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ふるさと遠山幸おこし

        「ふるさと遠山村幸おこし」  講師 東北大学名誉教授 高橋富雄先生          平成19年8月28日

 新しい千厩の山菜おこし、そういうものを考えてみたい。その山菜も何か通りいっぺんの山菜ではなく、聞くところによると「遠山村」ということがこの地方についていわれているそうだから、そういうものとの結びつきにおいて、この問題について考えることは出来ないかどうか、という内容のお電話がございました。私、手を打って喜んだのでございます。その意味は、先程の松川誠さん、伊藤さんたちによるいわゆる博物館構想というものの中では、学校の先生だとか郷土史だとか、そういったような勉強にかかわるような方々の間で、私たちが問題にしているところのテーマが話題にはなることがあっても、一般の市民、町民、山林の方々の間で、私たちの間で問題にしていることを問題にして取り上げていただいたことがなかったのでございます。これが初めてでございます。私はそういう意味でこの文化運動というものが、単なる有志の集いではなくて、一般市民、町民たちの間でもって話題にすることができるという自信を持つようになって、私、非常に喜んでおるのです。

 さて、その遠山村とは何ぞやということ、そしてそれと山菜おこしというのを、特に千厩におけるそういうものとの結びつきにおいて考えるということ。これ単なる思いつきは別として、いったい筋道を立ててきっちり考え得るものなのかどうか。こういったようなことについて私は、ひとつ、交通整理をしてみたいとそう考えたのでございます。

 そう考えて、今日お話することを一つの短歌にしてまとめてみました。(上掲標題) これ置いておきますから、あとで見たいと思う方は伊藤さんにご連絡ください。

 

 <「海幸・山幸物語」に学び遠山村の山幸づくりを>

さて、私、千厩山菜おこし、何となく味気ないように思います。おいしくなさそうですね。山菜をおいしい山菜にするというのが必要でないかと思います。そういうことから、私の提案があるのでございます。賛成かどうかは、あとで皆さん方が決めてください。問題提起。それはふるさと遠山。遠山の幸おこし。これは遠山についての幸せづくりをこれから考えていくということであると共に、日本では神話時代からすべての生産経済の富を海幸山幸と言い、海の幸、山の幸と大きく二つに分ける考え方があるのでございます。

そしてそれを代表する九州の「筑紫神話」では、「海幸彦と山幸彦」という有名な物語になる伝承神話が物語られ、海幸彦が山幸彦に従うというかたちでもって、天子様の、今日の天皇家の正統が定まるという、そういう神話をみなさんご存知ですか。みなさん古いことを考えていながらこういう物語になる神話というものをあんまりご存知ない。これは「筑紫神話」というものでございます。古事記でも日本書紀でも書かれている物語でございます。

山幸彦が、即ち山幸というものが最終的に海幸、すべての日本の、生産の、経済の幸せというものを、総括するようなかたちで「代表産業」になっていき、大きな、国家の経済の展望が開けたという、こういう物語に学ぼうとするならば、この遠い山、山幸彦、遠山幸というものを、この遠山において最高のかたちでおこしていって、日本における経済産業におけるひとつの目玉にしていけるのではないかという、このくらいの考え方でこれに取り組んでいくなら、私は町長さんだって市長さんだって、知事さんだって、全面的に賛成してバックアップしてくれるのでないかと思います。

そういうことから、遠い山幸おこしということでもって、この前途を祝福したい気持ちから、それを三十一文字のかたちにいたしました。「遠山の 太古の森に分け入りて 山幸新たの 明日開く哉」こういうことだったらどうでしょうか。町長さん、教育長さんも異論ないのではないでしょうか。そういう異論のないようなかたちで正面から堂々と村おこし、町おこしという運動を進めていただきたい。こういうふうなのが私の希望でございます。

 

<まったく進んでいない「遠山村」の研究>

さてそこで、いったい「遠山」とは何なのかということ。これについてはちゃんとした文献が揃っているにもかかわらず、実は研究家の間の研究が全く進んでいないのです。まともな扱いを一切してきていません。いったいどこのことを指すのか、どういう意味を持つのか、そういうこと一切不明なのです。不明だと云うのは研究が足りないということです。

私はこちらの伊藤さんたちのグループの中で、東山地域、東磐井の地域の歴史を通して、岩手県の歴史でなく、日本の歴史をここから組み立て直していくような学問というものが十分可能であるという考え方をするようになっているのでございます。私は五十年以上こういったようなことを考えてきての結論として、こういうことになっているのでございます。高橋さん、何か勝手に大風呂敷を広げてなんて、こんな考え方をなさらないでください。私としてこれは天国でしょうか、地獄でしょうか、極楽でしょうか、閻魔様の前に呼び出されたときには、自分は最後にこういう勉強をしてきておみやげに残してきましたから、この褒美としてひとつ極楽往生をお認め下さいと、そういうふうに閻魔庁の法廷でもって言えるくらい、私にとっての最後の思い出になるようなテーマであるにもかかわらず、このテーマに関わる研究は全く進んでいないのでございます。これ学者の不勉強と言えます。

 従ってここでお話することはみなさんにとって殆ど初耳であるだけでなく、学問をしている人たちにとっても、これについては全くの初物であるかも知れません。私はできればこれを「終わり初物」にならないようなかたちで、皆さんがたのこの山幸おこし、山菜おこし運動の中できっちりと受け止められ展開されていくことを希望しながら、この遠山村のお話をしていきます。

 

<「遠山村」とは>

 まず、遠山の村、遠い山の村でございます。山のあなたの空遠くですから、どこにあってもよさそうですが、文献に出てくる「遠山村」というのは、ある特定の地域についてこの言葉を使っているのでございます。

さて、その文献、みなさん初めてかも知れません。「続日本紀」という歴史書があること、皆さんご存知ですか。そういうことについて知っている方何人もいらっしゃらない。「続」とは続くという意味です、それから「日本紀」は「日本書紀」のこと。日本書紀の次に来る正史という意味で「続日本紀」というのでございます。そしてこれ、奈良時代に入る前の文武天皇のころから、従って七世紀の終わりから八世紀の終わり、桓武天皇、坂上田村麻呂たちが出てくるその前巻まで書かれている第二の正史です。大体が奈良時代について書かれています。奈良時代というのは今日から1300年から1200年前のことでございます。そこの終わりに近い、奈良時代の終わりの天皇ご存知ですか。こういったようなことについて、すっと対応するような勉強をなさらないと、町おこしうまくいきませんよ。光仁天皇です。そのときの年号は宝亀。宝の亀と書いて縁起をかついで天皇の世紀を祝ってくれたと言う「宝亀」。宝亀五年というところのなかに、この遠山村の記事がはっきりとしたかたちで出てくる。西暦でたしか774年だと思います。したがってこの正式の文献に登場するところから考えても今から、千二百三十年か四十年近く前のことになるということがこれで分かります。しかし、これが終わりです。どこまで遡るかということは分りません。

しかし、この言葉が何時頃から使われ出したかということの見当がだいたいつくような記録になっているので、おおざっぱに紹介しておきましょう。

 

<「按察使 大伴駿河麻呂」による「遠山村」征討>

まず、宝亀五年のところにいきなりこういう言葉が出てくるのでございます。「遠山村」というところは、東北の「日高見」とよばれてきたその地域の蝦夷が、その天嶮要害を拠りどころにしている山奥の国である。これまでも東北にいる支配者たち、東北総督(道州制が敷かれると知事の上に来る人)、その総督のことを「按察使」、(あぜち)と言っていた。これ東北の知事、国司の上に立って、東北地区全域を統括する東北総統のこと、それを按察使というのでございます。その東北総督が、代々にわたって蝦夷の本拠である「遠山村」を今度(宝亀五年)大伴駿河麻呂(大伴家持の大伴の一族、駿河麻呂は昔、静岡県のことを駿河国といいましたね)という按察使が兵を起こしてやっとこれを征討することができた。奥に逃げ込んだ蝦夷たちもかなわないと思って大伴軍に降伏するようになり、これでもって遠山村がはじめて政府の支配下に属するようになったと、そう書かれているのでございます。そしてその後どうなったか、政府の中でどういうふうに組織されたかようなことは何も書いてありません。

しかし大事なことは、宝亀五年から前の、代々の按察使たちがその経営にあたったけれども成功しなかったということですから、「遠山村」というのはこの宝亀五年にはじめて現れたことでも言葉でもなくて、それ以前からあったということがこれで分ります。それなのに何時頃からこの「遠山村」が問題になっていたかということですが、これは政府側でこれとかかわりを持つようになったのが、東北総督である「按察使」というものであるということから見当がつくのでございます。

なぜかというと東北に陸奥国、出羽国に按察使という総督が置かれた年代というのは、奈良時代の初めなのでございます。710年代のことです。はっきりしています。こういうことから、ぎりぎり遡らせて少なくとも今から1300年近いころには、「遠山村」というのは蝦夷の本拠になる山奥の要害の地として問題になっていたところだということがこれではっきりするのでございます。

私はそういうふうに政府側にとって、つまり東北経営に従事する大和政府側にとってはっきり意識されるようになった「遠山村」のはじまりというのは、これを八世紀の初めまで確実に遡るとそういうことが言えて、ざっと1300年という歴史というものを考えることが出来ます。そういうことが言えると思っています。

 

<いったい、その「遠山村」がどこにあったのか」>

そしてその場所ということになってきます。蝦夷経営に従っていた政府軍、ヤマト側の軍隊が、これを征服しようとしても、なかなか抵抗が強くてできなかったということですから、これは歴史の上で、蝦夷と呼ばれていた人たちの中心根拠地になる土地というふうなものとして歴史に現れてくると、そう考えてよろしいのです。よろしいですね。そうすると奈良時代のはじめ、中頃において、いったい政府側に頑強に抵抗する蝦夷というのはどのあたりにおったのかということを考えていけばよろしい。奈良時代のはじめは、東北の蝦夷経営が多賀城に本拠を置いて、南部地区一帯が確実に政府の支配下に入るようになっていました。そして多賀城中心の城柵、政府が置かれるころには、その北の今日の宮城県の北、今日の鳴子温泉のあたりから石巻方面の牡鹿というようなあたりまで確実に政府下に治められておって、今日の宮城県の仙北といわれる地域の半ば以上が確実に政府の支配下に収まって、「郡」がおかれるようになっておりましたから、したがってこの地域には、もはや蝦夷の抵抗区域、城は置かれないということになります。そして宝亀五年、奈良時代の終りごろには、その経営がさらに進んで今日宮城県の、殆ど岩手県の近く登米郡のすぐ南になる桃生郡の「桃生城」というものが置かれるようになりました。それから西の方では、栗原郡の中心になる「伊治城」というのが確実に置かれて、この桃生城と伊治城とを結ぶ線というのが、奈良末期における政府側の蝦夷経営の前線基地になっていたところなのでございます。

ここまできて、そうして「按察使」という東北の支配者が全力を挙げてその征討に従事しても成功できなかったという蝦夷の根拠地というのは、完全に独立した蝦夷の世界なのだからです、このことから、少なくとも宮城県の最北端から岩手県南の最南端の地域が、すなわち独立した日高見国、蝦夷国といわれる地域になっていると、そういう見当がついてきます。従って蝦夷の国の本拠ということは、具体的に後の胆沢などまでは進まない。まして胆沢城だとか紫波城だとか徳丹城だとか、そういうところまでは進まないところが、蝦夷の本拠地として独立していたという見通しになってくるのでございます。

もう一つ、これを具体的に考える手がかりがございます。それはこの「遠山村」の経営というものを全体的に遂行するにあたって、この「大伴駿河麻呂」という人は、東海道は海岸よりに奥の奥まで極め尽くし、それから中通は東山道を奥の奥まで極めて、この二つの道が出合うようなところまで進んで行って、はじめて遠山経営を終了したと、そういうふうな意味合いに書かれているのでございます。そうするとみなさん方、蝦夷軍は何処のあたりまで進んで来て、政府軍は何処まで進んで行ったのかということを漠然と考えるようになるでしょう。そう具体的な考え方をすることが出来るのでございます。ここに研究家がおられましたら、学問になるようにひとつ組み立て直してください。

 

<海道と山道の落ち合うところに「遠山村」が>

手がかりはこうです。いったい東海道と呼ばれるのは正式の形では都大和を出て、東海道新幹線沿いに東に進んで千葉県の安房、下総上総を経て茨城県までが、東海道の範囲でございます。正式には、常陸の国茨城県止まりですけども、しかし、慣行上は常陸の国の奥の街道、海岸線沿い、今日の常磐線のずうっと福島県の最北端、宮城県の最南端というと相馬郡と亘理郡、ここまでを含めて東海道街道という言い方が、慣行として成立していたのでございます。したがって東北で街道というときには、狭くは宮城県の街道地域、今日の国道四号線、常磐線沿いの地域まで指すのでございます。この慣行はさらに北に延長されます。そして多賀城が出来てからも石巻、宮城県の金華山の方、牡鹿郡です。ここから桃生郡が分かれます。その奥が本吉郡です。その奥が皆さんのおられる気仙郡です。東磐井の海沿いですね。この気仙郡地域まで含めて東海道とは言いませんでしたけれども「海道」と呼ぶようになっていたのでございます。そしてこの伝統が平安初期まで続いていたのでございます。これははっきり確認できるのでございます。ただし、気仙から北、すなわち閉伊郡から北については、この言葉は使われないのでございます。したがって慣行上、東海道街道というものは、ぎりぎりの奥は本吉、気仙郡まで、そこをきわめると言うことですから、気仙をきわめると言うことになります

さて、山道でございます。山道は「せんどう」とも言います。これも大化の改新のころまでは上毛、下毛、栃木県まででございます。大化の改新以降、奥の地域が「陸奥の国」、「みちのくに」を含めてずうっと山どおり、中通地区を山道と考えられるようになり、これが正規の呼び名として東山道というのが東北の中通り全部を含めることになるのですが、狭く純粋の意味における山道といわれるものは、これは磐井地区、今日の東磐井郡地区をもって北限としたのでございます。別にそうだと書いているのではないのですが、書かれている内容から推して、そう判断することができます。

 

<「東山」とは東山道の果て、東磐井のこと>

したがって皆さんの常識としては、東磐井郡地域が東山道の慣行上の呼び名である「山道(せんどう)」の、第一次の最果ての地域とこういうふうに考えて、そのすぐ北の胆沢、江刺は含まれないのでございます。これが含まれるのは行政上、東北、陸奥国が津軽までを含めて一体だというふうな考え方になってから、名目上東北全域が東山道に含められることになるのですが実質的な意味をもった第一期の山道の最果てというのは東磐井郡地域をもって最果てとするとそう考えて結構でございます。

そう考えますとみなさん、「東山」などという言葉を「京都の東山」などからもってきて、それにあやかったなどと云う説が行なわれたりするけれども、これは全くのロマンです。ロマンとしては結構ですよ。だが歴史的にはあり得ないことなんです。百パーセント、ノーです。もし、文献の謂れを考えるならば、東山道の東山が、「道」を省いて「東山」となったのだと、こういう考え方をした方が良い。東山道最果ての東山という意味で「東山」という名になったという考えが、もっとも自然でないでしょうか。如何でしょう。こういう考え方が全く起こっていないというところに、私は不思議だと思っているのでございます。いろんなこじつけをする郷土史が横行している。東山道の東山に東山をこじつけるというこじつけは聞いたことがないと。これは謂れのあるこじつけです。謂れのあるこじつけ。皆さんこれからは、「東山」というのは東山道最果ての地という意味の慣行上の言い方だと考えていってみたら如何でしょうか。そう考えますとずっと後になって、西磐井なんかが磐井郡の中心のように考えられていますけれども、古い歴史から下ってくるならば、東磐井を「東山」というかたちでとらえることが歴史的にはかえって古いということがこういうことからも皆様方なりませんか。みなさんは、郷土自慢をするときには、そういう謂れのある、そういうかたちで考えていくと説得力が出てくると、私はそんなふうに考えるのでございます。

 

<海の遠山・気仙、山の遠山・東磐井>

その「遠山村」というのは、今述べたような意味で、東海、東山両道の二つの道の奥を極めて蝦夷を征討し、その結果として「遠山村」の本拠を覆したと、こうなっているのでございます。即ち、東山の最果て、東海、東山道の最果てが一つに収まるところ、そういうふうに考えたら、今日の東磐井と気仙というものがひとつに落ち合うような、あるいはまた広い意味の地域一帯としてとらえられる。東海・東山、山道・海道、最果ての奥の山村という意味で「遠山村」になったということ、これ異議なく出てくることですよ。そのうち狭く山道寄りの奥の遠山は、言うまでもなく、これは今日の東山地域、東磐井地域でございます。それから狭い意味の海道、遠山村というのは、これはいうまでもなく本吉の奥「気仙」と、こういうことになってくることもはっきりしてまいりました。「遠山村」というものを考えるときには、「西磐井」は遠い親戚、近い親戚は「気仙」になってくる。なぜなら、同じ「海の遠山」は気仙であり、「山の遠山」は東磐井であるから。そういうようなこと、これ何となく半分は私の推理、いや三分の一ですね、三分の二は史実を踏まえての推理になってくる。そういうことなんです。

 

<遠山村と磐井の地名 どちらが先か>

これだけのことが分ってきましたから、「遠山村」というのは歴史的には宮城県の栗原郡の北、登米郡の北、本吉郡というのは桃生郡から分離したものですから桃生郡、本吉の北、そして海寄りには閉伊から南、内陸では江刺から、江刺は胆沢ですから、東胆沢より南の地域について成立した独立した蝦夷を指す言葉だとこういうことが分って、そしてそれを征服して政府側の支配に治めた結果として、さてこれを何とよんだかということは分りませんけれども、北上川の西側についてもこれを磐井とよんでいたかどうかということははっきりしませんけれども、この遠山村の経営が一段落をとれたところで、山道遠山と、北上川の西側の地域、何とよんでいたかちょっと分りませんが、この地域を一括して「磐井」という言い方にしたのだろうという推定が出来て、「磐井」の地名がはっきり出てきたのはずっと後です。平安時代の半ばになるのですが、私は宝亀五年から後、宝亀七年より前か、だいたい宝亀六年ごろ、七百七十五年ごろというふうに推定しているのでございます。

なぜかというと、この宝亀五年に遠山村の政府経営が成功し、これを政府軍の支配下におさめた直後に、その北の胆沢蝦夷経営というものが開始されるからです。皆さん方は胆沢の蝦夷、アテルイとの戦争などというものが、田村麻呂の登場をもって、それから田村麻呂以前には既に、平安初期の延暦八年のころに、紀古佐美という人がやっているということは分っていますが、それ以前まで遡らせるという考え方は出来ないのでございます。これは文献の読み方が出来ていない証拠ですよ。私はそう断定しております。

なぜかというと、遠山村の経営が全部済んで、抵抗している蝦夷が全部降参するか、捕虜になったということが宝亀五年の終わりの記事に書かれております。それから一年置いて、宝亀七年、この年には、陸奥の国が兵三千人をおこして胆沢の賊を討つと、はっきり胆沢戦争が開始されているということが正規の文献で証明されるのでございます。これだけはっきりしたことを、なぜ話題にしてこなかったかというと、「遠山村」の研究というものが全く出来ていなくて、蝦夷経営の総仕上げをする田村麻呂が「はじめであり終わりである」というふうな考え方をして、全部この田村麻呂とアテルイの決戦にすべてをまとめるような、そういう歴史観になってしまっていることに因よるのでございます。

 

<「遠山村」による歴史観の転換を磐井・気仙から>

みなさんは本日からこの歴史観を一掃してください。文献に寄らない考え方ですから。そしてもし、田村麻呂の前になる人を考えるならばずばり、それは「大伴駿河麻呂」という人であります。そうはっきりと、第一期、坂上田村麻呂は大伴駿河麻呂であり、第二期、大伴駿河麻呂が坂上田村麻呂だという歴史観をこれから地元では深めるようにして下さい。

そしてその証拠は胆沢経営の計略戦争というのは、遠山の征服が済んだ直後、これを基地としてここから北に兵を進めるというかたちではじまったと考えるしかないからです。それが宝亀七年。陸奥の国が兵三千人をおこして胆沢の賊を討つと、書いているはっきりとした証拠があるのでございます。

さて、こうなってくると、胆沢戦争を勝利に導き、そしてその前線基地としてすべてのお膳立てをしたものは、政府軍下に入った遠山村、これは仮に東山ということに、東山という地名は既に田村麻呂が登場する前に出て来ているんですね。東山という地名は、したがって京都などから、何とあきれた百年以上前、平泉からは三百年以上も前に、ちゃんと熟語としてある。これはどういうことかというと、田村麻呂が出てくる十年前、紀古佐美の軍隊が西側から北上川を越えて今日の江刺地区に入ったときは、アテルイの本拠は江刺地区に設けられていたんです。そこの本拠を攻めて勝利する瞬間、「東山」から新手の蝦夷軍が出て来て、これに割って入ったために、そこから政府軍が大混乱して、総敗北となってこの延暦八年の胆沢戦争というのが全敗に帰したと、そういう記事になっている。

その戦敗のはじめになるのはアテルイの軍隊、敗軍を背後から助けて政府軍に突入してこれを混乱に陥れたところのモタイという人の率いる軍隊であったという。その支配区域は「東山」と書かれている。東山から新手の軍隊が出てきてと書いてある。これはいろいろなことから考えて、これはモライ、モタイの賊、首領としてのモライ(モタイ)という人と考える他はない。いずれにしても「東山」という地名は、既にこの段階に固有名詞として出てくる。この地名は今日の東磐井郡の最北端、江刺郡の最南端に位置する。母體(モタイ)という地名は、明治の初め東磐井郡だったそうですね。後で町村合併などすすんで江刺郡に編入されたんだそうです。これは伝統を踏まえたものですね。いずれにしてもそう考えてみると、これは今日「東山」とよんでいる東磐井郡の最北端に有力な豪族がおったために、いかにもここが東山の本拠であるように考えられているのですが、私の推理では、これは東山地域、遠山地区が、主要な政府軍に編入されてしまったため、その最北端のところで何とか余命を保つようなかたちで古い「遠山村」の独立の伝統を守っていたのが、「モライ(モタイ)」というような人たちの抵抗軍であって、アテルイというのはその北側においてこれと連帯関係を結んでいたのだと、こう考えなければいけません。これが後々まで、アテルイとモライというのが、この胆沢戦闘の二人の総大将であって、並んで処刑されている理由はここにあったのです。これはただ単に二人だけが人的つながりがあっただけでなく、アテルイの江刺・胆沢領土とそれからモライ(モタイ)の東山・遠山支配領土というものが境を接して、連帯関係を結んでいたことの具体的な現れと考えて良いと思います。

いずれにしてもこういうかたちで田村麻呂やアテルイたちが出る前に、胆沢戦争の方向を定めるような政策というものが、軍事行動というものが、既にその十年、二十年前に開始されていた。その本拠になったところが「遠山」になってくる。それが政府軍下におさめられて「東山」とか「磐井」とかいうふうに呼ばれるようになっていった。そういうふうに考えることができるのでございます。

 

<山の神でもあり海の神でもある室根山>

ここまで考えてきて、「遠山村」というのは、「遠山」という地区は、具体的に歴史上の「東山」といわれる地域全域を、山道「遠山」として含み、海道「遠山」としては気仙を含む地域において成立した。中心になった地区は「東山」であったというふうに考えて宜しいと思います。

具体的なことは室根山という山を中心に考えていくことによって、この証明が可能になってくる。「室根山」というのは、今日では東磐井郡室根村の山になっておる。今日、室根高原として県立公園にするときには、気仙の高田市、東磐井郡の「東山」でなくて、大東町、東山町、そして室根、千厩と、この地域の相接する範囲の地帯が「室根高原」という地域になっております。そしてこの汎称が本来の「遠山」になっている。私は室根山というのはそういうかたちで、気仙の最南端であるとともに東磐井の最北端というかたちで、北を向けば気仙、南を向けば磐井と、そういう山になっていったというふうに考えています。

今日の「室根山」というのは、山信仰としてはともかくとして、海信仰では、もうこれ全域かけて気仙沼とか気仙とか本吉とか牡鹿とか、こういった方面の海の安全を守る山として書かれています。そうであれば、「計仙麻大島神社」というふうに古代で「式内社」とよばれた最高の国幣社、この地区としては最高の神様として考えられている「計仙麻大島神社」というのこそは、これは海の神としての気仙の神さまの証拠なんです。そしてこの神さまは牡鹿郡にもあります。桃生郡にもある。そういうふうに考えて室根山というのは海の神さまとして、今日気仙沼あたりから見ると、かえってこれは「気仙の山」、「気仙沼の山」のようにすばらしい姿を見せているというのは、これは海の神としての室根、気仙の神としての室根、ということでもあるのでございます。

だから今日の行政区分にとらわれないで、歴史を遡れば遡るほど、海「遠山」と山「遠山」というのが一体に結ばれた地域であるということが分ってまいります。もう少し皆さん方は気仙の方々と、一関の人たち並みか、それ以上の親戚として付き合うような、そういう考え方をもたねばいけません。神様も全部そういう恰好になっていますからね。時間ないですからそのことには触れません。

気仙の式内社の一つに室根山も入っているのです。したがってその限りにおいて室根山というのは気仙の最南端の山であるとともに、これが磐井の最北端の山でもあって、海の神でもあり山の神でもあるというふうな考え方が宜しい。

 

<大きい遠山の山菜おこし、山幸おこし>

さて、それだけの謂れをもった「遠山」ということですから、そこの山幸おこしの中核になる山菜おこしなどということは、これ狭く千厩の山菜おこしでなく、「遠山」の山菜おこしという考え方にして、広く遠山、磐井、東磐井、気仙、江刺、この方面全域において、埋もれた山の幸、地域の幸というものをおこしていく拠り所になるような町おこし、村おこしの柱とするような、そういう雄大な町おこし、村おこしの一環として、狭くは山菜だけども、もう少し広げて、山幸全体、海幸をもそこに取り込んで、岩手県南、東北、蝦夷の伝統をうけて東北の埋もれた新しい幸というものを、こういうかたちで山幸おこしとして拓いていったなら、それこそ新しい二十一世紀の日本における新しい産業おこしになっていくことでしょう。そういったようなものの新しい北からのアピールにしていくということ、これ十分可能なことです。

そのため、これが有志や一部の篤志家たちの手によって細々と始めることになっていくにしても、やがては気仙、千厩全域、一関全域、県域全体における新しい村おこし、山幸産業おこしの拠りどころに、この「遠山村」の歴史文化を据え、なお「遠山村」のネーミングも利用させていただきながら、希望に満ちた新しい産業発展の扉を開いて行こうとしているそのことを、「遠山村」それ自体がよろこび、後押ししようと呼びかけているのだと、私はそんなふうに思うのでございます。