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二十五菩薩さま謎解き

   二十五菩薩さま謎解き                       平成19年5月24日

講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生         

 ただ今佐藤先生から導入のお話を承りまして、私これから申し上げることが、何分の一かは今のお話を補って、証明することになりますけれども、大部分は全く別な私の考え方でございます。そのことから皆さん方には、最初非常に混乱し、当惑なさって、さて、どちらが正しいのかというようなことになるかと思います。そのときには、今佐藤先生がおっしゃったことは、これまで二十五菩薩堂についての通説として、こんなふうに伝えられてきているということを丁寧にご紹介くださって、それを更に補足されたものと、こういうふうにお考え下さい。したがって、これまで二十五菩薩堂について語り伝えられている基本の線というものを、原則として忠実に守っていくということが、二五菩薩堂を顕彰し、これを守っていく道であるというふうにお考えの方は、今の佐藤先生の説を中心にお考え下さるように。それからもし、そこのところで、何となく納得しかねるところがあると、もう少し学問的に、歴史的な裏づけになるようなものがないものかと、そういったようなことについて、疑問をお持ちになる方は、私がこれから一時間ほど申し上げることを、そのまま受け継ぐということは問題かも知れません。しかしそれを基礎にして、それを更に裏打ちし、広めていくようなことを、これから五年十年ぐらい続けていって、新しい二十五菩薩堂というものの語り伝えという、伝承というものを、ここから起こしていくと、そういうふうにしていっていただきたいと思います。

 

<本邦初公開の新説を申し上げる>

 そこで、くれぐれも、私がこれから申し上げることは、松川だけのこと、平泉のことだけを考えてきたわけではありませんが、こういったことについて、かれこれ四、五十年間は、直接間接を問わず勉強してまいりました。但し、それを未だ私は、ものにはっきり書いたり、ちゃんとした講演でもってお話をするということは、今回初めてでございます。したがってこれは、私としても、皆さんがたにとっても、本邦初公開のお話になります。合ってるか、合ってないかは、ひとつ今日、これを機会として、この先皆さん方でじっくりと温めていただいて、使えるところだけは使っていただく。高橋先生の思い付きだというふうに考えるところはカットしていく。そういうふうにしていただきたいと思います。

 私がこういうこと申し上げるのは、殆どすべてが新説でございます。今の佐藤先生がお話になったことはもちろんのこと、どのような本、どのような大家の説にも、これまで一言半句もこういうことについて触れられたことのないことばかりでございます。ただし、それにはそれなりの根拠があるのでございます。それをできるだけ根拠に基づいてお話をして、みなさん方の参考にしていただくようにお願い致します。

 

<一つの大きな柱に立つ「二十五菩薩堂」>

 今佐藤先生からお話しがございましたように、現在平泉では金色堂というものを世界遺産のようなものにしていくということで、たいへんな運動をなさっているのでございます。そしてそれは、ひとり平泉金色堂、中尊寺にだけ限られるものではなく、それに関連したものを東北に幅広く、そこのところに全部結びつけて、セットとしてこれを大きな平泉文化遺産というふうなものに立ち上げいくと、そういう努力をしておられて、そして松川二十五菩薩堂もその一環として考えられるのではないかと、そういうご提案でございました。全く同感でございます。一環ではございません。私の考えでは、これは中尊寺、毛越寺、無量光院、あるいは福島県の白水阿弥陀堂、こういったものと並んで、一つの大きな柱に立つほどのものなのだと、私は確信しているのでございます。

 

<平泉「黄金文化」を支えた産金地帯――磐井、気仙>

 ただし、そのためには、これまで佐藤先生がただ今紹介されたような、例えば、北上川のズーっと上流の、あるどこかに元、この「阿弥陀堂」、「二十五菩薩堂」というものが建っておって、ある時期洪水があって、それがどうもこっちに流れてきて、洪水がなくなった後、そこのところに運ばれてきた松川の「二十五菩薩様」を一箇所にまとめてお堂にしてというような、そういうようなご紹介で、これが基本になる伝承でございます。私がもし平泉文化遺産の審査委員だったら、こういう伝承ではこれはカットです。

 第一、松川に本来地付きのものでなくて、何処からきたかも分らない。そんなかたちのものを、金色堂と同等、あるいは金色堂を支えるような世界文化遺産として登録するなどということは、これ私が審査委員だったら初めから却下でございます。却下でございます。

 もっとちゃんとした根拠がなければいけない。そしてそれにはそれなりのきっちりとした由来が考えられなければいけない。それが「二十五菩薩堂」と「二十五菩薩」というものの、本来のあり方を考えるときにもっとも相応しいと、そういうものになって、始めてこれは金色堂の一環としての世界文化遺産候補の一つと、そういうことになり得るというのが私の考え方でございます。皆さんは如何ですか。なにも国民裁判員になるのでなくて、こういうかたちの世界文化遺産審査委員になったつもりで考えてください。

 そして仮にそういうことであるならば、私はずばりこれという資料はございません。しかし間接にもしそういうことであるならば、これまで語り伝えられているあんまり頼りないような伝承、伝説、言い伝えよりは、もっともっと歴史に近い材料というものがあるということです。

 そしてそのためには、皆さん方は、平泉というのは「黄金文化」であって、日本を代表する、いや平安時代にあるほとんど日本唯一の産金地帯というのは東北にしかなかったのでございます。そしてその中でも、少なくとも平泉時代においては、平泉を中心とした地帯というのは、代表的な産金地帯であって、平泉の黄金文化というものを支えたその材料になる金産地のかなり重要な地点が、この磐井とか、気仙とか、こういったような平泉中心の地帯であったということはこれ事実ですけれども、そういったようなことについて、「松川二十五菩薩」に結びつき得るような、平泉時代の大量の産金地帯というものが、この周辺にあるのでございます。そして私の考えでは、その金というのは、先ず第一段階においては、平泉に集められました。そして平泉で全部チェックし、記録をとり、材料をきっちり調えて、それから公式に京都に送っていって、これを日本の財源にしていく、京都のこれは基礎になる財産にしていく。文化をつくっていくとき材料にしていく。そういうふうになっていくのでございます。これは平泉の歴史ではっきりしている。平泉の京都に対する最大の仕事は、東北から出てくる金と馬と、どういうふうに大量に定期的に間違いなく京都に送り届けるようにするかという「貢馬・貢金」と言いまして、これは平泉と京都とを結びつける財政的なネットというんですか、結びつきになっているものだったのでございます。

 

<「奥州知行国主 平重盛」>

 そしてこの松川に直接関連するところの産金地帯として、文献ではっきりとお隣りの気仙郡というところからは、大量の金が平泉時代に採られているのでございます。そしてそれがちゃんと京都に届けられておって、その金の一部が中国、宋の「育王山」という仏教の中心になる本山にまで寄進され、中国の皇帝、天子様を通して、その日本から送られてきた金、その金を送ってくれた人の供養をするための祀りもズーとこの黄金が、中国皇帝「育王山」に届けられたのを記念して代々続けられていったという、そういう伝えがちゃんと文献にあるのでございます。

 残念ながら、それは平泉藤原氏ではございませんでした。何と、平清盛の長男で、清盛に先んじて亡くなった「平重盛」というお方だったのです。「小松殿」という御殿におりまして、小松の殿様、小松殿というふうに申し上げていたのでございます。この方が何と気仙産金の金というのを、まず京都で自分の手元に納めて、日本に来ている中国の商人、ちゃんとその名前もわかっているのですよ。「妙典」という御用商人を通してこれを中国に渡し、そして現在生きているうちは「現世安穏」を祈っていただく。亡くなったならば「後生本生菩提」の祈りを育王山において捧げてくれるようにと、そういう願いを込めてこの気仙産金というものが平重盛を通して中国まで届けられるようになっているのでございます。

 さて、何故いったい平重盛という人がそういう関わりを持つようになったかと。ただ横車を押して「平家に非ざれば人に非ず」だったから、我武者羅にそういうふうにして、平泉の金を横取りしてと、皆さんそう思うでしょ。これについてはちゃんとしたこれについてはしっかりとした文献が残っているのでございます。しかも「源平盛衰記」という軍記物と、それから「平家物語」という軍記物、両方に、同じような伝承が若干違うかたちで伝えられているのでございます。そのときに平重盛という人がこの気仙の金に関わりを持つ、制度上、法律上、即ち関わりを持って一向差し支えない、むしろ関わりを持たなければならないような地位の人としてここに登場するのでございます。こういうことをこちら側での伝承は、全く伝えていないのでございます。これだけ地元に近い材料がきっちりとした資料になって残っていながら、何故こういったようなものについて伝承が全く伝えられていないのか。しかも、さらに、それを学問的に批判し、受け継いでいかなければならない学者や地元の研究家の間においても、このことについて一言半句も触れるようなことのないというのは、私これまことに不思議なことだと思っているのでございます。

 今日この話を聞いた松川の町民の皆さん方は、これから先は皆さん方が先頭に立ってこれを伝えていくようにしてください。ただし「源平盛衰記」という本と「平家物語」では、使い方で大事なところで違うにでございます。気仙郡から金が出たというに、はっきり伝えているのは「源平盛衰記」の方でございます。「平家物語」はこの産金の土地が気仙はおろか、奥州というのも出てこないのです。だから、このところは「源平盛衰記」に重きを置いて考えるべきでございます。重盛という人がこれにどう関与できるようになっているかというと、このとき平重盛は奥州の「知行国主」だったと書いてあります。

 「知行国」というのは、これは制度上、例えば「陸奥国奥州」というものの、県知事さん、知事さん、国主は「陸奥守」という。でもこれは役人としてそこの行政や管理にあたると言うことなんですが、その上に「知行国」となると、役人ではなくて、その国全体の収益を、国家、朝廷、政府に代わって、全部自分の好きなように管理運営できるような特権を与えられている公卿のことを「知行国主」というのでございます。その国を「知行国」というのです。平重盛という人は、そういうかたちで、制度上の陸奥守、官吏としての知事の上に、国家の権力を代行し、そこから献上され、貢上されてきたものを自分の好きなように運営出来るような特権を持った公卿として、平重盛という人は自分の知行国から献上された気仙郡の金というのを中国に送って、自分の後生安穏を祈らせたと、こう書いてあるのでございます。

 そうであれば、このとき平重盛という人は、平泉の藤原氏、このときは三代秀衡の時代です。三代秀衡の上にあって、しかも秀衡よりも直接的に奥州全体に指揮命令を下すことの出来る地位を、国家的に承認されているお公卿さんなんです。これだけの人があれば、少なくとも平重盛という人の知行国主である間は、重盛という人は奥州の直接的な支配者でもあって、平泉藤原氏の上にあって、さらにもっと大きな角度から遠くにあって東北全体に号令することの出来る最終政治家だったということがこれで分るのです。

 ところで、そのときに採れた金は、「源平盛衰記」では一千三百両とある。「平家物語」の方では何処からということは書いてありませんが、三千五百両とありますから、額の多い点では「平家物語」なんです。ただし、その産金地が気仙であるということ、それから平重盛が知行国として奥州に君臨していたというようなことは「平家物語」には書いてないんです。したがって、金額は若干少なくなりますけれども「源平盛衰記」によって、一千三百両の金を気仙郡から献上したけれども、この献上は直接気仙から重盛のところへいったのではなくて、現地の支配者は平泉ですから、したがっていったん平泉に集まって、三代秀衡を通して、気仙の少なくとも千三百両に関しては、直に重盛のところに届くように献上されるようになっていったということが、これで分ってくるのでございます。

 そのくらい、気仙というのは、皆さんにとってはすぐ隣組ですよ。むしろ北上川を隔てて西磐井よりは、気仙の方がもっともっと東磐井、東山としての、皆さんの「松川地区」というものは、気仙と隣組同志だったのでございます。その金がいったん平泉に届けられて、平泉をとおして京都の重盛のところへ、さらに中国育王山、中国皇帝へと、こういうかたちになってきますと、どうです皆さん、れ確実に世界文化遺産候補になり得る、国際的な大きなルートがここから開けてくるということ、皆さんそう感じませんか。これ、洪水があって、どこからか流れよって来たものをまとめてなどというより、この方がずっとずっと説得力が強いということが分かるんです。

 

<「こがねわたし(黄金渡し)」の出発点が松川>

 さて、いったい、その気仙の金が平泉に送られていくルート、こうなったら皆さんもう文句なしでしょう。陸路でということになるならば、後に「今泉街道」といわれるようになったこのルートを通っていくということしかありません。水路だったならば、まさにこの松川を船出の港として、砂鉄川、「音無川」といったといいますけれど、砂鉄川というのは、後になっての言い方ですよね。砂鉄川というのはひょっとして砂金川といったかもしれませんよ。音無川、これけっこうですけれども、こういう名前より、むしろ、物語では「黄金渡し」と言っているんです。「こがねわたし」は主として京都、筑紫から大宰府から中国に行くことについて、「こがねわたし」、「渡金」と言っているのですが、現地に即していうならば、「こがねわたし」のスタートは松川になってくる。陸路に拠ったか、私はこれ水路に拠ったと見ているんです。「こがねわたし」の出発点が松川ということになってくるということは殆ど疑いがない。

<平重盛を弔う「二十五菩薩堂」がここに>

 そうしてみなさんの「二十五菩薩堂」を広くみれば、その松川港の一角におわすのでございます。こうなれば、これは他所から来たというのでなくて、平重盛という人のみ魂を永遠に弔うかたちでもって、中国皇帝が直に司祭者になって、そして「育王山」にあってちゃんと重盛公の位牌というものも飾られて、ずっと今まで語り伝えられているというふうに「源平盛衰記」も「平家物語」も書いているのでございます。これがその後どうなったかということまでは分りません。しかし、この軍記物語が作られる頃には、少なくとも百年二百年超えて、この気仙から送られた金というものに対する、お礼返しのつもりでもって平重盛の霊魂というものが、この「育王山」というところで、ずっと祀られていたという、こういうことになっているのでございます。

 そしてそれが「二十五菩薩」ということになってきますと、これははっきり浄土往生というものを弔っていただくための貢金、「こがねわたし」だったということが、これで分ってくるのでございます。そしてその地元ゆかりの出発点に「二十五菩薩堂」というものがあるとすれば、後で他所から流れ寄って来たものを集めて祀ったというより、もともと、ここで、中国で祀る、その原点になる祀り、弔いというものが、この「こがねわたし」の最初の土地になる「ゆかりの地」において祀られるようになって、「阿弥陀堂」というものが、はじめっからこの地に建てられるようになったというような考え方。これ皆さん反対ですか。ご意見聞いたら全部みんな賛成じゃないですか。その方がずーと良い。そして歴史的にもその方が、説得力があるということがこれで分ってくるんです。そのために気仙の経済、産金と平泉とのかかわりというものが、どの道、どのルートを通して平泉に結ばれ、京都に結ばれ、そして中国にまで結んていったかと、こういう勉強を私たちが本格的にやっていかなければいけないのでございます。

 

<「これが平家では……」との抵抗感を超えて>

 さてその次でございます。何となくこれ、始めっから平泉藤原氏ゆかりの方だと都合が良いんだけれども、平家ではと、皆さんそれ何となく抵抗感をおぼえますよねえ。私、伝承の中で平重盛の伝えが一文半句も入ってこなかったのは、平家が源氏の敵となり、その源氏によって平泉も滅ぼされて、要するに平泉・東北地区というのが、平泉の後、全部アンチ平家になってしまっている。平家などというと、それちょうど戦争中でいうなら、「鬼畜米英」などと言ったのと同じように、これは敵に内通することになる心配があるからなのです。私はそういうことから平家滅亡後、この「源平盛衰記」「平家物語」に、ちゃんとした出典があるにもかかわらず、気仙の金、それにゆかりのある平重盛の「二十五菩薩来迎堂」というものの伝えが全く抹殺されてしまって、伝えられなくなってきた理由は、むしろそこにあると考えた方がよろしい。しかし歴史的にみれば、これは疑いもなく重盛という方は、平泉の藤原氏と並んで、この地区の、むしろ私の考えでは、気仙・東山地域というのは「知行国守平重盛」の直轄地のようなかたちにさえなっていたために、気仙の金が特別に重盛の許に送られるようになったと、そう考えなければいけない。私はそうさえ思っているのでございます。

 ちゃんと、菊池寛という作家には「恩讐の彼方へ」という小説がありまして、もう、ぎりぎり敵も味方も極楽、仏さま、阿弥陀さまの前には、これ敵味方というものはないですね。キリスト教だって「汝の敵を愛せ」と言っているんです。味方を愛して何にも不思議はないのですが、誰も愛することのできない敵を愛して、はじめてほんとうに神の子、仏の子ということが出来るのだよというのは、これは聖書でもそういう教え方になっている。その考え方は、仏教はなおさら徹底していたというふうに考えて宜しいのです。今日、私たちは、「源氏は味方、平家は敵、藤原だけ良い子」というような考え方でなくて、「浄土往生」というものにおいては万人平等、「万人平等極楽往生」なんです。そういうふうに考えてみましたならば、重盛という人の気仙とのこのかかわり、「こがねわたし」のルートが砂鉄川、今泉街道のルートを措いてあり得ないということを考えてみたならば、私はその「こがねわたし」ゆかりの原点の地として、松川の地にこそ「菩薩堂」というのが大事に建つようになったというふうな推定になって、そんなにロマンチックでないと思うんです。これはかなり歴史的な根拠があって、ただずばりその資料がないというだけのことになってくる。

 

<二十五菩薩を引き連れての阿弥陀如来「来迎引接」とは>

 何故ここで、重盛という人を特に強調するかということですが、こうなってくるといったい「二十五菩薩」というものの謂れを考えていかなければなりません。これは先ほどお話がございましたように浄土往生の思想においては、最後、どんなにこれまで悪いことをしたり、一度も念仏を唱えたことのない人であっても、たった一度でも「南無阿弥陀仏」というふうに唱えたならば、「阿弥陀如来」はたちどころにそれを聞きとめられて、観音・勢至以下二十五の菩薩様を全部引き連れて、その臨終の場に御自らお迎えにお出でになるという。それ「来迎引接」と言うんです。直に迎えにお出でになって、すべての人を例外なく極楽に連れていくというのが「引接」(いんじょう)なんです。ちゃんとみなさんこれを覚えておきなさいよ。こういうことをちゃんと覚えないと有り難味が出て来ません。あんまり茶化したり、茶の間の話題のようにしていきますと、楽しみは出てくるけれども、有り難味に欠けるんですね。阿弥陀さまが二十五の極楽の主要な菩薩様をほとんど全部引き連れるようにしてお迎えいただくその荘厳なるお出での場というのは、今日でいうならば天皇陛下が皇太子以下の皇族を全部お連れになってお見舞いにお出でになったというのと同じような、似たような考え方をしてご覧なさい。「阿弥陀二十五菩薩来迎」というのは、そのくらい荘厳厳粛な意味を持ったものなんです。

 

<二十五菩薩セットの同時制作を、ここ松川の地で>

 ところで今日、平泉の藤原氏は、地元の平泉以下、白河の関から北は外が浜、青森県の果てまで、あらゆるところに「阿弥陀堂」、その他寺院仏閣を作ったというふうに伝えられているのですけれども、「二十五菩薩堂」というふうに、二十五菩薩セットとしておつくりになったお堂というのは、この「松川二十五菩薩堂」を除いて、伝承にも全くございませんし、遺跡、遺物については、なおさら確かめようがないのでございます。したがって、平泉における「中尊寺」、「毛越寺」、「無量光院」を除いて、藤原氏が自分の直轄地であるこの奥州出羽の国において作った仏堂・仏閣の中において、「二十五菩薩堂」というのは特別の別格の意味をもったものと考えなければいけません。それは「阿弥陀如来」が観音・勢至以下直に極楽からその場にお出でになるという、その荘厳な光景がまず第一段落です。そしてこれだけの特別な意味をもったものになってきますと、したがってそう何処にでも誰に対してもというわけにはいかないのでございます。やはりそのお亡くなり、往生をとげる方の、特別な地位であるとか名誉とか、格が別格なんです。一言でいえば、平泉藤原氏並みか、それ以上の別格の高貴のお方の往生に、臨終に対する別格の応措置として建てられたものという考え方をするのが自然ですね。

 

 「二十五菩薩」だからこれ全部がセットになっていたかどうかということ、疑問があるかも知れません。しかし現在ばらばらになって残っているところを見ても、あれに関しては二十五菩薩セットとして作られたというふうに断定してかまいません。個々に、ばらばらにではありません。まして洪水であるとか、どこからかここに来たものを後でまとめて、そんなような寄せ集めでは全くありません。ちゃんとした考え方のもとに、セットとして、ひとつのまとまったものとして、二十五揃った形の同時制作と考えなければいけません。そうするとそれを納めたお堂も、それとセットになって、はじめからこの地にあったものと、そう考えるのが自然であり、そうならない限り有り難味がありません。私が松川町民だったら、他所から流れよったものだったらお返しします。もともとここのものだからこそ、あのようになっても、なお且つ元の姿を変えない、最小限度残しているというふうに考えるのです。

 そう考えますと、これは平重盛の往生、亡くなるというのを弔うかたち、それを少なくとも契機として建てられた「阿弥陀堂」であるということ、これは殆ど疑いございません。そうすると、重盛の亡くなった年ははっきりしております。これは清盛が亡くなる三年前、治承二年、1178年。はっきりしているのでございます。そしてそれを記念してですから、そうすると先程、どうもこの二十五菩薩堂は藤原初代清衡の転地のころとかというような伝えになっているようですが、これは少し下げて、三代秀衡の時代というふうに推定するのが正しいとし、残っている現在の仏像の状況から見て、清衡時代まで遡らせるよりも、秀衡時代まで下げる方が自然に受け止められる作り方になっていると、これ素人ですが私、そういうふうに思います。

そうするとこの年代は、極めてはっきり絞られてくるわけでござます。なぜなら、重盛が亡くなったのは治承二年、それから秀衡の亡くなるのは文治三年で、それからだいたい数年たってから。そうするとおそらく、秀衡の次の泰衡の代で、泰衡の代は僅か二年で滅亡しますから、泰衡の時代にこれが建つということはあり得ませんし、泰衡以後に作られるということはなお更あり得ません。それから泰衡という人、はじめこそ何となく、平家であるか源氏であるか分らないような恰好をとりましたけれども、頼朝の強力な圧力によって秀衡が亡くなった僅か一年後に、頼朝と敵対関係にある義経という者を殺すことになります。その義経とタイアップしていた弟の忠衡という人も、僅か数ヵ月後にこれも滅ぼしてしまう。

 要するに義経・忠衡というのは源氏から見れば、「親平家方」になってくる。平家寄りの勢力だということから、完全にこれと断ち切って、源氏に敵意を持たないという誠意を表すつもりだったのですが、そんなこと見え見えのことですから、義経が滅んだ後すぐに泰衡という人も征討されてしまうことになるのですけれども、そう考えてみますと、この「松川二十五菩薩堂」の成立した年代というのは、極めて限られた時期、藤原三代秀衡の晩年、重盛の霊魂を弔うというようなかたちでもって、平泉文化というものの東山・気仙地区における文化センターというものをここに作っていくと、そういう考え方の成立のものというふうに考えて、私これ殆ど疑いがないのでないかと思います。皆さんどうですか。これ、推理です。でも、これだけ半分近い材料があって、そのすじの通った推理というもので、理屈で詰めてきて、こうなってきますと、松川「二十五菩薩堂」の源流というのは、極めて学問的で、歴史的につかみどころ、拠りどころのあるものに作り直していくことが出来るのでないかと、そういうことを提案して、さてそれは高橋さんの独り善がりであって、私たちは違うというのであれば、どうぞ皆さんお好きなようにやってください。私はそういう考え方です。

<完全な形での仏像が一体も残っていないことについて>

 さて、もう一つ序でに推理です。いったい何故、秀衡時代、重盛の時期、つまり平泉末期における「二十五菩薩」、完全な形での仏像が一体も残っていないのは何故なのかということです。今、中央に見えるこの本尊様。これは後になって作られたもので、修理こそ江戸時代でも、これは数百年は遡るにしても、一時代も二時代も後になって「本尊」として作り直されたものでございます。したがって、今の御本尊「阿弥陀如来」様が作られる時期においては、本尊様は、本来の形を失っていたと、こう考えなければいけせん。したがって、この首がない、胴体が別、脚だけが別々、膝だけが別々という、この状況は、非常に古くからこのような状況にならざるを得なくなっていたというふうに、考えなければいけません。それからこれだけ立派なものですから、元の像に近いような形に修理復元していくということは可能だったはずです。葛西氏などというのはそういうかたちで、これは第一文化センターですから、出来たはずなんですけれども、ついにそういう形のものにならなかったというのは、一言でいってこれは「平家アレルギー」です。平家に味方しているとか、平家ひいきであるとか、平家寄りであるとか、平家シンパであるとか、そういったようなことは鎌倉時代以降許されないことだからです。私はそういうかたちのものになって、ひょっとして、(ここのところを私としてもあんまり強調しないことにしますが)、私の推理では、泰衡が義経や、あるいは弟の忠衡や、こういったような人を全部敵に回して、はっきりと「親源氏」、源氏に味方をして、アンチ平家、「反平家」、そういうスローガンをきっちりとって、それが政治行動、軍事行動に現われたのが、義経征討であり、忠衡征討であるとすれば、それが文化政策として、まさか中国におけるあのような文化大革命ほどではないにしても、やっぱり何かこの、はっきりと平家、重盛の往生を弔うという、私の考え方が正しいと、そういう考え方がはっきり生きる仏像、仏堂、文化というものが、そこにあることは、源氏にとって望ましいことでないばかりか、むしろ源氏の心を忖度する泰衡として、何となく落ち着きが悪いために、そのようなかたちでの文化破壊のようなかたちのものが、泰衡の時期においてなされたことが、首がない、膝が全然別々になっている、胴体だけ、腕だけというような、はっきりみんなばらばらにしたというのでないにしても、そういうかたちで、仏像としても仏体としても体型を全部損なうような政策というものがとられるようになった結果、ばらばらになり、その大部分、特に首像などは全部川に流してしまったのではないかというふうに、したがって、首を、戦前戦後、子供達がキャッチボールみたいにして投げたとかなんかというようなものは、後になって、そのために二次的、三次的、四次的につくられた首像であるとか、腕であるとか、そういったようなものについてであって、胴の上に首を置けばはっきりと定朝様式の仏像になるというような首像が、ごろごろと戦前まで転がっていたということはあり得ない、あり得ないことです。あり得ません。

 

<今なお名残りの伝統に低頭「二十五菩薩さま」>

 私は但し、ほんとにそうかどうかということまでは何とも云われませんが、そういうふうに考えてみるとですね、現在、あの展示室はかなり後世になって整備した形だからですけれども、残っているばらばらの仏体の断片というものを見ますとき、自然に崩壊してぼろぼろになって崩れ落ちたものをああいう形にしたというよりは、何となく意図的に二つ三つに分けたその残りというふうな、そういうスカッとまとまった感じが今でもよく残っているんですね。私はそういったような考え方をすることによって、案外これは、ある時期、無念の涙をのんで泰衡という、あるいはまたその時期になって、この荘厳にまとまった菩薩様をばらばらに解体するような破壊政策というのが、涙をのんでなされたというふうな推定ができるのでないかというふうにさえ思っているのでございます。そして私はこれ最後に、これは政治的にはこれは宜しくないことです。しかし仏さまの前においては、重盛公のために、二十五菩薩様というものをそこにお造りしてお弔いをするということも、これは信仰の正しさであるならば、浮世のならいに従って、そのままに守りつづくことが出来ないで、涙をのんで、形の上においては支配者の政策を迎えるようなやり方をしながら、内々においてはこれに対してお詫びをするようなかたちで、その後の弔いというものをずっと続けていって、それなりに「松川二十五菩薩堂」というのは、本来の形こそ残すことは出来なかったけれども、現代まで、これが松川菩薩堂であり、その名残りであるという伝統ははっきり残しているというふうに言うことができるのでないかと、そしてこういうことこそが本当の「念仏往生」というものなんですね。味方だけ都合良い人だけのために祀るのでなく、涙をのんでこういうふうな、一見、仏教に叛くようなそういう行き方を執りながら、その心の中を思い計らって、そしてこれをも「念仏往生」のうちに迎えた。そういうものこそ「来迎引接」というもののほんとうの姿なんです。いったい「念仏往生」というのは、百万べん唱えても一度しか往生しない。今まで悪いことだけ続けてきた人が、やっと死ぬ間際の最後の断末魔に「南無阿弥陀仏」とたった一度唱えただけで、百万べん唱えた人と同じ資格でもって往生を遂げることができる。それが「念仏往生」というものです。

 そして松川二十五菩薩堂というのは、そういうかたちで、重盛を祀ったから、泰衡がこういうふうにしたから良いの悪いのなどということは、これは「浮世のならい」であって、仏さまの前においては、それぞれのかたちで、それぞれの勤めを果たすようなかたちでもって、最後、阿弥陀様の前において懺悔往生していったという、そういう崇高な祀りというものを、ぜひ松川の皆さん方がこれから先、伝えていっていただくようなお願いの仕方をして、これは全く私がこんなふうに思うということをひとこと申し上げただけですから、これも念仏往生ですから、これも「松川二十五菩薩堂」の往生の一つになしうるだろうというふうに、私としては阿弥陀様に「南無阿弥陀仏」とお願いをして、私の話を終わらせていただきます。 

「松川二十五菩薩堂」

 「弔はん頓証 育王菩薩院 恩讐悉皆 浄土往生」

      平成十九年五月二十四日 高橋富雄作詩