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河崎柵と黄海の戦い

             河崎柵と黄海の戦い                   講師 東北大名誉教授 高橋富雄先生 

<初代磐貝公母體から二代磐井公金為行へ>

千葉先生から「前九年の役 河崎柵」についての概論をお聞きいたしました。私は先生のお話しには抵触しないようなかたちで、新しい考え方をご披露申上げ参考に供したいと思います。

そしてこれは私が何回か、例えば「青柳文蔵」にしても、「貝鳥貝塚、貝島貝塚」にしても、磐井の地から全国に向け、全く新しい日本史を考えることが出来る立派な材料を持っているにもかかわらず、そういう発掘がなされていない。失礼ながら地元の方々でさえ、その名前は知っておられても、それがそれ程の意味を持ったものだという考え方はなさっておられないですね。それを私、もったいないことだと思っているのでございます。私は学問を多少はやっておりますので、単なる思いつきやアイデアはなく、専門の学問の場において、立派に磐井から日本史の新しい見方を発信できると申し上げてきました。

そういった一つの例として、今日この「河崎柵」、その柵主だった人(千葉先生はこれ金氏(きんし)」と言った方が良いとおっしゃいましたが) 、これはやっぱり歴史的には「(こん)氏(こんし)」といった方がよろしいと思いますので、私は「(こんの)(ため)(ゆき)(こんのためゆき)」というふうに申上げておきます。

私はこの「金為行」という人が、どれほど重要な人であるかということについて、これ私の結論になりますが、簡単に三十一文字にまとめてみました。この色紙はこちらに資料として置いていきますけれど、むしろこれを丁寧に一時間解説するというかたちのお話をした方が、みなさんの参考になるかと思って、冒頭にそれを読上げてみます。「母體(もたい)() 清衡を呼ぶ 国づくり 磐井祖の君 金為行」。「母體承け」、モタイは例の(いわ)(ぐの)(きみ)モレといわれている人、田村麻呂のときアテルイと並んで蝦夷の大将だった人ですね。史料では禮儀の「禮」となっていますが、これは字の間違いがあって、示すヘンではなくて骨ヘンの「體」という字の間違いと言った方が良いのです。現在、水沢市になっている母体村は、古くは東磐井郡なんだそうですね。この東磐井郡母体村の開祖になる人が「母體」だと考えて良いと思います。

それから「盤具」と史料に書いてありますが、これ、将棋盤の盤になっていますが、これも字の間違いですね。こういうことは、全然地元のことを知らない都の学者、政治家が、多分こんなことだろうというふうに書いたのであって、これ「(いわ)(かいの)(きみ)」→「磐ケ井公」→「磐井公」。もっと丁寧に解説すると、というのをというのはの意味です。従ってこのを略すと「磐井公(いわいのきみ)」となる。私はこういうことから「磐貝公母體(いわがいのきみもたい)」という人が、すなわち「磐井公」といわれた最初の人だというように考えています。しかも歴史的には「磐井」というのが西磐井中心に考えられ、東磐井は遅れている山寄りの「東山」、要するに山寄りの磐井ですから、後進磐井の意味です。ですけれども、確実なかたちで「磐井公」といわれる最初の殿様になった人が、東磐井の「母體」という人であったということになり、地元では磐井郡の歴史をあんまり西磐井中心の磐井郡にしているが、この「磐井公母體」をもって東磐井中心の磐井郡というものを考える始まりになっていく。

それではなぜそれが「磐貝」になるのか。それはみなさんにお配りする資料で分かります。「貝(とり)貝塚」は「貝(しま)貝塚」だと思います。本来は(いわ)(がい)、「貝鳥貝塚」の貝は大部分が(いし)(がい)なんです。「石貝」は大和言葉で「磐貝」なので「(いわ)(かい)の公」となります。「磐貝の公」は、本来的には江刺寄りの殿様、領主ではなく、最も南寄りの支配者だったのだが、歴史がだんだん進んで大和朝廷の支配が北進してくるにつれて、それに抵抗しながらも後退して行き、最後に落着いたところが「母体」の地、それで最終的にその地の呼び名が「母体」になるんだと、私はこういうふうに言っているのでございます。 

<二代磐井公金為行と三代藤原清衡>

いずれにしても、そういう歴史的な経過でもって、この磐井の地、後の磐井郡、その領主と言える第一代が「磐貝公母體」という人だと考えるのでございます。皆さんが将来「磐井郡の歴史」を、太古に遡って記念する大々的な「磐井歴史記念日」を定めるときがきた場合には、もう少し「母體公」を「初代磐井公」だとする歴史観に立つよう育てていって欲しい。これが私の願いです。

そしてこの「母體」という人を初代にして「母體承け」です。「母體」を第一代に、その伝統を承けて、ここ磐井の地の政治・文化・支配をしっかり確立したのは、いうまでもなく藤原初代の清衡だということは誰も異論がありません。しかし、まっすぐ「母體」から藤原清衡に行くのでなくて、その中間に第二代があって、清衡が第三代なのですから、みなさん誤解がないように。衣川から北が奥六郡、衣川を境にして、そこから北が胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手、この六つを「奥六郡」という。この奥六郡が安部・清原の固有支配地であり、衣川を越える、すなわち磐井郡に入るということ、これは安倍・清原の侵略だと見なされるのでした。ですから、衣川から北までの奥六郡が、安倍・清原の固有支配の領土であり、安倍・清原まではまだ磐井郡への影響力、支配力が及んできてはいるが、固有の領土だ、支配地だと云うまでにはなっていなかった。そうすると磐井郡が正式に現地の大豪族の領地として組織されるようになるのは藤原清衡、藤原氏になってからのこと、それが「関山」というところに藤原の都が置かれるということになったのです。そしてその持つ意味はきわめて重要なんです。

これはヨーロッパの歴史で言えば、シーザーがルビコンという川を越えて、それまでのローマとは違う新しいローマ帝国をつくるようになったといわれているのですが、日本でも衣川の北に止まっておれば政府側の言うことを聞いていることであり、衣川を超えて南に出れば侵略的になると、そういう考え方がなされていたのでございます。そう考えると、平泉の藤原氏が、伝統的に反政府的、侵略的と考えられているのを押し切って、はっきり自分の国の中心を磐井郡に置くことにしたのだと、そう考えて宜しいと思います。

私は、この磐貝公から藤原氏初代清衡にいくその中間の第二代として、この金為行という人がいると、そしてこの二代金為行という人をしっかと組織するようなかたちで、三代藤原清衡という人が出てくるようになったと、私は磐井における支配者の歴史が三段階を経ていると考えています。それをこういうふうにまとめてみました。(色紙披露)「母體承け 清衡を呼ぶ 国づくり 磐井 祖の木に 金為行」と、こういうふうに詠んで、金為行という人を、「磐貝公」初代、それから「磐井公」金為行二代、そして三代藤原というふうに考えてみますと、磐貝公の頃は、まだ郡とか制度的に整った国づくりにはなっていなかった。その後を継いで制度的に整った国づくりの最初に来るのがこの第二代金為行という人、そしてその根拠地になったところがこの「河崎の柵」ということになると考えています。 

<河崎柵・黄海の戦い>

「河崎柵」というのは、まだ磐井郡の名がきっちり出ていませんけれども、安倍氏の支配、安倍頼時時代の館が「衣川柵」、後継ぎの貞任という人は盛岡「厨川柵」の城主、二番目の宗任は金ヶ崎「鳥海柵」の城主です。そして北上の「黒沢尻柵」。ここでも貞任、宗任の弟にあたる正任という人が城主だったことも分かっています。すなわち安倍・清原時代における有力な支配者というのは、胆沢郡では「鳥海柵」の宗任、岩手郡では厨川の貞任、和賀郡では黒沢尻五郎正任というふうに、皆、郡単位の支配者として、その根拠地を定めていたということがこれで分かってきます。もし千葉先生が先ほど言われたように、貞任のお舅さんが金為行だとすると、金氏が単に安倍氏に協力していたと言うのではなくて、藤原経清と同じように安倍一族になっているわけです。但し経清についても、後には江刺「豊田館」というのが経清の柵だと言われているのですから、これで金為行については「河崎柵」だとはっきり分かるようになってきます。そうすると金為行は安倍氏の中で、貞任、宗任、正任、最高の支配者達と肩を並べた大豪族であり、しかも安倍氏一族は全部それぞれ奥六郡の中の郡単位の最高の要害を占めるような形での支配者になっていることが分かるのですから、そうなると磐井郡における「河崎柵」というのは、これは政府側が西磐井郡中心に磐井郡の郡役所がおかれ、「萩の馬場」というあたりがそうだろうと考えていて、ずっと北上川の西寄りの地域を北進する形をとるのですが、「河崎柵」ははっきりと東磐井のうちの北上川の東寄り左岸になる。そこのところで、正式に郡司になったという証拠はないけれど、事実上の郡司に相当する支配権、あるいは城柵というものをきっちり構え、そして前九年の役では、先ほど千葉先生のお話にあった「前九年の役」における最大の激戦地として、ひょっとすると征討軍の源氏の総大将頼義以下全滅したかも知れない完全な敗戦にまで追い込む「黄海の会戦」となったのです。

現に源頼義主従七騎だけになってしまい、所在さえどこか全くわからなくなってしまう。周りの生き残った人たち全部が四千の大軍に囲まれ、ちりぢりばらばらになってしまい、主力が全部滅ぼされてしまった。そしてこの敗戦で大将頼義は多分戦死してしまっただろうということで、最も有力な家来の一人が、せめて亡くなった頼義公の首だけでも見つけお弔いしてから後を追いましょうと、俄か出家して首を探しに行ったところ、何と道の途中で生きた頼義に会い、涙を流して、喜んだらよいのか悲しんだらよいのか、悲喜こもごもの出会いをもったということが、この前九年陸奥話記に書かれています。総大将が戦死直前にまで追い込まれるような敗戦というのは、十二年間続いた前九年の役において最大の苦戦で、源氏としては全く真っ黒の黒星ですね。これは敗戦なんていうもんじゃない、決定的な敗北だったのです。

そしてこれ実際は、金為行ではなく安倍貞任たちがこのようにまで源氏を追い込んだという書き方になっていますが、それは全部偉い人中心に書いているからなのです。実は貞任、宗任たち安倍の軍勢といえども、正直言って金為行を助けるための援軍であって、主力先頭部隊はあくまでも金為行の軍隊だったんです。したがってこの黄海会戦における主力先頭集団というのは、「河崎柵」の城主金為行率いる軍隊であって、安倍氏でなく「磐井勢」だったのだと、そういう考え方をする必要があります。そのつもりでこの資料をきっちり、眼光紙背に徹する読み方をしていただきたい。この読み方は、一般の歴史家だけでなく、郷土を顕彰しなければならない皆さん方の読み方もまた、何となく源氏寄り、八幡太郎寄りなんです。そうでなくても安倍貞任寄り、宗任寄りで、すべてが安倍寄りか源氏寄りかになっていて、金為行「河崎柵」とは言っていながらも、ドラマで言えばちっとも主人公になっていないんですね。はっきりこのドラマの主人公は金為行であると言わなければならない。能でいうならば、シテ役がこの金為行。そして貞任、宗任も、全部ワキではないけれどもツレになります。これは同僚横並びのザ・セカンドです。こういうはっきりした読み方をしないかぎり、「河崎柵」の顕彰にはなっていかないし、現に源氏をここまでの敗戦に追い込んだ「河崎柵」の城主、金為行の武勇、先ほど出されていた俳句の「貞任の 武士のごと 穂堆立つ」は、「貞任の武士」ではなく、これは「為行の武士」なんですね。そういう読み方の歌も、みなさん差し替えて読んで下さい。差し替えてください。そういうような読み方になっていて、ここに全く出てこないということを、私はまことに残念に思っているのです。

こういう考えで、「母體承け」 清衡をこの土地に呼んできた「磐井国づくり」の組織的な初代が金為行、「河崎柵」がその拠りどころになっていたのだと、皆さんからそういう考え方を固めていっていただきたい。そうしてくると磐井郡の歴史を、平泉藤原氏から始めてはだめ。これを母體から始める。磐貝公母體が基礎づくりをした。そしてそれをはっきり組織的なものに体制化していった人が「河崎柵」の城主金為行だと、こういう考え方をしていただくのが私の趣旨です。 

<金為行という人>

そこで問題は金為行という人。いったい金氏がなぜこのような大豪族になることが出来たのかということ。これは磐井郡の歴史を研究する皆さん方にとって大事なことになってきます。だがこの研究も全然出来ていません。まず、先ほど千葉先生のお話しにありましたように、直ぐお隣の気仙郡、政府側の役人である郡司金為時という人が、ちょうど安倍一族の中で金為行が果たしたと同じような役割を、政府軍の中で、源氏軍の中で果たした人、それがこの金為時という人なのです。

あとで前九年の役の最終戦で、出羽の清原、今日の横手・大曲方面の大豪族だった清原武則という人を遮二無二味方につけて、その一万余の軍勢の力でもって安倍氏を遂に滅ぼすことになっていくのですが、「陸奥話記」では何となく清原武則という人が出てきても、それを序論のような扱いにしています。武則が出てから本論になるという考え方をしなければいけません。そしてその序論の序の口に出てきている金為時も、これまた自然と、役者としての二枚目三枚目のような扱い方になってしまっています。だがこれを反対に考えねばなりません。ちょうど出てきた武則が高官になって政府軍の、源氏軍の中核になっている。そしてこの前九年の役の前半で、こちら金為時という気仙郡司が、ちょうど清原武則のような役目を果たすのです。だから前半は気仙郡司の金為時、後半は新進清原武則、そういう考え方です。そして、その気仙郡司金為時の役割を、安倍氏の中でした人が金為行という人だと、こういうふうに考えてみますと、皆さん方が金為行の歴史的な役割、知恵才覚を理解するとき、桧舞台に出ていた気仙郡司金為時との関わりをもっともっと勉強していかなければならない。しかも地域的に考えても、磐井・気仙は兄弟のようなものです。そういうように見ていくと、そちら気仙の郡司、こちら磐井の郡司相当職、どちらも金一族で占められていたのだとなってきて、この金一族が、安倍・清原・藤原と、東北に現地政権が成立するその地ならしのような仕事を、この気仙・磐井の地でしていた大豪族だったということが分かり、その意味において金一族は安倍・清原・藤原と互角とまでいかないにしても、例えば安倍・清原・藤原を横綱とするなら、金為行、為時は大関クラスにはできます。だからちょうど今日の、朝青龍と白鵬のような、白鳳が順調にいけばこれは五分、むしろ朝青龍より上に立つ人なんですね、この人。それ相当の役割を、金一族為行・為時合わせて果たしているということです。為行の研究も半分ですね。 

<金為行と金為時のつながり>

そうなるとここに問題が一つ出てくる。一つは、いったい金氏というのはどういう家柄なのかということ、もう一つは、為時が政府側に属して正式な郡司になっているのに、なぜ為行が安倍に付いて反政府側になっているのかということです。これもきちっとした勉強が必要です。そういう勉強を皆さん方ちっともやっていない。ただチャンバラだけさせているだけ。ほんとうならば揃って政府側に、揃って安倍側になるべきなのに、なぜ一方は政府側、一方は安倍側なのだろうか。

これにはいろいろな考え方があると思います。はっきり原理が違っていたからそうなったのだという考え方。それで一方は政府側に付いて出世して偉くなっていこうというように考えた。そして政府側について郡司になった。それに対してほんとうの天下は安倍であり清原だという考え方で、この際敢えて反政府側の安倍清原の方に回る。そういう考え方が一つあります。普通考えるとこうです。

しかし、もう一つ別の考え方があるかも知れません。これはやや文学的になるかも知れませんが、南北朝の戦いで、朝廷が南朝と北朝に分かれていたとき、武士団同族の間での常識にこういうことがあった。同じ家の中で、一族の中で、Aは南朝につき、Bは北朝につく。南朝が強いときには南朝の傘を借りて、北朝側の敵として追い詰めずに何とか助けてやる。北朝の旗色の良いときには、その力を借りて南朝の味方になっている一族一家の者を何とか助けるようにする。そうできるように両方に分けておこうではないかと考え、一族の中での了解の下に、南朝・北朝両方にあって戦いをするというのが常識になっていた。一家一族を守るためにです。ですからひょっとして、金一族の中にも、政府軍が良いときにはそっちで助けてやるけれども、安倍清原の勢力が良いときにはそっちの方を助けてやる。みなさんそう考えてみても不思議でないでしょう。

例えば政府軍があの衣川関、現在の中尊寺のところを総攻撃するとき、謀略があって、この戦争をやめて頼義の軍隊全部が多賀城に引き返すのですけれど、そのとき金為時が中心になり、一手でもって安倍との戦いをやった。そして優勢に戦ったけれども如何せん。軍勢が少なかったために後退してしまったと、そういう書き方になっています。ところが「河崎柵・黄海の戦い」で、源氏が総崩れになり、総大将まで討ち死にするようになるかも知れないというときに、最も頼りになるはずの気仙郡司金為時が動いた証拠が全くないということです。全然出てこないのです。このときこそ、本当は金為時の出番なはずなのに全く梨のつぶてになっている。これはただ文献に出てこない、資料が欠けただけと言うことではなく、気仙郡司がぎりぎりのところで一族の金為行を敵に回してまで源氏を助けるという考え方だったのかどうかということです。これは何ともいえません。そういうことが資料に全く出ていない。この最も重要で、必ずここのところで大写しに出てこなければならないところで、金為時の名前が顕微鏡で見てもついに認めることができないようになっているのです。だとすると、ひょっとしてこれは南北朝における南北両方への分かれだと言いたいような関係だったかも知れない。そのようなこと、これは宮沢賢治学ですね。学としてこのような推理が成り立たないわけではありません。いずれにしても、そういうかたちでの諒解のもとに、一方は政府側、他方は安倍側というふうに分かれて、一家一族の将来を考えるというふうなことも「無きにしもあらず」ではないでしょうか。こういうことも参考までに申上げておきます。 

<名門金氏一族>

さて、この金(こん)というのは、普通考えると金(きん)と呼び、金(きん)となるとこれは朝鮮においては有力な家柄、名門一族というように今日でも決まっているような状況です。日本では、ご承知の通り奈良時代の半ば、聖武天皇の例の「天平産金」のとき、金はすべて中国から輸入してまかなうものと思っていました。ところが何とみちのくの奥から産金があったということで、九百両の献上があって以来、日本も産金国として自給自足できる見通しが出来たということで、国家をあげての一大キャンペーンになったのがこの「天平産金」です。そのとき、みちのく産金の中核になった人が朝鮮百済の滅亡した一族だった「百済王敬福」という人です。この人が陸奥守、陸奥国司になっておった。この人の下で大量に組織された朝鮮からの渡来人、産金の技術家たち、その経験者たち、その力を借りて大量の産金がなされていった。その主要な一族が金氏だったということは資料ではっきりしている。これがきっかけになって、文献でもはっきりしていますが、聖武天皇の次の孝謙天皇のときになると、陸奥国からの税金のうち特に多賀城から北、つまり今日でいうと宮城県の中部から北部、岩手県南部、気仙を含む地域における税金は、布だの米だのではなく、全部金でもって納めるという制度に改めることになる。すなわち税金は100パーセント金で納めるという、大量の金生産が国家的な課題になっていきます。したがってその最高の技術、知識をもっている金一族は、東北の産金における中核勢力となっていき、この人たちが東北における最大の経済領主に成長していった。そういうかたちで政治的に保障されるようになっていった。気仙・磐井における金氏、金氏(こんし)というのは、この伝統を受けた名門の一族だったと考えていけば、最高の経済領主が最高の政治領主に成長していくこと、これ何らおかしくありませんね。

そもそも「経済」ということば、今日「エコノミー」と言って政治と分かれていますが、中国の漢文で「経済」とは「経世済民」という言葉で、「経世」は政治、「済民」は民を救う。したがって「経済」というのは、こういう伝統に関するかぎり政治的な指導のもとに民が豊かになっていくということを経済、「経世済民」と読んでいたことが分るんです。そして金氏は、まさにそういう意味での「経済氏族」だったと考えてよろしいと思います。 

<コンモンセンスで学ばねば>

さて、平泉時代が産金時代で、だんだん北進するようになっていくが、現在はっきりしているように宮城県の本吉、岩手の気仙、そして磐井、この地域が藤原時代における産金地帯の中核地域だった。有名なエピソードがあります。安倍・清原時代を過ぎて藤原三代秀衡のころ、都は平家全盛時代で、平重盛がある時期、陸奥国の名目上の国守になったことがあります。「知行国守」という、正式な国守ではない名目上の国守ですが、いただくものだけは大半をいただくという公卿の国守のことを「知行国守」と言います。平重盛がそういう陸奥の国の知行国守になっておった。「源平盛衰記」や「平家物語」には、その知行国守平重盛のもとに、みちのくの国から大量の金が献上されてきたという記録があります。その大量献上のみちのく金を、重盛は大宰府九州博多に来ている中国の政商を通して、中国の宋の皇帝に献上した。自分が亡くなった後の冥福を祈っていただくようにと、この金を献上したという有名な物語が「源平盛衰記」や「平家物語」にのっています。ぜひ読んで下さい。

ただ「平家物語」では、その産金地はどこかということを書いてありません。しかし「源平盛衰記」には、その産金地は気仙郡だとちゃんと文面に示している。そのとき献上された金は三百五十両だったと。「平家物語」では三千五百両と書いてあるが産金地は書いてない。だけど内容は「源平盛衰記」と全く同じようなかたちで宋に献上したとありますから、産金地は気仙郡であることは疑いない。これは安倍時代よりは少し下ります。気仙郡というのは安倍・清原・藤原時代、東北における当時代表的な大量産金地帯だった。金為行、あるいは金為時の先祖にあたる人たちが当然、安倍・清原時代から主要な産金地帯における主たる指導者、若しくは分限者と経済領主のようなかたちで産金を通して地元の最有力豪族に成長していく。それがもとになって政治的にも郡司というところまで選任されるほどの大勢力に成長していったと考えられます。この人たちが無理なく気仙・磐井地区における最高の豪族になっていくのです。いつの時代でも金持ちは政治においても、支配者のもとで最高の待遇を受けるようになっていたことが分ってきます。

皆さんが、こういうことを分ってくると、なぜ金為行という人が、あそこのところであーいうかたちで登場してくるのか、気仙郡司とどう関係してくるのか、たちどころに諒解できましょう。同時に磐井郡と言うのを、単に磐井の中の市町村だけいっしょにするというのでなしに、気仙とも一体の関係でもって、これから先の広域行政を育てていく、あるいは文化共同体のようなものを組んでいく、そういう運動が八百年昔に遡り、金為行・為時の昔に遡って、連帯を組んでいくという運動があっても悪くないんではないですか。みなさんが小さいところに閉じこもったままですが、古い歴史はもっと大きく開いているんですよ。大きく開いている歴史を後の人たちが小さく狭くしてしまっているんです。これは専門の勉強がこういう悪い習慣をつくった。新渡戸稲造という人が、そういう窮屈な学問を反省して、専門センスはだめです、専門家はだめです、コンモンセンスでいこうと言っておられるのです。広い豊かなかたちで理解でき、それをぐんと深めて現実に根を下ろしていくような学問になっていけば、本当の国民の学問になる。それが新渡戸稲造のコンモンセンスという言い方です。みなさんコンモンセンス、新渡戸稲造五千円が終わったから新渡戸稲造これで終りとしないで、もう一度一万円にするためにも、コンモンセンス新渡戸稲造という考え方をしていきましょう。いろんなところで勉強する材料が山とある。そういう勉強を歴史が呼んでいるのです。川は呼ぶと言いますが、北上川がそういう勉強を呼んでいるのです。 

<源氏大敗の裏に>

さて、先ほど千葉先生が、いったいなぜ源氏が衣川を越えて東磐井の河崎柵とか黄海とかこっちに来たのか。ひょっとして藤原経清あたりのてこ入れ、策略などがあったのかも知れない。そういう考え方も話題に挙げておられました。

私はこれについてはっきりした考え方をしています。千八百の軍隊を率いた源頼義が、第二次遠征軍を組織して攻め込んできたことを、「陸奥話記」は安倍氏征討のためと書いています。良いですか。安倍氏征討ならば、まっすぐ衣川関に向かうはずです。安倍氏は衣川関を前線拠点としていたのですから。あの最大の激戦地が衣川の関の戦い、その北側に衣川舘があって安倍の本拠です。にもかかわらず源氏軍が西磐井郡のまっすぐ中尊寺衣川の方に向かうということが全くなくて、はじめから河崎柵をめざして進んできた。はじめからですよ。ということはこの戦闘が、広い意味では安倍氏征討、直接的には金為行征討をめざした戦いであった。それが間接に、ちょうど唇がほころびると、どこかが危いといわれるように、金氏が滅んだのでは安倍政権が危くなるということで、安倍からの援兵が押しかけてくる。はっきりいって援兵ですよ、安倍氏の援軍は。最初から安倍が主力隊で来たのでないのです。そういうことを考えると、みなさん不思議に思いませんか。安倍は急遽兵隊を集めても四千の精兵を集めることが出来る。そういうことがはじめから分っている源氏。そういう安倍を敵に回して、しかも遠く多賀城から千八百という半分にも満たない少数の軍隊で、大遠征に向かうなんて不思議に思いませんか。そこが不思議。なぜ河崎柵、黄海に来たかということ以上に、あの安倍の大軍を撃つという大義名分で千八百の軍隊での遠征となったのかということ。不思議で不思議でしょうがない。勝ち目が始めからないのですよ。はじめから勝ち目のない戦いに、源氏がのこのこ出てきたということはあり得ないことでしょう。そういうことならば、千八百でも十分に戦いになる、勝利になるという計算のもとで源氏が来るとは、到底考えられない。ですからこの戦いの相手は、あくまでも金為行にあった。こう考えてはじめて納得できることです。ところがこういうことも、皆さん全然研究していない。こんなおかしいものを、学者は研究とは言わない。何故なら、最初から戦争にならない戦争をしている。負け戦だと、最初から考えているからなんです。

そうすると源氏は、なぜ金為行「河崎柵の戦い」ならば千八百でも何とかなるという考え方になったのか。これ一つです。まずこれは安倍の武将金為行の背後に貞任・宗任が控えているということはちゃんと分かりますね。そうすると次に二番目、この戦争を起こした段階で、安倍氏が金為行を援護し助けないまま傍観するような手を打つことが可能だと云う見込みに立っていたということになります。そして源氏がそういうことを考えさせた手がかりが幾つもあります。先ほど気仙郡司金為時が動いた気配は全く無いと言いましたが、源氏にすれば少なくとも気仙郡司金為時を中立させることだけは叶うだろうという考え方があって、気仙の為時が動かないとなれば、安倍氏の主力も迂闊には動けないはずという計算があったと。ただしこの計算は狂いました。気仙郡司が動かなくとも安倍氏がああいうかたちで動いていますからね。これが誤算になりましたけれども、まず停戦ということはあり得る。しかしこれはまだ五分五分です。第三の道、そして私はこれが最後の手ではなかったかと考えます。

いったい金為行という人は、黙っておれば磐井郡司に当然なっているべき人です。何故なら一族、為行の兄か叔父か、あるいはお父さんかも知れない為時が、伝統的な気仙郡司になっているのです。それと全くフィフティフィフティ、五分と五分に並ぶような為行だけがそんな人事に在りついていない。それは金為行が安倍と手を組んでいるから郡司にすることができないのであって、ちょうど出羽の清原武則に甘い汁を吸わせて味方に引き入れたと同じような作戦、お前ちゃんと頑張って味方したら郡司にするか、郡司とまでいわなくともそういった家格を認めるということで、十分に金為行を釣っておいて向かう限り、抵抗しないまま金為行が白旗を掲げるだろう。そのための単なるデモンストレーションでもって、この戦いを済ませることができるはずだという考え方です。すべてこれ水泡に帰する。誤算におわった。

とかく源氏というのは、こういう甘い考え方をするんですね。したがってこれが結局、清原武則にすっかり戦果を持っていかれたり、更にそのあと藤原清衡に持っていかれていますね。みんな源氏の作戦の失敗ですね。源氏はそういう点で、あまり利巧でありません。かえって藤原や安倍の方が利巧だった。ただ、大勢に勝てなかっただけのことです。それだけで事をおわらせようと考えたのです。この黄海の戦いというのは、安倍の主力貞任たちと戦うための戦いを、黄海で戦ったのでなく、はじめから気仙郡司の中立、できれば安倍氏も牽制しながら、正面の敵を河崎柵の金為行に絞ったかたちの戦いとして企画されたために、最初からこの遠征は河崎柵攻略戦、したがってその現実の戦いとしての黄海会戦となったので、金為行との会戦を主目的に作戦されたものだったと考えて妥当でしょう。

こういう考え方をすることによって、前九年、陸奥話記などで曖昧な、靴の上から痒いところを掻いているような感じのする疑問点を解消していくことができるのです。結果的には安倍との戦いになった。だから源氏の作戦負けです。しかし、立案過程ではそういうかたちになっておったという考え方を私はするのです。 

<贈位 磐井郡司 金為行>

以上、このように考えていくと、実質磐井郡の初代郡司になるべきはずの事実上の磐井郡司として、金為行という人を顕彰し、そして河崎柵に十分ふさわしい郡司と見て少しもおかしくないくらい整った堅固で壮大な規模をもつ柵であったということを紹介し、そこで「母體承け 清衡を呼ぶ国づくり 磐井祖の木に磐井初代の郡司」というふうに、ひとつみなさんがた金為行という人を顕彰し、実際にはならなかったが、後からの政府の贈位といって勲章を与えるような「贈位磐井郡司金為行」というようにしては如何ですか。そういった追悼顕彰会があって良いのではないでしょうか。以上で私の話を終わらせていただきます。 

<追記> 高橋先生からの電話連絡メモ

 仙台に戻って調べてみたが、福島白河の泉崎に、そのころの官庁跡があって、そこを「関和久」と呼んでいるが、河崎の堰框(せきわく)と語源を同じくしていると思われる。また地名、遺跡から見ての「一框」が、日常的には船の上り下りや、陸上道路の検問所、交通取締りの役割を果たし、戦時にあっては臨時交通遮断の役割を担うものだったのであろう。北上川・砂鉄川合流点の地にあたる「一框」(いちわく)がその中央に位置していたと考えられる。