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舞草神社のいわれ

             舞草神社のいわれ                              

講師 東北大名誉教授 高橋富雄先生 

                          平成19年9月28日 

 みなさんおはようございます。今日はたいへん貴重な現地調査をさせていただいて、ほんとうに勉強になりました。それから私、実は皆さん方にお願いをしておくことがあるのでございます。

 それは本日話題になる「舞草神社」というのは、ただ今の話題提供にもありましたように、実はこれ、日本文化というものを,東北から、岩手県から、あるいは東山の地区から、日本全体に対して問題提起をしていく、そういったときの大きなテーマになるものだということですね。そういうふうに考えて、これをあんまり地元の話題に止めたままにして欲しくないということです。皆さんはこの地元のことを考えながら、実はそれは岩手県を越え、日本そのものを考えなおしていく問題に、ずばりつながっているものなのでございます。それがしかも平泉とかなんかのように、京都やなんかの立派な学者とか、芸術家とか、技術屋などが来て作ったものを、地元から再輸出するというかたちのものではなくて、地元本来の力で、地元本来の技術にヤマトや中央の力をこれに加味していくようなかたちにはなるのですが、基本はこっちのものなんです。そういったかたちの文化というものを、実は皆さん方、この「舞草刀」というかたちで、現に自分たちの周りで考えることができるのだということを、改めて考え直していただきたい。そういうふうに思います。

 

<なぜ「舞草刀」が「日本刀」の源流なのか」>

 ずばり言って、いったいなぜ「舞草刀」というのが「日本刀」の源流だとしているのでしょうか。先ほど話題提供にありましたように、あたりまえのことのように専門家が言うものですから、「なるほどそうだ」というふうに、地元の人たちもその気になっているのでございます。しかし考えてみるとこれ、普通にはあり得ないことですよね。今日この最高に進んだ学問、文化、経済、政治、そういう状況にある現在、日本の国政最高の課題というのが、地方というものが中央と非常な格差がある。その格差是正ということが最高の政治のテーマとして話題になっています。そして皆さん「なるほど」と思っておられるでしょう。もしそういうことであるならば、日本という国家の、まあ云ってみれば刀を、これは単なる人殺しや人を斬るためのものではなくて、一つの文化と考えたなら、奈良とか京都とか都とか、中央でこそ「日本刀」というものが始まって、そしてそれが外国でも日本刀の源流として考えられているということなら、これ何の問題もありません。現に日本人は全部、何もかも良いものは大和から始まると、奈良、京都、大和でなければいけないんだという、こういうことが常識になっているしょう。

 ところが日本刀に関するかぎり、これは舞草刀がその源流なんだということが、常識みたいになっていて、そしてそれを何も証明したりなんかする必要がないように考えられているでしょう。こんな不思議はありません。こんな不思議はない。もしそういうことなら、もっとも純粋に、東北的、岩手県的、東磐井的、東山的であること自身が、すなわち「日本」というもののあり方、その基になっているのだと、そういうことになってくるわけですよ、これ。この常識というものを、私は根本から考えてみて、これとってもすべて日本的なものは大和が基準であるという日本の考え方に対して、これを全面転換しなければいけません。そしてこういうことについての研究というのか話題提供というのが、残念ながら今の話題提供のなかでも挙げられませんでした。こういうことから、あまり専門的な話でなく、私が五十年間勉強してきたことを常識的にまとめるかたちでみなさんに話題提供してみたいと思います。

 

<日本の原点がどこにあって「舞草刀」が「日本刀」の源流なのか>

 まずこの「日本刀」ということの考え方。この言葉は、みなさんが考えるように、はじめから中国に対する日本、世界に対する日本というかたちで始まったことは考えられません。そういうことがいったい、東北固有の刀が、日本国家そのものをはじめから代表するようなかたちで「日本刀」という言葉自身がここから出てきたんだということでしたら、日本の原点はここにあるということになってしまう。そこでこういう常識を破る根本的な問題が、日本刀の源流ということばのなかに含まれておって、無理なくこれは磐井のものである、岩手県のものである、東北のものであって、それが外国に向けて日本というものを代表するときのものに、そのまま切り替わっていくようになったのだと、こういう考え方をすることによって、はじめてこれに対する答えを出すことができる。

 そしてそういうことであれば私は、過去五十年にわたって、こういう問題について一貫して主張してきていることがあるのです。そしてこれは残念ながら私がはじめではなくて、実はこちらのいちばんの学者だったひとり、金田一京助博士が既に言っていることですけれども、だ但し金田一博士は、私が考えるような結論には至っていなのでございます。金田一さんの「アイヌ文化史」というものにまとめて書かれていますから、みなさんご覧ください。

 

<「二つの日本があった」という言い方の謎解きから>

 歴史的に日本という言い方は、広い大きな意味の使い方と、小さく狭く地方に限った二つの使い方があって、これは二つ別々なんだと云う言い方もある。しかしとにかく二つその違いがある。私は、これは実は一つのものである。そして一つのものがそのまま全国的な名前に切り替わっていったのだと。そして「日本刀」というのが、それを代表するいちばん大事なテーマになってくると、こういうふうに考えてるのです。

中国には「唐書」、唐のことを書いた歴史書。古いのと新しいのと二通りあって「新旧唐書」というんです。唐の歴史書です。その中に日本から行った使者、「遣唐使」からの情報だというので、「倭国」といわれている大和国家の他に、独立した日本国というのが、「倭国」の拮抗の国としてあると、こう書いてあるのです。なぜ日本国というかというと、それはお日さまがそこから出るところの国だから「日の本の国」の意味で、これを漢語風にまとめると日の本、日本ということになる。それで「日本国」というのです。もしこれが事実だとすると、はじめから私たちが、大和国家、ヤマトの国「倭国」が、どうもこの言葉があんまり感じが良くないというので「日本国」と改めたという言い方、これはっきりしませんが、だいたい大化の改新ころから日本で「律令国家」といわれる時期ですけれど、今から千三百五十年ぐらい前、聖徳太子のあたりから大化の改新ころにかけて、「倭国」という言い方が「日本国」に改まったのだと、こういうふうに考えられているのでございます。しかしこれは日本側の、特に政府側で、そういうふうな定説を上から作り出したのでございます。大化の改新前後のころにははっきりと、やはり日本国というのは倭国とは別に「日の本の国」ですから、したがってこれ東のことでなければいけません。そうすると、今日の「あずま」とか、「みちのく」とか、東日本がまだ政府の下に良く組織されていない日本の国の一部について「日本国」という言い方がされておって、それが大化の改新ころに武力的な政府となって、この征服関係にも「日本国が倭国を征服した」という言い方がひとつあるんですよ。逆に「倭国が日本国を征服した」という言い方もある。しかし、いずれにしてもヤマト(倭国)と日本、日の本というのが、別々の西の国と東の国と独立しておって、今から千三百年、千四百年ぐらい前に、奈良時代がはじまる百年以上前ころに合併して、その合併したのを機会に、ヤマト(倭国)と言っていた国が、「日本国」と言うようになったんです。よろしいですか。これが中国の正史が日本の使節からの情報として、日本の歴史を書きまとめるときの定説として確認しているんです。みなさん、何でも日本より中国、アメリカの方がありがたいものだという考え方を日本人はしているでしょう。そうであればなぜ新旧両唐書のなかで、こういう言い方をしているのだけを、日本人はこれを断固拒否していると、そんなこと到底ありえない。あり得ないということです。

 

<強引なごまかし――ヤマト中心の歴史観>

 しかしこれは、学者の、あるいは中央の、大和関係の人たちの、これは強引なごまかしです。客観的に見れば、倭国と日本国というのは別々にあったもので、それが武力支配関係を通して、一本化した段階で、征服した側の大和国の正式の名前に、征服された日本国の名前がそのまま受け継がれていくようになっていく。そしてこれから後中国の正史では、それまでは日本の歴史を「倭国伝」というふうにして日本のことを書いておったのが、全部これから後は「日本伝」というふうに変ってくる。

 そうしてみれば、私はいったいこういうふうに大和の支配の外にあって、東側にあって、そして倭国と対等とまではいかなくても、対等の独立国のようなかたちになっておった国などということを歴史的に考えたら、「日高見の国」と呼ばれたり、「蝦夷の国」と呼ばれたり、こういった地域しか考えようがないということ、皆さん感じませんか。

 そしてかえってそのように倭国ヤマトと五分・五分ぐらいに対抗できるような実力をもった東日本の国であるために、何としてでもこれを征服してヤマトの一部にし、言ってみればヤマトの強力な支えにしていくようにしなければいけないというかたちで、蝦夷戦争、蝦夷征服、蝦夷経営というものが、大和国家の歴史がはっきりしてから平安朝初期まで、一貫して、数百年にわたって国家の最大の問題は、蝦夷をどういうふうにして日本の国の一部に取り入れて、そして、そういうかたちで日本国家というものを完成させるかというところにあったということを、私たち蝦夷の歴史というものを考えていって、これを一貫して歴史の真実だということを考える必要があります。ただそれを大和朝廷に刃向かう国、人たちであるから、歴史は全部これを悪者というかたちで書いているというふうな考え方をすることができますね。いずれにしてもこれ歴史的事実ですよ。

 さてそういうことになってきましたらば、金田一博士が、地方的な見方で、蝦夷のことを「蝦夷の国」、東北の地方について「日本国」というけれども、しかし大きくそれをも含めて大和国家の正式の呼称が「日本国」であるというふうに大きく言い方があるけれども、しかしこの二つは別々なんだといって二つ併行したかたちで、このまとめをしておられないんです。

 

<「日本国」とは「日高見国・蝦夷国」のこと>

 私は「日本国・日の本」という言い方は、歴史的にその起源を考え、国際世界史的な観点で見られた我が国の歴史のとらえ方から、それから大和朝廷側が本来自分の本音を書いたところの記録というものから考えて、「日本国」という言い方は、初めは「日高見の国・蝦夷の国」、そういったところをお日さまが昇る東の果ての国という意味で「日の本」というのだ。私この「日の本」というのは、お日さまが出るという言い方は、良い字で恰好よく言ったことだと思うのです。これはほんとうは「日の本」の「日の」は、「鄙(ひな)」の意味だろうと、「田舎」の意味、即ち「あずま」といわれた地域は、大和言葉・日本語では「鄙・田舎」というのです。それから「東北みちのく・蝦夷の国」というのは、「鄙の果て」という意味でございます。その「鄙ほとりの国」を、漢字で恰好よくきれいに表現して「日の本の国」、「鄙もとの国」ですね。そして漢字に直すと「日本」ということになってくる。これがそのまま基になって、「倭国」といっているのが、この東の「日の本・日本国」という字がたいへん良いからということでもって、日本の国号そのものに切り替えていったと、こうふうに私は考えているのでございます。これは私の説です。ところが私が五十年、こういうことを繰り返し、繰り返しいろんな本で言っているにもかかわらず、依然として定説にならないというのは、日本というのは大和からはじめて起こった言い方が頑として定説になっているということです。よろしいですね。そういう頑とした定説の中で、にもかかわらず日本刀の源流が舞草刀だということがあたりまえのように言われているということになると、ここでは定説がきれいに捨て去られてしまっている。そしてなぜ東北の刀が日本刀であるのかという証明だけが出来てないことになります。しかしそれ私が今述べたように、それから金田一博士が言われたように、「日高見の国・蝦夷の国」についての人たちのことを、地方の意味で「日本国・日の本の国」というのだということをここに生かしている。そしてもし舞草刀の源流が日本刀、日本刀のもともとのかたちは舞草刀であるという言い方を考えてみたならば、まず第一段階で舞草刀の源流が日本刀であるのではなくて、舞草刀は蝦夷刀である、蝦夷の刀である、奥州の刀であるという意味で、第一義的に日本刀なんですよ。良いですか。奥州刀即日本刀なんです。そしてこの言葉が金田一博士によるならば、地方的に用いられている「日本」の言葉というかたちで、日本的に確実に証明できる。そしてこの「日本」という言い方を、そのまま国家の国号として使うようになったところから、大きく日本国という言い方と地方蝦夷の日本という言い方が併行したりするようなことがあっても、都合良いときには即ち日本国家そのものを代表するものが、「地方の日本」に由来するものに基づけられて考えられたとしても、これちっとも不思議でない。日本刀というものはそういうかたちで、東北の刀であるために日本刀なんです。良いですか。ヤマト的でないから日本刀なんです。ただし、その「日本」がヤマトの意味にも切り替わることによって、その「蝦夷・奥州刀としての日本刀」というのを、何となく日本国家を代表する刀のように考えられるようになって、そういうふうにしてすなわち「舞草刀は日本刀の源流である」というような言い方になったとすると、歴史的にこれ真実です。歴史的に真実でございます。ただ証明できていないところは、地方的な東北・奥州・日高見と蝦夷刀としての日本刀が、どういうふうにして中央の承認を得るようになって、日本を代表する、日本国家を代表する刀にまでのし上がっていったかというこの証明は、「舞草鍛冶」なんかの研究者の間においてもなされておりません。何故かというと、こういう「日本」の二つの使い方についての区別が全く問題になっていないからです。

 

<奥州・エゾの地を「日の本」としていた史実例>

 こういうふうに考えてみなさんがたは、この東北のことについて「日之本日本」だというような言い方は、文献でずーっと後まで確認できる。例えば秀吉が小田原に出て天下統一をするときに、小田原を征服すると「関東日の本までの置き目」、支配の基準になるという言い方をしている。この場合歴史家は、「日の本」は日本だから、関東、ひいて日本全体だと、こういうふうな考え方をしているのでございます。これ誤解でございます。この「日の本」は、奥州、東北の意味です。すなわち「小田原を征服すれば関東地方はもちろんのこと、自動的にも奥州まで従うようになる」。そのとおりですね。伊達政宗以下の人たちは、ぜんぶ小田原に行って降伏するようになる。そうすると秀吉のころまで、「日の本」という言いかたちで、すなわち「奥州日本国」という考え方は、厳然として生き続けておって、これ「ヤマト日本国」と何ら矛盾しない言い方です。こういう言い方は室町時代にはきわめて普通です。先ほど話題にあった津軽の豪族安東氏と言います。安倍氏の子孫です。十三湊が根拠地です。この安東氏は若狭の国小浜にあるところの浜寺というところを氏寺にしておったんですが、ここに物を献上するときに何と言っているかというと、「日の本将軍安倍」とこう言っておる。ここについても歴史家は、東北の田舎豪族が「日の本将軍」というのは、大それた言い方だという言い方をしているのですが、これも「日の本」を蝦夷の意味だと云うことを全く理解しない歴史家の誤解になっている。「日之本将軍」は蝦夷管領、蝦夷支配者という意味なんで、これ事実なんです。安東氏は鎌倉幕府以来、北海道の蝦夷全体を現地にいて統括する人という地位を「日之本将軍」というふうに呼んでいた。蝦夷管領の意味です。「諏訪明神絵詞」ということばでは、南北朝の室町初期の時代のことですが、蝦夷の種族三種類あるんです。日之本、唐子、渡党という。こんなこと、「唐子」も「渡党」もどうでも良いんですが、蝦夷の代表的な種族として「日之本」という言い方も、これも日本国家の意味とは全然別なかたちで公認された言い方なのです。そしてこういう言い方は平安時代にまで遡る。これは東北の今日の青森県に「日本中央碑」という碑があったということです。坂上田村麻呂が弓の弓はずでもって、石にそう書いてそれを記念に建てたという伝えがあります。これについても平安時代の学者から今日まで続く同じような誤解があります。この日本を日本国家名にとっているのです。北海道、津軽糖部の地において「日本中央」などというのは、みちのくの片隅において有りえないことだと。「これは千島の果てあたりまで日本の内だという考え方をすればここのところが中央と言ってもおかしくないだろう。」こういう言い方なんです。これも全くのあてつけですね。こんなことあり得ません。それなら「みちのく」という言葉が出て来る筈がない。最果ての国というのが定説です。しかしこの「日本」というのが「蝦夷の国」の意味だとすればなんの不思議もありません。平安時代の半ば終わりから、今日の岩手の北、青森の地区が「日の本」、蝦夷の本場の地であるという言い方がはっきりしています。そういうふうに考えて文献に照らしての私たちは「日本、日の本」という言い方を、初めっから「ヤマト」にだけ固定して考える、こういう考え方を訂正して、そしてもう一つの日の本・日本という言い方、更にそのもう一つの地方日本から中央日本の呼称が成立したのだという、こういう考え方をするようになって、論より証拠、舞草刀がその雄弁なる証言をしているものだと、こういうに考えて下さい。

 

 <舞草刀そのものが日本刀なのだ>

舞草刀は日本刀の源流でありません。日本刀そのものなのです。日本刀そのものなのです。そしてそれを日本国家そのものを代表する日本刀というふうな言い方になっていく。これは地元からもう少し確認したかたち。しかし原点は、出発点は、あくまでもこっち側にあるという、日本刀というのの言い方です。こういう考え方です。皆さん不思議に思うでしょう。「日本刀」などという言い方は、日本では古くありませんよ。こんな言い方ありません。外国において日本の刀を言うときだけこういう日本という言い方がおこってくる。私はこの最初の言い方は北宋詩人の欧陽脩という人、これは日本の平安時代の半ば、道長のころの人です。「わが世をば」をうたった人。この人の日本刀の歌というのがある。そして私はここに書かれていること、これを原文で読上げてはとってもたいへんだから、有名な漢詩のなかに、必ず納められておりますから見てください。

 こういう言い方をしている。「東の蝦夷の島国からは、中央の中国にさっぱり交通はないけれども、最近ここのところからすばらしい宝になる刀が知られるようになっている。それを越の国、中国の将軍が千金を出してこれを買い取ったと。そしてこれは宝の刀であるけれども、日本ではこれを身につけ飾り、しまっておくと、悪いこと、何か穢れであるとか、それから罪悪であるとか、そういうものにかからないで済むような、そういう魔よけの宝物として有名になっているそうだ」と。まだいろいろとあるんですよ。そういう言い方をしているんです。私はこの言い方は、大きく日本から来たという意味においては日本国家ですが、しかし魔よけであるとか何かいうふうな言い方になっているのは、これは日本から出た刀が中央に行って、「壷切」であるとか「髭切」であるとか、そういうこの護身用の、魔よけの宝刀として大事にされておって、その作った鍛冶が「舞草鍛冶」であるというふうな言い方を踏まえた、そしてそれを中国風にアレンジして伝えた歌だというふうに、私は感じているのでございます。

 そしてこの中で、実をいうと中国ではそういう魔よけになる宝刀のことを、これを「切宝刀」と言ってます。これは私、舞草研究会の方々にお願いしたいのですが、この宝を切る「切宝」の「切」は、「壺切」の切るです。「鬚切」の切るです。私はそういうことから、どうもこの欧陽脩の日本刀の歌の特に、日本に中国の「切宝刀」にあたる宝刀が出たんだ、それを中国に輸入したんだというふうな言い方の詩が、我が国に紹介された。そしてこういうかたちで舞草刀の最高の宝刀が「壷切」とか、「髭切」とか、これは日本における「切宝刀」ですね。宝そのものを切ることです。そういうふうになったのでないかとすると、大体において平安時代の半ば頃から、こういうかたちで、中央に京都に平安の都に紹介された日本刀、蝦夷刀・奥州刀としての日本刀が中国まで、国際的な市場にまで広げられていって、それが逆輸入されて「日本刀の源流が舞草刀である」というふうな言い方になってきたのだと、私はそんなふうな感じ方、これは「我惟う」ですよ。従って合っているか合っていないか、皆さん方の検討におまかせします。私はそういうふうに確信しているのでございます。

 

<「舞草」の語源・ヤマトタケルの解釈>

 さて、問題はいったい舞草刀がなぜそれほど日本刀か、蝦夷刀ということ。蝦夷刀とすれば舞草刀とどう関係してくるか。先ほど舞草についていろいろな考証がございました。これは一つ大事なことでございます。私はこれについてはもう少し、蝦夷の征討の歴史というものが、どういうふうにして始まってきたかということと、それから特に奈良朝・平安初期における蝦夷征討において、征服する側の、戦争をしかけていく政府側で、いったい蝦夷をどういうふうに見ていたかということについての勉強が全く足りないのでございます。これをきっちりやることなしに、なぜ式内社の舞草が、舞草刀のこれは護る神様でしょうけれども、逆に舞草それ自体がこの立派な日本刀を作るための神さまとしてここに勧請されたのだと。そう考える方がよろしいと。そういう考え方、すなわち蝦夷との関係が全く脱落してしまっている。これでは日本刀になりません。舞草にもなりません。舞草の解釈。これは国語学者がごく一般的な考え方の言い方としては、いろんな説があって、それが平均的にばらばらにこうもある、こうも言われている、こうも言われているというふうに、舞草刀を考える場合の舞草語原もそういうふうになっているのでございます。これは間違いでございます。舞草神社、舞草刀、こういうことを言うときの「舞草」、一つの使い方に限定されたそういういろんな言い方の中からたった一語、こういう言い方だけを選択した言い方だと、こういう考え方をしなければいけませんね。そうしなければ日本を代表する日本刀の源流としての舞草刀などというのは出てきません。

 それ何であるか。「舞草」の「舞」、それは当て字でございます。私の考えです。高橋の意見ですから、したがって間違っていたら皆さんの方で訂正してください。私の意見、当て字です。「舞」、これは舞草の日本語としては正確ですが、この舞草が「燃え草」の意味の「もくさ」、すなわち燃える草の意味の(もくさ)の略、そう考えてみてください。それが、ただ意味がわからないために、恰好の良い「舞」という字に、しかもその「舞」にも日本の文字にないニンベンがついたりなんかりして、特別の使い方だと云うことだと思います。そして、いったいこれは何を意味するのか。私は二つの意味を考えることができると思います。ただし、説明がありませんからね、従ってこれは解釈です。一つは、この燃え草は刀を作るときにおいて、炎々として燃え上がるその火の粉、炎の中でもって、神剣が鍛えられていく。その模様について「燃え草」という「もくさ」という言い方が出た。もう一つの考え方。いったい蝦夷経営の最初に来て最後まで軍神として崇められているのは私たちは田村麻呂というふうに限定して考えています。田村麻呂には及びもつかない大先輩がいたのでございます。日本武尊ですよ。日本武尊。この人が蝦夷経営の歴史を起こしたということです。そして最後まで日本武尊が蝦夷経営の軍神として祀られていくようになり、そして朝廷でもこの日本武尊の伝統を守って、「建部」というかたちでもって、その伝統を伝えていく技術集団というものを朝廷でも伝えていくようになるのでございます。

 いずれにしても日本武尊というのが蝦夷経営の最初に来、そして最後に。これもし聖書基督教の言葉をつかうならば、「初めであり、終わりである人」。それは田村麻呂でない。なぜなら田村麻呂は終わりに来る人で始めでない。始めであり終わりである人、アルファでありオメガァである人。それヤマトタケルノミコトの言い方は二通りありますよ。皆さんおぼえていてください。一つは大和の国を古くは「倭国」というときの「倭」の建築の「建」の尊、これは古い日本の倭建尊(やまとたけるのみこと)。ところが後になって、この「ヤマトタケル」は、ご承知のとおり「日本武尊」とこう書く。そして「ヤマトタケルノミコト」といって、これが普通の日本武尊です。

 まず倭国という言い方と日本国という言い方を、一人の人名に代表する者として(ヤマトタケル)という人がいるということ。これで分かりますね。そしてこれが蝦夷経営の中の、いってみれば理想的な神様となった指導者として、田村麻呂以下の人たちの先頭に立って指導したという考え方をすれば、これは「ヤマトタケル」という方は、いつまでも生きておられた。蝦夷征討において最後まで生きておった武神だとこういっていいと思います。さて、その「日本武」と書くんですよ、(ヤマトタケル)というのを漢字で書いて。「武」という言葉を物で表わしてごらんなさい、刀になるじゃないですか。従って「日本武」は人の名前ですが、物のかたちに表わすと日本刀、(ヤマトタチ、ヤマトカタナ)、そういうことになってくる。

 

<「遠山村」と「日本武尊」>

 私はそういうことから、「日本武尊」ということを、これから最後の蝦夷経営というものがはじまる地点、それがこの「東山の地」ですからね。「遠山村」というのは、そういうかたちで田村麻呂が出現する直前に、政府の全力を挙げてこの征討にあたり、この経営が完全に終わった段階で、ここを基地にして蝦夷経営、胆沢経営が始まるのですよ。宝亀五年のことです。西暦の774年。このときに遠山村の経営というものが完全に成功いたします。このときの「遠山村」、これまで具体的に何回も言ってきていますが、東磐井の地と気仙の地とを含めたかたちが「遠山村」でございます。そしてこの遠山村の経営が完全に終わった二年後に、胆沢についての大軍事行動が開始されることになったというのが、ちゃんと先ほど話題になった「続日本紀」という正史に書かれているんです。三千人の軍隊を起こして胆沢の賊を討つと書いてあります。これは田村麻呂よりも二十年も前のことです。

 いずれにしてもここが、ここの土地の経営が、胆沢の最後の蝦夷経営の基地になるということを考えてみましたならば、「日本武」という言い方が「日本刀」となり、「奥州刀」の代名詞となったこの剣でもって胆沢の賊を討つという言い方のための「刀つくり」というものが、全部ここから始まったというのではない。ですがここから開始されていくということの意味は、十分に理解できる。

 「覚鱉城」などというのが、ここからすぐ南、遠山村の入口、砂鉄川河口、私は「覚鱉城」というのは、そういうかたちで、他所のどこでもない、今日「河崎の柵」といわれているところの、その本来のかたちとして始まったのが未完成で終わりになった「覚鱉城」の位置だろうと。その証拠にここから「和同開珎」というものが出ている。はっきりこれは奈良時代の遺跡がここのところにあったということです。それから砂鉄川というのは、ご承知の通りに東磐井から気仙に向けて、すなわち「遠山村」を北上川に結びつけていく原点になるところの川でございます。

 

<「日本武」と「草薙剣」>

 さて、こういうふうに考えてみると、この日本刀・ヤマト刀、そういったものと「日本武」という者にあやかるかたちで、したがってここにおこるところの炎々と燃え上がる、そういう燃え草の中でもって鍛えられていく眞刀というのは、刀を作るときの祝い、予祝、前もっての祝いであることばです。

 逆にご承知ですね、「日本武」の用いたこの「天叢雲剣」というこの日本刀は、中国、中部地方、あるいは関東地方の蝦夷が、「日本武」を野原におびき出して焼き討ちしようとしたときに、逆にこれに野原に火をつけて、その草を全部なぎ払って「逆さ火」として蝦夷を全滅させたために、「草薙剣」と呼ばれることになったのはご承知ですね。私は「舞草、燃え草」というのは、このみちのく、日高見、「草薙剣」というものにあやかった神剣であるために、その神剣の製作は神さまの刀として、そしてそのいわれを経て、戦争に軍刀として使われていくようになっていく。こういうふうに考えていきますと「日本武(ヤマトタケル)」と「日本武刀」、それと「日本刀」、「マイクサ・モクサ」、草薙、つながりが出て来るということをみなさんはお感じになりませんか。私はそんなふうに考えて、改めて田村麻呂だけでなしに、日本武までさかのぼって、この「舞草刀」というものの原型を考えるようにしていくということが必要になってくるのではないか。大きな蝦夷経営の歴史というのが背景になければなりません。

 

<胆沢征討の武器製造の大舞草工場地帯>

 さて時間がなくなりました。私は舞草刀というのはそういうかたちで、代表的なものが神剣でした。名刀です。出発点は蝦夷経営のための三千とか三万とか、五万とか十万とか、こういう軍隊たちが、それぞれのかたちで、身につけて戦場に臨むのでなければ戦争になりません。そういうことからこの神剣をつくる行事を経て、このもとの大量生産した軍事用の、実用のための刀というものが、ここで大規模に生産されて、そういったものを見守る神様が舞草の神であると、こういうふうに考えています。私はそういうことから、今日確認されている鍜治場跡、古い鍛冶場跡、そういったものは限られておりますけれども、あの地全域にわたって一つの大きな舞草工場地帯というようなものが出来ておって、そういったものが胆沢征討軍における軍用刀のかなりの部分をここから供給する役割を果たしておった。そういうふうに考えています。はじめから舞草刀というものは、「安房」であるとか「森房」であるとか、そういう銘刀づくりの、名鍛冶の刀、宝刀としてではなくって、実用の刀として大量につくられるようになって、そういったものが蝦夷経営の終わった後、銘刀の方に転換していくという、こういう転換を考えていくべきだと。

 

<「舞草刀」の源流「蕨手刀」>

 もう一つ、舞草刀というものの源流をもし問題にするならば、それは「蕨手刀」です。舞草刀というのは遡っても、奈良朝末期までしか遡れません。遠山村の平定以後でなければ舞草刀というものは起こりえないからです。その前に「蕨手刀」というかたちで、蝦夷の人たちが主として用いた最も鋭利な刀として知られているものです。全国的に出土を見ているのですが、調査によりますと岩手県がその出土例60パーセントを占めています。そして本数にして60本ほどの現品が出土しているのが、北上川流域と、それから北の馬渕川流域なそうですから、これは八戸の方まで下らない岩手県の、せいぜい二戸、三戸あたりまでの地域と考えていただきたい。そしてこの蕨手刀というものに、中央の技術とアイデァとを加えるかたちで改良したかたちの、言って見れば「改良蕨手刀」というかたちで「舞草刀」というものが始まっていた。これが源流になってくるというのが私の考えです。

 そしてそのための技術集団というものは、これ地元だけではできません。ここには丈部(はせつかべ)の郷という、ここのところだけの、中央から集団的に移住してきたところの技術集団の村が磐井郡にあったのでございます。それがどこかということは、今日とても分りません。しかしその七つあった村のうち、少なくてもこの丈部郷という中央の技術集団が揃ってきた地域だけは、これは舞草神社の周辺を措いて考えられません。そういうかたちで舞草刀は、最初から蝦夷刀である蕨手刀を大和型に改良しながら大量生産するようなかたちのものとして、まず実用品、実用の軍刀としてはじまる。この戦争が終結した後、それを工芸品・美術品として、さらに技術を深め、精神化を深めるようにして、そうして今日、普通「舞草刀の原型」といわれるような、元祖といわれるような「安房」とか「森房」とか、こういうかたちの銘刀伝説というものを生み出してくるようになったのです。私はそんなふうに考えるのでございます。

 

<「大分岩」は「丈部岩」のことか>

 まだ、いろいろなことがある。私は今日見た「大分岩」というものがありましたね。いろいろな説を承りました。私はこれは、大部の「大」は、意味の分からなくなった「丈部(はせつかべ)」の「丈」という字、「丈部岩」ということだと考えます。こここそは「丈部郷」の郷民たちの、神祭りの場としての神体、岩で、本来舞草神社の奥庭はここだったというような考え方さえすることができるのでないかと、私はそんなふうに思っています。

 これ全部私の意見でございます。我かく思う。以上、話題提供として申し上げます。あとは皆さん方がそれぞれのかたちで使えるところは使ってください。

 


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