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磐井と気仙をつなぐ今泉街道

  磐井と気仙をつなぐ今泉街道                        2007年6月20日 

講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生         

畠山先生の企画によりまして、この砂鉄川の源流を尋ねる調査に参加させていただきまして、本当に勉強になりました。みなさん方の大部分も、ご一緒させていただきまして感銘を新たにしたわけですけれども、私は時間が時間ですので、私自身が問題にし、これをぜひ確かめてみたいというふうに思っていたことについて、とりあえず私なりに見通しを立てることが出来たと、そういうことについて私の感想としてのご報告を申し上げて、ご案内いただいた方々に感謝のお礼に代えたいと思います。

  

<まったく新しい東北の歴史をはじめていく要の砂鉄川>

 まず、私はこの砂鉄川というのは東磐井郡の要(かなめ)になる川であって、東北、岩手などにとっては北上川というのは、ほんとに大いなる川ですけれども、それを規模こそ小さいのですけれども、堰きとめるようなかたちで流れているこの砂鉄川というのは、ひとり磐井郡にとって重要な意味をもつだけでなく、ある意味においては、東北の歴史、これまで「南部」中心にはじまってきた歴史を、ここで一応堰きとめて、ここから全く新しい東北の歴史をはじめていく。磐井作戦などというのは、アテルイなどというのは、この新しい東北の歴史をはじめる第一号でございますけれども、そういういってみれば、第一歩になる地域になる。そのくらいの重要な要(かなめ)の意味をもったものとして、地元の方々が、この砂鉄川というもののもつ歴史的な意味、その役割、深さ、そういったようなものについて、もっともっと関心を深めていただき、そして研究を追加していくようにお願いしたいと、そういうふうに考えるのでございます。

 

<東磐井と気仙との結節ラインが「砂鉄川」> 

 そして、その際に大事なこと、それは砂鉄川流域における経営というものが始まりになって、実は有名な田村麻呂の胆沢、アテルイ達に対する経営作戦ということもはじまって、この結果として日本の蝦夷経営の歴史というのは一応終止符を打つわけですから、したがって、砂鉄川周辺の歴史をどうするかということが、実をいうと新しい東北の歴史の始まりになるのだというくらいのお気持を、皆さんがお持ちになるようにしていただきたい。私はこのことを「河崎の柵」の現地調査をしたり、それから松川の「二十五菩薩堂」の由来などを考える過程で、そういうふうに感じてはおったのですけれども、今回の現地踏査でこれに対する確信を強めたのでございます。

 なぜそれほど重要な意味を持つかといいますと、ご承知のとおり例えば「前九年の役」における源氏と安倍との戦いの勝敗を大きく分けた戦い、これは「河崎柵の戦い」でございます。これは「河崎の柵」というのはポイントとして出ているのですけれど、実はこれは砂鉄川の水運をここでせき止め、ここから始めていく、そういう重要な柵として、関所として、「河崎柵」というのがあった。だからこれが大きな戦いの山になってくるということは、大きく見れば、これは砂鉄川をどうするかということが、実をいうと「前九年の役」における大きな境目になっていたのだと、こういうふうに理解する必要があります。

 そして、そのときには「東磐井 流れ」、東山といわれる地域は、今日、東西磐井というようなかたちで、一関花泉まで含めて新しい「磐井一関」というふうになって、何となくその違和感を起こすような感じがするかも知れませんけれども、歴史的に見ると西磐井と東磐井の関わり以上に、西磐井に対する以上に、東磐井にとっては気仙という地域が重要な意味を持っていたのだということ、こういうことを皆さん方の勉強の中で、真剣に考えていただき、そしてその東磐井と気仙との結節点になっていたもの、それがこの砂鉄川になってくるのでございます。

 

<「河崎柵」が元「覚鱉城(かくべつじょう)」だった>

 それから私、別の機会で丁寧に深めたかたちでお話させていただこうと思っているのですが、「河崎柵」というのは「河崎柵」から始まるのではないのでございます。これは、ある時期に、ここが拠点としての意味を、役割を果たしていたものを再編成する、再組織するかたちで「河崎柵」というものが作られているのであって、私はその元になった「河崎柵」というのは、実は奈良時代の終わりに問題になって、何処にあり、完成したのかどうかも不明なかたちで、今日ではここだろう、あすこだろうというふうな擬定地がいくつか、専門家、考古学者の間で出されているのですけども、私はこの研究会のグループに参画するようになって、はっきりとこれは「河崎柵」の前になる、元「河崎柵」にあたるもの、それが「覚鱉城(かくべつじょう)」というものであったということを確信するようになっているのでございます。

 いくつか理由があります。地名などについても私はこれについての傍証はできると思いますけれども、決定的な意義を持っているのは、ここのところから奈良時代の貨幣が出土しているということですね。「和同開宝」、「和同開珍(珎)」といわれるものです。これは滅多なところで出土するものではありません。何らかのかたちで政府と密接なかかわりのある人たち、もしくは役所的な施設、そういったようなものがこれに関わらない限り、出土することが出来ない種類のものでございます。特に東北のようなところではそうです。もし、この「河崎柵」の地域から、この「和同開珍(珎)」が出て、これ現在岩手大学の研究室に行っているんだそうですね。しかし、この研究報告は出てないようです。

 私はただこれだけのことからしても、これは奈良末、平安初期における重要な政府施設がこの土地にあって、そういったかかわりにおいてこの「和同開珍(珎)」という貨幣がここのところに出てきて、ただ、これが未完成のうちに「伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)」の反乱に遭って駄目になってしまうわけですので、したがって本格的な仕事は出来ないうちに終わっていますから、従って遺物などについては、そんなにたくさん奈良時代のものがここに残るということは無理だと思います。  

 そこで奈良末期に、いったいそういう「和同開珎」などというものが出得るような施設、あるいは官人の出入りというものが、砂鉄川下流、北上川との合流点にあったとすると、これ「覚鱉城」しかあり得ないのでございます。そしてこの「覚鱉城」は何となく一関方面まで持って行ったりするような見方は、この「覚鱉城」ということが歴史で話題になる文献をきっちり調査しないかたちで、早めに、遺跡、遺物から議論をするようにした結果、起こってきたもので、もう少し、これに関わる文献を慎重に調査して、いったい岩手県南のどの地域のどのあたりで「覚鱉城」ということが問題になってくるのかということを、「続日本紀」という、これに関係した資料を丁寧にお読みいただいた方ならば、この資料は西磐井には関わりあり得ません。

はっきりこれは東磐井でしか問題にならないということを気がつかれるはずです。なぜかといいますと、その前の奈良末期、宝亀五年に、「大伴駿河麻呂」という方が軍政長官でもあり、陸奥守でもあり、そういったような民政、軍政両方を兼ねたかたちの総大将として、「東山 遠山村」というところの経営に数万の軍隊をもって、これに当ったということが文献にはっきりしています。その「遠山村」というのは何処かということについても、学者の研究はまことに勝手になっているのです。殆ど信用できません。これは文献を丁寧に読みますとこうなっているんです。

 この当時、多賀城から北で、東山道地域、東海道地域というものを両方進んで、それが合流するようなところに「遠山村」というものがあって、そこが東北地区、当時における蝦夷の最大拠点になっているという、そういう書きかたになっておるんですよ。そういう書き方をきっちりやって、「大伴駿河麻呂」という人はそれを東山道側、東海道側、両方からこの「遠山村」の拠点を攻め入って、これまで誰もどの将軍もこれに勝つことの出来なかった経営に成功して、この「遠山村」の経営にけりをつけたと、こう書いてあるんです。

これをみなさん、改めて読みなおしてください。そしてこの結果、大規模な論功行賞、ご褒美などがあって、その直後に、政府の方では軍隊を派遣して「胆沢の賊を討つ」と、こう書いてある。胆沢経営というのはこういうかたちで、遠山村の蝦夷経営の鎮定、措置が、アフターケアが済んだ後、それを踏まえて軍隊が起こされることになったのだということが、これではっきりするわけでございます。

 そして、まだほんとうに胆沢経営の軍隊が動いたか動かないか、まだ実際動いた気配ありませんね。その合間に、逆に北から蝦夷が舟で北上川を南下して政府側の基地を攻撃するようになったので、それをせき止めるために「覚鱉城」というものを作ることにしたとこうなっています。これが奈良のぎりぎり終わりでございます。そして内部反乱があって、これがごちゃごちゃしているうちに、この混乱を平定して、改めて蝦夷経営、胆沢経営に乗りだしたのが、例の坂上田村麻呂が出てくるその最初の段階になってくるのです。

ですから、文献というものをきっちり読んで、胆沢戦争というものを考えようとするならば、それは大伴駿河麻呂の遠山村経営というものを先ず第一に考えて、そうしてその経営が成功して安定した後、これを踏まえて胆沢経営になるけれども、その時に直接胆沢経営の基地になるのは、遠山村ではなくて「覚鱉城」だと、これは蝦夷の南下に備えるための城であるということですから、これは北上川の流域で、しかもはっきりと今、遠山村経営というもので成果を収めて政府側がやっとここに基地を作ることができるようになった段階を踏まえての城の経営ということになってくると、こういうことになってくる。これは「続日本紀」という文献をちゃんとお読みいただくならば、必ずこういう結論になるはずのものです。

 

<「大伴駿河麻呂」の遠山村攻略ルート>

 そして、いったいそういうときに「東山道」というのは陸路沿い、今日の東北新幹線沿いに進む、あるいは国道4号線沿いに進むようなルート、これが「東山道」、山道でございます。「東海道」というのは、今日の宮城県の海沿い、石巻方面から気仙沼、陸前高田、大船渡を通って行く、こういう方向にいくのを、当時「東海道、海道」と呼んでいたのです。その山道、海道を共に進んで、それを一本にするようなかたちで遠山村の蝦夷経営というものにけりをつけたと、こういうことであるならば、これ皆さん、現在の地図で、これは砂鉄川というものでもって北上川から離れて東側に行き、そして「東山」と現在言われている東磐井郡の中央をまっすぐに東に進むと同時に、今度は今日の牡鹿郡、桃生郡、本吉郡、そして気仙郡と、これをだいたい北上川の東、海岸沿いに北に進んでいって、そうして胆沢にまで行く前の、あるいは「閉伊」(「閉伊」というのは、これ完全に遠山村とは離れた別枠のもう一つの蝦夷ですから)のルート。そうするとこれは結局、閉伊、東磐井というものを一本に結ぶようなかたちの経営というものが、すなわち、東山・東海両道を進んで、遠山村の奥をきわめたという、この大伴駿河麻呂の蝦夷経営の本質であるわけです。

 そしてその場合のルートになったもの。古代では、今日のようなコンクリートで舗装して道路を作ってハイウエイのようなこんなことは出来ません。自然の最大のルート、路は川でございます。川。そう考えてみますと、胆沢に入る前に、気仙にも通じる道、東磐井「東山」をみながっちり押える。そしてその一番奥においては、海道地域をもその中に統合することができる。これ、砂鉄川しかないのでございますよ。私はそういうことから、大伴駿河麻呂という方の進軍した基本のルートは砂鉄川をぎりぎりまで進んでいくという、このルートしか考えることが出来ないのです。

 これを越えて行きますと、今日確認いたしましたけれども、究極、東磐井は気仙の堺まで行くのです。そうすることによって気仙は海道ですから、山道が海道と一つに結ぶことになってくるのでございます。そして、そのぎりぎりの終わりはどこになるかということです。これは私は今日、いちばん南側では、ご承知のとおりそこのお山、室根山。その北側が氷上山、そして一番奥は五葉山でございます。今日でも五葉山というのは、閉伊郡、釜石、遠野、江刺そして気仙の堺になります。

 

<「室根山」を日本に開く大きな位置づけに>

 問題は、みなさんの理解では、岩手県民の理解では、室根山というのは百パーセント、東磐井郡の山なんですね。室根村の山なんでございます。郷土愛としては全く異論ございませんよ。そのつもりでしてください。しかし歴史的学問的に、室根山という山を室根村、東磐井郡だけに片付けることは、新しい一関の格というものをうんと縮めてしまうことになる。小さく田舎町にしてしまうことなんです。大きく岩手県に、東北に、日本に開いた室根山ということにするということはできません。これはむしろ、現在では東磐井郡、室根村という行政区域に入っているけれども、自然地理的、歴史的には、むしろこれは気仙郡の最南端にあり、したがってぎりぎりいうならば、東磐井郡の最東端にあって、行政上の区画として明治以降はこれを東磐井郡の行政としている。今日お話しで聞きましたように、頂上は室根村なそうです。しかし東の裾野はおそらく八合目あたり、六合目あたりから東側は、おそらく気仙郡になっている。山というのは、裾野まで含めて全部山ですから、裾野まで全部含めたならば、室根山というのは室根村、千厩町、大東町、それから気仙郡の陸前高田市、その四つの境界線にある山、そこの神社と、こういうふうに考えられます。そうして、そう考えることの意味、これは地理学の本を読んだら、どの地理の本でも、北上山地の最南端の最高峰が室根山だとこういうことになります。八百九十五メートル、早池峰山やそれから五葉山とはくらべものになりませんが、氷上山より百メートル高い。そしてどの地理の解説書でも、たいへんこの室根山というのは眺望がきいて、ひとり室根とかこの地域だけでなく、遠くは江刺の方からも、さらには宮城の桃生や牡鹿郡まで、広く見渡すことができるといわれて、ご承知のとおり今日のお祭りでは、」これは海上安全の御守りの神さまとして、広く宮城県北から、それから岩手県南を含めての氏子、みんな集まってのたいへんな人気の神さまになっているそうでございます。

 

<気仙郡に気仙を名乗る有名な神社のない不思議>

 さて、これだけのことが分かっても、皆さん方がちっとも不思議に思わないことで一つ、これ聞いて不思議、これ七不思議の一つにしてくださいよ。なぜなら、気仙郡に気仙を名乗る有名な神社が一つもないのです。気仙三社、ご承知のように「きぬたて神社」、それから「りくこだ神社」、それから何と言うのか分からない「となこ(か)し神社」。この三つの式内社、官社はあるんです。しかし、ここに気仙を名乗る官社は一つも入っていないんですよ。それだけなら良い。気仙郡に「気仙」を名乗る式内社がただの一社もない。桃生郡には堂々と気仙を名乗る式内社があるんでございます。ご存知ですか「計仙麻大島神社」というのは、式内社の中でこれは「名神大社」で格が一つ上なんです。これは桃生郡、今日は本吉郡です。それから牡鹿郡になりますと「気仙神社」とはっきりある。それから「計仙麻大島」の二つを分けたその大島というものを独立させた「大島神社」というのも式内社としてある。他所の郡に気仙という式内社があるのに、いったい気仙の本場でもって式内社に「気仙神社」がないというのを、皆さん不思議に思いませんか。私は今でもこれを不思議に思っています。そして皆さん、これを不思議にしておられない。

 これは何処から来ているかというと、結論的に申しますと、これははっきりと室根山、室根神社というものを、室根村オンリーの神社に百パーセント決めこんでしまって、気仙郡とのかかわりを全く考えようともしないところからおこってくるんです。私はこの点から、はっきりと地理的にもそうだし、歴史的にも、おそらく本来は、室根神社というのは、これは室根というのは後からつけた、これは熊野の牟婁郡からつけた名前ですから、したがってこの名前と別なかたちで気仙郡の式内社としてあったものが、にもかかわらず、あまりにもこの神社は南向けの南の「計仙麻大島」というと、桃生城の鎮守神になる海の神さまです。気仙郡「気仙神社」はおそらく牡鹿柵の鎮守神、そういう南の有力な郡や柵や城によって大事にされて、いつのまにかそっちの神さまが本家であるようになって、こっちの本家であることが忘れられるか、軽視されるようにして、気仙郡からはずれてしまう、磐井郡オンリーの神社というような恰好のものができたということに関係してくるのであります。

 

<「鬼首山」のいわれ「気仙」>

 私はそれの考証が必要ですけれども、「室根」というのは、ずっと後に熊野信仰がはじまってからというんですけれども、ご承知のように熊野というのは、平安末期から「熊野水軍」と言いまして、海賊の、海の神さまとして有名になっているものなんですね。ですからそれを海の神さまであることと、熊野水軍の氏神というようなことと重ねあわせるようなかたちでもって、熊野信仰というものが入ってきて、それまでの神さまは「室根山」と改まったと、こう考えて良いですから、「室根山」と改まるのは早くて平安末期から、そう考えなければいけません。

 それ以前何と云ったか。これ地元でちゃんと言っているんです。「鬼首山」、鬼の首の山と、もと言っていた。これ何と読んでいたかです。鬼首(きしゅ)というのは漢音読みであって、これは「けっしゅ、きっしゅ」であって「けっせ」だろうと、「計仙麻大島」、だから気仙郡は「けせ」とよんでいた。その「けせ」の漢語・漢字できっちりあらわしたものとして「鬼首(きっしゅ)」となったのですから、私の考えでは、「鬼首山」というのは、すなわち「気仙山」という言い方だろうと、それを蝦夷の総大将のいる最南端の山というような言い方で、漢字も鬼の首の山というふうな言い方にしたものだ。これ仮に当らないとしても、いずれにしても、そんなかたちで「室根山」が地形上、歴史上、気仙郡の最南端の山になるということは殆ど疑いない。そうしてその奥にある氷上の山、その最奥にある、五葉山というのと合わせてこの三山、それぞれのかたちの神さまをあてたものが、気仙式内三社の(きぬたて)、それから(きせっこだ)、そして(となかし)の三式内社だろうと思うんですが、これ何と読むか全然わかりません。私はこれはっきり、時間がありませんので、結論だけ言っておきます。

 「衣太手(きぬたて)」。これは、勝手な読み方でございます。これは「いだて」と読むべきものの漢字を当てたものです。そして「いだて」は「出で立つ」です。そしてこの意味は「これからいよいよ奥の遠山村の蝦夷世界に、ここから入っていく玄関になる」という。そして私は、これこそ「室根山」本来の言い方だろうというふうに考えています。

それから「理訓許段 理訓去断 りくこだ」。これ全く意味が支離滅裂で、蝦夷のアイヌ語でないかとこう言われています。分かんないのは全部アイヌ語にするのが日本の古代学ですが、これ勝手な学問放棄です。はっきり日本語で説明できることで、ただ意味が分からないため難しくしている。「理訓」、「理」は道理の「理」です。これは意味のあることばで、「断る」ということで「裁断する」「決定する」という意味。それから「訓」は漢字で教訓の「訓」となっていますが、これは当て字です。これは「往来する、行き来する」の「来る」です。すなわち、来るものをここでチェックする。それが「理訓」です。それから「去」、これははっきりと「往古去来」の「去」です、去るです。出て行くということ。すなわち、入る人をここできっちりチェックするとともに、出て行く人を、「段」というのは「階段」の「段」にしています。ですがこれはおそらく裁断の「断」、「断る、決断の断」。そうしていくと、出て行く者をここできっちりと「どこへ、なぜ、どういう理由で行くのかということを決定する。ちょうどこれは、入る者をここでチェックし、出て行くものをここで厳しくチェックする。そういう交通往来の関所の役を、神様がやる。これ「神判」といって、当時、神さまが人のやる仕事を天に代わってやってくださっている。

 そういうことを考えれば「登奈孝志」、これもはっきり当て字であって、(登奈)、(登)は当て字であって、人の「人」です。(奈)は勿来の(勿)です。(孝志)は、あるいは勿来(なこそ)の「こそ)と同じです。すなわち「「人の意味の言い方をもっと古いかたちで言ったもので、この言葉の意味は、これは最終的にこの五葉山が、「ぎりぎり何処まで行ってもここがお終いだよ」と、だから「ぎりぎりここから下ってくることは出来ないよ」、それが「人勿来(となかし)」、「勿来(なこそ)」の意味になってくる。

 そして、現在では氷上山の三つの神社、どこにあったか、どんな意味かわからないから、仮にこれに氷上神社に三つに割り当てて、(東、中、西)とこっちは分けておりますけれども、本来これは「室根」と「氷上」と「五葉山」と、この三つに分けてそれぞれ置かれていたものが、その機能も意味も全くわからなくなってしまったために、やむを得ず、これを、気仙の真ん中のこの氷上山の神社の総座のような形で一緒にしたものだろうと、私はそういうふうにこの研究会に加わるようになって考えるようになりました。

 

<まとめ>

 そしてこういうことをはっきりと考え、道すじをつけていくルートとして砂鉄川というものを考えることが出来、砂鉄川が、南側にはこのように室根山を、越えたところには氷上山、その奥には五葉山、この三つの山を一つに結ぶ形でもって、広い意味の「遠山村」というものを形成し、その地域の中核体になるところを、後になって「気仙郡」というふうに評価するようにしたけれども、その中の最南端の、最高峰である室根山が、あまりにも南向きの、しかも、海路交通の海上安全の山としての性格を強く持つようになったために、この気仙三社の本来の意味というものも失われ、室根山が半分気仙の山、そして半分東磐井の山という、この性格もくずれてしまって、今日のような状態になったのではないかと。私は本日、砂鉄川をあのように歩るかせていただき、いろいろなご説明を承って、ほぼこんな結論をもつようになって、こういうことであれば、この勉強会においても全く新しい勉強を、この半分がほんとうだとしても、重要な新しい研究になってくると思いますね。ひとつ皆さん方で使えるだけのことは生かし、だめなところはカットして、ほんとうに正しい学問になるような研究を進めてほしい、それを強くお願いして、ご静聴感謝して終わります。