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室根山・みちのくの真実を明かすお山

   ――北を閉じ南を開く神の地理学――            平成19年7月24日

 講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生         
 

私は八十歳を過ぎましてやっと念願の室根の参拝を本日させていただいたのでございます。それから東北岩手一関方面についての研究、勉強らしいものを若干続けて参りましたけれども、残念ながら、これまで一度も室根山について書いたり話をしたりすることはなかったのであります。そこで本日は、あの世に行って閻魔様に会って、そして「お前どのようなことをした」と聞かれた場合の罪滅ぼしとして、最後に室根山についてのお話をさせていただきましたと申し上げて、ひとつ極楽行きを実現させていただこうと、こう思っているのでございます。

 今日は、ただ今の立派な奥野先生のお話を受けて、普通ならば一時間でもって立ち上げるところですけれども、本日は特別にお願いをして一時間半と、30分長くさせていただいたのでございます。

 

 <室根山を「お山」とよんでいたこと>

 それには先程のお話にもございましたように、地元の方々にとっては、室根山という山は、あつても「室根山」という名になじめなかったということに大変感銘を受けました。そして「お山」というふうによんでいたということについて、私はほんとうにただこれだけでもたいへんな勉強になったと思っているのでございます。 そして、願わくは皆さん方にとって、室根山でなくて「お山」であるということの意味がどのように重要なものであるかということについて、この際ぜひとも考え直してほしいのでございます。私がこういうことを申し上げるのは、いったい京都においては、「お山」というと、富士山でも大山でも阿蘇山でもなくて、比叡山のことに限っているのでございます。

 すなわち、京都千年の歴史を通じて日本の文化歴史を代表する山というのは「お山・比叡山」というものによって代表されておったのでございます。それと全く同じ言葉で室根山が表現され、信仰され、お祭りされてきたということ、これは皆さん方にとって室根祭りは、比叡山のお祭りと同じくらい、しかも比叡山は、お上(おかみ)とか、役所とか、そういう偉い人たちによって、言ってみれば上から下へ官制によって行なわれてきた祭りであるのに対して、これは純粋に下からの、地元からの、漁師たちからの、農民たちから、上へ持ち上げてお山祭りになっているものですから、先程この祭りが指定されたときに、古い伝統をよく伝えた祭りだと云うことの具体的な意味を、「お山祭り」であるということにしぼって考えていくべきだと、私はそう思っているのでございます。

 

 <室根だけの「お山」では狭すぎる>

 しかもこれがお山であるのは、ひとり室根村だけのことではありません。大東町でも千厩町でも東山でも、お隣の気仙郡においても、いや更に西の江刺においても、これは共通に「お山」なのでございます。さらに私は大東、千厩、東山、気仙において「お山」であるというのでは狭すぎると思っています。かえって、南の宮城に入って、桃生郡とか牡鹿郡とか、こういう方面まで含めて、こちらでお山と言ってたかどうかはわかりません。しかし、彼らのどの神さまよりも最高の神として崇められているのが、この室根の神であったという意味において、こちらにおいても室根山はすなわち「お山」であったといって差し支えないと思います。これだけの大きな祭りとしての意味をもった室根山というものについて、皆さん方は単に伝説がこうである、神社の縁起がこうであるというようなことを越えて、もっともっと岩手県全体、東北全体、いや日本全体の中で、この岩手の「特別なお山祭り」、「お山信仰」。このものの持つ全日本的な意味を考えていく。そんなようなところまで深めていったならば、「お山祭り」が廃れかけているという、そんな嘆きというものは、どこかにふっとんでいくだろうとそう思っているのです。 

 

<廃れさせては磐井も亡ぶ>

 ところが、私が聞いたり、読んだりするどの話や、どの本にも、いったいそのようにこの室根祭りを「日本のお山祭り」として、比叡山と並べて、西では比叡山、東では室根山ともいえるような、そこまで持ち上げていくような考え方、勉強というものを、残念ながら郷土史家とか歴史家とか、神社関係者とか、そういった方々で十分なかたちでしているとはどうしても思えないのでございます。

 そのため私は皆さん方に、率直に苦言を呈するようなつもりで、このお話を進めていきたいとそういう気持になったのでございます。そしてこの苦言というのは、実は皆さん方が、室根を越え、磐井を越え、岩手県を越えて、「日本の室根信仰に連なっている人たち」という、そういうプライドを新しく持ち直すために、なぜこのように宝の持ち腐れになっているのかということについて、私は不思議にさえ思うようになっているのでございます。私はこのひと月以上、室根のことだけを考えてまいりました。そしてそういう結論に達したのでございます。

 

 そこで、本日ここにお出での方々みんなに、満足していただける、納得していただける、賛成していただける話にはならないと思います。しかし、こういうことを考え直すことなしに、室根やら、新しい一関やら、そういったような町村が、日本の中で十分なる発言権を確保していく上で、そこんところをきっちり固めていかないことには出来かねるのでないかというのが私の感想でございます。そこでもし、私がこれから申し上げることの何分の一かにご賛成いただき、その線でみなさんの考えが進んでいくようになるなら、私は皆さん方が改めて千年の室根の歴史をさらに遡った、「神代」にまで遡らせて考えていく歴史・学習になると思っています。そういうことで皆さん、若干我慢して一時間半聞いていただきたいとそう思うのでございます。

 

<「延喜式」の磐井に室根神社があげられていない事実>

 率直に疑問を提起します。

 室根山はひとり、室根だけの神さまでないということ。それは遠く宮城の北、桃生、石巻、牡鹿、金華山、このようなところから、江刺、気仙郡全体を含むような、そういうような神さまである。現に、戦前では、これは東磐井を代表する県社のような、そういう最高の扱いを受けておった神社なんですよね。ところがですよ皆さん、不思議に思いませんか。それが皆さんがたの歴史の中に、こういうものが入ってきていないのです。

 今から千年以上前に、国家の法制、具体的な細則を定めた法令集ができました。「延喜式」というものでございます。そこの中には国家の「官社」として、国がちゃんと祭祀料も出す、お祭りの時には使者を出す、そういったようなことを定めた特権を与えられておった神社を「式内社」というのです。「延喜式」の中にリストアップされている神社なんです。ご覧になったことありますか。ないでしょう。これ最もみなさんにとって大事な史料なんですよ。そういう話をちゃんと出してこないといけない。室根山の話には。ところがその「延喜式」の磐井郡のところに、室根山という神社がないのでございます。室根山というのはないのです。「配志波神社」はある。配志波神社というのがどういう神さまの神社かというのも、私これが大きな意味を持ったものだと思っているのですが、本日は申し上げません。それからもう一社は舞草鍛冶の守り神になる「舞草神社」、この二つです。

 この二つの神様が、磐井にとってたいへん重要なありがたい神様であることは間違いないですよ。でもそれに勝るとも劣らない神社で、もし先ほどのように、奈良時代のはじめ、大野東人の頃、まして日本武尊が関係するような形で神社の起こりを考えていくようなそういう「お山」の神さまであるなら、磐井の中に、いったい、なぜ、室根神社というものがなかったのかということ、これみなさん不思議に思いませんか。こういうことに触れることなしに、どんなに室根山の格上げを図ろうとしたって、きっちりと証拠がある、どこにいっても百パーセント通用するような史料の中で証明できない、証言できないとすると、少なくとも今から千年ちょっと前には、そんなに立派な最高の神様という扱いでなかったということになってしまいませんか。ところが皆さん、そういう疑問を全然出しておられない。皆さんたいへん良くできていらっしゃる方々で、私のように意地悪いことだけ考える人なら、こういうことをまともに受け止められないはずです。

 

<それでも室根信仰が厳然と継承されてきていること>

 さて、磐井にないとすると、それならこの神様の信仰というものがその頃はなかったかというと、厳然としてあったのです。これについては、文部省とか文化庁とか、そういうところのお墨付きがありますように、これは祭りというものの最も古い伝統形式をのこしたお祭りだというお墨付きです。そしてそのとおりならば、それが五百年前とか千年前に始ったとかいうようなことでは、とってもこのような祭りにはなってきていない。そういうふうに考えていくと、いったい室根山というのは、そのころというと「延喜式」、今から千年以上前、このころに全国の神社を計算する段階では、この名前で呼ばれていなかったため、十分に配志波神社にも舞草神社にも勝るとも劣らない神様であったにもかかわらず、リストアップされていないのだと、こういう考え方をしていって、はじめて理解がくるのではないでしょうか。如何ですか。私のように年取った人でさえもこう考えるわけですから、皆さん方のように私よりも若い人たちが、もっともっとそういったようなすじの通った考え方をする必要があるのではないでしょうか。

 

<気仙三社総点検――室根神社に結びつく名前がなかろうか>

 ところがお隣の気仙郡には、三つの神社が「延喜式」に掲げられているのです。

<「キヌタテ神社」・「イダテ神社」>

 ここには気仙郡の方がいらっしゃるということですが、「キヌタテ神社」。これを私はわざと字も書きません。こういうことを言っていたという記憶だけに止めておいてください。「キヌ」は衣服の「衣」という字を書いています。そしてこれが転じて「キヌタテ」という読み方がほとんど伝説のようになっています。第一、こういう読み方が無条件に通用しているあたりから、神様の信仰というものがかすれていったのだと思わなければなりません。これは今日私がお話することでわかりますように、改めてこれは「イダテ神社」と読み直すようにするということを私、提案することにいたします。これ私として自信があるのでございます。どういう意味か、これから先、申し上げます。

「リクコダ神社」

 もう一つ、リクコダ。気仙からお出でになった方がいらっしゃるそうですが、この「リクコダ」について、こう書くんだとはっきり言えて、その意味はこうだというようなことについての研究というものが出来ていないまま、意味不明だからアイヌ語だろうというようなかたちになっているようですね。しかし私はこれは立派に日本語の意味が分からないかたちで、ただ音でもって読まれているに過ぎないのだと考えています。ちょうどこれは、仏典でサンスクリットの印度の言葉を中国風に意味をとって解釈するのが大部分ですが、人名その他翻訳しにくいことについては、その音、発音を中国風に受け止めて、そういうかたちに漢字を与えている、そういうことがあるんです。「リクコダ」などというのも、そういうかたちで、全く意味不明のリ・ク・コ・ダという、そういう言葉に合った発音が、ここに止められているのだという考え方になっておって、それに誰も文句をつける人がいないのです。

「トナコシ神社」

 もう一社あります。「トナコシ」もしくは「トナカシ」でしょうか、それ私は「トナコシ」とする方がよろしいかと思います。

 これはどうかということについて申し上げません。かえってそこのところにこだわっちゃうと大局が分からなくなる。ただそんなふうに意味不明の三つの神社が、しかもこれは厳然として国家の官社として、気仙郡の中に登録されているのですから、とにかくこういう形で表現される官社というもの、これは明治以降でいうならば国弊社とまではいかないにしても、県社相当のものになっているのです。

 

 さてよろしいでしょうか。今挙げたこの気仙郡三社にも、どれとして室根になりそうな表現になっている神社が一つもない。どんなにやりくりしてみたって、トナコシ・イダテ・リクコダ、どれを見たって室根村には結びつきませんね。したがって室根のお隣の気仙郡にも三社が式内社としてあるんだけれども、しかし、ここにも室根と少なくても名前の上で推定し、チェックし、読み替えていくことのできるような神社がないとすると、一言でいって磐井郡にも、お近くのお隣の郡にも、室根山、室根神社というふうな名前に結びつく神社は、どこにもなかったということになります。こういうことについて、みなさん不思議に思いませんか。こういうことを全然不思議とされないまま、室根信仰というものを守っていくというところに、室根信仰の弱さがあるのではないかと考えるのです。なぜなら、今から千年ちょっと前ごろの世の中で、はっきりした国家の公認を受けたような神様に室根神社がなかったということになるからです。

 

<気仙三社の再点検――室根神社謎解きのカギが>

 そしてそれでみなさん納得いたしますか。納得しないでしょう。だとすれば、室根信仰そのものは厳然として存在したにもかかわらず、それを室根という名前では表現されていなかったのだと考えなおしてみなければならない。磐井式内二社、気仙式内三社のどれかの中に、いろいろと考え、考証、推定していって、これに結びつくようなものを考えていくというようなことをすることなしには済まされません。室根信仰というのはお祭りの最も古い形式、心を残した神様である、祭りであるというふうなまま、ただ、そうだ、そうだというふうに受け止めるだけでは、あまりにもお人よしといわなければなりません。私のような意地悪い者では、とっても納得ができません。

 私は、その謎解きをするための勉強をこのひと月ぐらい、必死になってやったのでございます。ひと月ぐらいでこれからお話するようなことになるのですから、かなり思いつきみたいなところもあるかも知れません。そういう点で私は、かなりの皆さん方にご賛成いただけまいかと思いますけれども、ほんとうに私は、こういう疑問をクリアすることなしに、ホントウの室根信仰には至りつかないのだということをここで確認しておいていただきたい。その上で、これからのお話しを聞いていただきたい。よろしいでしょうか。どういうふうになるかについては、皆さん方のお考え次第だと思います。

 もう一つ申し上げておかねばならないこと。先程のお話にありましたように、室根山は標高895mあります。北上山地、北上高地のなかで早池峰山ほどの高さではありません。それから気仙の北にある五葉山より若干低い。五葉山は1,300位いですから。ですが、それらすべてに勝って北上高地を最高のかたちで代表する山という、そういう名誉ある資格を室根山がもっているのでございます。それは「日高見」、ほんとうは「北上」は「日高見」の言い直しですね、そしてその「日高見」が蝦夷の本国といわれていたところだということ、これは記憶していただく必要がありますね。そして北上高地というところをずばり言えば「蝦夷奥地」とする古代の人たちの考えがあった。

 その日高見高地の最南端にあって、山らしい山、高地らしい北上山脈、山地というものがここ室根山で全く終わりを告げるのです。ここから南には道路のかたちの山が仙台平野の北側に続いて仙台湾で全く落ち込んでしまう。そうして仙台湾を越えた向うでは福島県に入って、阿武隈高地というものに続いていくのですけれども、狭い意味の北上高地というのは、室根山をもって南限とするのでございます。これ異論ありませんね。

 

 そういうところに室根神社があるとすると、室根山信仰というのものは、日高見高地、北上高地における地元信仰というものをここで最後的に締めくくるようなお山として起こってくるのだという考え方、これ皆さん賛成でありませんか。私は地理的にそうとしか考えられない。そして歴史的にもそういったようなことを肯定できるかたちで、気仙三社というものが式内社に登録されてきたのだと、そう考えるのです。

 

<日高見高地南端の「気仙の国」での室根山と考えれば>

 ずばり言って日高見高地、北上山地の南を限るということは、気仙の人たちには分かりますね。気仙郡の南を限るということに他ならないのですから。なぜなら北上山地は、気仙郡というものが大きな幅をもったかたちでの南端となっているんです。その南端の最南端が室根山だと。こういうことですから、結論として、山の論理、自然の論理について考えるかぎり、室根山というのを磐井郡、東磐井郡、あるいは東山、そういった中でだけ考えられるべき山でないということに、皆さん異論ございますか?かえって、この山が、七割、八割以上、気仙郡をここでせき止める山であるという考え方をしていく。ただし、そのすぐ東、南、そういう方向には、新しい地形、新しい地勢というものが起こっているから、気仙プロパーのように、例えば、高田であるとか大船渡であるとか、こういうところを考えるのと同じような意味において、100%気仙の山とは言えないとは思います。しかしながら、少なくとも主要な部分が、大船渡や高田などと性格を同じくする「日高見 気仙」の山のうちでもあるということ、これだけは理論の分かる人には自然と理解できるはずのものです。しかしながら、そういう話がこれまで全くないということを、私はこの八十を過ぎた年をしてたいへん不思議に思っているのでございます。この老化した頭においてさえ、こういう疑問が起こるとすれば、皆さん方のようにもっと切実にこの問題を考えていかなければならない人たちにおいて、これが疑問にならない、具体的な方法をそこのところで考えていないということは、不勉強だと言えないでしょうか。私は率直に言って、そういうふうに考えるのでございます。

そういう考え方をしていけば、私は配志波神社という式内社をどう考えたって、これは北上川の向こう岸、西磐井の、今の山目でしか考えられない。舞草神社というのも、場所もさることながら、これは100%刀鍛冶に関係してきますから、これをどんなに考えてもまず室根には結びつかない。そう考えれば七割、八割以上、気仙の国のうちとしてあったはずの室根山というものが、もし神さまとして問題になってくるとなれば、気仙三社のうちで、そういうことを話題にすることが出来ないものだろうかどうかということです。(こういう問題を特別に気仙の方々に提起しておきたいと思います。)

 

 <半分ロマン、四分の一物語、何分の一か歴史という歌で>

ただし、そういうことをいうと、あまりにも新しい全くこれまで聞いたことも読んだこともない話なので、とってもすぐに賛成とか反対とか言うことが出来ないでしょうから、私もそのつもりで今日は、その話をそういう理論を理論として、はっきりこうだああだと考証したり、或いは論議したりするような話にしないで、これをのんびりと歌のようなかたち、詩のようなかたちにして、半分はロマン、四分の一は物語、そして何分の一かは歴史になると、こういうふうなかたちにしてお話をしてみたら、その中で、「あ、これは歴史としていける」と言う分があったら、その分を歴史として捉え直していくようにしていただく。全く無理だったら、「高橋先生一人の思いつきだと、そういうことならこれは、文学、ロマンとして、そういうような感想もあり得る」というふうにお考えくださり、大目に見ていただく。そういうふうにしていただこうと思って私、今日の話、これを全部、短歌、三十一文字のかたちにまとめてお話をしてみる気になったのでございます。

そしてこれはプリントとしてはお配りいたしません。なぜかというと、そうすると何となく、私がこれを皆さんに押し付けるようなかたちになってしまうからです。ただこの話を聞いた後、皆さんが参考までにそれはどんなかたちになっているかということを、希望なさる方があれば、「市民会議」の伊藤事務局長さんを通して申し出でいただく。そういうふうにしたいと思います。よろしいですね。これは皆さんの立場を考えて、押し付けがましい話にしないための配慮でございます。

 

 早速それに入っていきます。ですからノートをとる必要ないです。何となくいけそうだというようなことを気持でだけ受け止めていただいて結構でございます。

 いったいこういうかたちをとることが、ここで文化史講演とか歴史講座とかと言うものの趣旨に合うかどうかということについての反省論者、フランスで近代哲学を始めたデカルトという人ですが、その人の新しい哲学の方法論が「方法序説」と訳されているものです。それほど立派な話ではないんですが、歴史の話だと思ってきたのに、歌の話とは筋違いでないかという疑問があろうかと思いますので、必ずしもそうでないということをここでちょっと申し上げておこうと思います。それも歌のかたちにしてみたのでございます。

 <自然(じねん)の理 自然(しぜん)の學>

     「人は地に(のつ)とる東の自然(じねん)(どう) 西には地人 神の地理学」

 東洋では、自然のことを「じねん」と言って、あるがままに真実を指している。それが近代的なかたちでもって、「しぜん」とよばれるようになって、すなわち「天地の論理」ということになってきた。「じねんの理」を大事にするのです。

 中国では老子という本に「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」という、有名な言葉があります。そこでここでは、「人は地に法る東の自然道」、東洋では文化とか人文とか歴史とか、そういう人の道はすべてその土地が、大地が、どういうふうなことを人に求めているかということを素直に聞き取るようなかたちをとることが、すなわち、「東のじねん道」というものになってくる。老子という人の思想はだいたいそういったものを究極に高めたものです。

ところがこれと全く同じようなことをヨーロッパでは、近代の地理学を始めるときに、まるで老子をカンニングしたような、そんなかたちの議論が行なわれているのでございます。クリスチャンの日本の内村鑑三という人、近代の新しい地理学をはじめて興した人だといわれています。内村という人はそういう学者でもあったんですね。その彼が最初に書いた本が「地人論」というもの、これはフランス語を英訳したものを内村鑑三が読んで、その英訳された種本が「Earth and Men」で、「大地・地球と人間」と題されていたそうです。その「Earth and Men」を日本語にして「地人」とした。すなわち、歴史や文化の論理は自然にかたどっている。大地を模範としている。大地を人に受け止められて、その国の歴史や文化や思想を興こす。それを合わせて「地人論」というふうに、内村の地理学の本はこういうかたちで書かれています。だから彼はアメリカにおける知人友人たちには、この本のことを「宗教地理学」というテーマで自分は書いているのだとさえ言っているのです。

 

 こういう考え方で、室根のことを考える、磐井のことを考える。そのスジで大地の論理をしっかりつかまえることによって、そこから大きく歴史や文化、宗教に育って行くようなココロを探り出していく。そういうことが出来るはずなんです。そのためには、皆さんもやっぱりこういった心算になっていただく必要がある。今は、こういうかたちで「東は東、西は西」というふうに言って、何となく東洋と西洋は併行して交わらないんだという考え方をしている。だがこれは全く別で、難しいことを言わなくとも、老子のこの「地に法り、天に法るじねん論」というのがそのまま西洋に、内村の地理学の近代的な思想理論の中にはっきりと生かされているということが言えますでしょう。私はこういう考え方が、室根山の信仰を大地にぴったり根付かせるようなかたちの論理として育てられていくことを強く希望するものです。

<史は詩なり>

  「東には紀傳(きでん)(dau)とは文章(もんじょう)(だう) 西には歴史を物語とはいふ」

 また理屈では、こういうことも言えるのです。東洋では歴史学のことをよく「紀傳道」、「本紀列伝」などと書きます。「紀傳道」というのは歴史のことを意味します。しかし、間もなく日本などではそんな難しいことを言わないで文学化し、詩的な文章の道に切り替えて、「文章道」というようになってしまったのです。すなわち東洋の古い伝統においては、歴史が文学になる。これが東洋の古い伝統のうちのオーソドックスになってくる。歴史を難しい理屈で言わないで、もう少しやんわりした、美しいロマン、こういったものを踏まえるなら、美しい日本の学問になっていく。東には紀傳道、紀傳道とは文章道。だがヨーロッパでは、先程申し上げたデカルトのフランスでは、よろしいですか、イストワール、英語で言うとヒストリー、歴史です。ところが我々日本人がヒストリーというと100%歴史であり、歴史というのは難しい理屈をこねる学問と、こういうふうに相場が決まっている。フランス語でイストワールというときには、歴史などという訳語が、ずっと後の方になって出てくるのです。まっ先に出てくる日本語の訳語が話とか、物語とか。そういうのがイストワールという言葉の原語なのです。そしてそれを理屈だて理論立てて、学問的にして、ヒストリー、歴史になるという、こういう考え方。そうすると歴史から物語、うた、詩、文学というのでなくって、逆に物語的、ロマン的に考えて、そこから筋の通ったロマン、物語というふうにしていき、そして、イストワール、ヒストリーになってくる。

 こういうことなら歌、詩というようなものを中心に歴史の原点に戻っていくということ、必ずしも無理でない。ですからこれも詩(うた)のことにしたいと思います。ただしこれには拠り所がなければならない。東には紀傳道とは文章道、西には歴史を物語という。イストワールすなわちイストワール、そういうことになってくる。そうすると、この詩、このうたの室根山がたりが、歴史室根物語になっていくということ、やんわりとしたかたちでもって、理屈を考えていく。歴史にしていく。不可能でありませんね。

 

 もっともっと直接的な話があります。あの赤穂浪士があった元禄のころ、福島県、会津藩の城下に「幕内村」という村があって、ここに名主を勤めておった佐瀬与次右衛門という人が、日本で最初の農書、農業はどうあるべきかということを理論的にまとめた本を書いて、それまで定説のように宮崎安貞という人の農業全書というのが農学書の最初だといわれているのを一つ越えて、東北で最初の農学書が出来たという名誉が与えられている本なんです。  

 ところがこの著者のお友だちがきて、その著者の佐瀬与次右衛門にこう言ったというのです。「あなたの書いた農書を読むと、くだくだと長々と面倒なことばかり書いておってさっぱり頭に入らない。これでは農民がこの本を勉強して、ここから農業を良くしていくなんてことは出来ない。同じくはこれを地元言葉の、みんなの分かる言葉で、歌のかたちにして書き直してみたらば、いっそう効果があるのでないか」と。

 そういうふうにいわれた佐瀬という人は、語り農学理論抄1266首ぐらいですかね、1200首を越える三十一文字の農学教訓書に書き改めて、今日、それが残っているのでございます。「会津歌農書」というのですよ。これ農書全集というものに納められております。私はこの中の心ある方々の何人か、ぜひとも これをお読みいただくことをお薦めします。私ここにそれを持ってきておりますけれども、壇上にはもって来ませんでした。

 そこで私はどの人たちに学ぶよりも、この「会津歌農書」の心に学んで

「くだくだの学理にまさる歌農書 郷談リ諺のこころ学ばん」

 と詠んでみました。一言でいって、会津歌農書のかたちと精神に学んで、室根信仰の心を歌にならない歌というかたちで、皆さん方にご披露してみようと、そういう気持になったのでございます。そしてこういうことで分かるように、私たちが新しく出直すためには、私たちの周りのことだけ考えておってはだめで、全然知らない、関心のない人に向って話しても、なるほどと賛成してもらえるような、関心をもってもらえるような勉強をしていって、そういうかたちで「室根の論理」というものを「日本の論理」に掲げていこう、私はそういうつもりでたいへんお粗末ですけれども、こういうものを考えてみたのでございます。

 

<遠山が呼ぶ室根山地人論>

 そう考えていって、さてこの歌の中でまとめてみると、室根という地理はこういうことになります。「日高見の南を限り山海の 両道落ち合ふ遠山の声」 

 山道と海道。そして山道は東山道、海道は東海道です。奈良時代の正紀を書いた「続日本紀」という本に、奈良時代の終わりに大伴駿河麻呂という人が、この方面の蝦夷の征討に当っていることが書かれています。そしてこれまでのどの将軍たちも上げることの出来なかった東山の征討、気仙方面の征討に、完全な成功をおさめたという立派な記事が歴史にあるんです。

 こういう歴史が地元の方々には全く知られていない。宝の持ち腐れというのはこのことですね。そうして「山道」の奥というのが、すなわち今日の東山から気仙西部にかけての地域、「海道」の奥というのが、牡鹿、桃生を越え、そうして気仙海岸寄り方面ということになっていて、そしてそれが気仙で完全に止まるのでございます。そしてこの範囲のことを、正史では「遠山村」と呼んでいるんです。皆さん方は東磐井というのが、昔「東山」というふうにいわれたということはご存知ですね。その出典がここにあるんです。そういうこともご存知ない方が、「東山」を「京都の東山」から来てと、平泉時代のことのように考えたり書いたりなんかするような、まことに情けない話があるということがこれで分かるんです。そのように日本国家が東日本を東山道、東海道の奥というかたちで、一応大きく締めくくろうとする第一段階の東海道のぎりぎりの奥、東山道のぎりぎりの奥、それが東山、気仙の地だと考えられる。それを一帯にとらえて「遠山村」とよんでいた。私は、室根山というのはこの遠山村というものにおける第一のお山だと、そういうふうなかたちでとらえていたために、それだから「室根」などという名前にはならなかったのだと、私はそういうふうに理解しています。

 「山海の両道落ち合う遠山の声」とまとめたのはその意味からです。歴史で遠山と呼んでいるのは、一言でいって、東山、気仙というものの歴史を原点に戻って考えていこうとするなら、「遠山村とは何か」ということをこそ考えていかねばならない。こういうことで遠山の声と、遠山村は呼んでいるとそういうふうに詠んだのでございます。

 

 そうなれば、「室根」というのは、はっきりと気仙、日高見、遠山の最南端であるために、ここから遠山村がはじまるんだとなることが、これで分かってきますね。気仙の締めくくり、気仙をここからはじめていく山なんだと。そういうかたちになって、したがって、こういうことが社会の論理、「国境の論理」ということになっていくのです。フランスとドイツの間にアルザス・ロレーヌという国境があります。フランスが強くなればアルザス・ロレーヌはフランス領になります。ドイツが強くなればドイツ領になります。それが国境の論理というものです。

 

<境山の論理>

    「境神南北正面 双面(ヤヌス)神 気仙北面磐井南面」

 私はそういうふうに考えて「(さかい)(かみ)」、南北に正面がある。これはローマでは前と後ろ両方に顔のある神さまを「ヤヌス神」という。双面神(ヤヌスガミ)です。北面すれば気仙、南面すれば磐井ということになる。国境の論理というものはそういうものなんです。それを遮二無二、磐井か気仙かどっちか一つという択一の論理、これあてはまりませんね。「それもこれも」ということです。両方真実、気仙でもあり磐井でもあるということになる。

 

<気仙式内三社のうちに室根あり>

 ですから律令時代、古代の法律がちゃんと生きている段階、「式内社段階」においては、ここでは北面の論理が優先していたと考えなければなりません。したがって式内気仙三社のうちの中で、室根というものを考えるということ、十分可能であるというのが、私の歌のロマンでございます。私はこのロマンは真実だと思っているのです。こういうふうに考えて、私はここにぜひとも気仙からお出でになった方々の「気仙古代学」に対して、お願いしておくのですが、気仙では氷上山の頂上に三社大神、三社明神というものが置かれているそうでございます。これはずっと後になって三社が元どこにあって、どういう神さまであるか分からなくなってから氷上山にまとめたものだろうと思います。

 しかし、そのまとめ方が東殿・中殿・西殿ということになっていて、キヌタデ、リクコダそしてトナコシというふうに当てているのです。これはそれなりに何百年かの歴史があると思いますので、これはこれで尊敬して良いですよ。しかし今新しくちゃんと筋の通ったように考えるならば、「東中西」の考え方を「南中北」と、南北に並べ直して考えていく。そうして、南殿がすなわち衣太手神社、中殿が理訓許段神社、北殿が登奈孝志神社というふうに考えては如何なものかというのが私のロマン学です。歴史学ではありません。しかし私はこのイストワールがイストワールになる、物語が歴史になることを期待しているのですし、私自身確信していることなのです。しかし、皆さん方にはこれはロマンであり、イストワールであるというふうに申し上げておきます。

 

<神判の関所 気仙三社>

室根社(ドミネ・クォ・)いづこ(ヴァディス)

     「式内に室根の名なきは謂れあり 気仙三社や至福千年」

    <式内三社のこと>

    「氷上山東中西殿まことには 南中北殿 神判の関」

 なぜかというと、これは南から北へと遠山村の蝦夷経営を進めてきた政府軍、南から中へ、中から北へと行って気仙の、おそらく最北の、私の考えでは五葉山あたりを「気仙日高見」、気仙の国の最北の山として考えて、ここから南には絶対に来るなというふうに考えて、そしてその役割を後のきっちり政治の整った段階では、城だの関所だのというのを置いてやるのですが、この段階で東山から気仙にかけては、そこまでの段階に来ていなかったために、神さまの審判の関所の場とし、且つ地域の支配社でもあるような裁判官の意味をも与えて開いたものであろうというのが私のイストワール、私の物語りロマン史学なのです。そしてこれはかなりの部分が歴史としての妥当性をもってくると考えられるのです。

 さて、そうなっての「リクコダ イダテ トナコシ」、全く意味がわからない言葉です。だが私はこれをこの際、十分日本語としての言葉の意味を持った神名が、後になって意味が全く分からなくなってしまったために、単なる当て字というような考え方になって理解されるようになったのだと、私はそう思っているのです。

 「イダテ」。私のロマン学においては、イデタテは出で立つ。ここから、いよいよ気仙日高見遠山村へ入って行く出発点、基地がここのところなんだ、それを神さまがみそなわすというかたちでの「イダテ神社」。したがって立派に日本語になります。

 次が「リクコダ」。「リ」は理、ことわる意味をもつ裁断。正しいものは正しい、ダメなものはだめとする、それを理という。「ク」は「訓」。お前が来てはいけないところだよ、なぜ来たんだ、そんな理由だったら帰っていきなさい、ここから南に行ってはいかんと教えるところ。それが「訓」。「段」はそういうふうにだんだんと順序だてる、順序立てて教え、そうして裁許する。裁判して許可する。「リクコダ」をそういうふうに考えます。「リクコダ」は通行を断わる、行って良い、駄目。それを筋道立てて教え、裁許する、それを断わる、諭してやる、だから来てはいけないんだよ、戻っていきなさい、通行を断わり諭しては神許、神の名において神官がその命令を下す。しかもそれを段々、順序だてて教え諭して帰るべき者は帰す、行くものは行かせる、それが「リクコダ」だとすると、これ立派に日本語の漢字釈になってくるのです。

 さて、「トナコシ」の「ト」、これは「勿来関」の勿来と、全く同じ意味を丁寧に言い換えた日本語と云って良い。勿来はそれを全く簡単にまとめたものと言えます。「ト」は杜絶の杜です。そこのところでとめる、やめさせる、よこす。勿来は、文字通り厳重に通行を止めてここから来てはいけない、ここから先は行ってだめだというふうに。ここが最終の関になるのだという考え方が「トナコシ」ということになってくる。

 私はそのようなことを歌にして、そうしてこれは三社すべて、遠山村の蝦夷経営が終わった後、ここのなかに蝦夷経営に入る人たち、商売に行く人たち、逆に政府軍に従った蝦夷たちが南下するような、そういう通行路になった山の、それぞれの要所要所に、神さまの関所を設けるかたちで設けられた神社、それがこの気仙三社というものになってきた。したがってこれは、当然に気仙における重要な拠点になる山が、それぞれ関山、神関、明神山、神の関所山として定められた。すなわち、南は室根山、中は氷上山になり、北は五葉山になっていった。そういうようなことを、丁寧に説明しておったら時間が足りませんけれど、考えて見たら、これは陸奥にすべて関所とか城とか柵とかいうかたちで、政治的に固めていたような措置を、宗教の、神さまの力を借りて神判、神の裁きに、人の法の裁きを重ねていくようなかたちでおかれた神関、神社の関所であるという考え方をすることができるのでございます。

<衣太手南社室根山>

    「(キヌ)太手(タテ)()太手(タテ)出で立て 鬼首王山関 神判の聲」

<理訓許段中社氷上山>

    「理訓許段(リクコダ)は通行(ことは)(さと)しては 神判裁許段段の関」

<登奈孝志北社五葉山>

    「登奈(トナ)()()()勿来(ナコシ) ()(コシ) 禁入部 五葉は御霊(ごりょう) 魔性かしこし」

 

<衣太手神社を室根神社と>

 私は室根山というのは、そういうかたちで、もしこの気仙三社のどれかに、当てるとすれば、文句なし、無条件に「衣太手社」というものが、すなわち室根の神の所在ということになってきはしまいか。()太手(タテ)と室根山というのがどうなっていくかということについてはいろいろとまだ問題がありますね。それらの歌をすべて書いておきましたけれど、ここで全部広げることは控えさせていただきます。しかし、いずれにしてもそんなかたちで、イダテ神社というものは、意味から考えても、ここが出で立つ、北に対してはここから入っていくところ。したがって蝦夷はここから心機一転して南に下っていく。いずれにしてもその出入口になってくるということは、ほぼ間違いないのでないか。

 そう考えてこれは式内社の段階で、室根山が磐井の内と数えられないで、気仙の最南端と考えられていたというのが自然ではなかろうかということなのであります。しかし何分の一かは、ここから気仙を離れて南に下っていくその起点になるということは言うまでもございません。そういう位置付けであるならば、これ「室根」というものにならないのが当然です。

 

<気仙郡に気仙を名乗る神社がない>

 さてそうなってきても、まだまだ問題があるんですよ。そして皆さん方がこの点についても全く疑問を感じておられないのは、私などからみるとほんとに不思議なんです。気仙郡の中で、磐井郡の中でも、気仙を名乗る神名の神社というのが一つもない。良いですね。ところが磐井気仙を南に越えると、何と堂々と気仙を名乗る式内社がリストアップされている。

 桃生郡には「計仙麻大島神社」という名神大社があって、今日で言うなら「国幣社」の扱いになっている。県社の上でございます。ただし、その気仙というのは、気は「計」という字をあて、「万葉がな」で読んで「ケ」、気仙が計仙であるということです。これは古代国語ではっきりしていて、万葉集でそれがはっきり証明されています。ただそれを正式に気仙、計仙という二字の漢字で書かないで、わざと読み仮名三字にしているところに気仙郡内の神社ではないけれども、これは厳然たる気仙神社であるということを表すものにしていると思っています。牡鹿郡石巻方面に行っても気仙、計仙麻大島という神社が二つに分かれて、「計仙麻神社」、「大島神社」と二つに分けられて、これもきっちりと気仙の名前を残した神社が気仙郡の外にあるんです。しかし、気仙の中には入っていない。これ皆さん不思議に思いませんか。

 

<気仙を離れて「計仙麻大島神社」が東海奥全域にわたる海の守り神に>

 ここに気仙というものの謎があるようです。そして室根神社が、なぜ室根村とか東磐井郡とか気仙郡というところを越えて、広く「お山」というグローバルなかたちでよばれるようになったかという理由もここにあるということです。すなわち気仙という字を使う神さまは、はっきりとこれは海の神さま、海上安全についてだけ気仙という名前が用いられている。それをはっきり示すのが計仙麻大島神社という名前が物語っている。今日、気仙、気仙沼、大島というところにこの名前をのこして、この伝統をはっきり受けており、その名前がどこまで遡るかに若干問題があるにしても、この伝統がかえって本吉郡の方に生きているということで、それが分かってくる。

 そういうふうにして計仙麻神社、計仙麻大島神社というのは、ひとり気仙の神さま、守り神ではなくて、広く東海道の奥全域、大体からみると金華山、牡鹿郡、桃生郡、それから本吉、磐井東、気仙、この方面全域での海の最高守り神としてとらえられているということ、そして気仙郡にある神さまは、陸上交通についてだけあるから「気仙」を名乗らない。海上交通について大きく東海道全域に渡る海上安全の神になるという考え方に関する限り、これは計仙麻大島神社というかたちで、かえって気仙磐井の外に本社を置くようなかたちなんですね。

 

<室根山に熊野信仰が入ってきて>

 そういうことと室根との関係についてですが、室根の神さまが今日広く、北は江刺、気仙から南は牡鹿、金華山まで広く全域にわたる神様として、海上の神さまとして崇められているということは、計仙麻大島神社が気仙、磐井を離れて、桃生、牡鹿における「式内社」として、しかも別格の式内社として位置付けられているということと全く対応するものなんですね。すなわち今日気仙神輿が大きく太平洋全岸にわたる祭りとして崇められているのと、計仙麻大島神社がかえって桃生、牡鹿における式内社として、本社としての位置を固めていたということと、完全に重なってくるんですね。

計仙麻神祭と室根大祭

 「計仙麻社の神跡承けて室根山 まつりのすそ野定めけるなり」

 結論として計仙麻大島神社の神意というものを、そのまま再編成するようなかたちで室根山というものになってきて、なぜ室根になってくるかということを、その計仙麻神社と室根山の間に、熊野信仰が入ってくるからです。熊野信仰。これが奈良時代はじめの「大野東人」までいくというのは、伝説として結構ですよ。でもそれは私のロマン学以上にロマンチックですね。スーパーロマンです。これはちょっといけません。熊野信仰が全国に神命というかたちで摂社・末社を移すようになるのは、早くて平安中・末期からです。それから三百年ぐらい後になってからのことです。

 

南流神社の観音寺

 そしてそれまでの間を埋めていたものは何かというところが、すなわち「南流神社の観音寺」というものなんです。仏法のかたちで、神様の教えを仏法のかたちで代行するようになっておったんです。今日、観音寺、南流山の位置付けというのは室根信仰の中でたいへん薄くなっているようですけれども、これはもっともっと格上げする必要がありますよ。

ある時期、数百年にわたって、観音寺そのものが熊野信仰というものを牛耳っていたのです。これは別当寺というものが、あるいは神宮寺というものが、全部そういう役目を得ておった。明治になってこれがすっかり逆転してしまうことになるのでございます。

 

無漏(むろう)()山観音寺>

  「無盡(ムジン)()の唱導変成普門品 悉皆解脱 無漏(むろ)()観音」

<計仙麻神体山 室根祖霊山>

     「計仙麻社の奥津宮城の鬼首の山 神統一つ遠山は呼ぶ」

<遠山鬼仙国>

     「室根本 鬼首物語 歴史なり 日高見鬼国 書紀の正傳」

<鬼首山と室根山の間>

     「風俗の鬼首山 王法計仙麻山 佛法 牟婁峯へ問導く」

 

 観音寺の段階で、この室根山は法華経観世音菩薩普門品の教えに従って、観音信仰の本山、霊山としてこの山があげられるようになって、これがずっと伝統をなしていったはずです。それで、これが三十三観音の信仰となって残っているのでございます。

 この中でもし観音信仰を、観音様をただ一言「南無観世音菩薩」と唱えるならば、すべての願いがかなえられる。すべての悪者はそこのところでひれ伏すことになるということがここのところで保障されている。私はこの観音寺というのを、「観世音菩薩普門品」の教えに従って、すべての悪者、悪鬼、鬼首山、鬼の山といわれているこの室根山のすべての悪鬼、邪神を全部祓い捨てて、すべてを願いどおりにかなえてやるということ、それ皆さん、仏教語で何と言うと思いますか。これは観音経で「皆得解脱」、すべての人がみんな解脱すると言った、私はその「皆得解脱」というのが「無漏恵」とよばれていっただろうと考えている。

<無漏恵より室根へ>

「無漏恵山観音寺先 後牟晏嶺 室根熊野と千秋萬歳」

 「無漏恵」とは「漏る無き恵み」、恵みは(ネ)とも読む。無漏恵山観音寺というふうに、私は南流山になる前の観音寺を呼んでいたと考えているのです。その無漏恵<ムロウエ、ムロウネ>が平安の中、末期から「ムロネ」というふうに読み替えられ、無漏恵山、むろうえ むろえ 室根というふうに書き改められたのだとすると、このロマン、若干筋が通ってくるんじゃないでしょうか。いろいろとまだありますけれども、私はそんなようなことを室根山について、拝するだろうその心を学んで、くだくだしい理屈を理屈として重ねるのでなく、歌として、ロマンとして、余裕のあるようなかたちで、歴史の心、歴史の原点というものを探っていくというふうにすることによって、かえってくだくだしいへ理屈をこねるような室根山論や室根信仰よりは、本当にそれを良い祭りの伝統を残した室根の神代、「神代」の昔まで遡り、それぞれの時代にそれぞれに生き延びていった室根信仰の実態というものが分かるのではないかと思ったりして、分かったような、分からないような私の話を少し時間を伸びて話させてもらいました。ご静聴ありがとうございました。

 

 <むすびに>

芦東山作

     「室根より富士の高ねに赤根さす あかつきを見よ 日の本の人」

     「みちのくのひんがし山のひんがしを 見てこそ知らめ 日の本の日を」