子などという人も、中国では「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」といっている。やっぱり自然ということが結局、我々が最後学び直さなければならない究極の教訓だということをちゃんといっているんですが、ただ私は、こういう人たちの言っているところには、現在ついていけない欠点があると思うんです。それは観念的な理想であって、それが経済とか生産とか、現実の生活に、どういうふうにその自然というものが生かされていくのかということについては、残念ながら老子をどう読んでいいのか、あるいはルソーという人の“Return to the Nature”、そういったものを読んでも、何となく自然というものはすべて現在の生産とか文明というものを、みんな壊して、棄ててしまって自然に戻るというふうに、うっかりすると聞える。即ちこれは大きなロマン主義なんですね。夢なんです。
 
 縄文には夢は一切ございません。自然そのものがはっきりした現実なのです。はっきりとした現実なのです。このように自然そのものから出発する、自然そのものから教わる、自然そのものを生かしていく。そういうかたちの歴史、生産、経済というものは、日本の歴史においては「縄文」しかありません。しかもその「縄文」というのはなんと、日本列島の北は北海道から沖縄まで、例外なくある時期には日本列島の全ての人たちが「縄文人」として、何千年の生活を現に生きてきたのでございます。
 
<「縄文的原型と弥生的原型」>
 これだけのことを考えてみましたならば、たとえば谷川徹三などという人が、「文明論」、あるいは「芸術論」として、日本の生き方は原理的に二つあると思う。一つは縄文的な生き方、もう一つが弥生的な生き方。「縄文的原型と弥生的原型」というふうによんでいますが、これは残念ながら芸術論的な理想論になっているのでございます。
 私はこれを現実の生産、経済、文明というものの理念としての日本の中では、大きく縄文的な生きかたと弥生的な生きかたというのは、それぞれの時代によっていろいろに変化してこなければいけません。しかし基本の理念において、大きくいって縄文的な生きかたと弥生的なものとを、どういうふうにミックスし、コンビしていって、そうして世界の何処にも負けないような進歩と前進というものを未来に獲得して行くかという行き方を考えた場合には、私はこの「縄文的原型と弥生的原型」というこの二大原理の組み合せということは、これから先も真剣に検討していかなければならないと考えるのですが、その時に、どうでしょうか。日本人全体の、あるいは皆さん方自身の考え方が、「縄文的」というと「原始的」という考え方が、八割九割方、中心になっている。私はそうでなく、これを「弥生的」「近代的」といったようなものと、五分と五分に向き合えるようなウエイトでもって、「縄文」を考えなおしていくような行き方が、日本人の中に生き返ってくることによって、初めて21世紀における「抽象的な自然」「抽象的な大地」などという受けとめ方、生き方から、ほんとうに日常生活の中に具体化していける道というものが開けてくるのでないかと、私はそういうふうに考えています。
 
<「三内丸山」を超える「貝鳥貝塚」の本格調査を国費で>
 さて、いったいそういう縄文的なものの本場は、日本の歴史では東日本でした。東日本でもなかんずく東北日本でした。現在では何となく青森県あたりが、「三内」とか「亀岡」とか、そういうところが本場の本場のように考えられておりますけれども、私はこの「貝鳥貝塚」、この地区における貝塚などというものが、もし全面的な発掘というものが進められることになったなら、これは十二分に「三内丸山」に匹敵するか、それを越えることができるようなすばらしい遺跡になり得るはずだと確信しているのでございます。確信しております。
 そういうことを考えると、この「貝鳥貝塚」の縄文人の「おわすがごとき」み姿に教わって、その人たちが示してくれた教訓というものを、むしろ21世紀的に受け止めなおしていくような生き方というものこそが、むしろ最も新しい日本的な未来志向になってくると、こういうふうにさえ考えるのでございます。そして残念ながら皆さん方は、それは高橋さん一人の考えだという気持ちが内々おありではないかというふうに思いますが、私はこれを私の最後の公開の遺言のようなつもりで皆さん方にこのことを自信をもって、確信をもってこういう述べ方をさしていただきました。
 
<弔詞案文の「磐貝公」とは>
 そして、そういうつもりのうたをこの色紙に一つまとめてみたのでございます。そしてこれを一応読んでみて、若干の解説をして、ここのところで、「まあ、そんな趣旨でよろしい」ということだったら、この先、とりおこなわれるその供養の席において謹んで読上げて、献呈申しあげたいとそう思うのでございます。読んでみます。
 「磐貝祖人」、これ皆さん方には初めてでしょう。「磐井祖人」のつもりです。結果的には。しかし皆さんご承知のとおりに、あの坂上田村麻呂の胆沢経営において、アテルイという人と並んで、これと強力な抵抗をした蝦夷の代表が「盤具公母禮」(バグノキミモレ)。基盤の「盤」に道具の「具」と書かれている。そしてこれをそのまま学者たちはみんなそのまま受け継いで、何と読むか分からないとしてきている。これはぜんぜん学者という人が、学問の勉強をしない証拠です。「心ここにあらざれば見れども見えず、聞けども聞こえざる」ものです。
 
<「盤具公(ばぐのきみ)母禮(もれ)」は「磐貝公(いわがいのきみ)母體(もたい)」>
 これははっきりと「盤」は磐井の「磐」のあやまりです。したがって「盤」は石の「磐」。それから道具の「具」、これは「貝」です。「貝」のあやまりと考えて「磐貝」と読むべきです。そしてこの「磐貝」が、縄文で問題になっている淡水産の貝の「いわがい、いしがい」が元なんです。
 
 そして私の考え方は、「磐井」というこの言い方は「磐貝」といって、ここに括弧がありますね。磐(ケ)井。(の)という意味で「ケ」と言う字を書くでしょう。「イワケイ」即ち「イワゲイ」と読まれて、「イワゲイ」の「ゲ」は「カ」とよまれますから、それが「イワガイ」となり、そしてそれが都の人たちの非常に恰好のいい字に合わせて、この「磐貝」を「磐井」と。いいですね。「ケ」をとって、そして「貝カイ」の(イ)が井戸の「井」に改まって、そして「磐井」となったと、こう考えるのです。
 したがって私は「磐貝公母體」というのは、本来、磐井の中心にあったところの指導人物、それが今の生母の母体に追われていった恰好のもので、そのために「磐貝公」というこの名前だけが残っている。そしてその意味が分からないために、これを都の人たちは当て字をして「盤具」というふうに書いたものです。したがって「盤具公」でなく「磐井公」です。したがって私は「磐井」という言葉は、本来は「磐貝」からきたと考えています。「磐貝」は「石貝」で、縄文の「貝鳥貝塚」などにおける主たる淡水産の貝というのは、この「磐貝」でした。「石貝」でした。
 
<「磐井祖人」とした根拠がここに>
 そう考えるならば、縄文を代表する海水産物の名前を「磐貝」というふうに書き表した方がいいと思い、それで「磐井祖人」という言い方を「磐貝祖人」としたのです。よろしいですね。そうすると、こういうところも勉強していかなければいけませんね。勉強しなければこういう解釈は出てきませんから。そういう勉強をこそ皆さん方が、地元の「地方学」として、これから先を真剣にやって欲しいと思うんです。
さて、「磐貝祖人は貝とり嶋に 漁り大業はじめては われらにたつきの本教え 行先いかにと見んとてや (おわ)すが(ごと)にましますを」と、そういうふうにまとめてみました。
 
<「貝鳥」は「貝とり島」の略>
 そしてここでも「貝鳥」ということばについてはこの前、「鳥」は「島」の誤りだろうといいましたけれども、なぜそうなったかということについて、私は何回かここを拝見して、「ははあ」と思って感ずるところがあります。
 そこでこれは私の新しい提案として申し上げます。「貝鳥」は「貝とり嶋」の略だと。「貝とり嶋」になります。それからその「鳥」は貝をとる最終の採取者であっても鳥だけが食べたのではないので「貝とり嶋」と、その「鳥」の字を入れた「嶋」と、バードの飛ぶ「鳥」にしますと似ているために「貝鳥嶋」のつもりで、鳥と島とが一緒になっちゃって「貝鳥」となった。したがってあの地区が「貝とり島」というふうに呼ばれていた。その島をはずしての略称が「貝鳥」だと、こう考えるのです。
 お分かりのようにあの地区は全部、海水、淡水が満々と現在田んぼになっている部分を埋めておって、あの貝塚のある場所、あれは中島になっているのでございます。そしてそこのところが無限の貝とりの宝庫であったために、通称「貝とり島」というふうになって、この「とり」は貝を採るの意味、この「とる」が後になって分からなくなってしまって、「島」とも混合して「貝鳥」というふうになったのだと、これが私の考えでございます。
 
<「たつき」の道を教えてくれたご先祖さま>
 そうすると私たちの「貝とり嶋」の先祖達は、この嶋でもって漁り、貝とか魚とか昆布だとか、そういう海産物をとる仕事を、ここのところで大規模に始めて、そしてわたしたちに、これがお前達これから生活していくための生活のよりどころになる仕事、産業になるのだよという、そのたつきの根本をこの「貝とり嶋」の漁師たちが教えてくれたのだと、こういうふうに考えて、そしてこれがひとり海産物、貝とか昆布とか、そういうものだけを採るのでなくって、人間として生きていくための生活のよりどころになる産業を、こういうかたちではじめて教えてくださったのだと。
そうしてですね、さて、こういうことを自分が「縄文の道」として教えたんだが、さてこの磐井の人たち、花泉の人たち、この地区の人達が、この教えのとおりに、生産に、産業に勤しんでいるかどうか、成果が上がっているかどうか、その「行先いかにと、見んとてや」、果たして自分が教え、模範を示したように、自分の子孫たち、周りの人たちがやっているかどうかを見とどけようというお気持ちからではないでしょうか。今も現に生きておられるかのように、そこにいらっしゃって、私たちをじっと見守ってくださっている。「おわすがごとにましますを」です。
 そう思いませんか。あそこにああいうふうに横たわっていらっしゃるお姿を見ると、偶然にああいうかたちでご遺体が残ったというのでなしに、ちょうど仏教で言うならば「入定相(にゅうじょうそう)」、平泉で言うと、清衡、基衡、秀衡たちがお棺の中に眠った状況で生きていらっしゃる。高野山では空海・弘法大師が生きていらっしゃる。亡くなっても実は眠った状況でずっと何千年、何百年後の世の中を見守って下さっているのだという考え方。仏教ではそれを「入定相」というんです。あのお姿を見ると、仏教でみたら「入定相」ですね。すなわち、亡くなってもここの地元の村人たちは、このとおりに実際に後を継いで仕事をやってくれて商売を発展させ、そして幸せを創っているかどうかを見とどけようというお気持ちが凝って、あのような形で現実にこの世にお姿を留めることができるようになったのだと。私たちはそう考えるべきではないでしょうか。
 たまたま残ったのではありません。縄文人が何千年後の村の生活、発展、将来、幸せを見とどけるために、ああいうかたちでお残りになっている。平泉の人たちはそういうかたちでミイラとしてお遺りになったのですよ。それが「此土浄土」というものを地上につくろうとする平泉の心でしょう。そういうことを、良いですか。今現に、私たちが、縄文は何千年も前のことで、米も知らなかったのだと、そういうふうになめてかかるような縄文の見方というものを、ここですっかり清算をして、「きよまりきよめて」というのはそういうことです。私たちのそういう間違った誤解、先入観、縄文に対する偏見。そういうものをすっかり取り去って、教えてくださった教訓を、20世紀、21世紀の今日においても守って、その精神を生かしていくんですよ。
 
<きよまりきよめて魂まつり>
 そういうふうな気持ちに切り改まって、「きよまり」というのは私たちの迎える心、清浄心をそういうふうにいう。そしてそういうような眼でもってあのお方を、縄文人としてではなくて、私たちの今日を拓いてくれた磐井のご先祖なんだというふうに、これを見とどけて、これを見上げて、そうしてここでみんな心を一つにして、御魂祀りをしようではありませんか。
 ここのところで私たちの今日あるすべての方向を、この人たちは示してくれている。しかもそれを何千年前のこととして終わらせるのでなくして、今以てそのお姿を地上に留めて、私たちを見守ってくださっているのだと、こういう考え方をしなければいけませんよ。そうであればそれに応えるような人に、私たちの身も心も清めていかなければなりません。またそういうふうにあの縄文の先祖を清めあげて、そしてここのところでは三千年、五千年前を、今現に私たちの母親や父親が亡くなったと同じような心でもってお弔いをしようではありませんか。
 
 今日こそはそういう縄文に対して、心底私たちの感謝の心を捧げる日でありますと、こういう心でございます。非常に短い詩に集約しましたので、詩として全くなっておりませんけれども、私はこれをここにお出での方々を「市民会議」というふうに仮に読ましていただいて、高橋富雄としません。市民会議の名においてこれを奉呈さしていただきたいとこういうふうに考えたのですけれども、お許しいただけるならば拍手でもっておねがいいたします。不自由なところがあると思います。そういうところは皆さん方の勉強と、これからの実践によって補ってください。私はもう明日か明後日、あっちへ行く身ですから、その後を皆さん方で補っていただきたいのです。ご静聴ありがとうございました。